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水晶柘榴

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壱 腐敗

(09) 礼 -レイ-

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「はぁ……」

 廊下に出た途端、冷たい空気が全身に触れ、おもわず溜息を吐いた。湯に浸かり火照った体は、冷たい空気の中に異彩を放つほどに存在を主張しているが、その足元からは冷気がじわり、じわりと侵食してくる。

 軍御用達ごようたしの“潮騒亭しおさいてい”では、庶民の宿とは違い、定期的に湯を使うことができる。訓練で汗にまみれた体で、部屋を使われてしまっては、匂いが移ってしまうかららしい。おかげでカツミも汗やすすを洗い流すことができた。

 日も暮れかけ、カツミが宿に戻ると、ヒイズ達は既に部屋に戻っていた。彼らは、埃臭く、すすに汚れ、汗にまみれ、さらにすこし服がよれてしまっていたカツミを見て、何事かとあきれていた様に思う。逃げ出さなかった自業自得とするべきか、それともそうさせなかったカイナに恨み言の一つでも言ってやるべきか……。



「お前、ちゃんと待ってたんだな」

 床に空いた穴からひょっこりと顔を出し、カイナがそう言った。背中にほうきハタキを背負っている様子から、どうやら道具を借りることができたらしい。

「……」

 意外そう、というよりは、嘘をつくなと言いたげなカイナの口調に、カツミはすぐにでも宿に戻ろうかと考える。別に待っていると言った覚えもないのだし、帰っても良かったのだが、どういうわけか、ぼうっと窓の外を眺めていた。そうしているうちに、協会からカイナが戻ってきたのだ。

「いってえ!! お前口ないのかよっ! 殴るよりなんか言えよ!」

「不意打ち狙ってる奴が言うな」

 カツミがカイナの頭にこぶしを落とせば―――もちろん、加減している―――カイナが頭を押さえながら抗議する。どっちもどっちである。

「あとで神父しんぷが手伝いに来るってさ。それまでに俺らでやるんだからな! ちゃんと働けよ? サボったらただじゃおかねーからな」

 ただじゃおかないというが、カイナなど恐るるに足らず。向かってきたら転ばせるだけである。しかし迷惑をかけるなと言っていたくせに、ちゃっかり手伝いまでさせるあたり、カイナも行き当ありばったりである。……本人たちは知らないのだが、マサゴの言うとおりに、似た者同士である。



 カツミはどういうわけか断ることもできず、天井の蜘蛛の巣や埃を払い、徹底的にすすほうきで掃いたのだが、口を布で覆っていたにも関わらず、喉はカラカラになっていた。途中で神父しんぷが持ってきた、差し入れの飲み物を頂いたはずなのだが、年季の入ったすすや埃の山が相手では仕方が無いだろう

 神父しんぷは人の良さそうな青年で、薄幸はっこうの……とでもいうのだろうか。どこか儚い印象を受け、悲しそうに笑う育ちのいい青年という印象を受けた。歳はヒイズと同じくらいだろうか。貧困街スラムの者には非常に慕われているらしく、生意気なカイナも彼に気を遣っているようだった。

 三人で部屋の掃除を始めたのだが、場所の関係か虫食い跡はあまりなく、埃を払ってモップで拭けば、思いのほか人が生活するにふさわしい空間となったことを思い出す。そのために日はとっぷりとくれてしまったのだが。


 カツミが部屋に戻ると、同室のはずのヒイズの姿はなく、どこかに行っているようだった。カツミは、室内に二つ置かれた寝台ベッドのうちの片方に寝そべり、一日を振り返る。楽しかった、というよりは充実したという気分だ。駆けたり、跳んだり、ただ路地裏で体を動かしたことが妙にしっくりときた。ぐうで行ったアガタとの手合わせも楽しかったし、きっと自分は体を動かすことが好きなのだ。

 カツミが考えているところで、瞼が落ちる。今日一日動き回ったためか、眠気が襲ってきたらしい。このまま微睡まどろみに落ちるのは幸福かも知れない。

 ―――コンコンコン。

 と、そう考え、睡魔すいまに身を預けようとしたのだが、何故か、外から窓の戸を叩く音が聞こえる。ここは二階のはずなのだが、小石を投げたというようでもなく、手の甲で叩いたような音だ。

 カツミは少し苛立ちながらも、ゴロリと寝返りを打ち、布団を被った。こういう時は無視するに限る。

 ―――コンコンコン。

 しかし、音は止まない。気にせずに眠ってしまえば良いのだが、困ったことに、一度気にしたものは意識から外れることがなく、かえって気になってしまう。

「……っち」

 カツミは舌打ちして起き上がると、窓に近づいた。一言ぐらいは文句を言ってやろうと思ったのだ。

 ―――バン!

「わっ」

 カツミは勢いよく戸を開いた。すると鈴を転がすような声が上がり、声の主の驚きを伝える。

 影は小柄ではないものの、カツミから見て、小さかった。頭巾フードを被っているようだが、月明かりの下、さらに部屋の中からの明かりを、カツミ自身が遮っているので、その表情はよく見えない。

「よっ。起きてんじゃねぇか」

 影が手を挙げた。表情は伺いづらいが、それでも隙間からこぼれる美しい黒髪と、その鈴を転がすような愛らしい声で誰かはわかった。ついでにその口の悪さでも。

「マサゴ……」

 カツミは思わず後ずさる。何故彼女がわざわざ宿の屋根を伝い、自分の部屋まで訪ねてきたのか。疑問ではあるが、それ以上に気になることがあった。

 マサゴの頬がほんのりと上気しており、黒髪は湿っている。鼻をかすめる湿った肌の匂いが、湯上り姿であることを伝えてくる。

 湯上りとはすなわち、艶姿あですがたである。通常、誰にでも晒すものではないのだが、貧困街スラムに暮らすマサゴにはその意識がないらしい。カツミはつい視線を逸らしてしまう。今のマサゴの姿は、男として直視していいものではない。それくらいの良識は、記憶がないカツミにも備わっていた。

「何故、窓から?」

 何故ここにいるのかを聞こうと思ったのだが、それ以上に何故窓から現れるのかが気になってしまい、気が付けばそちらを訪ねていた。そもそも何故この部屋とわかったのかも気になる。

「軍の御用達ごようたしだろ? 面会しようと思ったら、金取るし、残り物も恵んでくんねぇし、融通利かねぇんだよ。カイナが世話になったから礼を言いに来たってのに」

 どうやら彼女なりの事情があったらしい。貧困街スラムを取り仕切る責任者として、昼間カイナと行動を共にしたカツミに礼を言いに来たのだ。最初に彼女に出会った時は、いろいろと衝撃を受けたものだが、どうやら律儀な性格らしい。時間が遅いのは難点だが。

「ありがとな。カイナも世話になったし、今日はあそこで寝るんだ。朝が楽しみで仕方ねえよ」

「フン……」

 カツミは視線を合わせぬままに嘆息した。早々に会話を切り上げてとこに就きたいのだ。もちろん眠気だけのためではない。ただでさえ女性が夜に尋ねるなど醜聞しゅうぶんであろうに、艶姿あですがたを晒しているのだから余計にタチが悪い。

「お前、湯なんてどこで使った」

 少々照れくさいのか、カツミは露骨に話をそらす。もちろん彼女が湯上りであることも気になっているのだが。

 肌の香りを漂わせるほどに匂いたっているのだから、掛け湯ではなく、湯に浸かったということは明らかである。しかし湯を沸かすには火が必要で、街中ではたきぎを拾いに行くのも重労働、水を用意するにも重労働だ。人が浸かるほどの湯を沸かすなど、貧困街スラムに暮らす民に限らず、平民にとってでも、かなりの贅沢である。

「ん? ああ、領主館。丘の上のな。あそこには温泉が沸いてて、こっそり入ってるんだ」

「……大丈夫なのか?」

 早い話が犯罪である。しかし彼女たちは掏摸すりで生計を立てているのだから、そこを指摘するのは野暮やぼだ。彼女たちは裕福な人間を好んでいないように思ったのだが、良いのだろうか。

「ああ。領主の野郎の色狂いのせいでな、アイツに連れてかれた貧困街スラムのヤツがわりといるんだ。でもどういう扱いでも食いもんだけはあるからな。貧困街スラムで暮らすのに向いてないのは、そのまま領主館で働いてる。そいつらが、手引きしてくれるから楽勝だぜ。領主の野郎も俺らのことゴミと思ってるのに、同じ湯を使ってるなんて笑えるだろ!」

 マサゴが口元に手を当て、こらえきれないといったように笑みを漏らす。花神かしんの微笑みとでも言うように、美しい笑みであったが、カツミの目にそれは写っていなかった。

 領主の話を聞いて、鼓動がはねた。胸の内を何かがうごめいた気がするが、その感情が何かよくわからなかった。ただ虚空こくうが広がり、戸惑う自分が、何に戸惑っているのかも分からず、さらに戸惑う。空を見上げた時にも良く似た、どこか不安げな感情を、カツミは持て余していた。

 だから、気付かなかった。

 マサゴが突然黙り込んでしまったカツミの様子を気にして、その顔を覗きもうと、身を乗り出したことに。


「っ……!?」

「へ? わっ……あぁ!!」

 不意に、湿った肌の匂いが鼻腔びこうをくすぐる。カツミは驚き、思わずそれを振り払った。身を乗り出していたマサゴは、突き飛ばされてしまい、屋根の斜面しゃめんによって大きく体勢を崩すこととなる。

 カツミは自分が何をしたのか理解するよりも早く、目に入った光景に咄嗟に手を伸ばし、マサゴを引き寄せた。先程まで強気だったマサゴは、本能的になったのか、カツミの腕を強くつかみ返している。


「……っお前ふざけんなよ!?」

「すまない……」

 マサゴが体勢を立て直しながら怒鳴るが、カツミは謝るより他ない。状況は少々間抜けだが、大げさではなく彼女を殺しかけてしまったのだから、完全に非はカツミにある。

 ふと、部屋の外の廊下から慌ただしい足音が聞こえる。屋根を大きく踏み荒らしてしまったので、宿の主が現れるところであろうか。

「今の音はなんですか!?」

 と思ったが、現れたのはヒイズであった。


「……」
「……」
「……」

 しばし、三人無言で視線を彷徨さまよわせる。

「……失礼しました。私は別の部屋を……」

 ヒイズは一言謝り、ゆっくりと扉を閉めようとする。

「おいこら待て」

 カツミは普段彼に対して、比較的丁寧に接しているのだが、口をついて出た言葉は、マサゴと同じくらいに乱暴な言葉であった。

 ヒイズは夜に男女がこんな形で向かい合っていたので、誤解してしまったらしい。カツミはそう理解して、ヒイズを呼び止めたのだが、マサゴは小首をかしげている。先程から領主の色狂いや、女が見初められてしまったという話をしていたのだが、この手の話にはうといらしい。

「いえ、私は何も見ておりませんよ。恋路の邪魔などいたしませんので、どうかご容赦を……」

「こ、いじ……? コイジ……って恋路じゃねぇか!? 違う!!」

 マサゴは瞬時に顔を真っ赤に染めあげて、ヒイズに怒鳴りながら、部屋へと上がり込む。カツミはこれ幸いと言わんばかりに、素早く窓の戸を閉めた。どうやら寒かったらしい。

「何を馬鹿なことを……。身を清め、そのような艶姿あですがたで異性を訪れるなど……」

「ちがっ。風呂に入った帰りに、礼に寄ったんだろーが!!」

「礼……!? いくら貧困街スラムに住んでいるからと、そんな春をひさぐなど悲しい真似事は……」

「違うっつーのー!! お前いいヤツと思ってたけど、やっぱり貴族の色ボケ脳なのかよ!!」

 カツミは最初にヒイズを呼び止めたことも忘れ、二人の言い合いを見守っていた。なんというか、尊敬すべきと思っていたヒイズがこのように誤解していることも面白く、マサゴが必死に言い訳していることも面白い。

「何を言いますか。このような刻限こくげんに尋ねるなど、親しい間柄でもなければ……」

 ……よく見るとヒイズの目は笑っている。どうやら既に誤解ではなくなっているようなのだが、あえて気づかないふりをしているらしい。食えない男だとは思っていたが、このような一面があったことは驚きだ。

「落ち着け」

 カツミはマサゴの頭に手を置いた。マサゴはその手を振り払い、カツミに振り返ると眉を吊り上げた。

「落ち着いてんだろ!」

 落ち着いていない。しかし女性が怒っている様がこれほど愉快ゆかいであったとは、驚きである。記憶のないカツミにとって大きな発見だ。

「先生、わかってるでしょう、人が悪い……」

「カツミ殿も止めなかったではありませんか」

 二人が笑い合っているので、マサゴは戸惑ったように両者を見比べる。今度は困惑して眉が下がっているが、こうして見ると、年相応の少女らしい。……口を開くと、その麗しい容姿に相反するのだが。

「でも、マサゴ殿。湯上りの姿を家族でもない異性に見せるのは、褒められたものではないのですよ。あなたは成人した女性なのですから」

「は? えっ、うん。は?」

 ヒイズが急に落ち着いた様子でさとすように語りかけるので、マサゴはますます困惑し、困ったように首をかしげた。面白いので、カツミもなにか 揶揄からかいたい……。

「……わかった。まぁ、用はすんだしな。俺帰るよ」

 しかし、彼女は帰ってしまうらしい。窓に向かう姿を見送り、少々残念に思う。人を揶揄からかうにも、知識教養が必要ということなのだろうか。今度は会話の流れにもう少し早く乗ろうと、カツミは密かに誓う。

「えっと、カツミ! カイナのこと、ほんとに礼を言うぜ。あんなに楽しそうなの、久しぶりだった」

「……ああ。気をつけて帰れ」

「誰に言ってんだよ」

 マサゴは窓の戸を開けるが、そこで、ヒイズが呼び止めた。マサゴは振り返り、首をかしげる。

「アガタ殿がおっしゃっていました。貴女が言った門の匂いですが、あれは油の匂いだそうです。門の金具に油が差された直後はああいう匂いがするのだと」

 マサゴは昼間、門のあたりで漂う異臭を気にしていた。マサゴたち貧困街スラムの民には馴染みなく、なんの匂いなのかもわからなかったが、武人のアガタは、金属武器の手入れに使う油の匂いを嗅ぎ慣れていた。それでわかったらしい。

「門が手入れされたのか? ますますもって怪しいぜ……。役人には注意しとかねーとな」

 眉を寄せ、神妙な顔つきをするマサゴに対して、カツミは首をかしげる。彼だけはマサゴの話を聞いていないので、門のことも知らないのだ。

「わかった。それじゃあ俺はもう行く。アガタに礼言っといてくれ」

 マサゴは口角を上げてそう言うと、屋根に上がり駆け出した。カツミはその姿を目で追うことなく、素早く戸を閉める。カツミが部屋に入った時に温まっていた部屋の空気はすっかり冷えてしまっていた。

「寒いのでしたら温石おんじゃくを貰ってきましょうか?」

温石おんじゃく?」

 カツミは耳慣れない言葉に首をかしげる。するとヒイズも一瞬きょとんとして、それから咳払いした。

「申し訳ありません。カツミ殿は聡明そうめいですので、記憶がないことを忘れておりました」

 聡明そうめいかどうかはわからないが、記憶がないにしてもカツミは生活を苦にすることなく、知識の相違そういもなく話すことは確かだ。そのため、カツミに対して気を使う必要もなく、記憶がないということを忘れていたらしい。

「知ってることはありますよ。ただ、どこで知ったことかは思い出せない。温石おんじゃくは初めて聞きました」

「なるほど……」

 つまり、カツミは記憶を失う以前から、“温石おんじゃく”という言葉を聞いたことがない、ということらしい。

「焼いた石を袋に入れて、懐炉かいろのように使うのです。石や懐炉かいろは硬いので、貴族は茹でた蒟蒻こんにゃくを用いることも多いですね」

貴重きちょう蒟蒻こんにゃくを……?」

「ここ数十年はそうでもないと聞いていたのですが、まだ末端まったんは厳しいのでしょうか。遺跡いせきから蒟蒻こんにゃく画期的かっきてきな加工方法が見つかり、値段が大幅に下がったんですよ。祖父は蒟蒻こんにゃくで暖をとる日が来るなんて奇跡だ……と言ってましたね」

 カツミはしばらく、ヒイズから温石おんじゃく蒟蒻こんにゃくについて話を聞いていた。それから一通り話を聞くと、厨房まで一緒に温石おんじゃくを貰いに行ったのだった。




「ふふっ」

 マサゴは今の今まで入ることのできなかった、高い塔を見上げた。ほかの建物とは明らかに様相ようそうの違う、巨大な建物。ずっと興味はあったのだが、近くを通るたびに目に付く程度だった。扉を蹴破るなんて考えたこともなかったのだが、それが間違いだった。

 扉の向こうには素晴らしい宝物があったのだ。

 窓から見た美しい景色。それは今まで見たこともないもので、実は今日は寝ないつもりだった。海から顔を出す、朝日を見たいと思ったのだ。それから、領主邸が建っている丘に沈む夕日も見たい。梯子はしごが高くて危険なので、幼い子供を上に上げるわけには行かないが、いつかは皆で太陽を見てみたい。

 マサゴはそんなことを考えながら、壊れた扉をずらして中に入った。入口をカツミが蹴破ってしまったので、立て掛けている状態である。上に上がったら扉を閉めてしまえばいいので、風自体は気にならないが、そのうち修理しようと、頭の片隅の方で考えながら、梯子はしごへを向かう。

 室内のいたるところから石鹸の匂いがする。カイナとカツミが掃除をしてくれたので、貧困街スラムでは珍しく埃の匂いがしない。手伝ってくれたという神父しんぷには何か礼をしなければ……。


 マサゴは梯子はしごに触れる。ふと目に入ったのは、棚の後ろにある、天井から照れ下がった鎖。棚が壊れているおかげで、見えるとは言え、よく気がついたものである。マサゴの脳裏に、宿で少し寒そうにしていた、カツミの姿が浮かぶ。

 カイナと気が合うようだったのだし、貧困街スラムが向いているのかもしれない。

 マサゴは上に上がると、頭巾フードを脱ぎ、燐寸マッチ燭台しょくだい蝋燭ろうそくに火を灯した。明かりもそのうち用意しなければ。まだまだこの部屋に用意するものがたくさん必要だ。

「っ!?」

 不意に、部屋の隅に影を見つけ、マサゴは息を飲んだ。燭台しょくだいをつかみ、その影の方を見る。


「カイナ……?」

 影の正体は、丸くなって寝ているカイナであった。呼吸によって体が浅くゆっくり上下していて、時折安らかな寝息も聞こえる。普段爛々らんらんとしている目は、今は完全に閉ざされ、深い眠りに落ちているようだった。

「……待ってたのか」

 どうやら、マサゴが喜ぶ姿を見たくて、待っているうちに眠ってしまったらしい。梯子はしごを上がってくるまでに、思いのほかはしゃいでしまっていた。カイナはマサゴのそんな様子を予想して、ここで待ちわびていたのだ。

 大事な相棒の可愛らしさに、思わず笑みがこぼれる。


 マサゴは持ち込んでいた、薄い毛布をカイナに掛け、自分は先ほど脱いだ頭巾フードを広げて被り、眠るカイナの頭の横に座り込む。空気の揺らぎか、それとも近くに熱源が現れたからか、寝ているにも関わらず、カイナが擦り寄ってきた。

 マサゴはそんなカイナの様子に笑みをこぼし、今日のことを思い出す。



 どういうわけか、カイナの顔はすすで汚れていた。彼の仕事は汚れることも多いので不思議はないのだが、それにしては充実した様子なので気になった。

「なぁなぁ、マサゴ! 見せたいものあるんだ!!」

 相手によっては素直ではないカイナだが、マサゴに対してはいつも素直だ。そんな彼がいつにも増して嬉しそうなので、マサゴもつい機嫌よくなってしまう。

「なんだよ。慌てんなっつの」

「慌ててんじゃなくてはしゃいでんだよ。いいから来いって。スッゲーもん見つけたんだ」

 引っ張られるままについていけば、どういうわけか、今まで開かなかった塔の扉が壊されていて、こうして上へと案内されたのだ。マサゴも貧困街スラムにいながらに日の光を浴びたのは初めてで、柄にもなく感動してしまった。

「カツミに手伝ってもらったって? 感謝しねーとな」

 マサゴは部屋の中をとりあえず歩き回る。壁に手を触れ、物陰を覗き込み、時折おかしなものを見つけては、頬を緩めていた。背丈を測ったような柱の傷だとか、日付を数えたと思われる卌の文字。もしかしたらここには子供でも住んでいたのだろうか、“黄”という字や、“馬鹿”という罵倒ばとうの文字まで彫られていた。古くなり、だいぶ彫りが浅かったので、これらの文字は後で適当に削ることにする。

「カイナ、ありがとう! すっげーな、掃除頑張ったじゃねーか!」

「へへっ。カツミと神父しんぷが手伝ってくれたからさ……」

 照れたように、両手で耳を隠してカイナが笑う。カイナは照れると耳まで真っ赤になるのだが、それを指摘されたことがあり、恥ずかしくなると耳を押さえて隠す癖がある。しかし今は頬まで赤いので全く意味をなしていない。

「礼は言ったか?」

「……神父しんぷに、言った」

 微笑むマサゴの問いかけに、カイナはあからさまなほどの勢いで顔を逸らした。マサゴは、そんな彼の態度に白けた表情を見せる。じとーっとした目で見つめられ、カイナは面白くなさそうに口をへの字に曲げる。

「カツミには礼なしなんだな?」

「だってあいつやだ……なんか、やだ……」

 少し拗ねた様子のカイナは面白いが、恩を返すのが貧困街スラムの決まりだ。カイナがカツミに世話になった以上は、責任者であるマサゴが例に出向かなければならないだろう。

「いいよ。俺も礼くらい言っておきてぇし、ちょっくら行ってくらぁ」

「そんな言い方するなよっ! オレとカツミは相性悪いんだよ!」

 カイナはムキになっているようだが、マサゴの中では既に二人は似た者同士ということになっている。ともなれば、素直じゃないだけで、相性はいいはずだ。彼らは旅に出るようなので、ずっといるわけではないが、それでも貧困街スラムえきをもたらす出会いであったことは、言うまでもない。できることなら心を開いて、彼らと打ち解けて欲しいところである。

「ハイハイ。じゃ、俺は風呂行ってくるから、あとは任せたぜ?」

 領主邸の温泉には、マサゴ以外にも、カイナや、ある程度成長した、成人した少年少女が使うこととなっている。幼子にこそ風呂に入れてあげたいのだが、ある程度の身体能力がなければ、万が一の時に逃げることができない。領主に見つかってしまえば、好き勝手されてしまうことは目に見えているので、温泉は成人者の贅沢となっているのである。

 マサゴは女性と、カイナは男性と、時間を変えて領主邸に忍び込む手はずだが、貧困街スラムの成人女性はマサゴだけなので、彼女は一人だ。

「うん。オレは後で行く」

 カイナはマサゴの言葉に頷くと、塔の梯子はしごを降りていった。

 マサゴはカイナを見送ると、しばし、窓の外へと視線を向けた。




「ありがと、カイナ」

 マサゴはゆっくりと目を閉じて、隣で眠るカイナの髪を撫でたのだった。
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