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第一部 第三章 エウドクシスの才幹
5 怪物の襲撃
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「何を言っているんだ?」
俺の反応を無視してデリムは荷物を落とし、腰に提げていた双槍を引き抜いた。たちまち槍が、唸りを発しながら奴の背丈よりも長く伸びた。
「剣を抜け」
双槍の伸びた先を見ると、例の怪物の頭が、山道の端から四角く突き出ていた。
人間のような目鼻立ちはないが、口のような黒い裂け目がぽっかりと開いている。
慌てて荷物を下ろし、剣を抜き放つ。橙・黄・白と目まぐるしく色を変える剣の輝きが頼もしい。
しかし、剣に見惚れている場合ではない。
明らかに周囲の山肌とは異なる、滑らかな黒灰色の岩がせり上がってきた。岩の先端は五つに枝分かれして、掌のようである。
岩の手は、まっすぐに俺を目掛けて進んできた。記憶にあるよりも動きが速い。
狭い山道で足場は悪い。俺は逃げ出したいのを堪えて、剣を正面から、怪物の掌に叩き付けた。
手応えは、あった。怪物の手が、ぽろりと手首から取れた。指がばらばらになるのが見えた。そのまま道から落ちて、視界から消えた。残った腕の傷口と思しき箇所から、黒い霧状のものが噴き出した。
「来い、今のうちに逃げろ」
体を引っ張られて、我に返る。デリムが荷物を槍ごとまとめて片手に持ち、駆け降りようとしていた。位置関係から判断すると、手首を切ったのは奴らしい。
引っ張られながら後ろを振り返ると、怪物は切られた腕を反対側の手で押さえて、苦悶するように頭を揺らしていた。俺はデリムに怒鳴った。
「放っておいていいのか。とどめを刺すとか、奴が気付くまで待っておびき寄せるとかしなくてもいいのか」
「あれを私達が殺すことは出来ない。気付くまで待つ余裕もない。どうせまた来る。囮に釣られて、な」
デリムは器用に狭い山道を走りながら怒鳴り返した。それから俺達は無言で走った。大分走ってから後ろを振り向くと、怪物の姿は既になく、空が黒っぽく汚れて見えた。
その晩、俺は兎罠も仕掛けなければ、弓矢を作る気にもなれなかった。これまでにも怪物に出くわしてはいたものの、あからさまに襲われたのは初めてで、動揺していたのである。
引き受けたとはいえ、考えてみればなんで俺が命の危険を冒して怪物に関わらねばならないのか、同じ金を稼ぐにしたって他にましな仕事が幾らでもある筈だった。
レグナエラ王盗難事件については、デリムが愛人であったことを考えれば、俺の仕業ではないことを信じてもらえるだろうし、もうこの辺で降りてもいいんじゃなかろうか。
デリムは川へ水汲みに出掛けていた。まさか夜に水浴びすることもないだろうが、鰐にでも食われて戻ってこなければいいのに。
獣避けの焚き火を見つめながら、俺はそろそろと薄いマントを脱ごうとした。これと剣さえなければ、怪物に襲われることはないのだ。だが、脱げなかった。黄金の鞘も外そうと試みた。ぴったり俺にくっついて離れなかった。
「仕事に飽いたのか」
奴が戻ってきていた。熱い炎に照らされていても、奴の薄青の瞳は冴え冴えと冷たい光を放っている。マントも剣も取り外せなかったので、俺はむかむかしていた。
「おいデリム、まだトリニ島行きの褒賞を貰っていないぞ」
「お前は人妻と懇ろにしていただけで、肝心の仕事をしていない。この仕事を終えるまでは、お預けだ」
「ええっ? ケチ」
「そのようなことで、世俗の欲を抜け出せるのか」
デリムは既に後ろを向いて、両手に持った水を下ろしていた。俺の手が剣の柄にかかった。奴が強いのはトリニ島の戦いぶりで充分判っていたが、今手にしている不思議な剣を使えば、ひょっとして勝てるのではないかと思ったのだ。奴は俺に背を向けたまま言った。
「ひと勝負か。面白い、剣を抜け」
くるりとデリムが振り向いた時には、例の双槍を一分の隙もなく構えていた。俺は柄に手をかけたまま、剣を抜けなかった。奴の冴え冴えとした薄青の瞳が緊張どころか、楽しそうに輝く。呼吸が、できない。手足が冷たくなり、きりきりとこめかみが痛む。奴が一歩引いた。
「うおぉっ!」
手が勝手に動く。剣を抜きざまに、デリムへ打ちかかった。相手を誘い込む奴のやり口だ。内心気付いてはいたのだが、もう遅い。
俺の剣は空を切り、一撃をあっさりかわした奴の槍に叩き落された挙句、あっという間に俺の体は焚き火の側へ仰向けに倒された。
鼓動が急激に高まり、心臓が体を飛び出しそうになった。額からどっと汗が噴き出し、顔面を流れ落ちる。
口の中がからからに干上がる。足を乗せられ、双槍を突きつけられると、もう起き上がることができなかった。
奴は息を切らしてもいない。
「続けるかね」
「い、いや」
喉元も押さえられているので、必死になっても潰れた声しか出ない。俺が答えると、デリムはさっさと足を上げ、槍を離して落ちた剣を拾い、俺に手渡した。
戦意がない事を示すため、俺はすぐさま剣を鞘に収めた。まだ心臓の鼓動が鎮まらない。奴は何事もなかったように再び俺に背を向けて荷物の整理を始める。
俺は奴に押さえつけられた部分が痺れていて、起き上がるのが精一杯だった。奴の背をぼんやりと眺めているうちに、もどかしさが募ってきた。だが、暴れたくても暴れられない。
「デリム、聞いてくれよ」
奴はきちんとこちらを向いた。俺は自棄になって考えていた事を皆ぶちまけた。奴は俺が最後の一言を吐き出すまで、遮らずに耳を傾けていた。不満を言い尽くすと、俺の息は上がっていた。ぜいぜいと乱れる呼吸は、まるでひと試合終えた後のようだった。
「確かに、普通の人間には辛いであろうな」
デリムは火加減を見て、薪を継ぎ足した。奴の目はすぐに俺に戻ってきた。
「だが、お前は最早、普通の人間ではないのだ、エウドクシス。神々には、それぞれ定められた役割を果たす義務がある。お前が普通の人間から変化したということは、お前にも果たすべき義務があるのだと心得よ」
「そもそも、お前ら何なんだよ」
俺の興奮とは対照的に静かに話すデリムに、俺はつっけんどんに言い放った。答えは期待していなかった。奴は一瞬呆れた表情になったが、思い直したのか咎めの言葉を口にしなかった。
俺の反応を無視してデリムは荷物を落とし、腰に提げていた双槍を引き抜いた。たちまち槍が、唸りを発しながら奴の背丈よりも長く伸びた。
「剣を抜け」
双槍の伸びた先を見ると、例の怪物の頭が、山道の端から四角く突き出ていた。
人間のような目鼻立ちはないが、口のような黒い裂け目がぽっかりと開いている。
慌てて荷物を下ろし、剣を抜き放つ。橙・黄・白と目まぐるしく色を変える剣の輝きが頼もしい。
しかし、剣に見惚れている場合ではない。
明らかに周囲の山肌とは異なる、滑らかな黒灰色の岩がせり上がってきた。岩の先端は五つに枝分かれして、掌のようである。
岩の手は、まっすぐに俺を目掛けて進んできた。記憶にあるよりも動きが速い。
狭い山道で足場は悪い。俺は逃げ出したいのを堪えて、剣を正面から、怪物の掌に叩き付けた。
手応えは、あった。怪物の手が、ぽろりと手首から取れた。指がばらばらになるのが見えた。そのまま道から落ちて、視界から消えた。残った腕の傷口と思しき箇所から、黒い霧状のものが噴き出した。
「来い、今のうちに逃げろ」
体を引っ張られて、我に返る。デリムが荷物を槍ごとまとめて片手に持ち、駆け降りようとしていた。位置関係から判断すると、手首を切ったのは奴らしい。
引っ張られながら後ろを振り返ると、怪物は切られた腕を反対側の手で押さえて、苦悶するように頭を揺らしていた。俺はデリムに怒鳴った。
「放っておいていいのか。とどめを刺すとか、奴が気付くまで待っておびき寄せるとかしなくてもいいのか」
「あれを私達が殺すことは出来ない。気付くまで待つ余裕もない。どうせまた来る。囮に釣られて、な」
デリムは器用に狭い山道を走りながら怒鳴り返した。それから俺達は無言で走った。大分走ってから後ろを振り向くと、怪物の姿は既になく、空が黒っぽく汚れて見えた。
その晩、俺は兎罠も仕掛けなければ、弓矢を作る気にもなれなかった。これまでにも怪物に出くわしてはいたものの、あからさまに襲われたのは初めてで、動揺していたのである。
引き受けたとはいえ、考えてみればなんで俺が命の危険を冒して怪物に関わらねばならないのか、同じ金を稼ぐにしたって他にましな仕事が幾らでもある筈だった。
レグナエラ王盗難事件については、デリムが愛人であったことを考えれば、俺の仕業ではないことを信じてもらえるだろうし、もうこの辺で降りてもいいんじゃなかろうか。
デリムは川へ水汲みに出掛けていた。まさか夜に水浴びすることもないだろうが、鰐にでも食われて戻ってこなければいいのに。
獣避けの焚き火を見つめながら、俺はそろそろと薄いマントを脱ごうとした。これと剣さえなければ、怪物に襲われることはないのだ。だが、脱げなかった。黄金の鞘も外そうと試みた。ぴったり俺にくっついて離れなかった。
「仕事に飽いたのか」
奴が戻ってきていた。熱い炎に照らされていても、奴の薄青の瞳は冴え冴えと冷たい光を放っている。マントも剣も取り外せなかったので、俺はむかむかしていた。
「おいデリム、まだトリニ島行きの褒賞を貰っていないぞ」
「お前は人妻と懇ろにしていただけで、肝心の仕事をしていない。この仕事を終えるまでは、お預けだ」
「ええっ? ケチ」
「そのようなことで、世俗の欲を抜け出せるのか」
デリムは既に後ろを向いて、両手に持った水を下ろしていた。俺の手が剣の柄にかかった。奴が強いのはトリニ島の戦いぶりで充分判っていたが、今手にしている不思議な剣を使えば、ひょっとして勝てるのではないかと思ったのだ。奴は俺に背を向けたまま言った。
「ひと勝負か。面白い、剣を抜け」
くるりとデリムが振り向いた時には、例の双槍を一分の隙もなく構えていた。俺は柄に手をかけたまま、剣を抜けなかった。奴の冴え冴えとした薄青の瞳が緊張どころか、楽しそうに輝く。呼吸が、できない。手足が冷たくなり、きりきりとこめかみが痛む。奴が一歩引いた。
「うおぉっ!」
手が勝手に動く。剣を抜きざまに、デリムへ打ちかかった。相手を誘い込む奴のやり口だ。内心気付いてはいたのだが、もう遅い。
俺の剣は空を切り、一撃をあっさりかわした奴の槍に叩き落された挙句、あっという間に俺の体は焚き火の側へ仰向けに倒された。
鼓動が急激に高まり、心臓が体を飛び出しそうになった。額からどっと汗が噴き出し、顔面を流れ落ちる。
口の中がからからに干上がる。足を乗せられ、双槍を突きつけられると、もう起き上がることができなかった。
奴は息を切らしてもいない。
「続けるかね」
「い、いや」
喉元も押さえられているので、必死になっても潰れた声しか出ない。俺が答えると、デリムはさっさと足を上げ、槍を離して落ちた剣を拾い、俺に手渡した。
戦意がない事を示すため、俺はすぐさま剣を鞘に収めた。まだ心臓の鼓動が鎮まらない。奴は何事もなかったように再び俺に背を向けて荷物の整理を始める。
俺は奴に押さえつけられた部分が痺れていて、起き上がるのが精一杯だった。奴の背をぼんやりと眺めているうちに、もどかしさが募ってきた。だが、暴れたくても暴れられない。
「デリム、聞いてくれよ」
奴はきちんとこちらを向いた。俺は自棄になって考えていた事を皆ぶちまけた。奴は俺が最後の一言を吐き出すまで、遮らずに耳を傾けていた。不満を言い尽くすと、俺の息は上がっていた。ぜいぜいと乱れる呼吸は、まるでひと試合終えた後のようだった。
「確かに、普通の人間には辛いであろうな」
デリムは火加減を見て、薪を継ぎ足した。奴の目はすぐに俺に戻ってきた。
「だが、お前は最早、普通の人間ではないのだ、エウドクシス。神々には、それぞれ定められた役割を果たす義務がある。お前が普通の人間から変化したということは、お前にも果たすべき義務があるのだと心得よ」
「そもそも、お前ら何なんだよ」
俺の興奮とは対照的に静かに話すデリムに、俺はつっけんどんに言い放った。答えは期待していなかった。奴は一瞬呆れた表情になったが、思い直したのか咎めの言葉を口にしなかった。
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