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第二章 悪夢

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 京子はバスに戻り、大きく一つ息を吐いた。座席の背もたれに体を埋め、マスクを外す。
 ようやく長い一日が終わった。朝早くから、高校、中学校、小学校と休み無く回り、血液検査を繰り返した。
 京子は、採血後のアンケートを担当した。学年と名前を確認した後、現在の体調、病気の有無を聞いた。体調は良好、病気はない。せいぜい虫歯ぐらいだ。最後に、「今は、健康ですか?」と聞くと、ほぼ全員が明るく元気に、「はい」と答えた。
 予想通り、みんな健康になっていた。夏休み前ということもあるのか、どの学校に行っても、騒がしく落ち着かない印象だった。
 検査を待っていても、じっとしていられず、じゃれ合っている。そして、時折、じゃれ合いが高じて喧嘩に変わっていた。
 不気味なのは、ほほ全ての人間が絶えず何かを口に入れていたことだった。ハンバーグ、ホットドッグ、おにぎり、ソーセージ、唐揚げ。それは、教師も同じだった。もぐもぐと不気味に口を動かし続けている。それを誰も不審に思っていないことが、さらに不気味だった。
 もしかしたら……いや、多分、きっと……この町に住む全ての人が、谷垣が話していたレトロウイルスの影響を受けているのだろう。
 原因は城戸なのだろうか。城戸が開発したウイルスのせいで遺伝子が変わってしまったのだろうか。
 どうだろう……。城戸から「浦積」という地名を聞いた記憶はない。
 ただ、研究が成功したのがフィンランドだとすると、時間的におかしくなる。浦積市で今、症状が現れているとすると、ウイルスがこの場所に現れたのは、長く見ても、せいぜい一ヶ月前だろう。その時には、城戸はすでにフィンランドで死んでいる。城戸ではない。あり得ない。誰か、他の人間だ。
 田部……井?。確か、そんな名前だったはずだ。谷垣が電話して、死んだと言っていた人は……。彼も城戸と同じような話をしていたと谷垣が言っていた。
 帰ったら、谷垣に聞いてみよう、と京子は思った。確かめよう、その田部井という人がどこに住んでいたのか。
 バスが動き出した。京子は目を閉じた。バスの中にも、自分の白衣にも焼肉の臭いが残っていたが、長く嗅ぎすぎて、もう気にならなくなっていた。

 京子は職場に戻ると、すぐに谷垣に電話した。田部井の住所を尋ねると、予想した通り、浦積市だった。さらに、彼が勤めていた研究所も浦積にあった。
「やっぱり……」
 京子が小さくつぶやくと、谷垣が、
「知ってるの?」と聞いてきた。
 京子は、「ええ、ちょっと」と答えた。
「そうそう、前に君が言ってたことだけど」
 谷垣が言った。
「何ですか?」
「感染した人の免疫力を元に戻せるのか、ということだけど」
「ああ、はい」
「ウイルス研にいる大石っていうのに聞いてみたら、可能だろうって」
「そうですか」
 思わず、京子の声が大きくなった。
「原理的には、活性化し過ぎた免疫機能を元に戻す遺伝子を入れれば良いらしいけど」
「ええ……」
「ただ、その遺伝子を見つけるのが大変だろうって。だいたい、せっかく健康になったのに、また不健康に戻す研究なんて誰もやらないからね」
「そうですか……」
「まあ、遺伝子治療でも、効果が長続きしないケースが多いみたいだから、放っておいてもその内、効果は消えるんじゃないかって」
「……だと良いんですけど」
 その後、谷垣は、遺伝子治療の話をしていたが、京子は聞いていなかった。
 浦積はおかしくなっている。焼肉の臭い、絶え間なく食う人達、いさかい、健康……。この後、あの町は、いったいどうなってしまうのだろうか。
「麻生さん?」
 京子の反応が無いので、電話が切れたかと思い、谷垣が聞いた。
「あっ、はい」
「そういうことだから、心配することもないと思うよ。また、何か分かったら、すぐに連絡するから」と言って谷垣は電話を切った。
 京子は受話器を置いた。時にまかせるしかないようだ。浦積市の住民が何人感染しているのか分からないが、簡単に元に戻す方法はなさそうだった。
 検査のために集められた看護師たちは、新型インフルエンザかもしれないと思い、相当緊張していた。この後、一ヶ月ぐらいは、喉が痛いというだけで、ひどく心配になるのだろう、そう思うと京子は事実を知らされていない看護師たちが気の毒になった。
 まって……。ここまで考えたところで、もしかしたら、と疑念が生じた。自分は全て聞いていると思ったが、そうではないのかもしれない。
 なぜ、あの立花という防衛省の人間は、人から人へ感染しないことを断言できたのだろう。
 おかしい……。彼はその情報をどこから得たのか。
 考えれば当たり前のことだった。自分のような事務職員に全ての情報を知らせる分けがない。
 上の人間は、会議の前から全て知っていて、最悪のケースを考えて準備をしていたに違いない。城戸の研究とフィンランドの事件、ブリッグスの論文、一連の奇病、そして、浦積。全てをつなぐ鎖を上は知っている、知っていて、調べさせている。京子は確信に近い思いを持った。
 浦積で見た食べ物を口に頬張る教師の姿が、一瞬、城戸に重なった。京子は、それを振り払うように首を二三度振った。

 京子が疑ったように、たしかに防衛省は始めから奇病の原因を知っていた。
 始まりは、ブリッグスの論文だった。論文を参考にして、最初に幹細胞を活性化させ、免疫力を強化する実験を行ったのは、城戸でも田部井でも、そしてブリッグス本人でもなく、アメリカ陸軍の研究機関だった。
 健康体になり、負傷しても傷の治りが早い。食欲が増し、少々暴力的になる。兵士としては、好都合だった。
 戦場では、通常の倫理は通用しない。違法でも何でも役に立つ物なら何でも利用する。
 囚人を使って臨床実験を行った。ウイルスは食事に混ぜて与えた。
 病気が治り、食欲が増した。攻撃的にもなった。実験は成功したかに思えたのだが、十日後、看守が襲われ、頸動脈をかみ切られた。そして、囚人を取り押さえ独房に入れると、三日後、衰弱し死亡した。
 軍は開発を断念し、薬は闇に葬られた。ブリッグスも城戸も田部井も軍の研究を知らなかった。三人が、同じようなレトロウイルスを使った遺伝子操作に行き着いたのは、何の関連性もない、ただの偶然だった。
 科学の世界では、同時期に同じ発見や発明をすることは珍しい事ではない。DNAの二重らせん構造を発見したワトソンとクリックにしても、論文の発表が数日遅ければ、他の科学者に栄誉を奪われていたかもしれないと言われている。
 日本で奇病が報告されたとき、まず気付いたのは、アメリカ軍だった。アメリカ軍から防衛省に連絡が入り、調査が開始された。
 しかし、田部井が研究を行っていたことは、アメリカ軍も防衛省も知らなかった。培養したウイルスを蒔いたことも、もちろん知らなかった。蒔いた結果が、何をもたらすのか、それは、誰にも分からなかった。
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