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第10話 仮面条例

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 少し長い話。とある時代のとある国、主人公は、私。
 おかしな大統領がおかしな命令を出した。
 仮面条例。公共の場所では、必ず仮面をかぶること。
 理由は、社会的に顔の美醜で差別されないようにだったか、それとも人種問題? いや、オゾン層が? 忘れてしまった。ともかく、家の外では、全員、仮面を被ることになった。
 原則として白い仮面だった。何の模様もない、ただ白いだけの、ミュージカル、「オペラ座の怪人」で、例の怪人が被っていたような、全く飾り気のない仮面が望ましいとされた。
 始めは違和感を感じたのだが、慣れてしまうと誰も不満を言わなくなった。仮面を被っていたほうが、かえって、人の顔色を気にせずに楽な気持ちで暮らすことができた。
 それでも、条例が制定されて五年。近頃は反対派が増えていて、週末になると、デモがあちこちで起こっている。

 私には小さな秘密があった。週に二回、いや先週は三回、夜、一人、河べりの公園に行き、なるべく街灯から離れたベンチに座り、仮面を脱ぎ、川面を渡る、わずかに青臭く湿り気を含んだ風を頬に当てる。
 私は、別に仮面条例に反対しているわけではない。仮面を脱いで生活したいも思っていない。少なくとも誰かの前で仮面を脱ぎたいとは思わない。
 疲れた時に、フッと仮面を脱ぎたくなる。それだけだ。ただ、疲れたときだけ、しかし……今は毎日、疲れていた。

 休日が終わり、新しい週が始まった。私は、いつものように家を出て、地下鉄に乗り、会社に向かった。
 私は小さな広告会社に勤めていた。蔦が絡まっているレンガ作りの古いビルだ。五階建ての二階に会社はあった。ブラウン&スミス広告社。経営者は高校時代の親友だったらしい。
 私は、パーティションで区切られた小さな空間で、一日中パソコンの画面に向かう。
 コピーライタ―と言えば聞こえがいいが、毎日毎日、町のスーパーや、レストランの宣伝文句を考えているだけだ。
「最高のステーキはレストラン・ボブで」
「ボージョレ解禁。格安5ドル、早い者勝ち。売り切れる前に、君もウェルマートに急ごう」
「フー」ため息が出る。
 仕事が終わり、会社を出ると、足は今日も公園に向かっていた。街灯から離れたベンチに座ってぼんやりと川面を眺める。
 夜が深まるにつれて人影が減り、私のことを気に掛けるような人はいなくなる。
 私は静かに仮面をとり、息を吐く。肩の力を抜き、ベンチに深く腰掛け、体を預ける。そして、心の底から浮かんでくる問いに答えを探す。
 自分は、なぜ古い仮面を捨てられないで、隠すように屋根裏に置いておくのか。隠しているとしたら、誰から何を隠そうとしているのか。
 自分は、どうして家の中で一人になっても、仮面を被り続けているのか。そして、あの時、ベッドの中で仮面を脱いでいれば、リサと別れることはなかっただろうか。
 毎晩、「一度で良いから仮面を脱いで」とリサは言った。
 私は、「分かった」と答えながら、一度も、仮面を脱がなかった。
 なぜだろう。こうして脱いでしまえば、仮面を外すなんて簡単なことなのに。どうして、あの時に、脱ぐことができなかったのだろう。
 考えはメリーゴーランドのように、ただグルグル廻るだけで、進んではいかない。
「もしもし」と急に、肩を叩かれた。
 私は驚いて顔を上げた。
「だいじょうぶですか。気分でも」
  警察官だった。
「あっ、いえ、だいじょうぶです。ちょっと会社でいろいろあって」
「そうですか。このあたりは、近頃、仮面泥棒が出没していて、物騒ですから気をつけて下さい」
「はい、すいません。すぐに帰りますから」
「ビールでも飲んで、早く休んだほうがいいですよ」
 自殺でも考えていると思ったのか、警察官は優しく諭すように言った。
「ええ、すぐにかえりますから」と私は答えた。
 警察官は、もう一度「早く、帰りなさい」と言って、私から離れて行った。
 気が付くと、私の手に仮面があった。仮面を脱いだままで、警察官と話していた。
 公共の場所で仮面を脱ぐのは、条例違反だ。注意されるのが普通なのだが、警察官は何も言わなかった。街灯から離れていて、だいぶ薄暗かった。警察官は、私が仮面を脱いでいることを、暗いせいで分からなかったのだろう、と私は思った。

 テレビニュースがデモの様子を伝えていた。大都市で始まったデモは、しだいに地方に広がっているようだった。
 次の日、私は、仮面を被らずに外に出た。「理由は?」と聞かれても、自分でも答えられない。何となくだ。ただ、何となく、仮面を脱いで外を歩きたくなった。
 私は家を出て、俯きながら歩いた。地下鉄に乗った。椅子に座らず、ドアの横に立ち、外を見た。地下鉄の窓の外には、ただ壁が見えるだけだった。
 会社に行き、自分の席に座った。いつものようにパソコンに向かい、与えられた仕事を処理していく。
 午前中、会話をしたのは、二人だけだった。一人は、二日酔いのロビー。
「薬を持ってないか」と声をかけてきて、私は引き出しにあった薬をあげた。いつから引き出しにあったのか、一体、何の薬なのか、自分でも分からなかったが、ともかく、ロビーは「サンキュー」と言って薬を飲んだ。しばらくしたら、機嫌が良くなっていたから、多分、効いたのだろう。
 二人目は経理課のキョウコだった。不動産屋の打ち合わせで食べたランチは、経費にならいとレシートを突き返された。
 昼休みは外に出て、ハンバーガーを食べた。レジの女性は「ありがとうございます」と言ったが、私の顔は見ていなかった。
 午後は一人で仕事を続けた。誰も私に話しかけてこなかった。私も誰にも話しかけなかった。
 結局、一日働いたが、私が仮面を脱いでいることに、誰も気がつかなかった。
 なぜ、誰も気が付かなかったのだろうか、気が付いていたのかもしれないが、気にしなかっただけなのだろうか。
 誰も、顔など見ていないのか。見てはいるが、細かなことなど気にしていないのか。
 どうせみんな仮面を被っているのだから、顔なんて注意して見ても仕方が無いと思っているのだろうか。
 仕事が終わり、私はいつものベンチ坐って川面を見ていた。考えても答えが分かるわけではない。残っているのは、一日、仮面を外して働いても誰も気が付かなかったという事実だけだ。
 辺りが暗くなり、警察官が私を見て、やれやれ今日もいるのか、といったように首を振り、声をかけることもなく通り過ぎて行った。
「フー」
 私は、力なくため息をつき、ベンチから立ち上がった。確かに、あの警官に言われたように、ビールでも飲んで、早く寝たほうがよさそうだ。

 玄関に着き、鍵を開け、家に入ろうとしたところで、「ガサ」っと音が聞こえた。音の方角に目をやると、人影が見えたような気がした。黒い影は隣の家の裏庭に向かって消えて行ったように見えた。
「このあたりは、近頃、仮面泥棒が出没していて、物騒ですから気をつけて下さい」
 警察官の言葉がよみがえった。
 仮面泥棒?
 隣の家には、女性が一人で住んでいた。   彼女は古くなった仮面を裏庭に埋めていた 仮面は傷つきやすく汚れやすい。どんなに丁寧に扱っていても、しだいに細かな傷が目立つようになる。毎日、専用の洗浄液で洗っていても、二ヶ月もすれば薄汚れてくる。
 いらなくなった仮面はゴミとして捨ててもいいのだが、彼女は土の中に埋めていた。最近は、分解されて土に返る素材の仮面が出来ているらしい。
 私は、私の仮面は……捨てることも、うめることもできずに、屋根裏に隠した箱の中に全てしまってある。
 彼女の仮面が浮かんだ、裏庭に埋められた仮面。それを泥棒が掘り出そうとしているのでは、と思った。
 私は、隣の家の裏庭に歩いて行った。人影はなかった。私は、彼女の仮面が埋められた場所に近づき、地面を見た。
 そこだけ草が取られ土が出ていたが、掘り返されたような様子はなかった。
 私が、さらに確かめようと、体を屈めた所で、「ガツン」と頭に衝撃を感じた。 
「あっ、カトウさん。どうして」
 声に振り返ると、彼女がスコップを持って立っていた。
「い、いや。ここに、今、不審な人が………」
 と言いながら、私は気を失っていった。薄れていく意識の中で、スコップの先と女性物の靴のつま先が見え、そして暗い地面が目の前に近づき、完全に気を失った。

 救急車のサイレンの音と、話し声が途切れ途切れに聞こえていた。
「私、てっきり、仮面を盗みにきたと思って」
 彼女の声だった。
「お宅の裏庭に勝手に入った、この人の責任ですから、あなたには何も落ち度はありませんよ」
「死んだりは……」
「このくらいなら……」
 救急車から降ろされ、キャスターで運ばれた。
「いや、ビックリだね。これが仮面だなんて本人でも分からないかもしれないな」
 手術室のようだった。
「生まれた時に皮膚がただれていて、親が仮面をつけたんですね」
「皮膚と親和性の良い素材でできていたから、皮膚と一緒になっているよ」
「極薄で伸縮性に優れていて、一生着けていてもだいじょうぶ。これは、すごいや。日本製かな韓国製かな」
「さあ、どこにも書いてないけど」
 ぼんやりと二人の会話が聞こえていた。どうやら、私の顔の話をしているようだった。
「そういえば、この遺伝病が仮面条例のきっかけでしたね」
「急に、顔の皮膚がただれた子どもが生まれだして」
「原因は今でも?」
「分かってない。軍が秘密に開発していたウイルスが漏れたとか、噂になったけど、結局、分からずじまいだ」
「親が子どもに仮面を被せて」
「その内、病気とは関係ない人まで仮面を被りだした」
「日本では、以前から医療用のマスクを被っていたそうですけど、それとは」
「あれは、関係ないだろう。ともかく、仮面を被る人が増えて」
「仮面条例」
「まあな」
「仮面を被るなんて、改めて考えると、おかしなものですね」
「背広にネクタイと一緒だよ。流行は時代によっていろいろあるんだ。今は仮面。将来はまた違う物がはやるんだろ」
「そうですかね」
 二人は、話しながら、私の傷の手当てをしていた。頭の傷を縫っているようだったが、麻酔が効いていて何も感じられなかった。
 会話の内容は仮面だった。私の仮面だ。どうやら、私は生まれてからずっと仮面を被ったままだったらしい。

「そんなこと」と彼女は言った。「気にしなくても」
「いや、でも、生まれた時から仮面を被っていたなんて、ちょっとショックで」と私が言うと、
「みんな、そうかもしれませんよ」と彼女は言った。
 彼女は右手にスコップを持っていた。泥棒が出て、物騒なので、仮面を掘り出すのだと言う。
 スコップで地面を掘ると、埋められた仮面が出て来た。
 彼女は一枚一枚、丁寧に仮面を取り出した。
「仮面はどうするんです」と私が尋ねると。
「まだ決めてないんです」と彼女は答えた。
「私は、屋根裏に置いてあるんですが、よかったら一緒に」
 私は言ってから、何を言ってるんだろうと自分でも恥ずかしくなった。
「いいえ、私の家にも置く場所ぐらいはありますから」と彼女は私の申し出を断った。
「そうですね」
 私ががっかりしたように言うと、彼女は、「でも、少し考えておきます」と優しい口調で言った。
 家の前を「仮面条例反対」とシュプレヒコールを上げながらデモの列が通り過ぎていった。行進していく彼らの手には脱いだ仮面が握られていた。
「とうとう、ここまで来たんですね」
 彼女はデモを見ながら言った。
「ええ」と私は言いながら、もしかしたら、彼らも私と同じように、仮面を脱いだ気になっているだけで、まだ仮面を被っていることに、気づいていないのではないか、と考えていた。
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