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序 旅立ち
(02) 蕾 -ツボミ-
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―――さま……。
ぬるま湯につかるようなまどろみの中、誰かに揺り起こされている気がした。しかしカツミはそんな物は気にせず、浮上する意識を留めるように惰眠を貪る。
―――じん……ま……。
これはなんであろうか。
ふわふわと柔らかくて軽いものは、いままで感じたこともない、安らぎを与えている。まるで親鳥のようにやさしく包み込み、ぬくもりを与え、眠りに誘うこれは……。
この眠りから引き起こそうとする者は悪に違いない。そうなると、今すぐにでもこの己を揺り動かすものを、排除しなければならないではないか。なぜならカツミはまだ眠りたいのだから。
「きゃぁ!」
「っ」
ゆらりと手を伸ばしたところ、細い何かに触れ、掴んだそれを引いてそのまま組み敷く。カツミは武器など持っていなかったので、首に手をかけて……そこで一気に意識が覚醒した。
「あ……」
「ご主人様、その……伽を命じるならば従いますが……」
少女が頬を染めて視線を逸らす。恥じらう様はなかなかに庇護欲を誘うものだが……。
「うわぁ!!」
飛び退いて改めて目の前の存在を見つめる。大人というわけではないが、間違いなく女性である。赤毛の髪を後ろでまとめて団子をつくり、子猫のような灰色の丸い目が特徴だ。
なんということだ。寝ぼけて女性に無体を働くなど、褒められたことではない。
「ご、ご主人様!? 大丈夫でございますか!?」
「ご……ごしゅ!?」
ご主人様とは何か、意味のわからない状況に辺りを見回す。石造りの部屋だが、暖炉があるせいか室内は暖かい。彼は先程までこの寝台に眠っていたということになる。
「……?」
しかし記憶を遡れば、己は外に居たのではなかったか。しかも目の前にいたのはこの少女ではなく、明らかに成熟した大人の女性だったはずだ。
石造りの部屋で、広さは9平米ほどだろう。壁に埋もれるように置かれた寝台と、反対側には本棚もあるようだが、本はない。
「ここは……?」
「宮の一室にございます。私はご主人様に仕えるよう申しつかりました、この宮で采女として働いている、ココノと申します」
「グウ……?」
カツミは記憶を手繰る。たしかこの部屋に来る前は、アガタという女性のそばにいたはずだ。その彼女が宮に連れて行くと言っていた。
目を覚ます前、首の後ろが痛くなった。意識すれば今も鈍い痛みは残っている。ともなればあのアガタという女性に、この宮まで無理やり連れてこられたということになるだろう。
「……ココノ、といったな」
「ハイ、ご主人様!」
「そのご主人様ってのはやめてくれ」
カツミの言葉に、少女はキョトンと目を丸くする。それからすぐに再び微笑を浮かべた。
「でも、ご主人様をなんとお呼びすればよいのか、教えていただいておりません。故にココノはご主人様とお呼びしているのでございます」
「……カツミだ」
これはカツミの勘なのだが、おそらく頭の弱い部類の人間だ。名がわからないのなら聞けばいいだけの話ではないか。
「カツミ様……でございますね」
ココノと名乗った少女は胸の前で手を合わせ、嬉しそうにはにかんだ。さすがのカツミも、その様子には毒気を抜かれ、仕方がないとでも言うようにため息を漏らす。
部屋の中は殺風景で何をするでもない。窓の外は明るいので昼間とは思うのだが、それが午前か午後かもわからない。ふと見れば、ココノが何かを差し出している。紙切れのようなのだが……。
「これは?」
小さな紙は3糎四方の大きさで、その紙いっぱいいっぱいに“九”と書いてある。
「ハイ、ココノの名前にございます。ココノのような下流の采女は、お仕えし始めた歳から名前が決まるのです。もうこの館にお仕えして6年になるんですよ」
九―――6年ということは、目の前の少女は15歳ということになる。
「何故俺がご主人様なんだ?」
「……? お館様よりカツミ様付きに命じられました故。字を明かすのは主従の証でございまして、ココノの字を知るカツミ様はココノのご主人様にございます」
これには驚いた。つまりはカツミがこの少女の主人になってしまったらしいのだ。名前を勝手に告げられたものだから、少々強引ではあるが……。
「名によっては字がわかってしまうこともありますので、偽名を名乗る方も多くおります。……それから、将来の伴侶となった方にも、字を教えますわ」
最後の部分を、ココノは少し照れくさそうにそう告げた。もしかしたらこのあどけない少女にも慕う相手がいるのかもしれない。15歳ならば、色恋に憧れる年齢だろう。カツミはそう邪推した。
「俺は……いや、なんだ……?」
寝台から降りもせず、頭を押さえて考え込んでしまう。混乱する頭を整理したいが、自分をさらに混乱させそうな少女が目の前にいる。どうしたものか。
「あの……詳しい話はお館様がお話になるそうですので、まいられてはいかがでしょう……?」
「お館様……か……」
それはあのアガタという女性―――ここに連れてきた本人であろうが、彼女も「お館様に会わせる」と言っていた。
はっきり言えば、気が進まない。そもそも無理やり連れてくるという時点で問題ではないか。それならば余計に、会いたくないと思うのも納得である。しかしほとんど本能的に、“お館様”とやらに会いたくないと考えていることは気になった。もしかしたら前世で高貴な身分の者と何かあったのかもしれない。
「気が進まないな」
「お館様は、『召喚されたご主人様は記憶がないだろうから、説明が必要であろう。私のもとへ連れてきなさい』とおっしゃっておりました」
「召喚したというのは、その者なんだな?」
「ハイ」
さて、どうしたものか。カツミはしばし考える。
連れてこられてしまったことは、もちろん腹が立つ。しかし来てしまった以上は、現状を維持したところで何も得るものはないだろう。召喚ということは、どこからか喚ばれたのだ。どこから呼ばれたというのだろう。自分はどこの誰なのか。それが一番気になった。もしかしたら、会ってみれば何かわかるかも知れないのだ。
それに彼女、ココノはこの宮に仕えている身なのだ。自分がその“お館様”とやらに会わなければ、彼女が咎められるかも知れない。“お館様”に会いたくはないのだが、それは毛嫌いのようなものだ。自分のわがままでこの少女に迷惑をかけるというのも、いかがなものだろう。
「……カツミ様、どちらにしても、身なりを整えましょう。湯浴みと散髪の準備をいたします」
「散髪……?」
カツミは視界に映る金糸をつまむ。そういえば髪の毛は伸び放題だ。服は乾いているが、誰が着せたのであろうか。少なくとも気を失う前は毛布にくるまっただけの、下着姿だった気がする。
目の前にいるのはこの少女で、ここまで運んできたのはアガタという女性だ。
「カツミ様、どうなさったのですか?」
突然寝台の上で足を抱え込むカツミの様子に小首をかしげる。背を向けられてしまい、すこし気まずい。ココノは自分の発言の中に、失言があったのではないかと、慌てている。
「何でもないんだ、なんでも、な……」
別に要介護の人間というものでもない。だというのに、女性に着替えさせられたなどとはとんだ恥である。よく考えたら女性に気絶させられている。
カツミはますます落ち込んだ。
「できました、カツミ様! ご希望通りにあまり短くは致しませんでしたけど……これでよろしいですか?」
ココノは剃刀をおいて、カツミに手鏡を差し出した。室内に鏡台のようなものはないので、湯浴みをしている間に彼女がどこからか持ってきたようだ。大きい鏡はそれなりに重いようで、それを持つココノの手がプルプルと震えていた。
「ああ。髪切るのうまいんだな」
「下流とは言えこれでも采女でございます。身を整えるすべは一通り心得てございます」
ココノはカツミの髪に櫛を通していく。なるほど。まだ15らしいのだが、たしかに采女としては優秀のようだ。
「衣はこれでいいのか?」
「ハイ。それで……まぁ。あわせが逆ですわ、カツミ様」
言われてカツミは自分の衣とココノの衣を見比べる。言われてみれば確かにあわせが逆だ。彼女の衣類をよく観察してから着れば恥をかかなかったのかと考えながら、帯を緩めて衣をくつろげた。
「そんなことが決まっているのか…」
「ええ。昔の宗教の名残だそうです。神代ではこのように衣装をまとっているのだとお聞きしました。神の恩寵がその身にあるよう、衣のあわせは右が上に来るのだ……と、先生に教わったのです。衣のあわせを逆にするのは、咎人くらいだという話ですので、お気をつけてくださいませね?」
ココノは帯を緩めたカツミの様子に、特に戸惑った風でもなく、丁寧にあわせを直した。見かけから勝手に初心な様子を想像したのだが、采女の彼女にとって、人の衣装を整えることは当たり前のことなのかもしれない。
「……できました。少々窮屈かもしれませぬが、お館様に御目通り致しますので、しばし辛抱下さいませね」
カツミは衣をいくつも重ねて身にまとった状態だ。これが正装であるというのならば仕方がないのだが……。身動きが取りづらく、衣装が重い。身分の高い者に会うために、正装するということもわかる。わかってはいるのだが……。
乗り気ではないことがこれほど苦痛なものなのか……と、カツミは思った。
「にしても見栄えが悪くないようにいたしましたが、お髪は結わなくてよろしいのでございますか?」
「ああ」
ココノの言葉に頷きながら、それがなぜかを考える。どういうわけなのか、あまり人と顔を突き合わせたくないと思ったのだ。前髪も視界がわかるようにしたが、それでもやはり長めだ。
ふと見れば、寝台の上には大量の、それこそ色鮮やかな衣が投げ出されている。また後で、動きやすい衣を優遇してもらうつもりだが、ここに置いてある衣はあまりに自分の好みからかけ離れていた。
「それでは、片付けは他の者が致しますので、参りましょうか」
宮というものの勝手はわからないのだが、これからこの宮の主に会うということになるようだ。カツミはやはり気が進まないと思い、しかし目の前の小さな背中に溜息を吐いた。
廊下にはココノと似たような姿をした女性が行き交っている。どうやら彼女たちも采女のようだ。
裳をはいていると思ったのだが、よく見れば左右に一つずつ、後ろに一つで、合計三つの切り込みが入った、前掛けのような物を、袴の上にはいているようだ。
「カツミ様、こちらの廊下の窓から、都を一望できるのです! どうぞご覧下さいませ!」
どうやらここは一階ではなく、二階以上の建物の中だったようだ。一望できるということは、それなりの高所なのだろう。カツミは適当に当たりを決めてから窓を覗き込む。どのような景色が見えてくるのか……。
「へえ……」
遠くに見える壁は、身を乗り出して目で辿れば、この建物に繋がっていることに気がついた。どうやらここは城壁都市らしい。そしてその壁の向こうには平原が続いていて、森林地帯が広がっている。
もしかしたら、自分が目覚めたのは、あの森なのかもしれない。近くの森を見たカツミはそんなことを考えた。
「カツミ様! これがこの国なのでございます。世界は年を重ねるごとに痩せておりますが、それでも変わらず美しい国なのでございます!」
「痩せて……?」
カツミはもう一度、城壁の向こうへ目を凝らす。森林地帯と草原地帯が続き、とても痩せたようには思えない。
しかし思い返してみれば、森の中で目が覚めたとき、花木を見なかったし、獣の声が小さかった気がする。土地が痩せているということは、獣が少なくてもおかしくはない。
「痩せて……」
カツミは、自分が一体、何のためにここにいるのかわからない。過去は失われており、それでも話を何も聞かないというのは、少々大人気なかったかもしれない。
もう一度、城門の側や、その他の建物を見てみる。
「あれは……教会か……。あの城壁の外にある大きな建物はなんだ?」
城壁と同じ色なので気がつかなかったが、よく見ると、砦の様な建造物がある。砦というには、城壁にあまりに近いので違うと思うのだが、それならばなんであろう。
「あれは収容所です。大罪を犯してしまった咎人が終身する場所だと言われております」
早い話が刑務所である。カツミはその意外な答えに、目を丸くする。目の前にいる少女は、明らかに無垢といったふうで、その言葉はあまりに似合わなかった。
「300年前まではそれより更に罪の重い者が、あそこで一生を終え、死後もあの砦から出られなかったと教わりましたが……」
いまでは、それほど重い罪を犯す者もいないので、終身刑の判決が下った者の、収容施設となっているらしい。違いは拷問があるか、或いはないか。そう答える少女を見て、カツミは目の前の彼女が、ただ無垢なだけではないと気づく。
収容所と言われれば、なるほど。砦に見えたこともうなずけた。堅牢な作りになっているのだろう。
「あの、塔は、見張り塔か……」
よく目を凝らしてみると、人の姿が見える。全員が何かを背中に抱えているように見えるが、あれは矢筒であろうか。それならば、何かを持っているように見えるのは、弓であろう。
「4人か」
「え? カツミ様はあの場所が見えるのですか? たしかに人影は動いておりますが…」
どうやらココノには見張り塔の人物の数まではわからないらしい。この建物のことを、ココノは“宮”と呼んでいた。この宮から見張り塔は、それなりに離れているが、彼はそこに人が何人いて、何か持っているということまで気がついた。
あまり意識していなかったのだが、どうやら自分は視力がいいらしい。カツミは己のことをそう認識した。
「あの、カツミ様……そろそろお館様のもとへ参りませんと……」
「あ、ああ……」
思いのほか時間をとってしまった。カツミは思わず返事を返したのだが、やはり気が重い。返事を返した一瞬後には、鳥肌が立っていた。
やはり己の本能に従い断るべきか……。
少し緊張した面持ちで、姿勢を正す小さな背中を見ると、とてもそんなことは言えなかった。
ぬるま湯につかるようなまどろみの中、誰かに揺り起こされている気がした。しかしカツミはそんな物は気にせず、浮上する意識を留めるように惰眠を貪る。
―――じん……ま……。
これはなんであろうか。
ふわふわと柔らかくて軽いものは、いままで感じたこともない、安らぎを与えている。まるで親鳥のようにやさしく包み込み、ぬくもりを与え、眠りに誘うこれは……。
この眠りから引き起こそうとする者は悪に違いない。そうなると、今すぐにでもこの己を揺り動かすものを、排除しなければならないではないか。なぜならカツミはまだ眠りたいのだから。
「きゃぁ!」
「っ」
ゆらりと手を伸ばしたところ、細い何かに触れ、掴んだそれを引いてそのまま組み敷く。カツミは武器など持っていなかったので、首に手をかけて……そこで一気に意識が覚醒した。
「あ……」
「ご主人様、その……伽を命じるならば従いますが……」
少女が頬を染めて視線を逸らす。恥じらう様はなかなかに庇護欲を誘うものだが……。
「うわぁ!!」
飛び退いて改めて目の前の存在を見つめる。大人というわけではないが、間違いなく女性である。赤毛の髪を後ろでまとめて団子をつくり、子猫のような灰色の丸い目が特徴だ。
なんということだ。寝ぼけて女性に無体を働くなど、褒められたことではない。
「ご、ご主人様!? 大丈夫でございますか!?」
「ご……ごしゅ!?」
ご主人様とは何か、意味のわからない状況に辺りを見回す。石造りの部屋だが、暖炉があるせいか室内は暖かい。彼は先程までこの寝台に眠っていたということになる。
「……?」
しかし記憶を遡れば、己は外に居たのではなかったか。しかも目の前にいたのはこの少女ではなく、明らかに成熟した大人の女性だったはずだ。
石造りの部屋で、広さは9平米ほどだろう。壁に埋もれるように置かれた寝台と、反対側には本棚もあるようだが、本はない。
「ここは……?」
「宮の一室にございます。私はご主人様に仕えるよう申しつかりました、この宮で采女として働いている、ココノと申します」
「グウ……?」
カツミは記憶を手繰る。たしかこの部屋に来る前は、アガタという女性のそばにいたはずだ。その彼女が宮に連れて行くと言っていた。
目を覚ます前、首の後ろが痛くなった。意識すれば今も鈍い痛みは残っている。ともなればあのアガタという女性に、この宮まで無理やり連れてこられたということになるだろう。
「……ココノ、といったな」
「ハイ、ご主人様!」
「そのご主人様ってのはやめてくれ」
カツミの言葉に、少女はキョトンと目を丸くする。それからすぐに再び微笑を浮かべた。
「でも、ご主人様をなんとお呼びすればよいのか、教えていただいておりません。故にココノはご主人様とお呼びしているのでございます」
「……カツミだ」
これはカツミの勘なのだが、おそらく頭の弱い部類の人間だ。名がわからないのなら聞けばいいだけの話ではないか。
「カツミ様……でございますね」
ココノと名乗った少女は胸の前で手を合わせ、嬉しそうにはにかんだ。さすがのカツミも、その様子には毒気を抜かれ、仕方がないとでも言うようにため息を漏らす。
部屋の中は殺風景で何をするでもない。窓の外は明るいので昼間とは思うのだが、それが午前か午後かもわからない。ふと見れば、ココノが何かを差し出している。紙切れのようなのだが……。
「これは?」
小さな紙は3糎四方の大きさで、その紙いっぱいいっぱいに“九”と書いてある。
「ハイ、ココノの名前にございます。ココノのような下流の采女は、お仕えし始めた歳から名前が決まるのです。もうこの館にお仕えして6年になるんですよ」
九―――6年ということは、目の前の少女は15歳ということになる。
「何故俺がご主人様なんだ?」
「……? お館様よりカツミ様付きに命じられました故。字を明かすのは主従の証でございまして、ココノの字を知るカツミ様はココノのご主人様にございます」
これには驚いた。つまりはカツミがこの少女の主人になってしまったらしいのだ。名前を勝手に告げられたものだから、少々強引ではあるが……。
「名によっては字がわかってしまうこともありますので、偽名を名乗る方も多くおります。……それから、将来の伴侶となった方にも、字を教えますわ」
最後の部分を、ココノは少し照れくさそうにそう告げた。もしかしたらこのあどけない少女にも慕う相手がいるのかもしれない。15歳ならば、色恋に憧れる年齢だろう。カツミはそう邪推した。
「俺は……いや、なんだ……?」
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「あの……詳しい話はお館様がお話になるそうですので、まいられてはいかがでしょう……?」
「お館様……か……」
それはあのアガタという女性―――ここに連れてきた本人であろうが、彼女も「お館様に会わせる」と言っていた。
はっきり言えば、気が進まない。そもそも無理やり連れてくるという時点で問題ではないか。それならば余計に、会いたくないと思うのも納得である。しかしほとんど本能的に、“お館様”とやらに会いたくないと考えていることは気になった。もしかしたら前世で高貴な身分の者と何かあったのかもしれない。
「気が進まないな」
「お館様は、『召喚されたご主人様は記憶がないだろうから、説明が必要であろう。私のもとへ連れてきなさい』とおっしゃっておりました」
「召喚したというのは、その者なんだな?」
「ハイ」
さて、どうしたものか。カツミはしばし考える。
連れてこられてしまったことは、もちろん腹が立つ。しかし来てしまった以上は、現状を維持したところで何も得るものはないだろう。召喚ということは、どこからか喚ばれたのだ。どこから呼ばれたというのだろう。自分はどこの誰なのか。それが一番気になった。もしかしたら、会ってみれば何かわかるかも知れないのだ。
それに彼女、ココノはこの宮に仕えている身なのだ。自分がその“お館様”とやらに会わなければ、彼女が咎められるかも知れない。“お館様”に会いたくはないのだが、それは毛嫌いのようなものだ。自分のわがままでこの少女に迷惑をかけるというのも、いかがなものだろう。
「……カツミ様、どちらにしても、身なりを整えましょう。湯浴みと散髪の準備をいたします」
「散髪……?」
カツミは視界に映る金糸をつまむ。そういえば髪の毛は伸び放題だ。服は乾いているが、誰が着せたのであろうか。少なくとも気を失う前は毛布にくるまっただけの、下着姿だった気がする。
目の前にいるのはこの少女で、ここまで運んできたのはアガタという女性だ。
「カツミ様、どうなさったのですか?」
突然寝台の上で足を抱え込むカツミの様子に小首をかしげる。背を向けられてしまい、すこし気まずい。ココノは自分の発言の中に、失言があったのではないかと、慌てている。
「何でもないんだ、なんでも、な……」
別に要介護の人間というものでもない。だというのに、女性に着替えさせられたなどとはとんだ恥である。よく考えたら女性に気絶させられている。
カツミはますます落ち込んだ。
「できました、カツミ様! ご希望通りにあまり短くは致しませんでしたけど……これでよろしいですか?」
ココノは剃刀をおいて、カツミに手鏡を差し出した。室内に鏡台のようなものはないので、湯浴みをしている間に彼女がどこからか持ってきたようだ。大きい鏡はそれなりに重いようで、それを持つココノの手がプルプルと震えていた。
「ああ。髪切るのうまいんだな」
「下流とは言えこれでも采女でございます。身を整えるすべは一通り心得てございます」
ココノはカツミの髪に櫛を通していく。なるほど。まだ15らしいのだが、たしかに采女としては優秀のようだ。
「衣はこれでいいのか?」
「ハイ。それで……まぁ。あわせが逆ですわ、カツミ様」
言われてカツミは自分の衣とココノの衣を見比べる。言われてみれば確かにあわせが逆だ。彼女の衣類をよく観察してから着れば恥をかかなかったのかと考えながら、帯を緩めて衣をくつろげた。
「そんなことが決まっているのか…」
「ええ。昔の宗教の名残だそうです。神代ではこのように衣装をまとっているのだとお聞きしました。神の恩寵がその身にあるよう、衣のあわせは右が上に来るのだ……と、先生に教わったのです。衣のあわせを逆にするのは、咎人くらいだという話ですので、お気をつけてくださいませね?」
ココノは帯を緩めたカツミの様子に、特に戸惑った風でもなく、丁寧にあわせを直した。見かけから勝手に初心な様子を想像したのだが、采女の彼女にとって、人の衣装を整えることは当たり前のことなのかもしれない。
「……できました。少々窮屈かもしれませぬが、お館様に御目通り致しますので、しばし辛抱下さいませね」
カツミは衣をいくつも重ねて身にまとった状態だ。これが正装であるというのならば仕方がないのだが……。身動きが取りづらく、衣装が重い。身分の高い者に会うために、正装するということもわかる。わかってはいるのだが……。
乗り気ではないことがこれほど苦痛なものなのか……と、カツミは思った。
「にしても見栄えが悪くないようにいたしましたが、お髪は結わなくてよろしいのでございますか?」
「ああ」
ココノの言葉に頷きながら、それがなぜかを考える。どういうわけなのか、あまり人と顔を突き合わせたくないと思ったのだ。前髪も視界がわかるようにしたが、それでもやはり長めだ。
ふと見れば、寝台の上には大量の、それこそ色鮮やかな衣が投げ出されている。また後で、動きやすい衣を優遇してもらうつもりだが、ここに置いてある衣はあまりに自分の好みからかけ離れていた。
「それでは、片付けは他の者が致しますので、参りましょうか」
宮というものの勝手はわからないのだが、これからこの宮の主に会うということになるようだ。カツミはやはり気が進まないと思い、しかし目の前の小さな背中に溜息を吐いた。
廊下にはココノと似たような姿をした女性が行き交っている。どうやら彼女たちも采女のようだ。
裳をはいていると思ったのだが、よく見れば左右に一つずつ、後ろに一つで、合計三つの切り込みが入った、前掛けのような物を、袴の上にはいているようだ。
「カツミ様、こちらの廊下の窓から、都を一望できるのです! どうぞご覧下さいませ!」
どうやらここは一階ではなく、二階以上の建物の中だったようだ。一望できるということは、それなりの高所なのだろう。カツミは適当に当たりを決めてから窓を覗き込む。どのような景色が見えてくるのか……。
「へえ……」
遠くに見える壁は、身を乗り出して目で辿れば、この建物に繋がっていることに気がついた。どうやらここは城壁都市らしい。そしてその壁の向こうには平原が続いていて、森林地帯が広がっている。
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「痩せて……?」
カツミはもう一度、城壁の向こうへ目を凝らす。森林地帯と草原地帯が続き、とても痩せたようには思えない。
しかし思い返してみれば、森の中で目が覚めたとき、花木を見なかったし、獣の声が小さかった気がする。土地が痩せているということは、獣が少なくてもおかしくはない。
「痩せて……」
カツミは、自分が一体、何のためにここにいるのかわからない。過去は失われており、それでも話を何も聞かないというのは、少々大人気なかったかもしれない。
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よく目を凝らしてみると、人の姿が見える。全員が何かを背中に抱えているように見えるが、あれは矢筒であろうか。それならば、何かを持っているように見えるのは、弓であろう。
「4人か」
「え? カツミ様はあの場所が見えるのですか? たしかに人影は動いておりますが…」
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あまり意識していなかったのだが、どうやら自分は視力がいいらしい。カツミは己のことをそう認識した。
「あの、カツミ様……そろそろお館様のもとへ参りませんと……」
「あ、ああ……」
思いのほか時間をとってしまった。カツミは思わず返事を返したのだが、やはり気が重い。返事を返した一瞬後には、鳥肌が立っていた。
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たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
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