環上の一点

在江

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 「小学生。三年生、ということは、八歳?何か身分証明書みたいなもの、ある? 」

 男は子どもを相手に淡々と手続きを進めた。子どもの方も、この年頃に大人が求めるような無邪気さや幼さを見せず、身分証明書などという、理解できずとも決して責められない言葉に対し、正確に応じた。

 「定期券ね。他にはないかな。できれば、顔写真がついている物」

 子どもは軽く眉をひそめ、ランドセルを持ち出した。膝の上に載せ、蓋を跳ね上げて中を探る。その小さな頭は、大きな蓋の陰にすっかり隠れた。

 男は書類の記入を途中にして、相手の様子を観察した。見たところ、何不自由ない生活を送る小学生である。
 通学に電車を使える分、どちらかといえば恵まれた境遇にあると言ってよい。
 時折、勘違いした親に金目当てで無理矢理連れて来られる子どもたちは、学級費や給食費の支払いはもちろんのこと、料金不払いで電気やガスが使えない賃貸住宅などに住っていることが多い。

 ランドセルの蓋から、子どもが顔を出した。手にカードを握っている。子ども英会話教室の会員証であった。顔写真はやや古いが、同一人物と判別できる程度の面影はある。
 子どもは成長につれてどんどん顔が変わる。もし一年以上間が空くようであれば、再び来訪してもらう必要がある。土壇場のキャンセルを防ぐためにも、必要な措置であった。

 「いいでしょう。二つとも、コピーをとるから、少し借ります」

 男は席を立ち、部屋の隅で定期券と会員証を並べてコピーした。終わるとすぐ持ち主に返した。大人しく待っていた子どもは、二つの身分証をそれぞれ元の場所へきっちりしまい込んだ。
 それから二人は、事務手続き上の話をした。

 「さて。あとは、この書類に君が名前を書いて署名すれば、契約が結ばれたことになる。つまり、前に他の人が説明したとおりのことを、私たちと君がする、と約束したことになる。もちろん、君には肝心なときに一度だけ拒否する権利がある」

 「でも、君に辿り着くまでに大勢の人が苦労したことが水の泡になることを思えば、もし万が一にも止めるかもしれない、と思う部分があるのだったら、今のうちに止めてもらいたい。そうすれば、君はこの先行き詰まった時にまたここへ来ることができる。肝心なときに拒否をした場合、二度とこの方法は使えない決まりになっているからね。どうする? 一旦家に帰って考えてみる?」

 男は極めて柔らかい口調を使った。子どもは即座に首を振った。

 「もう、決めたんです」

 そして、ペンを取り上げ、署名をした。大人顔負けの落ち着きぶりであった。


 人気もまばらな裏通りの雑居ビルの前を、ランドセルを背負った見慣れない子どもがうろうろしていた。
 どこかを訪ねて来たらしいが、その割には誰かに尋ねることをしない。むしろ、人目を避けようとしているようである。
 かれこれ一時間近く経った頃、雑居ビルから女子高生とも大人とも見える女が出て来て、子どもを捕まえた。子どもは、逃げる暇もなく電信柱と壁の間に追いやられた。

 「ちょっと、あんたさあ」

 女は乱暴な言葉遣いにしては、ゆっくりと聞き取りやすい声で言った。

 「こんなところを何時間もうろついて、用事があるならさっさと済ませて帰りなさいよ。怖い目に遭ったら嫌でしょ? 死にたくないでしょ?」

 子どもは上目遣いで女を見たまま、返事をしなかった。女は、けっと言った。女子高生ではなさそうだった。

 「え。死にたいの? まさかあ」

 子どもは返事をしない。女の目が細められた。

 「へええ。こんな若い身空でねえ。じゃあ、お姉さんが、手伝ってあげようか」

 子どもの表情に変化が現れた。探るような目つきを向ける。やはり返事はない。女は平然とした態度であった。

 「まず、ここじゃ何だから、あそこで何か食べながら話さない?」

 そう言って指したのは、崩し字の小さな看板を脇に据えた、中の見えない扉であった。全く営業しているようには見えず、店かどうかも判然としない。
 子どもがたじろいだのを素早く見て取り、女はせせら笑った。

 「怖いの? 死にたいのに?」

 子どもは憤然とした。

 「怖くない。じゃあ、行くよ」

 子どもを先頭に立てて、女はその扉の奥へ消えた。

 およそ二時間後。
 扉が開き、再び子どもを先頭に立てて、女が姿を現した。

 「じゃあ。もうちょっとだけ、頑張ってみてね」
 「うん。いろいろ、ありがとう」

 確かに同じ子どもであったが、二時間前よりも子どもらしい顔をしていた。子どもは女に手を振りながら、裏通りを後にした。女は子どもが消えるまで笑顔で手を振り続けた。その顔は、女子高生どころか,  むしろ老成していた。


 その部屋は常に適度な整い具合で、壁の色や調度の色合いと共に、受容的な雰囲気を作り出すよう配慮されている。尤も、その部屋へ初めて足を踏み入れる人間は、常にそうした点に気付かない。

 「それじゃあ、今すぐここで死なせてもらえる訳じゃないんですね」

 生徒は、がっくりした様子であった。ほとんど老女と言ってよい年配の女は、温かい笑みを絶やさなかった。

 「そう都合良くはいかないわ。小さい子なら引く手あまただけれど、あなたもう十五歳なんでしょう? でも若いから、数ヶ月ぐらいで何とかなると思うけど。適合性の問題があるから、絶対とは保障できないわ。待てないなら、止めとけば? 調べれば、他でいくらでも手段はあるでしょう」

 生徒は、更に傷ついた表情を見せた。

 「あっさり手を引くんですね。いらないんですか」
 「そりゃあ、喉から手が出るほど欲しいわよ」

 女は、温かい笑みを浮かべたまま話した。

 「これは、あなたの命ばかりじゃなくて、他の大勢の人たちの命にも関わる話なの。でも政府の事業じゃないから、強制する事は出来ない。殊にあなたは未成年で、両親がいつ乗り込んでくるかわからない。私たちには、あなたが本当にそれを欲しているのかどうか、一時の衝動でないかを慎重に見極める義務がある」

 「ここまで来たからには、あなたも冷やかし半分じゃないとは思う。あなたが命を懸けるくらい真剣なのと同じくらい、他の人の命を預かっている私たちも真剣なのよ。だから、少しでも不満や迷いがあるなら、ここでは突き進むのではなくて、止めてもらいたいの」

 話の内容に関わらず、女の笑みは絶えなかった。そのようにして話されると、ある瞬間には、聞き手に嘘くさい印象を与え、引き返す言い訳に使えるのであった。
 この生徒の場合、女の表情には頓着していなかった。鬼気迫る表情であっても、涙を流していても、生徒は気付かなかったであろう。生徒は自らの心の内を常に覗き込んでいた。

 「数ヶ月」
 「耐えられなかったら、自分のやり方でけりをつけてもいいわ」

 生徒が表情を明るくした。

 「そうか。そうすればいいんだ。でも、どうせ死ぬなら、最後に人の役に立って死んだ方がいいよね。確実に死ねて、ちゃんと臓器も移植されて、おまけに垂れ流したり、はみ出したり、みっともない姿を見られずに済む。間に合うかな」

 「間に合うといいわ。お互いのために。じゃあ、契約するなら次の場所へ移動して」

 女は温かい笑みを浮かべていた。


 降車駅の手前で、名前を呼ばれたような気がして、子どもは顔を上げた。見知らぬ女の人が、微笑みかけていた。子どもはすぐに悟った。塾をさぼって出かけた町で、初対面の男と契約を交わしてから十日ばかり経っていた。

 遠い昔の出来事だった。夢の中の話とも思えた。今朝から完全に忘れていたのに、母親と同じぐらいの年格好をした女の人を見たら、すぐに思い出したのは不思議だった。

 「今日は、駅でパパと待ち合わせをしているの」

 妹の誕生日プレゼントを、母親と妹に内緒で買いに行こうと約束していた。妹への贈り物より、多忙な父親と二人きりで何かをするという約束が重要だった。
 母親のことも大好きだが、いつも一緒にいて、近頃は口うるささが鼻についてきたところなのだ。

 「うん。知ってる。一緒に買い物するんでしょう。次の駅では降りないで、もっと先まで行きたいんだけれど、どうする?」

 女の人は、親戚の子に話しかけるような調子で尋ねた。子どもは、すぐに返事ができなかった。
 これが、あの男が言っていた最後の権利だ、と思った。拒否することなど、あのときも今も考えられなかった。しかし、よりによって今日でなければいけないのだろうか。電車の速度が落ちてきた。女の人は、優しい顔をしたまま、返事を待っている。

 「うんとね。今日じゃなくて、明日だったらいいんだけど、それじゃだめ?」
 「そうか。今日はだめなのね。わかった」

 女の人は、優しく頷いた。電車が止まった。子どもは座席から飛び降りた。

 「じゃあ。また明日」

 返事は聞こえなかった。子どもは人波に乗るようにして、電車を降りた。改札口をくぐると、約束どおり、父親がいた。父子は二人きりで楽しい時間を過ごした。

 翌日、子どもは普段より念入りに身支度をして学校へ出かけ、帰りには同じ時間の電車に乗った。昨日の女の人がどこから現れるかと、漫画もスマホも出さず、車内をきょろきょろ見回した。女の人は一向現れなかった。遂に子どもは降車駅まで来た。

 女の人は乗り遅れたかもしれない。昨日女の人は、もっと先の駅まで行くと言っていた。このまま乗っていれば、会えるかもしれない。子どもはいつもの駅で降りなかった。目当ての人は来なかった。子どもは、段々と惨めな思いを募らせながら、遂に終点まで乗り過ごし、折り返して戻ってきた。

 あれが、最後の拒否だったんだ、と気付いたのは、母親に寄り道を叱られて、布団に入った後のことだった。

 しまったと思った。次の日、子どもは学校をさぼって以前契約を交わした場所へ出かけたが、どうしても見つけることができなかった。
 そういう注意は既に受けていた。一度逃したら、二度とはできませんよ、とくどいほど念を押していた。

 両親や友人からも、次はないぞ、とよく脅されたが、皆何度でも許してくれた。だから子どもは、事情を説明して頼めばもう一度チャンスがあると心のどこかで期待していた。見知らぬ人たちは甘くなかった。

 取り返しのつかないことをした。子どもは涙を流した。やがて声を上げて泣き出した。
 親切なおばさんが寄って来た。菓子をくれて、近くの駅まで送ってくれた。
 しかし、肝心の人たちは決して来なかった。
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