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この話のそもそもの始まりは、小野木が大森の左腕に打った、あの透明な液体だった。
少し冷静に考えれば、体に何か異変を感じたら、まず真っ先に小野木の顔を思い浮かべてもよさそうなものだが、大森は、無意識に小野木とあの液体のことは頭の中から消そうとしていた。
小野木との契約は、既に終わっていた。大森が小野木に会ったのはドーピングの話をした日が最後だった。始まりがそうであったように、実験の終了も小野木は、その理由を一切説明しなかった。
翌日。大森はいつもと変わらず東和大のグラウンドで練習をしていた。
スタートライン。いつものようにいつもの手順で、両手を白線の上に置く。右手から、そして左手。足をスターティング・ブロックにをかける。
さあ、始まりだ。大森は目を閉じて、オリンピックの本番、百メートル決勝を頭の中でイメージした。
十万人を収容する巨大スタジアムに聖火が燃えている。大歓声が聞こえてくる。
自分は第四コース、隣の三コースには黒人の選手が入っている。アメリカ人だ。右隣の五コースはロシア人。八コースのジャマイカの選手が手をあげて観客の歓声に応えている。沢田は? 沢田は準決勝で落ちている。沢田は悔しそうな顔でスタンドで見ている。アジア人で決勝に残っているのは自分だけだ。
「オン・ユア・マーク」
スターターの声がかかる。歓声が更に大きくなる。八人がスタートラインに着く。
目の前に、ゴールに向かう白い光のラインが見えている。栄光へ向かう道だ。ここを走っていけば良い。
スターティングブロックに足をかけ、両手をつく。
歓声が止む。観客が息を止める。スタジアムの十万人の目は全て、八人に注がれている。
「レディー」
体を浮かし、息を止める。
号砲。
飛び出せ。
一歩、二歩、三歩。体を上げるな。
力を抜いて、腕を大きく振り、自然に体を起こし、トップスピードに。そのまま栄光のゴールに向かって、十メートル、二十メートル、三十メートル。自分がトップだ。
このまま……。三十メートルを過ぎたところで、大森はスピードを落とした。さらに、十メートルほど走って、止まった。
まただ、足がおかしい。大森は、右足のふくらはぎを手でさわった。押しても別に痛くはない。肉離れとか、そういう問題ではなさそうだった。
大森は首をひねり、つま先を何度かグラウンドに突いてみた。
だいじょうぶだ。歩き出すと、違和感は消えていた。
練習パートナーの寺田が不思議そうな顔で大森を見ていた。
「どうかしましたか?」
「いや。だいじょうぶ。練習不足かな。最近、忙しかったから」
「無理しない方がいいですよ。今日は、高尾先生も来ないようですから」
高尾は陸連の会議に行っていた。会議の後は、また、ジェッツ社の田中と六本木のホテルで会う予定になっている。
「ああ、ほどほどにしておくよ」
大森は、スターティング・ブロックに戻り、
もう一度、足をかけた。
「よーい」
大森は自分で声を出し、腰を上げ、「スタート」とスターティング・ブロックを蹴った。
全力ではない。八割程度の力で走り出した。十メートル。両足にまた違和感。大森は止まった。
「分かった……」
大森は呟いた。違和感の理由がようやく分かった。
何のことはない、それは、かつての自分の足の感覚だった。
小野木の研究室に行く前の自分の足だ。平凡な学生ランナーだった足。十秒を切るなどと言うことは考えもしなかった頃の自分の足の感覚だ。
記録は十秒八八。今よりも一秒近く遅い。女子の世界記録よりも遅い足だ。
足が昔の自分に戻ろうとしている。薬の効果が切れかけている。
元に戻る。完璧なランナーから平凡なランナーに。世界のトップランナーから、ただの学生ランナーに逆戻りだ。世界の大森から、平凡な学生に。マンションの最上階から安アパートへ。カメラのフラッシュや、テレビスタジオの照明は消え、故郷の薄暗い外灯が残る。
嘘だ!。
血が引いていった。夏の直射日光を浴びているのに、体中が冷たくなっていく。顔が青白く、手の平が真っ白になっていく気がした。「大森さん。オリンピック。頑張ってくださいね」と寺田が言った。
大森は寺田が近づいてきたのも、大森に話しかけてきたのも気がつかなかった。
大森は、ただ立ちつくし、目は焦点を結んでいなかった。
「大森さん?」寺田が声をかけた。
「えっ? ああ」
「だいじょうぶですか?」
「ああ。ちょっとね。最近、慣れないことが続いたから、疲れていて」
「そうですよね。テレビで見ましたよ、インタビュー。オリンピックに出場が決まった時の」
「そう……」
「あの子、綺麗ですよね。大森さんの隣にいた仁科菜月。同級生なんですよね。インターハイで見たんですよ。彼女、すぐ横を歩いていて。サインでも貰っとけばよかったな」
寺田の声が通り過ぎていく。
「そうだ、今度、大森さんのサイン、もらえますか。日本記録保持者と一緒に練習してるって、親に言っても信じてもらえないんですよ」
寺田が話していた。
大森は聞いていなかった。
足の屈伸をしてみる。軽くもも上げをした。違和感は消えたような気がした。
もしかしたら、気のせいかもしれない、と大森は思った。
以前、小野木は遺伝子に刺激を与えた、と言っていた。だとすると、効果が消えることはないのではないか。大森はあまりに楽観的な推測をした。
「あっ。すいません……つまんないことしゃべって」
寺田は、大森が不機嫌になったと思って、あやまった。
「あっ、ごめん。ちょっと他の事、考えていて。で、何だっけ」
「あっ、いえ、サインを……」
「いいよ、いいよ。僕のサインでよかったら、いつでも」
「すいません」
「ふー」
大森は深いため息をついた。思い過ごしか。疲れのせいだろう。オリンピックの代表に決まり、人前に出る機会が増えて、感じているより神経と体が疲れているのかもしれない。
そうに決まっている。自分は十秒を切った、トップランナーだ。自分は特別な人間なんだ。もう、平凡なランナーになんか戻るはずがない。大森は強引に自分に言い聞かせた。
「大森さん。続けますか、練習」
寺田がのぞき込むように大森の顔を見た。
「あ、ああ。そう……今日は、止めておこうかな」
大森は右足を一歩前に踏み出した。おかしな感覚はない。大森は、ほっとしたように肩の力を抜いて、ゆっくりと歩き出した。
夜、大森は夢を見た。今度は悪夢だった。
オリンピックスタジアム。百メートル決勝。スタートラインに立っていた。歓声が沸き、自分の名前が呼ばれた。
沢田がいた。他は知らない顔だった。トラックが歪んでいた。白いラインが長いヘビのように曲がりくねり、ゆらゆらと揺れていた。
スタート。他の選手が走り出す。自分もあわてて走りだした。しかし、足が動かない。
他の選手が離れていく。気が焦るだけで、足は前に進んでいかなかった。
夢の中で自分の走る姿が見えた。不格好で、バタバタと足音を立てて走っていた。観客が大森を指さして笑っていた。
焦れば焦るほど体が前に進まない。全員、ゴールしているのに、大森は、まだ、半分も進んでいなかった。
「何だ、あれは」
「のろま」
「ブタ」
笑い、嘲り、罵倒。
高尾も容子も菜月も、声をあげて笑っていた。
「違うんだ!」
大森は叫んだ。
「これは俺じゃない」
容子が冷たい目をして大森に背を向けた。高尾も菜月も大森から離れていく。
「待ってくれ。俺は……俺は………日本新記録を……」
「君」
沢田が大森の目の前にいた。
「どこかで会った? それとも、平凡な顔だから、気のせいかな。君は、平凡だから、平凡だから……」
「俺は、平凡じゃない!」
目が覚めた。大森はベッドから出て、洗面所の鏡に自分の顔を写した。死人の顔だった。
生気のない目。艶のない髪。土気色の肌。
時計は、朝の八時を指していた。充分眠ったはずだ、しかし、精神は休んでいない。ぐったりした疲れが体全体を覆っていた。
大森は、足を動かしてみた。
「ああ……」
昔の足の感覚がはっきり感じ取れた。
「だめだ……」
もう気のせいかもしれない、という気休めもなかった。明らかに筋肉は昔に、元の大森の筋肉に戻ろうとしていた。
十秒八八。これが、元の大森の記録である。
九秒八三との差は、あの、小野木の薬が生んだものなのか。
薬の効果が消えかけている。
消えたら?。
元にもどるのだろう。
オリンピックの代表には決定した。しかし、足はただの平凡な大学生に戻ろうとしている。
半分か? それとも八割か?。ともかく、日に日に元に戻っていることだけは間違いがなかった。
もし、完全に元の自分に戻ってしまったら、オリンピックに行っても、他の選手とは一秒近く開いてしまう。百メートルで十メートル遅れてしまう。いや、その前に、一次予選すら通過できないだろう。恥をかきにいくだけだ。
終わった後の落胆が目に見えるようだ。今季、世界三位に相当するタイム。メダル候補。期待を持たせた結果が、一次予選落ちだ。
拍手は罵声に変わる。自分を見つめる人々の冷たい目が見えるようだ。
どうする?。
高尾に真実を言うか?。言って、オリンピックを辞退するか?。
それは無理だ。それだけはダメだ。オリンピックへは行く。そして、勝ちたい。
フラッシュ、マイク、取材、記者会見、賞賛と羨望の眼差し。知らなければ、うらやむこともなかった世界だが、しかし、知ってしまった今は捨てることはできない。
嫌だ! 捨てたくない。
大森は叫び出しそうだった。
薬の効果は本当に消えてしまうのか? 消えないようにする方法はないのか?。
大森は考えた。腕に打たれた注射の感触が蘇ってきた。小野木の手で入れられた、透明な液体だ。もう一度、あの薬を自分の体に入れれば、また同じ効果が現れるんじゃないのか。
オリンピックが終わるまでで良いのだ。もちろん、永遠に続く方が良いにきまっているのだが、そんなことまでは望んでいない。オリンピックまでで良い。百メートルの決勝ゴールまで、持ってくれればそれでいい。それだけでいいのだ。
これが最後の願いだ。神よ。いや、悪魔か。祈るべき相手は……。
少し冷静に考えれば、体に何か異変を感じたら、まず真っ先に小野木の顔を思い浮かべてもよさそうなものだが、大森は、無意識に小野木とあの液体のことは頭の中から消そうとしていた。
小野木との契約は、既に終わっていた。大森が小野木に会ったのはドーピングの話をした日が最後だった。始まりがそうであったように、実験の終了も小野木は、その理由を一切説明しなかった。
翌日。大森はいつもと変わらず東和大のグラウンドで練習をしていた。
スタートライン。いつものようにいつもの手順で、両手を白線の上に置く。右手から、そして左手。足をスターティング・ブロックにをかける。
さあ、始まりだ。大森は目を閉じて、オリンピックの本番、百メートル決勝を頭の中でイメージした。
十万人を収容する巨大スタジアムに聖火が燃えている。大歓声が聞こえてくる。
自分は第四コース、隣の三コースには黒人の選手が入っている。アメリカ人だ。右隣の五コースはロシア人。八コースのジャマイカの選手が手をあげて観客の歓声に応えている。沢田は? 沢田は準決勝で落ちている。沢田は悔しそうな顔でスタンドで見ている。アジア人で決勝に残っているのは自分だけだ。
「オン・ユア・マーク」
スターターの声がかかる。歓声が更に大きくなる。八人がスタートラインに着く。
目の前に、ゴールに向かう白い光のラインが見えている。栄光へ向かう道だ。ここを走っていけば良い。
スターティングブロックに足をかけ、両手をつく。
歓声が止む。観客が息を止める。スタジアムの十万人の目は全て、八人に注がれている。
「レディー」
体を浮かし、息を止める。
号砲。
飛び出せ。
一歩、二歩、三歩。体を上げるな。
力を抜いて、腕を大きく振り、自然に体を起こし、トップスピードに。そのまま栄光のゴールに向かって、十メートル、二十メートル、三十メートル。自分がトップだ。
このまま……。三十メートルを過ぎたところで、大森はスピードを落とした。さらに、十メートルほど走って、止まった。
まただ、足がおかしい。大森は、右足のふくらはぎを手でさわった。押しても別に痛くはない。肉離れとか、そういう問題ではなさそうだった。
大森は首をひねり、つま先を何度かグラウンドに突いてみた。
だいじょうぶだ。歩き出すと、違和感は消えていた。
練習パートナーの寺田が不思議そうな顔で大森を見ていた。
「どうかしましたか?」
「いや。だいじょうぶ。練習不足かな。最近、忙しかったから」
「無理しない方がいいですよ。今日は、高尾先生も来ないようですから」
高尾は陸連の会議に行っていた。会議の後は、また、ジェッツ社の田中と六本木のホテルで会う予定になっている。
「ああ、ほどほどにしておくよ」
大森は、スターティング・ブロックに戻り、
もう一度、足をかけた。
「よーい」
大森は自分で声を出し、腰を上げ、「スタート」とスターティング・ブロックを蹴った。
全力ではない。八割程度の力で走り出した。十メートル。両足にまた違和感。大森は止まった。
「分かった……」
大森は呟いた。違和感の理由がようやく分かった。
何のことはない、それは、かつての自分の足の感覚だった。
小野木の研究室に行く前の自分の足だ。平凡な学生ランナーだった足。十秒を切るなどと言うことは考えもしなかった頃の自分の足の感覚だ。
記録は十秒八八。今よりも一秒近く遅い。女子の世界記録よりも遅い足だ。
足が昔の自分に戻ろうとしている。薬の効果が切れかけている。
元に戻る。完璧なランナーから平凡なランナーに。世界のトップランナーから、ただの学生ランナーに逆戻りだ。世界の大森から、平凡な学生に。マンションの最上階から安アパートへ。カメラのフラッシュや、テレビスタジオの照明は消え、故郷の薄暗い外灯が残る。
嘘だ!。
血が引いていった。夏の直射日光を浴びているのに、体中が冷たくなっていく。顔が青白く、手の平が真っ白になっていく気がした。「大森さん。オリンピック。頑張ってくださいね」と寺田が言った。
大森は寺田が近づいてきたのも、大森に話しかけてきたのも気がつかなかった。
大森は、ただ立ちつくし、目は焦点を結んでいなかった。
「大森さん?」寺田が声をかけた。
「えっ? ああ」
「だいじょうぶですか?」
「ああ。ちょっとね。最近、慣れないことが続いたから、疲れていて」
「そうですよね。テレビで見ましたよ、インタビュー。オリンピックに出場が決まった時の」
「そう……」
「あの子、綺麗ですよね。大森さんの隣にいた仁科菜月。同級生なんですよね。インターハイで見たんですよ。彼女、すぐ横を歩いていて。サインでも貰っとけばよかったな」
寺田の声が通り過ぎていく。
「そうだ、今度、大森さんのサイン、もらえますか。日本記録保持者と一緒に練習してるって、親に言っても信じてもらえないんですよ」
寺田が話していた。
大森は聞いていなかった。
足の屈伸をしてみる。軽くもも上げをした。違和感は消えたような気がした。
もしかしたら、気のせいかもしれない、と大森は思った。
以前、小野木は遺伝子に刺激を与えた、と言っていた。だとすると、効果が消えることはないのではないか。大森はあまりに楽観的な推測をした。
「あっ。すいません……つまんないことしゃべって」
寺田は、大森が不機嫌になったと思って、あやまった。
「あっ、ごめん。ちょっと他の事、考えていて。で、何だっけ」
「あっ、いえ、サインを……」
「いいよ、いいよ。僕のサインでよかったら、いつでも」
「すいません」
「ふー」
大森は深いため息をついた。思い過ごしか。疲れのせいだろう。オリンピックの代表に決まり、人前に出る機会が増えて、感じているより神経と体が疲れているのかもしれない。
そうに決まっている。自分は十秒を切った、トップランナーだ。自分は特別な人間なんだ。もう、平凡なランナーになんか戻るはずがない。大森は強引に自分に言い聞かせた。
「大森さん。続けますか、練習」
寺田がのぞき込むように大森の顔を見た。
「あ、ああ。そう……今日は、止めておこうかな」
大森は右足を一歩前に踏み出した。おかしな感覚はない。大森は、ほっとしたように肩の力を抜いて、ゆっくりと歩き出した。
夜、大森は夢を見た。今度は悪夢だった。
オリンピックスタジアム。百メートル決勝。スタートラインに立っていた。歓声が沸き、自分の名前が呼ばれた。
沢田がいた。他は知らない顔だった。トラックが歪んでいた。白いラインが長いヘビのように曲がりくねり、ゆらゆらと揺れていた。
スタート。他の選手が走り出す。自分もあわてて走りだした。しかし、足が動かない。
他の選手が離れていく。気が焦るだけで、足は前に進んでいかなかった。
夢の中で自分の走る姿が見えた。不格好で、バタバタと足音を立てて走っていた。観客が大森を指さして笑っていた。
焦れば焦るほど体が前に進まない。全員、ゴールしているのに、大森は、まだ、半分も進んでいなかった。
「何だ、あれは」
「のろま」
「ブタ」
笑い、嘲り、罵倒。
高尾も容子も菜月も、声をあげて笑っていた。
「違うんだ!」
大森は叫んだ。
「これは俺じゃない」
容子が冷たい目をして大森に背を向けた。高尾も菜月も大森から離れていく。
「待ってくれ。俺は……俺は………日本新記録を……」
「君」
沢田が大森の目の前にいた。
「どこかで会った? それとも、平凡な顔だから、気のせいかな。君は、平凡だから、平凡だから……」
「俺は、平凡じゃない!」
目が覚めた。大森はベッドから出て、洗面所の鏡に自分の顔を写した。死人の顔だった。
生気のない目。艶のない髪。土気色の肌。
時計は、朝の八時を指していた。充分眠ったはずだ、しかし、精神は休んでいない。ぐったりした疲れが体全体を覆っていた。
大森は、足を動かしてみた。
「ああ……」
昔の足の感覚がはっきり感じ取れた。
「だめだ……」
もう気のせいかもしれない、という気休めもなかった。明らかに筋肉は昔に、元の大森の筋肉に戻ろうとしていた。
十秒八八。これが、元の大森の記録である。
九秒八三との差は、あの、小野木の薬が生んだものなのか。
薬の効果が消えかけている。
消えたら?。
元にもどるのだろう。
オリンピックの代表には決定した。しかし、足はただの平凡な大学生に戻ろうとしている。
半分か? それとも八割か?。ともかく、日に日に元に戻っていることだけは間違いがなかった。
もし、完全に元の自分に戻ってしまったら、オリンピックに行っても、他の選手とは一秒近く開いてしまう。百メートルで十メートル遅れてしまう。いや、その前に、一次予選すら通過できないだろう。恥をかきにいくだけだ。
終わった後の落胆が目に見えるようだ。今季、世界三位に相当するタイム。メダル候補。期待を持たせた結果が、一次予選落ちだ。
拍手は罵声に変わる。自分を見つめる人々の冷たい目が見えるようだ。
どうする?。
高尾に真実を言うか?。言って、オリンピックを辞退するか?。
それは無理だ。それだけはダメだ。オリンピックへは行く。そして、勝ちたい。
フラッシュ、マイク、取材、記者会見、賞賛と羨望の眼差し。知らなければ、うらやむこともなかった世界だが、しかし、知ってしまった今は捨てることはできない。
嫌だ! 捨てたくない。
大森は叫び出しそうだった。
薬の効果は本当に消えてしまうのか? 消えないようにする方法はないのか?。
大森は考えた。腕に打たれた注射の感触が蘇ってきた。小野木の手で入れられた、透明な液体だ。もう一度、あの薬を自分の体に入れれば、また同じ効果が現れるんじゃないのか。
オリンピックが終わるまでで良いのだ。もちろん、永遠に続く方が良いにきまっているのだが、そんなことまでは望んでいない。オリンピックまでで良い。百メートルの決勝ゴールまで、持ってくれればそれでいい。それだけでいいのだ。
これが最後の願いだ。神よ。いや、悪魔か。祈るべき相手は……。
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