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1章 王

3話 誘拐

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 高速馬車に揺られながら青い月を見上げる。元の世界では見たこともない、けれど美しい月だ。
 一方で周りを見渡すと、流れゆく景色は痛々しい。えぐられた大木や、何か大きな生き物に踏みつけられたように禿げ土が露出した地面など。荒れ放題痛み放題だが、何か理由でもあるのだろうか。
 隣で手綱を握るテリエルに聞こうにも、必死の形相過ぎてそんなくだらないこと聞けない。しかし、これは聞いてもいいはずだ。

「なあ、カルディアが襲われるかもしれないって、どういうことだよ」
「カルディア様はたぶん、父上に会いに行った」
「父上?」

 父親に会いに行くのに、何をそんな危険があるのだろうか。まさかとんでもなくひどい奴だとか? だったらわざわざ会いに行く意味なんか……

「こんな時間に外出という時点でわたしも怪しむべきだった。ただの散歩だと思った。でも、カズマサを王座へ誘った。ということは自身は王になるのをあきらめた。それを父上に報告するのかも」
「そういえばテリエルは、カルディアが俺に王になるようそそのかした理由がわかるか?」
「……わたしの勝手な予想。けどおそらく合ってる」
「聞かせてくれ」
「カルディア様は王を目指している。けれど選挙が一ヶ月後に迫った今、文屋の調査結果は芳しくない」
「支持率が低いってことか」
「そう」

 なぜだ? カルディアはあんなに優しいのに……優しいだけじゃだめか。

「しかし、それはわかったが……」
「カズマサを王にしたいのは、自分が王になれなくても、自分の息のかかった者を王に据えれば思い通り動かせると判断したからでは」
「意外と狡猾なこと考えるな。けどなぜそこまで国に影響力を持ちたいんだろうか」
「カルディア様は、国を超えた壮大な夢を抱いている。それを叶えるため、次の王にと意気込んでいたのに……」
「壮大な夢、とは……む?」

 空気が一転した。のんびり話してなどいられない、冷たい空気。

「囲まれた。戦う」
「何を言ってるんだテリエル?」
「絶対降りないで」

 そうとだけ言うと、テリエルは手を振り魔法を放った。さっきは風だが、今度は炎。渦巻く炎が木々を焼く。

「おい、放火か。山火事になるぞ」

 しかし炎は、たちまち一本の火柱となった。しかも動いている。明らかに木じゃない。人だ。

「まさか、あれって……」
「くっ、やっぱり出たか魔蛇信徒」

 彼女が必死で、次々と現れる人間たちを焼き倒す。が、一部は耐えたかと思うと復活、こちらに迫ってくる。

「しつこい奴ら」

 もしかして迫ってくるのは人間ではないのだろうか? そういえばさっき「魔法使いは体が丈夫」とテリエルも言っていた。じゃあこいつらは、

「魔法使い?」
「そう。ちょっと手こずるけど心配いらない」

 そうは言っても、かなり苦戦を強いられていると俺が見ても思う。一人に対し数人が迫って、それが火であぶられても問題ない魔法使いなのだから。
 はて? しかし魔法使いであれば、隣で猛威を振るうテリエルの如く魔法を使わないのだろうか。
 と思った瞬間、一人の男がこちらに向かって手をかざす。彼の手の周りに炎が現れ、

「熱っ!」

 躱した。肩をかすめた。さっきテリエルに風の魔法を向けられていなければ、何が起こるのかわからずに固まって全身で火を受け止めただろう。

「って、おいテリエル!」

 ふと隣に目をやると、彼女がぐったり倒れていた。

「熱波にやられただけ。大丈夫」
「そうは言ってもなあ……」
「カズマサ、これ」

 慌て惑う俺に渡してきたのは、手綱。

「どうしろと?」
「私にはもう魔力がない。カズマサがこれで馬車を操って、この先の一本道を進んで」
「戻って治療した方が、」
「だめ。早く」

 短いが力強い言葉に押され、手綱を握った。
 馬など操ったこともないが、一本道な上月明かりで見通しはいい。問題はただ一つ、

「しつこいんだよ!」

 魔法使いらを振り切ることだ。

「なあ、俺も魔法って使えないのか? さっき魔力を測ってくれたとき、使えるって言ったよな」
「火か水か風か土をイメージする」
「イメージしたぞ」

 やはりここは火だ。攻撃力で言えば一番強そうだ。

「次に、それが相手に向かっていく場面をイメージする」

 後ろから追いかけてくる奴らに炎の渦を放ち、それが奴らの身に巻き付き焼かれる。うん、その情景が脳に思い浮かんだ。

「そのイメージを保ったまま魔法を食らわせたい相手に手を向ける」

 手綱を放さないよう片手に力を込めながら身を乗り出し、もう一方の手を後方に向ける。

「そのイメージを解き放つ感覚。ちょっと難しいかも」

 イメージを解き放つ。さっきの、炎が一直線に奴に向かっていく情景を脳から外へ。

「やった!」

 眼前には、俺が脳内で思い描いていた光景が展開されていた。手のひらから赤い炎が吹き出すが、全く熱くない。それが追いかけてくる男に迫る。彼は避ける暇もなく火だるまと化した。
 しかし相手は魔法使い。ここまでやっても効いてない可能性がある。決して油断せず注視を怠らない。
 けれども、とうとう彼が起き上がることはなく、ついには灰と化して消えた。

「やった、一人倒したぞテリエル」
「凄い……その調子」

 すっかり気分をよくした俺は、次々と追っ手を消し去る。炎で、風で、水で、土で。

「全滅! もう危険はないぞ。安心しろテリエル」
「カズマサ、強い」
「何、大したことしてないさ」

 まあ、魔力はだいぶ減っただろうがな。ただケチるもんでもない。ガンガン使おうぜ。

「この先も敵が現れる可能性がある。注意」
「わかった。注意しつつこの道を進めばいいんだな」
「そう」

 手綱を一振り。馬をさらに駆けさせる。一体自分が何と戦ったのか、どこへ向かっているのかはわからない。
 今はただ、ぐったり疲れた様子のテリエルの指示に従うことしかできない。



「何だよ、この建物は……」

 この世界のことについてはまだわからないことの方が圧倒的だ。でも、高い塀に囲まれた格子だらけのこの建物がどんな施設かなんて容易に想像が付く。

「牢獄。ここにカルディア様の父上がいらっしゃる」
「何か悪いことでもしたのか?」
「…………」

 やっと起き上がったテリエルは、俺の質問に答えず黙りこくってしまった。なんだか追求しづらい雰囲気なので、この話は流す。いろいろ訳があるんだろう。

「このまま入っていいのか」
「ええ」

 馬をゆったり走らせ、高い塀の間に構えられた門を抜ける。深夜だからなのか、それとも常にそうなのか、門番らしき人影はない。

「カルディアも父親もここにいるんだよな」
「おそらく。面会していると思う」

 選挙出馬をあきらめ、王への道をあきらめることを報告しに来たのだろうと、さっきテリエルは予測していた。それが事実なら、相当重い空気が流れているのだろう。その中に入っていくのは嫌だなあと、そんな感想を抱きながら馬車を建物の入り口へと横付けした。

 受付をパスすると、一つの部屋へと案内された。

「ここか」
「ここみたい」

 先にテリエルが入る。続いて俺も部屋に足を踏み入れ……って、

「おいテリエル。そんなとこで止まらないでくれ」

 しかし固まったテリエルは進まない。仕方なく押しのけて先に入ろうとする。

「……カルディア」

 カルディアと、俺とテリエルが向かい合う。その後ろ、部屋の中には木で格子が組まれており、その向こうには白髪が交じった黒髪のおじさんがへたり込んでいた。かなり疲れて見える。それは白髪と体勢のせいだけでなく、表情からもそれが窺えた。そしてその後ろには、見張りらしき兵が鉄槍を持って立っている。まあ牢獄で面会なんだし、こんなのはいて当然だが。

「テリエル、なんでここにいるのよ……」
「心配だったから」
「それに、その服の傷は……」
「途中魔蛇教徒らしき者たちに襲われた。でも大丈夫、カズマサが倒してくれた」
「カズマサが!?」

 会話していたカルディアとテリエルが、一緒にこちらを向く。な、何だ? 感動の再会に新参者が割り込むなってか?

「カズマサ! ありがとう。テリエルを救ってくれたみたいね」
「救ったってか、魔法で追っ手を焼き払っただけだよ」
「それを救ったと言うのよ。本当にありがとう。あとでお礼はするわ」
「いいって、何もしてないよ」

 心の底からそう言い切れる。俺がしたことと言えば、敵を倒すイメージをして手を振りかざした、ただそれだけのことじゃないか。

「いいえ、屋敷に帰ったらちゃんとお礼をさせていただきます。私はそこまで不躾じゃないわ。ね、お父様」

 そう言って長い黒髪を靡かせ後ろを向いた。疲れ切ったおじさんとカルディアの目が合う。
「そう、カルディアは私の自慢の娘。この世で一番礼儀を重んじる子だよ」

 少し元気な口調でそう述べるおじさんは、やはりカルディアの父親らしい。

「カズマサ、わたしとカルディア様はちょっと用事で離れる。ここで待ってて」
「え?」
「すぐ戻るから、大人しく待っててねカズマサ。あ、そうそう。これ返しておくわ」

 カルディアはそう言いつつ、どこからともなくナイフを取り出した。

「これって……」
「さっきあなたが持ってたナイフよ。すっかり落ち着いたみたいだし、もう返してもいいかと思って」

 と、渡されたナイフを受け取る。ああ、もう変な考えは起こさないさ。

「じゃあね」

 短く言い残したテリエルの台詞を最後に、面会室には静かな空気だけが漂う。ちらりと横に目をやると、あちらもなんだか気まずそうにこちらを見ていた。まあ、ここは俺から切り出すか。

「あ、どうも。俺、夜船一政って言います。カルディアさんとは先ほどからの仲です」
「君がカズマサ君か。娘が話してくれたよ」
「俺の話してたんですか?」

 もっとこうあるだろ。父娘感動の再会なんだから。

「君が王になってくれたら……そう娘は話していた。しかしたぶんなってくれないだろう、ということもね」

 ああ、その件か。

「娘さん――カルディアは、なぜ俺に王位を勧めてくるんでしょう」
「娘は当初、自らが王となることを目指し頑張ってきた。しかしその線が薄くなったので、自分の言うことを聞きそうな者を王として立て、裏から自分の政策を実行したいのだろう」

 傀儡か。テリエルの言っていたことと同じだ。

「俺がこんなこと言うのも何ですけど……カルディアは凄くいい子だと思うし、なんでだめなんでしょう。支持率が奮わないと聞きましたが」
「全部、私のせいなんだ」
「と、いいますと?」
「私はついこの前まで、この国の王を任されていた」
「それは、確かにテリエルも言ってましたけど」
「ついこの前まで王をやっていた人間がなぜこんな檻に囚われているか、カズマサ君にはわかるかね」
「……さっぱり」
「冤罪なんだ。私は無実の罪でここに放り込まれた」

 そう述べた瞬間、後ろで待機していた兵がカルディアの父親の首根っこを掴む。すると語気を早めてさらにこう言った。

「村の子供を誘拐し隠した。これが私にかかった容疑。しかしそんなことしとらん! 単なる間違いではないと考えている。これは何者かによる陰謀、恐らくは魔蛇……」

 首を押さえられ引きずられていく彼は、最後まで何かを言おうとしていたが聞き取れず、そのうち奥に引っ込められてしまった。
 カン、と鉄槍を地面に一突きする兵。さっさと出て行け、という合図だろう。それに逆らうこともないので踵を返し部屋を出る。最後に、カルディアの父親に聞こえるよう大声でこう残してから。

「俺に任せてください!」



 先ほどの話を頭で繰り返している。
 彼は無実の罪で投獄され、しかもそれは故意であるという。もしそれが事実なら、一つの仮定が成り立つ。
 何者か――具体的に言えば、今度カルディアが選挙に出る際、その対抗候補となる人物の陣営が、彼を陥れ、誘拐の罪をでっち上げ牢屋に入れたのだ。
 当然それは報道される。この世界にはテレビもネットもないようだが、さっき文屋と言っていたから新聞はあるのだろう。そして報道されれば、やはりカルディアの支持率は落ちる。何せ父親で国王の男が子供を誘拐しどこかへやってしまったと言うのだから。
 それこそが対立陣営の狙いなのである。自分の魅力で勝つのではなく、相手を落として勝ちに行くという卑怯な作戦、これを計画実行した者がいるに違いない。

「どうだ? この推測」

 外へ出た俺はカルディアとテリエルに、自分のこのような仮定を聞かせてみた。

「よくわかったわね。たったあれだけの情報量で」

 そこにテリエルが付け加える。

「対立候補のバックには魔蛇教という宗教団体がいる。そこがやったと考えられる。さっきカズマサが戦ったのも魔蛇教徒」
「なあ二人とも、これってなんとかならないかなあ」
「なんとか、というと?」
「カルディアの父親の無実を広く国民に証明するんだ。そうすればカルディアが出馬して勝って王になるって道筋もつくし、何よりその卑怯な魔蛇教徒に一泡吹かせてやりたいし」
「それは、手を尽くしたわ」

 カルディアが悲しげな目で言う。

「新聞の発行元には訂正記事を出すよう求めたけど、冤罪の証拠がないから無理だって。その状態で訂正記事を出したら私陣営に肩入れすることになる、それはできないって」
「そうか……」
「私の父親はそんなことしてませんと言って回るのも、時間がかかるし信じてもらえないに決まってるし」
「そんなこ……いや、何でもない」

 無責任に「そんなことないよ」なんて言えなかった。確かこの国には400万の民がいるのだとさっき言っていたが、そんなに多くの人に物事を伝えるのはそれこそネットやテレビがなけりゃ無理だ。それに、公的な機関が逮捕している以上、ただやってないと言ったところで何もならない。

「じゃあ、あれだな。無実の証拠を掴まないとな」
「どうやって……」

 と力なく呟くカルディアは、またもやどこからともなく物を出し渡してくる。

「新聞?」

 何でこのタイミングで、と不思議に思い目を通す。

【スクープ! 国王、いたいけな幼い子供を攫う】

 なるほど、これがこの件を伝える新聞記事ってことか。
 読み進めていると、こんなことも書いてあった。

【見つけたら連絡ください:7番村 エルピス】

 誘拐された女の子の氏名らしい。また写真も載っている。髪がまあまあ長い茶色。穏やかで優しそうな顔をした、可愛らしい子だ。

「……ところでテリエル、俺が新聞を読んでる間、ずっと視線を送ってないか?」

 じとっとした気配を感じたのでそう指摘してみた。

「カズマサ、今魔法使ってる?」
「使ってるわけないだろ。どこをどう見たらそうなるんだ」
「でも、微量に魔力を消費している」
「魔力を消費? 今は魔法なんか使ってないのにか?」
「そう見える。不思議」
「つーか、魔力を使ってるとか使ってないとか、見えるものなのか」
「さっき魔法使いと人間の違いは三つだと言った。やっぱり四つ。魔法使いは、魔力がどの程度あるか、今溜めているのか使っているのかオーラでわかる」
「へー、そんな能力まであるのか」

 まあ、微量の消費らしいから、さして問題はない。そういうこともあるだろ。構わず新聞を読み進める。
 しかしまあ、

「カルディア父親の誘拐は嘘でも、この子は本当に誘拐されてるんだもんな」

 俺がほろりと呟く。またもやテリエルが返答する。

「魔蛇教徒がやった。今もどこかで苦しんでる」
「助けなきゃ、な」

 カルディア本人と父親の名誉を回復することも大事だ。が、それだけでなくこの子も被害者なのだから、救わなければならない。この新聞の見出しは半分嘘で半分真実だ。国王が攫ったのは嘘、この子がいたいけな幼い子供なのは真実。絶対に、政治劇などに巻き込んではいけない立場の子のはずだ。

「じゃあカズマサ、わたしは先に帰る。屋敷に誰もいないのはまずい。二人は馬車でゆっくり帰って」

 テリエルは、カルディアがここまで乗ってきたであろう馬に跨がった。

「ああ、じゃあまたあとでな」
「その前にカズマサ、ナイフを貸して」
「ナイフ? さっきカルディアから返してもらったやつか?」
「そう」

 ポケットから取り出し、言われるがまま渡す。

「魔法使いと人間の違い。やっぱり五つ」
「五つ目は?」
「魔法使いは、不幸が溜まったアイテムから魔力を吸い取ることができる」
「不幸が溜まったアイテム?」
「本人が強い不幸を受けたときに持っていた物。それには不幸が宿る。このナイフにはそれが凄く溜まっている」

 まあ、通り魔を志してた時に持ってた物だ。過去の思い出したくないことを思い出したりしたし、その時に感じた嫌な思いが乗り移ったんだろ。

「わたしは魔力がない。このナイフから吸収して帰り道に備える」
「ああ、気をつけてな。俺たちもなるべく早く帰るから」
「そうよ。待っててね」

 そうして、短い銀髪を揺らしながら走り去るテリエルと別れた。

「私たちも帰りましょう」
「そうだな」

 ということで、早速俺とカルディアも馬車に乗り込む。

「もしまた魔蛇教徒に出くわしたら、その時はお願いできる?」
「もちろん」
「じゃあ頼むわ。私が手綱を握るから、そっちはよろしくね」
「ああ」

 そっち、とは不審者――主に魔蛇教徒とかいう奴らの監視と退治だ。

「それじゃ飛ばすわよ」
「おう」

 馬単体の早さには追いつけないが、それでも馬車は全速力で動き出した。



「やっぱり現れたか、お前ら」

 馬を走らせ少し経つと、たちまち十数人の者に囲まれる。まあいい。イメージはもう脳内でできてる。さっきの要領で手を振りかざせばいいんだろ。

「カズマサ、どうする?」
「突っ切ってくれ。その時邪魔になる奴らを倒す」
「わかったわ」

 手綱一振り。馬はヒヒンと一鳴き。猛スピードで道を駆ける。全員を振り切ったかと思えば、

「!?」

 今度は馬に乗った奴らが現れた。まあ、魔蛇教徒とかいうのも、馬には乗るよな。

「よいしょ、っと」

 俺の手とともに炎が猛威を振るう。火と熱風で乗馬していた奴らをなぎ倒し、追い打つように火炎放射を浴びせる。ま、馬に罪はないしね。

「器用ねカズマサ」
「大したことないさ」

 謙遜ではない。全く負担も疲れもなく、行く手を阻むものを排除したのだから。

「……?」

 しかし、まだ何かいる。そんな気配がする。全員焼いたはずだが……

「まずいカルディア、馬が猛追してくる」

 主を失った馬が暴れ迫ってくる。なんだか歯も鋭い。

「もっと速く頼む」
「こっちは馬車よ。馬単体にスピードで勝とうなんて無理よ」
「しゃーないな」

 敵意があるなら魔法で始末してもよかったが、さすがに可哀想だ。あの馬たちは目も赤く、どうやら魔蛇教徒に洗脳されてるようだし。

「どうするつもり?」

 と問うカルディアに、右ポケットから取り出した容器を見せて答える。

「何よ、それ」
「野菜ジュースさ、人参たっぷりのね」

 後方へ思いっきり紙パックを投擲する。それは見事地面にぶちまけられ、馬たちは急停止したかと思うと野菜ジュースをペロペロと舐め始めた。目からも赤い光が消えている。

「教徒に洗脳されていた馬たちも、それが解けたみたいね」
「だな」
「本当に凄いわカズマサ。魔法もだけど、それ以上にあんな機転を利かせて対処するなんて」「まあ、ラッキーだったな。普通このタイミングであんなもの持ってないし。さ、先を急ごう」
「ええ」



 結局、あれから屋敷に到着するまで特にトラブルもなかった。今度来られたら野菜ジュースもないし、よかったよかった。

「お疲れ様、そしてありがとうカズマサ」

 もう日が出始めている。太陽に照らされ白さが際立つカルディアの肌は美しい。

「朝食を作るから、できるまで私の部屋で待ってて頂戴」
「わかった。ありがとう」
「あ、ちょっと待って。テリエルに朝ご飯食べるかどうか聞いてきてくれない?」
「いいぞ。確かにあいつは『わたしは食べない。食事は最低限。無駄な飲食は非合理的』とか言いそうだもんな」
「何で知ってるの?」
「言うんかい!」

 まあいい。お安いご用だ。どうせ書庫にいるんだろう。
 階段を軽やかに駆け下り、重い扉を開け呼ぶ。

「テリエルー、朝食いるかー?」

 返事はない。そもそも、彼女の姿が見えない。

「おーいテリエル。いたら返事してくれー」

 と言いつつ、さっきテリエルが座っていた椅子と机へと向かう。

「……なんだよ、これ」

 机も椅子も赤かった。木でできているのだから茶色のはずなのに。
 机上にはバタフライナイフ。さっき渡したやつだ。そして近くの、赤く染まるのを免れたそばのメモ帳には赤色で「たすけて」の文字。
 思えば、机から赤い線が続いている。いや、もう赤などという現実逃避は止めよう。これは血だ。血痕が絨毯に残っている。それを足が勝手に追っていた。
 たどり着いたのは、非常口か何かだろう。狭い扉だ。構わず開ける。すると外へ出た。太陽が照らす緑の草たちに、一筋の血痕だけが残されていた。
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