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第四章 闇の谷

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「前祝いですな」
 アルスがヨシュアのグラスに酒を注いだ。黄金の実から作った酒だった。ヨシュアは注がれた酒の匂いを楽しむと、満足そうに口にグラスを運んだ。
「明日からは、ヨシュア様ではなくラビ様とお呼びしないといけませんな」
「いや、まだ、決まったわけではない」
「いえいえ、反対するのは、クオンだけですから」
「本当にラフタルは、賛成なのだな? ラフタルはラビの意見に従うものと思っていたが」
「まあ、それは、明日のお楽しみということで。実は、ラフタルの息子が召使いの娘といろいろありましてな。その話をラフタルにちょっと耳打ちを」
「なるほど、なるほど、それは良い話だ」
 ヨシュアは満足そうにうなずいた。
「ご子息が戻られたとき、お父上がラビになっていたら、さぞかし驚かれることでしょう」
「そうだな、その時には、ヨヌをヨシュアにせねばならん。その手続きもせねばな」
「お祝いは、ご一緒にされたらいかがですか。春の祭りも中止になり、民の間に不満が貯まっているようなので、一度、酒を飲ませて不満をなくしたほうが」
「それが良い。そなたの言う通りだ。ヨヌの帰りを待って、盛大に行うとしよう」
 ヨシュアとアルスの二人はグラスに注がれた酒を飲み干し、大きくうなずいた。
「それでは、私は、この辺で」
 アルスが空になったグラスをテーブルに置いた。
「ああ、だいぶ夜も更けたようだ。そなたといると時間が早く感じられる」
「それでは、明日」
 アルスが席を立ち、部屋から出ていった。 ヨシュアは、満足そうに息を吐き、もう一杯酒を持ってくるように、召使いに命じた。
 明日からは、自分がラビになる。ヨシュアは、目を閉じて、ラビになった自分の姿を思い浮かべた。
 快い酔いが体に満ちていく。目の前に集まったアモンの人々が自分に頭を垂れている。クオンもラフタルもアルスも、そして、ヨヌは息子は、どこだ……息子は、帰って来た……はず……。
 あの鳥の声が聞こえた。鼻の奥に腐った実の臭いが蘇ってくる。人々が顔を上げた。冷たい悲しげな目で自分を見ている。
 なぜだ? ヨヌが、息子が……死んだ?、それとも……。
 酔いが急速に冷めていった。ラビになることが本当に良いことなのか、ラビになることは、子どもの頃からの夢で人生の目標だったはずなのに。
 グラスには、まだ酒が半分以上残っていたが、ヨシュアが口に運ぶことはなかった。
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