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 六月。大森は関東大学陸上選手権で勝った。記録は十秒0三に上がっていた。今度は正真正銘公認記録だった。
 オリンピックの参加標準記録は十秒0五。
 今年、百メートルで標準記録を突破しているのは、日本新記録を出した沢田の他に二人いた。大森は四人目だった。
 大森の記録を確認し、高尾は、「よしっ」
と、ガッツポーズをした。大森のオリンピックが完全に現実になった瞬間だった。
 オリンピックの百メートル競技にエントリーできる選手は三人。四×百メートルリレーまで考えるとオリンピックへは四人が選ばれることになる。十秒0三。この記録ならば、正真正銘、オリンピックが夢ではなくなる。
 大森には「オリンピック。オリンピック」と、言い続けてはいたものの、高尾に確信があったわけではなかった。
 素質は見えた。陸上選手を見る自分の目には自信がある。特に、短距離走者に限っていえば、全力で走る姿を一度見ただけで、おおよその才能は分かってしまう。県のレベルで終わるのか、全国で戦えるのか、それとも十年に一人と言われるような才能なのか、目利きの古物商が骨董の価値が分かるように、高尾には、選手の素質が分かった。
 ただ、記録は分からない。伸びるときもあれば伸びないときもある。練習ではすばらしい記録をだすのに、公式戦では全く力が出せない者もいる。
 高尾はオリンピック選手が欲しかった。大学のコーチをして、十八年になるが。まだ、オリンピック選手を一人も育てていなかった。
 いかに優れた目とコーチング技術を持っていたとしても、選手に才能がなければ、どうにもならない。素質を見抜く目は、高尾だけが持っているわけではない。コーチと呼ばれるような人間なら多かれ少なかれ誰もが持っている。みんな優秀な選手が欲しい。全国で勝つような選手は、取り合いになる。
 よく、埋もれた人材を発掘して、と簡単に言うが、高校生で埋もれた人材など、ほとんどいない。確かに、大学入学後に急激に記録が伸びる選手はいるが、それも大学レベルの話で、オリンピックに、となると、高校まで無名ということは、まずありえない。
 大学卒業後を含めても、高尾が指導した選手でオリンピックに出場した選手はいなかった。ただ、あと一歩までいった選手はいた。 八年前の選考会を兼ねた日本選手権のことだ。高尾は今でも夢に見てうなされる。
 四百メートル決勝。四位までに入れば、四×四百メートルリレーのメンバーに選ばれるはずだった。
 鈴木満男、当時、二十二歳、大学四年だった。決勝に残った八人の中で、持ちタイムは二番目によかった。
 眼鏡をかけた神経質な男だった。決勝のトラックに現れた時から、緊張で青ざめているのが分かった。
「鈴木。落ち着け!」
 高尾はスタンドから大声を出した。鈴木は「ビクッ」と体を反応させただけで、目はグラウンドに落としたまま高尾を見ようとしなかった。
「リラックスしろ!」「体の力を抜け!」「鈴木!」「深呼吸だ。深呼吸!」
「位置について」の声がかかるまで、高尾は叫び続けた。しかし、高尾が叫べば叫ぶほど、鈴木は萎縮していくように見えた。
「よーい」
 高尾の手の平に汗が噴き出してきた。
「パン」
 一斉にスタートする。
 スタートは順調だった。第一コーナーを曲がる。第二コーナー。バックストレートを八人が疾走していく。
 二百メートル。レースの半分が過ぎた。鈴木は二番手から三番手の位置をキープしていた。
 高尾は口を開け、鈴木を目で追った。動きは硬くない、リラックスしている。これなら行けそうだ。
 第四コーナーを曲がった。隣のレーンの選手が肉離れを起こし、その場にうずくまった。
 残りの七人が最後のストレートに向かっていく。鈴木は、まだ二番手だった。
「行け」
 高尾は叫んだ。このまま行け。高尾は無意識で立ち上り、何度も「行け」と叫んでいた。 正面スタンドの前、七人が走っていく。あと五十メートル。急に時間が遅くなったような気がした。
 四百メータは短距離の中で、最も過酷な種目だ。四十数秒の無酸素運動で、筋肉には急速に乳酸が貯まっていく。ラスト五十メートル。筋肉は悲鳴をあげている。心臓はすでに限界だ。脳に酸素が足らなくなり、目の前が霞み、ゴールは永遠の彼方に感じられてくる。
 三十メートル。二十メートル。七人がもがくようにゴールを目指す。鈴木は、まだ2番の位置をキープしていた。
「よし」
 高尾は拳を握った。もう大丈夫だ。オリンピックは決まりだ。
 しかし、次の瞬間、鈴木は小石につまずいたような格好でバランスを崩し、ゴール手前で倒れた。
 鈴木は顔からグラウンドに倒れ込み、メガネだけがゴールに向かって転がっていった。 死んだように倒れている鈴木を残して、六人が走りすぎていった。ゴールラインまで、あと五メートルの出来事だった。
 高尾自身もオリンピックには縁がなかった。現役の時、四百メートルの記録だけなら、常に3番手ぐらいには入っていた。しかし、オリンピックの年になると、決まって故障に悩まされた。膝や腰、太股の肉離れ。大事な試合の前になると決まって、必ずどこか痛くなった。
 コーチになった後も同じだった。オリンピックの年には、呪われたように不幸が続いた。 二百メートルの佐伯は日本選手権の三日前に左足首を捻挫した。四百メートルハードルの田上は最終ハードルに足をとられ、右足を骨折した。木崎はインフルエンザにかかり、野田は過度の緊張からレース中に吐いた。期待と失望の繰り返し、自分にはオリンピックに縁がないのか。弱気にならない方が不思議だった。
 しかし、今度は大当たりだ。無名の百メートル走者。急に目の前に現れた猫背で貧乏臭く、なんとも冴えない男が全ての呪いを葬り去ってくれそうだった。十八年間、砂ぼこりにまみれながら届かなかったオリンピックの夢が、たった二ヶ月のコーチで目の前まできている。
 百メートル、沢田のコーチは明応大学の石嶺だった。高尾と石嶺は同期で、去年まで二人はともに安月給の大学コーチだった。
 沢田が世界大会の決勝に残ったお陰で、石嶺は急に羽振りがよくなった。スポーツ記者たちは石嶺に話を聞こうとすり寄っていく。
 スポーツメーカーは沢田との契約を取るために石嶺に頭を下げる。お車代、講演料、取材御礼、様々な名目で金が入る。指導者としての立場も強くなった。日本陸上連盟、特別強化コーチだ。オリンピックには日本代表の短距離のコーチとして参加することが内定している。
 大森が活躍してくれれば、自分も石嶺になれる。大森が大会に勝ったその日。高尾は顔見知りのスポーツ新聞の記者に捕まり、大森の話をしていた。もちろん、大森は、まだ海の物とも山の物とも分からない。しかし、今年はオリンピックイヤーだ。マスコミは新しい話題が欲しい。
「どうなんですか、彼は」
「まあ、見てなよ、大化けするから。日本記録を狙える素材だから」
「本当ですか」
「本当も本当」
「ジェッツ社は、もうつばを付けたらしいですね。それじゃ、もしかしたら、もしかするのかな」
 記者は大森の略歴を高尾から聞いてメモに取った。大森の生年月日と出身地。高尾が他大学の選手を指導している経緯。そして、最近の記録の伸びを聞き、記者は、「急成長ですね」と驚いた。
「そうだろ。まだまだ伸びるよ」
「へえぇ」
「沢田のライバルとでも書いてくれよ」
 高尾は記者の背を叩いた。 
 翌日のスポーツ新聞に、大森の記事が載っていた。それほど大きな扱いではなかったが、「沢田のライバル現る」と書かれていた。
「すごいじゃない」
 大森の部屋で容子がスポーツ新聞を見みながら言った。
「見たかったな。幸司が勝ったところ」
 容子は福祉事務所の面接で実家に帰っていて、大森のレースは見ていなかった。
「次は日本選手権なの?」
「そうだよ」
「勝ったら? オリンピック?」
「……そう、多分ね」
「すごい。オリンピックなんて、夢見たいね。去年の秋にはもう止めようかって、言っていたのに」
「そうだな……」
 秋には陸上に自信を無くして止めようとしていた。いや、正直に言うと、元々自信なんてなかった、陸上競技は趣味で続けていただけだ、
 平凡な記録の大学生。それが大森だった。秋の競技会に出て、それを最後に陸上部を止めるつもりだった。就職活動をして、うまくいけば大学四年の春には就職を決め、後は卒論を書いて、卒業する。
 普通の会社の普通のサラリーマンになり、数年後、容子と結婚する。
 始めは郊外の小さなアパートで共稼ぎだろう。子どもは二人が良い。足は速いだろうか。小学校の運動会でリレーの選手になれるだろうか。小さな悩みで、小さな楽しみだ。
 去年の秋には、そんな人生をぼんやりと考えていた。
 それが、秋に記録が伸び、春に沢田と走り、高尾に誘われ、オリンピックの参加標準記録を破った。
 自分の名前がスポーツ新聞に載っている。「大森幸司。オリンピックのホープ。沢田のライバル」
 新聞に載っている名前が本当に自分なのか、今でも実感はない。もしかしたら、同姓同名の他の誰かではないのかと思う。
 しかし、大森の思いとは別に、周囲は確実に変わっていた。
 昨日のレースでは隣の選手がおどおどとしているのが分かった。かつての自分のように、
相手を横目で見て、目が合うと負け犬のように目を伏せて背中を丸めた。
「だいじょうぶだよ。去年までは君と同じだったんだから」と声を掛けてやりたいほど、相手は緊張し、萎縮していた。
 負ける気はしなかった。決勝のレース。スタートラインに並んだ八人の中で、自分の記録が一番上だった。
 スタートは、まだ問題がある。昨日も飛び出しは隣の選手に先行された。しかし、三歩目で並び、四歩目で前に出た。あとは加速し、相手は視界から後ろに消えていった。
 前には誰もいない。周囲の目が自分に注がれ、「おお」という、どよめきが聞こえた。
 ゴールラインをトップで駆け抜け、表彰式の一番高い台に上る。自分の名前が呼ばれ、拍手を受ける。甘美な勝利の味だった。
「はい。これ、記念に取って置く?」と言いながら、容子がスポーツ新聞を大森に渡した。
「いいよ」
 大森は答え、新聞をテーブルに置こうとして、手を止めた。
 小さな記事が目に入った。大森の顔写真が掲載されている、同じページの隅に書かれていた記事だった。
「アメリカの陸上短距離、ボブ・アンダーソン選手、ドーピング検査で陽性反応がでて失格になる」
 記事には、WADA、世界ドーピング防止機構は、オリンピックを前に、噂されていた新しい種類の違法薬物、遺伝子組換え技術を利用して生成した筋肉増強作用のあるホルモン類、に対する検査を強化したと、書かれていた。
 記事は数行で、検査の詳しい内容などは書かれていなかった。
 新聞には書かれていなかったが、今回の抜き打ち検査で陽性になったのはボブ・アンダーソンだけではなかった。去年モスクワで行われた世界選手権で三位に入った重量挙げの選手やロシアの棒高跳びの選手、さらに、アメリカの砲丸投げとレスリングの選手が含まれていた。
 陽性が確定すれば、これらの選手たちはオリンピックだけでなく、全ての競技会から閉め出されることとなる。
 冷や汗が流れた。大森は小野木が注射を打った左腕を無意識に右手でつかんでいた。
 あれは何だったのか。病院の奥まった診察室で、小野木が自分に打った透明な液体は一体、何物だったのか。
「幸司がオリンピックに出られたら、私も応援に行こうかな」
 容子が無邪気に言った。
 大森には聞こえていなかった。
「ねえ……」
 容子が大森の体を軽く叩いた。
「えっ、なに?」
「オリンピック」
「ああ。オリンピックだろ、日本選手権で勝ったら」
「私、応援に行っていいかな」
「応援、日本選手権?」
「日本選手権も行くけど、オリンピックにも行きたいなって。いつ?」
「えっ? ああ、いつだっけな。十月?」
「十月なら、就職も終わってるから、行けるかな。ねえ、向こうで会えるの? 選手って、選手村に入るんでしょ」
 大森の目の焦点が定まっていない。視線が宙をさまよっていた。
「ねえ……だいじょうぶ? 何だか顔色が悪いけど……」
「いや、別に、ちょっと疲れているのかな。最近練習がハードだから」
「そう、無理しないでね」
「ああ」
 大森は無理に笑顔を作った。
 体から血が引いていくのが分かった。手の平から赤みが消え、冷たくなっている。
 大森は容子と食事だけで別れた。容子は物足りなさそうだったが、大森はとても容子と夜を過ごす気持ちにはなれなかった。
 大森は一人になると、さらに不安が広がっていった。
 違法薬物。ドーピング。新しい検査方法。自分の記録が伸びたのは小野木の研究の後からだ。冷静に考えれば、自分の力だけで記録が伸びたと信じるのには無理がある。
 あの液体が自分の体に入る前、自分はごく平凡な同好会レベルの学生ランナーだった。 自分がオリンピック? そんなことは、夢にも考えたことはなかった。
 記録が伸びたのは、小野木の薬のせいだ。間違いない。
 新しいドーピング検査が導入される。今までのドーピング検査では検出できない薬物の噂は大森も聞いたことがあった。
 ドーピング問題は、六十年代のメキシコオリンピックまで遡る。始まりは興奮剤、その後、筋肉増強剤になり、赤血球を増やす目的でなされる血液ドーピング、遺伝子組換え技術を使った遺伝子ドーピングなど、様々な手法が開発されてきた。
 薬物と検査とはいたちごっこだ。禁止されれば、新しい薬物が開発される。新しい薬物が出回れば、新しい検査方法が開発される。
 0.1秒、数センチと言った、わずかな差が勝者と敗者を分け、勝者が冨と栄光を独占する。
 アマチュアという言葉が消えた現代のスポーツ界では、新しいトレーニング理論に、様々なサプリメントなど、記録を伸ばすスポーツ科学への需要は旺盛なものがある。
 標高二千メーターといった高地でトレーニングを行うと、酸素が少ないために、酸素を運ぶ赤血球の数が増大することが知られている。赤血球の増加は筋肉への酸素供給を増やし、特に、マラソンのような長距離種目では、効果のあるトレーニングとして、多くの選手が取り入れている。
 平地でも高地と同じような効果が得られる低酸素のトレーニング施設を利用することは違法とされていない。
 高地でトレーニングを行うことも、施設を作り利用することも、それ相応の費用が必要だ。このようなトレーニングが行える人と行えない人の間に不公平はないのだろうか。
 それとは別に、もし、赤血球を増やすサプリメントがあったとして、それは合法なのだろうか、違法なのだろうか。
 プロと呼ばれるスポーツ選手は効率的に筋肉をつけため、プロテインやサプリメントを常用している。これらは特に違法とはされていないのだが、これらと、いわゆる悪名高い筋肉増強剤との違いはどこに置かれているのだろうか。人体に与える悪影響なのか、効き目の速さか、それとも、薬品会社の思惑なのだろうか。
 ともかく、大森の胸に、去年自分に打たれたのは新しい薬物だったのではないかという疑念が広がっていった。
 実は、大森は既にドーピング検査を受けていた。関東大学選手権において、競技の後、採尿されていた。検査結果は問題なかった。
 高尾からも禁止薬物に対する注意を受けていた。
 検査はシロ。問題は無いはずなのだが、「新しい検査」という言葉が引っかかった。 あの時には違法でなくても、基準が変わり今は違法になっているのではないか。新しい検査方法で調べれば、陽性になってしまうのではないか。
 ドーピング検査で陽性になれば、オリンピックどころではない。信用も未来も全て失ってしまう。
「大学の先生から研究だと言われて打ちました。私は、それが違法な薬物だとは、全くしりませんでした」
 言い訳は通用しない。いくら言い訳をしても誰も聞いてはくれないだろう。他人は失敗を決して許してくれないものだ。
 一度、気になると、考えは悪い方、悪い方へと向かっていった。
「どうする?」 
 大森は自分に向かって問うた。これほど記録が伸びてなければなにも悩みはしない。平凡なランナーが薬物を使用しても誰も気にもとめないし、検査を受けろとも言われはしない。
 しかし、今の大森は違う。オリンピックに出場できそうな記録になっている。そう遠くない将来、厳格なドーピング検査が科せられるだろう。新しい手法のドーピング検査で陽性になれば、全て終わりだ。
 十秒0三。これで終わりじゃない。まだ、能力は伸びている。記録は縮められる。確信がある。十秒を切って日本新記録を出すことは、もう手が届きそうな現実的な目標になっている。
 日本のトップアスリートになる希望。世界新記録さえ狙えるんじゃないかという夢。
 世界中の大きなレースを転戦し、表彰台の上に上り、喝采を浴びる。甘美な勝利の味。
 失いたくない。知らなければ欲しがりもしない。しかし、今は知ってしまった。全ては伸ばした手のすぐ先にある。爪がかかっている。指の先に輝いている未来がある。いやだ、失いたくない。
 大森はベッドの上で眠れない一夜を過ごした。記録の伸びは自分の力か、それとも、小野木の薬か。薬は禁止薬物か、それとも、……。
 大森は、答えの出ない問を繰り返し繰り返し、考え続けて、朝を迎えた。
 朝、大森はアパートを出ると、東和大のグラウンドではなく、小野木の研究室に向かった。
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