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 女子、五千メートル決勝。菜月は先頭を走っていた。なぜ先頭に飛び出したのか、菜月は自分でもわからなかった。
 決勝には菜月と小林和子が残っていた。
陸上競技、女子の長距離は、アフリカ勢が圧倒的な強さを誇っている。オリンピック、世界選手権と、近年では、上位は全てアフリカ勢で占められている。オリンピックでは、出場できるのが各国三人までと決められているために、他の国の選手も決勝レースに残ることができるが、もし、選手の数に制限がなければ、日本だけではなく、ヨーロッパの国々の選手でさえ、予選で姿を消してしまうだろう。
 記録を見ても、優勝候補と菜月との間には、三十秒以上の差がある。だから、菜月のコーチ、田上が、
「序盤は無理をせずに、入賞を目標にして、最後まで粘れ」と言ったのは正解だった。
 しかし、今、菜月は先頭を走っていた。千メートルを過ぎている。まだ先頭だ。ペースは速い。千メートルの通過は二分四十三秒。驚くほど速い。自己記録はおろか世界記録まで狙えようかという速さだ。
 こんなスピードでは、半分も走らないうちに倒れてしまうかもしれない。
 そんなことは菜月にも分かっていた。分かってはいるが、体が勝手に動いてしまう。
 二千メートルを過ぎた。先頭グループは、菜月を入れて六人になっている。菜月以外は全てアフリカ勢だ。ケニアが三人、エチオピアが二人だった。
 ペースはまだ落ちない。世界記録の途中計時よりも速い。
 息が苦しくなってきた。菜月には周りを見る余裕はなかったが、後ろに付いている五人は、落ち着いていて、まだ汗もかいていなかった。
 三千メートル。あとどのくらい走れるだろう。百メートル? 二百メートル?。意識が飛びそうになっていた。誇張ではなく、心臓は破裂しそうだ。
 アナウンサーは、番組を盛り上げようと、
「三千メートルを過ぎました。仁科選手、まだ、先頭を走っています!」と絶叫していたが、解説者の岡島は冷静な声で、
「ここまでは、頑張っています」と話した。
 岡島は、菜月が、先頭に立ったとき、「ああ、若いのが目立とうとして」と思った。ときどきいるのだ。コーチの言うことを聞かずに、オリンピックや世界選手権で、飛び出して先頭を走ろうとする選手が。自分の実力も顧みないで、目立とうとする人間が。岡島は大嫌いだった。
 まあ、すぐに落ちるだろう。と岡島は思いながら見ていた。小林和子は、先頭グループから二百メートルほど離れたところで走っている。それで良い。うまく行けば入賞を狙えるだろう。
 三千メートルを過ぎた。菜月はまだ先頭にいた。それにしても、信じられないほどのハイペースだ。
 三千四百メートル。あとトラック四周になった。遠目にも、菜月の走りは、明らかに苦しそうだった。
「どうですか、仁科選手の走りは?」アナウンサーが聞いた。
「そうですね。ここまでは、非常によく頑張っています」
 岡田は「非常に」を強調した。調べないと正確には言えないが、三千メートルの通過タイムでさえ、日本記録かもしれなかった。
 驚きだった。仁科菜月というのは、どこか気取った冷めた選手だと思っていた。
 あと三周、先頭が替わった。エチオピアのサラが仕掛け、先頭に立った。他の四人も菜月を抜いていった。
 菜月と前の五人の差が五メートルに開いた。
(ああ、もう終わりか)と岡島は力を抜き、椅子の背に体を預けた。
「まあ、よく頑張りました……」と言いかけたところで、五人のスピードが落ち、菜月が、先頭グループに戻った。
「ああ」岡島は、また体を前に乗り出した。
 あと三周。菜月がまた先頭に立った。いや、立たされたという方が正確だろう。後ろの五人は互いに様子をうかがい、スパートのタイミングを計っていた。今にも倒れそうな菜月は、もう数に入っていない。
 足はもつれそうになっている。いつ前に倒れてもおかしくない。いつもは、苦しそうなそぶりさえ見せずに走る菜月が、顔を苦痛で歪ませながら、あえぐように走っている。
 必死で走る姿に、岡田は熱いものがこみ上げ、思わず「頑張れ」と呟いていた。
 あと二周。目の前が霞んできた。
(なぜ?)
 なぜ、こんなに必死で走っているのか。菜月は、自分でも分からなかった。
 勝てるわけがないのに。完走して、爽やかに微笑んで、「応援ありがとうございました」とインタビューに応えればよかったのに。
 バックストレート。サラが仕掛けた。五人が菜月を抜いていった。菜月が必死で食らいついていく。周回遅れの小林和子が、信じられないという目で菜月の背を見送っていた。
 あと一周、鐘が鳴った。スピードがさらに上がる。五人が菜月の前に立った。
 ああ、もうダメだ。岡田は諦めた。何度も見てきた光景だった。最後の鐘がなるまで、アフリカ勢についていっても、鐘が鳴り、相手がスピードを上げると、それで終わりだった。アフリカ勢は最後の一周を四百メートル競技かと、見間違えるほどのスピードで走り抜けて行く。
 スパートされて、菜月はいったん離れかけたが、スピードを上げ、また追いついた。
「おお」岡田の口から驚きの声が出る。
「あと三百メートルです。仁科選手、まだ、離れません」
「行け! 頑張れ」岡田が立ち上がって、叫んだ。
 目の前に光の粒が輝いていた。肺も心臓も限界を超えていた。菜月は何も考えていなかった。ただ、苦しいだけだ。鐘が鳴り、周りは一斉にスピードを上げた。どうやら、最後の一周らしい。
 意識が消えていく。気が遠くなる。足だけが勝手に動いている。第三コーナーから第四コーナーへ。最後の直線、百メートル。
 五人が一線に並んでゴールを目指して行く。わずかに遅れて菜月が続いている。
 周回遅れのランナーが前を走っていた。避けようとした二人が接触して、足がもつれて、遅れた。
 ケニアのサラが体一つ抜けだした。そして、二番手と三番手のランナーも続いていく。菜月は四番目だった。
「行け!」アナウンサーも岡田も絶叫していた。
 もう何も見えていなかった。記憶も飛んでいた。足はまだ動いている。後二十メートル、十メートル。
 サラが両手を広げ、ゴールラインを越えていった。ケニアのマティバが、体半分遅れて入り、そして、菜月とエチオピアのオルガが、倒れ込むように続いた。
 菜月はゴールラインを越えて、五、六歩走ったところで、前のめりに倒れ、トラックに転がった。
 一着はサラ、二着がマティバ、そして、三着は……。
「銅、メダルです」アナウンサーが絶叫した。
「仁科選手。銅メダルです」
 岡島は飛び上り、「やった。やった」と何度も叫んでいた。
 菜月はトラックに大の字になって倒れていた。レースが終わったことだけはわかった。自分もゴールに入ったらしい。両足がけいれんしていた。心臓はまだ戦いを止めていない。
 順位は分からない。しかし、もう何位でもよかった。
 サラが近づき、菜月の頬にキスをした。サラは微笑んで、何か言ったが、菜月には分からなかった。
 誰かが日本の国旗を菜月に渡した。サラとマティバがエチオピアとケニアの国旗を掲げながらウィニングランを始めていた。
 菜月は、渡された国旗を体に掛け、そのままじっと動かなかった。
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