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90話 シルエット家領地へ -11-
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ドアが閉まり、再び室内に残ったのは、俺とアルチュールだけだった。
「さて……俺たちも、洞窟に行く準備をしようか」
できるだけ軽く声をかけたつもりだったが、アルチュールは一瞬こちらを見てから視線を落とし、複雑な表情を浮かべる。
――まあ、無理もない。
これから向かう先には、氷の中で眠り続ける、彼の愛犬がいるのだから。
俺は一歩近づき、アルチュールの頬を両手で包み込んだ。指先を通して、彼が息を詰めたのがはっきりと分かる。
「一緒に行こう。今できることを、全部やろう。……な?」
短いが、逃げ道のない言葉だった。
アルチュールはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐き、真っ直ぐ俺を見る。
「……ああ」
その声に重なるように、彼の手がそっと俺の指先に触れた。
「……俺は、ずっと怖かった。ノアールの前に立って、何もできない自分を突きつけられるのが」
「うん。俺だって、同じ立場なら怖い」
「頼む、セレス……そばにいてくれ」
「もちろん」
その一言で、アルチュールの肩から力が抜けたのが分かった。
俺は頬を包んだまま、ほんの少し距離を詰める。呼吸が混じり合い、次の瞬間、唇が重なった。
確かめるように角度を変えながら、短く触れては離れる。唇が離れかけると、今度は彼の方から、わずかに追ってくる。
それが愛おしくて、俺はもう一度、ゆっくりと口づけた。
やがて唇が離れると、アルチュールは小さく息を整え、いつもの落ち着いた表情を取り戻す。
「セレス、着替えたら先に厩舎へ行ってくれ。馬の準備を頼んでおいてほしい」
「分かった」
俺が頷くと、アルチュールは踵を返し、「俺は食堂に寄ってくる。携帯できる軽食をもらってくるから」と続けた。今日は、魚を釣ったり草を食べたりはしないようだ。
支度を整え、俺はそのまま厩舎へと向かう。
事情を説明すると、厩務員は一拍も置かず即座に頷いた。
「氷室の洞窟までですか……。では、毛布もご用意いたしましょう。少々、こちらでお待ちくださいませ」
「助かります」
手際よく動く背中を眺めながら、待ち時間のつもりで馬たちに近づいたのが、どうやら判断ミスだったらしい。
気づけば、黒鹿毛の大柄な馬がやけに距離を詰めてきていた。鼻先で肩をつつかれ、首筋に顔を埋められる。
「……おいおい」
撫でると、満足そうに鼻を鳴らす。
さらに隣の一頭まで寄ってきて、結果、俺は両側からがっちり挟まれる形になった。
そこへ、食堂に寄ってからやって来たアルチュールが足を止める。
……その視線の先で、俺は完全に包囲されていた。
両脇を馬に塞がれ、足元では、いつの間に現れたのか白い烏骨鶏っぽい鶏が靴先に陣取り、どっしりと腰を落としている。
「……セレス」
嫌な予感がした次の瞬間。
――ころん。
静かな音とともに、白い卵が一つ、藁の上に転がった。
「……産んだな」とアルチュール。
「産みましたね」
戻ってきた厩務員が、感心したように頷く。
「落ち着いていますし、これは完全に安心しています。珍しいですよね、坊ちゃま。こんな警戒心の強い鳥が初対面の方の足元で産卵するなんて」
「ああ……」
「夕飯にお出ししますよ」
「そうしてくれ、マルセル」
アルチュールの一言に、名を呼ばれた厩務員――マルセルは心得たように頷いてから、おそらく毛布が入っていると思われる拡張バッグを片手に、藁の上の卵を拾い上げる。
と、そのとき。
不意に、刺さるような視線を感じた。
俺はゆっくりとその方向に顔を向ける。
「アルチュール……あれ、あれは?」
厩舎の通路の中央で、クジャクに似た一羽の色鮮やかな大型鳥が、これ以上ないほど真剣な顔で、こちらを見つめていた。
そして、ばさぁっ、と尾羽が大きく広がる。
鮮やかな羽を誇示するように左右に揺らし、くるりと一回転。さらに脚を高く上げ、軽快なステップ。
「……え、なにあれ」
「求愛ですね」マルセルが、淡々と断言する。「この時期、気に入った相手を見ると踊るんです。いやあ……ずいぶん熱心だ」
鳥は勢いづき、羽を震わせながら俺の正面まで進み、完璧な円を描いて舞い続ける。
アルチュールは、数秒その光景を見つめた後、額に手を当て目を閉じて深く息を吐いた。
「どうしてセレスは……、少し目を離した隙に馬に囲まれ、鶏に卵を産ませ、鳥に求愛されているんだ」
「それは、俺が一番聞きたい」
馬は満足そうに鼻を鳴らし、烏骨鶏は誇らしげに鳴き、求愛ダンサーは一切の妥協なく舞い続けている。
――洞窟へ向かう前から、どうやら試練は始まっていたらしい。
「さて……俺たちも、洞窟に行く準備をしようか」
できるだけ軽く声をかけたつもりだったが、アルチュールは一瞬こちらを見てから視線を落とし、複雑な表情を浮かべる。
――まあ、無理もない。
これから向かう先には、氷の中で眠り続ける、彼の愛犬がいるのだから。
俺は一歩近づき、アルチュールの頬を両手で包み込んだ。指先を通して、彼が息を詰めたのがはっきりと分かる。
「一緒に行こう。今できることを、全部やろう。……な?」
短いが、逃げ道のない言葉だった。
アルチュールはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐き、真っ直ぐ俺を見る。
「……ああ」
その声に重なるように、彼の手がそっと俺の指先に触れた。
「……俺は、ずっと怖かった。ノアールの前に立って、何もできない自分を突きつけられるのが」
「うん。俺だって、同じ立場なら怖い」
「頼む、セレス……そばにいてくれ」
「もちろん」
その一言で、アルチュールの肩から力が抜けたのが分かった。
俺は頬を包んだまま、ほんの少し距離を詰める。呼吸が混じり合い、次の瞬間、唇が重なった。
確かめるように角度を変えながら、短く触れては離れる。唇が離れかけると、今度は彼の方から、わずかに追ってくる。
それが愛おしくて、俺はもう一度、ゆっくりと口づけた。
やがて唇が離れると、アルチュールは小さく息を整え、いつもの落ち着いた表情を取り戻す。
「セレス、着替えたら先に厩舎へ行ってくれ。馬の準備を頼んでおいてほしい」
「分かった」
俺が頷くと、アルチュールは踵を返し、「俺は食堂に寄ってくる。携帯できる軽食をもらってくるから」と続けた。今日は、魚を釣ったり草を食べたりはしないようだ。
支度を整え、俺はそのまま厩舎へと向かう。
事情を説明すると、厩務員は一拍も置かず即座に頷いた。
「氷室の洞窟までですか……。では、毛布もご用意いたしましょう。少々、こちらでお待ちくださいませ」
「助かります」
手際よく動く背中を眺めながら、待ち時間のつもりで馬たちに近づいたのが、どうやら判断ミスだったらしい。
気づけば、黒鹿毛の大柄な馬がやけに距離を詰めてきていた。鼻先で肩をつつかれ、首筋に顔を埋められる。
「……おいおい」
撫でると、満足そうに鼻を鳴らす。
さらに隣の一頭まで寄ってきて、結果、俺は両側からがっちり挟まれる形になった。
そこへ、食堂に寄ってからやって来たアルチュールが足を止める。
……その視線の先で、俺は完全に包囲されていた。
両脇を馬に塞がれ、足元では、いつの間に現れたのか白い烏骨鶏っぽい鶏が靴先に陣取り、どっしりと腰を落としている。
「……セレス」
嫌な予感がした次の瞬間。
――ころん。
静かな音とともに、白い卵が一つ、藁の上に転がった。
「……産んだな」とアルチュール。
「産みましたね」
戻ってきた厩務員が、感心したように頷く。
「落ち着いていますし、これは完全に安心しています。珍しいですよね、坊ちゃま。こんな警戒心の強い鳥が初対面の方の足元で産卵するなんて」
「ああ……」
「夕飯にお出ししますよ」
「そうしてくれ、マルセル」
アルチュールの一言に、名を呼ばれた厩務員――マルセルは心得たように頷いてから、おそらく毛布が入っていると思われる拡張バッグを片手に、藁の上の卵を拾い上げる。
と、そのとき。
不意に、刺さるような視線を感じた。
俺はゆっくりとその方向に顔を向ける。
「アルチュール……あれ、あれは?」
厩舎の通路の中央で、クジャクに似た一羽の色鮮やかな大型鳥が、これ以上ないほど真剣な顔で、こちらを見つめていた。
そして、ばさぁっ、と尾羽が大きく広がる。
鮮やかな羽を誇示するように左右に揺らし、くるりと一回転。さらに脚を高く上げ、軽快なステップ。
「……え、なにあれ」
「求愛ですね」マルセルが、淡々と断言する。「この時期、気に入った相手を見ると踊るんです。いやあ……ずいぶん熱心だ」
鳥は勢いづき、羽を震わせながら俺の正面まで進み、完璧な円を描いて舞い続ける。
アルチュールは、数秒その光景を見つめた後、額に手を当て目を閉じて深く息を吐いた。
「どうしてセレスは……、少し目を離した隙に馬に囲まれ、鶏に卵を産ませ、鳥に求愛されているんだ」
「それは、俺が一番聞きたい」
馬は満足そうに鼻を鳴らし、烏骨鶏は誇らしげに鳴き、求愛ダンサーは一切の妥協なく舞い続けている。
――洞窟へ向かう前から、どうやら試練は始まっていたらしい。
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