腐男子♥異世界転生(完結)

よしの こひな

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188話 スタンピード編 -34-

 甘い声で紡がれた静かな詠唱と同時に、世界が、歪む。
 音が遠ざかり、まるで、水の底に沈んだみたいに、すべてが分厚い膜越しに届く。
 輪郭を失った色が、ゆっくりと滲み、溶け合っていった。

 間に合わない。逃げられない。

 剣の重みが手から消え、滑り落ちる感覚と共に、まるで、身体が自分のものじゃないみたいに軋み、ぶれ、思考が遅れ始める。
 エピンが近づいてくるのが見えた瞬間、まずい……、と思った時には、もう遅かった。
 片方の手首を、掴まれる。
 ナクティスの王の口元が、愉悦を乗せ、わずかに歪んだ。

 “捕らわれる”。

 相手は、強引に俺を引き寄せ、距離が、一瞬で詰まった。
 目の前で、異形が口を開く。
 白く長い牙が、喉元を狙うように、目前まで滑り込んでくる――。

「やめ、ろ……!」

 途端、身体の奥で、何かが巡った。
 魔力と神獣の血が、自分の中の循環が、一気に加速した。
 シオンと繋いだときの、サリトゥ魔力体循環の感覚。
 歯を食いしばり、意識を、無理やり引きずり戻す。
 鈍る身体を、ねじ伏せるように動かす。

 自由な方の手を持ち上げ、耳に触れると指先がイアーカフを捉えた。

『……大司教さまにお頼みして、守りの魔法もかけてもらいました』

 ニコラの声が、蘇る。
 龍脈の熱を冷却するほどの力を持つ大司教が、直々に守りを施した――その証が、この小さなイアーカフ。
 ただの装飾品ではない。
 爺さんたちの顔が、一瞬、脳裏をよぎった。

 信じるからな。

 静かな確信を帯びて、それを手の中へ。
 落とすな。狙え。
 開いたままの、その口へ……、叩き込む!

 一秒、二秒――時間が止まったかのように感じられた。
 直後、エピンの口腔から、白い煙がじわりと滲み出す。

⁅……ッ、ァ……!⁆

 初めて、ナクティスの王が苦鳴を漏らした。
 鎖骨のあたりから、不自然に伸びた腕が蠢く。一本は喉を掴み、もう一本は口元を押さえ、背を丸める。
 焼けている――内側から、確実に。
 肉を断っても、骨を砕いても揺るがなかった。痛覚など無いはずのそれが、明らかに“拒絶”するように身をよじっている。

 俺のいた世界でも、そうだった。魔物は、銀を嫌う。ましてやこれは、ただの銀じゃない。
 聖なる加護を刻まれた、“拒絶する銀”。

⁅……ァ、ァ……ッ⁆

 エピンが吐き出した銀のイヤーカフが地面に叩きつけられる。黒い体液を撒き散らしながら。

 そのとき。

 ――どんっ。

 と、大地が、突き上がった。

 足元から衝撃が伝わる。空気が震え、視界の端で光が弾ける。

 水柱。

 淡く、しかし確かな光を帯びた柱。

 見覚えがある。

 一本。

 さらに――

 どん、どん、どんっ!

 連続して、地面から、立ち上がる。
 俺とエピンを中心にして、円を描くように。
 囲うように。
 閉じるように。
「ネ……ージュ……」
 思わず、声が漏れた。

 光の輪。それは、檻のようでもあり、結界のようでもあった。
 王に呼ばれたナクティスたちが、踏み込もうとして、その縁に触れた瞬間――弾かれ、後退する。

 足場となる影を作るナクティスたちが、近付けない。
 王との繋がりが、断たれる。

《行かせるかーっ!》

 ネージュの怒号が響く。

⁅……鬱、陶し……い……ひか……り……邪、魔……を……⁆

 エピンの気配が、わずかに揺れた。
 初めて、明確な“障害”として認識されたのが分かる。
 好機だ。
 俺は、落ちた剣を拾おうとうつむく。
 ――だが。
 視界が、ぐらりと揺れた。遅れてきた反動が、一気に襲いかかる。
 足元が、崩れる。呼吸が、浅い。力が、抜ける。

「……っ、は……」

 息を吐いた瞬間、膝が折れた。
 身体が、前へ傾ぐ。支えきれない。
 兜が外れて地面に転がり、金属音が響いた。
 とっさに片手を上げ、額を押さえ。だが、意識がうまく繋がらない。
 焦点が定まらず、景色が脳にわずかに遅れて流れ込んでくる。

 これは、さっきの魔眼の残滓だ。

「……アルチュール……」

 名を呼んだ、その瞬間。
 誰かが、倒れかけた身体を受け止め、強く引き寄せた。

「悪い、遅くなった……」

 低く、落ち着いた声。
 耳に届いたその響きだけで、
 張り詰めていた何かが、わずかに緩んだ。
 その体温。その気配。
 アルチュールだ。
 視界の正面に、彼の顔が入る。

 乱れた呼吸の中でも、はっきりと見えた。

「セレス、よくやった」

 僅かに寄せられた眉。
 そして、俺の無事を確かめるように見詰めて来る真っ直ぐな視線。
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