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後編
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◆タグにご注意ください。近親相姦要素があります。
***********************
土足のまま自室に強制帰宅は嬉しいものじゃない。
暫く呆然と突っ立っていた私は、ブーツを脱ごうとしたその手を止めた。右手が真っ赤に染まっていたからだ。小さな悲鳴が零れる。手のひらが血で染まるなんて体験、普通はそうあるもんじゃない。
仕方がないのでそのまま一番近くの水洗い場に向かい、キッチンで手を洗った。ついでにうがいも済ませれば、幾分かすっきりする。
頭痛はもうしない。鈴の音も聞こえない。時計を確認すれば、時刻は午前0時を少し回った時間だった。
一分ちょっとのトリップ。今日ばかりは、ただの冒険気分ではいられない。あの場に連れて行かれた意味を知ってしまったからには、私はじっくり明日までに考えなければ。
「セレネ……。あなた、実のお兄さんを愛してたんだね」
冷え切ってしまった身体を温める為に浴室に籠り、鏡に映る自分を見つめる。あの銀髪の美少女とは似ても似つかない、平凡で十人並の顔。髪は若干明るい色に染めているが、瞳は当然黒だ。セレネが何色だったのかは、自分の顔をみている今は思い出せない。
何故、あんな悲劇が起きたの。胸を貫かれて死ぬはずだったあの人は、誰に殺されそうになったの。
私が今日赴いたあの部屋は、きっとセレネの自室だ。ぐしゃぐしゃのベッドに割れた花瓶、可愛らしく集められた香水瓶。
その時の記憶を探ろうと、湯船に浸かったまま目を閉じたが、頭は鈍い痛みを訴えたのでやめた。身体を洗い、パジャマを着て今日は寝てしまおう。床掃除はまた明日すればいい。
『お前の罪はお前が贖え――』
言われた言葉が生々しく甦る。
セレネの罪は、まひるが贖う。あの止められた時間を動かす為に。ずっと私に訴え続けていた少女の願い通りに動かなければ、あの場は永遠にあのままだ。
そう、私に訴え続けていたのは、セレネ自身。かつての私が犯した罪を、どうしても償いたくて。お兄様の願いを叶えたくて。死んでしまった彼女にはどうする事もできない。だから私に動いて欲しいと。
「完全に巻き込まれただけな気がする……」
でも他人事では済まされない。思わず大きなため息が零れた。
この不可思議なトリップを止める為にも、あの半死人状態の彼を救う為にも、私が動かないわけにはいかないのだ。
どっとした疲れが押し寄せて、私は泥のように眠りに落ちた。
*・◆・◆・◆・*
『月の女神に愛されたお姫様
月光色にアメジストは女神様の大好物
願いは何でも叶えましょう。可愛い可愛い私の娘
気を付けて、気を付けて。あなたの望みは女神の望み
口に出してはいけません。我儘を言ってはいけません
欲望だらけの人間に、知られるわけにもいきません
閉じ込めて、閉じ込めて。誰の目にもつかないように
望みは何でも叶うのに、少女に自由はありません
かわいそうなセレネ様。今でも一人、塔の上――』
子供達が口ずさむ歌は、昔からこの国に伝わる童謡だった。
侯爵家の娘でセレネと呼ばれる少女は、賑やかに走り回る子供達を窓の外から眺めては、また今日も図書館から本を借りる。
居住区になっている3階の自室に持ち帰り、そっと読書を楽しむ。耳に残るあの歌を、彼女も一人口ずさんだ。
『かわいそうなセレネ様。願えば何でも叶えて貰える。……でもそれ故に、私に自由はあまりないわ』
自由に過ごせるのは、この時計塔内部のみ。一人での外出は許されない。家族と過ごすのも許されない。
月の女神が好む月光色に金を一滴混ぜた珍しい髪色。紫水晶を閉じ込めた美しい瞳。両方の色を兼ね備える娘は、特別女神に愛される。言い伝えでは、生まれた時に祝福を与えられ、この色を授かるのだとか。
この色を持つ娘は、必ずセレネと名付けられる。そしてセレネも例外なく、セレネになった。
特別美しく、幸福な未来を約束された娘。いつの時代か、争いの火種になる危険性をともなう為、女神の娘は国で特別に管理され始めた。
隔離された世界は、彼女を閉じ込める鳥かご。外的から身を守るのと同時に、出会う人間も制御される。
迂闊に話す事も許されない。彼女の望みは女神の望み。国が欲しいと望めば、時の王すら命を落とす。
あれが食べたい、これが読みたい――他愛もない事なら周囲の人間が聞き入れる。
歴代の女神の娘は皆、言葉の魔力を重んじる。娘が嫁ぐまで、少しの辛抱。セレネも同じく、ただひっそりと静かに暮らしていた。
唯一の楽しみは、お兄様が会いに来てくれる事。次期侯爵で騎士団にも在籍している兄は、特別美しく、強く、そして優しい。言葉を選んでゆっくり話す自分を、辛抱強く待ってくれる。
いつの頃か、微笑みかけられるだけで、大きな手で頭を撫でられるだけで、甘い疼きを胸の奥に感じていた。
嬉しい、楽しい、もっと傍にいたい。でもそれを言ってしまったら、お兄様はきっと騎士を辞めてしまうだろう。
『また、今度……。遊びにいらしてね』
彼女が望める精一杯の願い。目を見て約束してくれるお兄様が大好きだった。
だがあの日、その笑顔を自分が奪ってしまった。
女神の娘を娶っても私欲の為には利用せず、後ろ盾になり得る稀有な嫁ぎ先を父侯爵と国王陛下が見つけ出した。欲望が薄く、野望を抱かない、毒にも薬にもなりえない男。空気のような男は、彼女より一回り以上年上のとある伯爵。愛人はいるが正妻はいない。そんな男を選ばれて、セレネは初めて心からの望みを口にした。
『お願い、お兄様。結婚はする。でも、好きでもない人に抱かれるのは嫌……』
――せめて自分の初めては、愛するあなたと繋がりたい。
『セレネ、いけない。そんな事を言っては。お前は私の妹なのだよ』
『それでも、私はお兄様を愛しています。一度だけでいいの。お願い、一度だけ……今だけは、私の恋人になって……』
言葉の続きは与えられた口づけに奪われた。苦しげに顔を歪めた表情を見て、セレネは自分が相手を動かしているのだと思った。望みを告げてしまったから。心優しい兄は、拒む事ができない。
――かわいそうな私の妹。何も不自由はないか?
そう言って憂いを見せてくれたお兄様。私を妹としてしか見てなくてもいいの。
熱く情熱的な口づけに、意識が次第に薄れていく。触れられているだけで満ち足りる幸せを、セレネは初めて味わっていた。たとえこの感情が自分だけの物だとしても、同じ気持ちが返されないとしても。
それでいい。それでいいの。
セレネは今、はっきりと望みを叶えて貰っている。女神ではない、実の兄に。
だから、嘘だと思った。情交の間、美しい兄が自分を情欲を称えた目で見つめ、愛を囁いた時は。
『好きだ、好きだセレネ。私はずっとお前が好きだった。愛しい妹ではなく、女として。こんな事はいけないとわかっている。お前を穢すなど、許される事ではない』
『嬉しい、お兄様……。誰にも許されなくてもいい。私がお兄様に穢されたいの……』
深く求め合うのは許されない罪。犯した禁忌は、女神の手ではなく人の手によって裁かれる。
日付が変わる少し前。愛しげにセレネの頬を撫でた兄は騎士服を纏いその場を離れようとした。が、許可した者しか出入りが認められないこの場所に、まさかの侵入者が現れた。
夜這いに来たのであろう彼女の最有力婚約者候補が、背後から胸を一突き。剣で兄の身体を貫いた。
『嫌ぁあああ!!』
情欲の痕が漂う部屋で、何があったのか敏感に察したのだろう。セレネの悲鳴に、男は咄嗟に逃げ出した。不法侵入を問われて困るのは彼も同じだ。衝動的とは言え、侯爵の跡取りを殺したのはまずい。
刺した犯人は放っておき、ぐらりと前かがみに倒れる兄の身体をセレネが抱き留める。
『嫌よ、嫌! 死んじゃイヤ……ッ!!』
溢れる血が止まらない。咳き込んだ後、口からも血が漏れてくる。
自分の所為だ。禁忌を犯した後、こんな罰が下るなんて思ってもいなかった。セレネが望んだから、帰宅予定だった彼を引き留めたりしたから――
罪を犯す誘いをかけたのは自分が先なのに、お兄様が死んでしまう。こんなのは、こんな事は……
『絶対に嫌、私は認めない……。お兄様が死んじゃうなんて認めない! お願い、死なないで!!』
彼女が叫んだ瞬間。カチリ、コチリと動いていた時計塔の針がぴたりと止まる。
11時58分42秒。
時計塔の真上を煌々と輝く満月が照らす。
“その願い、叶えたり――……”
頭の中に直接声が届けられた。
全ての時が止まった。兄は傷を負ったまま一人で生きる半死人となり、セレネは望みの代償なのか、氷の中に閉じ込められて、永遠に目覚める事はなかった。
*・◆・◆・◆・*
……とんでもない記憶を思い出してしまった。
朝から頭痛が半端ない。会社休みたいんだけど、と思いつつも仮病を使える度胸もなく。私は今日も満員電車に揺られながら会社に行った。
定時で仕事を終わらせて、飲みの誘いは全て断る。付き合いが悪いと思われようが構わない。今は体力的にも精神的にも、そんな余裕もなければ気分でもないのだ。
一晩寝て考えただけじゃ時間が足りない。私があちらに行く理由も、一応何となく把握はできたけど。衝撃的すぎる内容に頭を抱えないはずがない。
魔法とか月の女神信仰とか近親相姦に殺人(未遂?)とか! 散々不思議トリップをしているくせに何今更驚くんだという感じだが、簡単に受け入れられる事じゃないのだ。
でも嘘だと思う事はできなかった。だって私自信が覚えている。その記憶の断片を、確かに感じ取っていたから。
仕事帰りにドラッグストアやスポーツ店により、必要な物を買い込んだ。包帯や消毒液、ホッカイロにライターと金属バット。後は男物の着替えも一式。生憎元カレの忘れ物なんて持ってはいない。潤いのある生活は、どうやら前世も今世もあまり縁がないらしい。
「いや、大好きな人を見つけていたセレネの方がリア充ではあったのか……」
多分享年17~8歳頃だと思うけど。あと好きでもない男と政略結婚させられそうではあったけども。一度きりとは言え、愛し合う事が出来た彼女は、不幸とは言い難いかもしれない。いや、その後は紛れもない不幸だが。
5、4、3、2、1……
必要な物をリュックに詰め込み背負ったまま、カウントダウンをして目を瞑る。
いつも通り外のベランダっぽい時計塔にテレポートと思いきや。着いた先は、あの地下室の神殿だった。氷の真横に、影のように佇む男を見てドキっと心臓が高鳴る。
お兄様、人相悪くなりましたよね? 以前はもっと柔らかい笑みを浮かべていたのに。
だが仕方あるまい。100年もの間この場所に閉じ込められていれば、そうもなるわ。しかも傷は負ったままで生き地獄と言える。
突然現れた私に軽く目を瞠ったが、その人はセレネではなく「マヒル」と私を呼んだ。
昨日この人が自分の名を名乗った覚えはない。でも記憶の中から、彼の名前はすんなり思い出せた。
「貧血の具合はどう? ルードヴェルトお兄様」
私にお兄様呼びされてムッとしたのか、それとも正確に名前を呼んだから驚いたのか。片眉を上げた彼は、すぐに柳眉を寄せた。
「いつも通り最悪だ」
「ですよね。一応私、包帯やら痛み止めやらをいろいろと持って来たんですよ」
その他もどんどんリュックから取り出す。そして針と糸を見せれば、彼の顔が若干引きつった。
「何をする気だ」
「見ての通り、縫い合わせます。傷口を」
針は一応火で炙っておいたわよ。感染症のリスクはあるだろうけど、100年放置で大丈夫だったならきっと今更どうってことないでしょう。
だが彼は首を振って無意味だと告げた。傷を縫っても血が止まるわけではないらしい。
それでも不快感をずっと味わうのよりはマシだろうと、清潔なタオルと着替えを渡す。脱ぎにくそうなジャケットはご自分で脱いでもらい、下に着ていた白いシャツは痛々しいまでに赤く染まっていてホラーだった。
ずっしり重みがある。食べ物食べてなくて血は流れ続けているのに最低限の身体機能は落ちていないって、どういう仕組みなの。
血を拭かれるのを拒否るお兄様に問答無用で大人しくさせて、気休め程度の止血をする。とりあえず包帯でぐるぐる巻いて新しいシャツを手渡した。
スエットの服を着ている美形……残念すぎて萌えない。
彼に恋していたのはかつてのセレネ。私はお兄様に恋をする事はありえないだろう。自分の記憶だが、私は別人格だと思っている。多分それで問題はないはず。
さて、今宵でこの摩訶不思議トリップも最後にしましょうか。
立ち上がった私は、持ってきていた最終兵器を取り出した。金属バットである。訳がわからず眉を潜めるお兄様に微笑んでみせた後、私は何の躊躇いもなく氷漬けのセレネにバットを振りおろした。
ガツーン……!
軽いひびが入っただけで、一度では割れない。背後から慌てた声が聞こえてくる。
「何をしているお前は」
「あなたが言う罪とやらを考えて、贖うつもりですよ。氷漬けのセレネを壊そうと。そしたら時が動くかもしれないし、あなたも死ねるでしょう?」
死ねるでしょう? なんて凄い台詞、使う日が来るとは……。何様発言だ、それは。
もう一度バットを振り下ろす。あたった先は、彼女の顔だった。背後で息を呑む気配を感じた。
「お前は、そんな物でかつての自分を砕こうというのか。正気か」
「いたって正気ですよ、私は。大真面目ですよ! 誰かわからん声にずっと“捜して、壊して”お願いされて、日本からこの国に強制トリップですよ。どこで何をしろと? と思っていたけれどようやくわかりました。私の身体は私が壊します。既に身体は死んで私に転生されているんで、問題ありません。自分の落とし前は自分でつけろって、あなたも言ったじゃありません、かっ!」
ガキン! ホームランを打ったようないい音が響く。セレネの顔にぴしっと深くひびが入った。
数度バットで叩いて、ため息を吐く。疲れるわ、これ……。砕いてしまえるのが一番手っ取り早いと思ったが、早いのはやっぱり溶かす事じゃない?
でもな、氷のまま砕くのと、火で溶かして生身が出てくるのとじゃ違うっていうか……。流石に肉体を火あぶりするのはハードルが高い……
いっその事、手榴弾でチュドーン! っとか。
そんなバカな事を思いつつ、素手で冷たい氷に触れれば。その氷がブブン、と振動のように震えた気がした。
私が触る所を中心に、氷に亀裂が刻まれていく。ピキ、ビシッ……と硬く冷たい氷はどんどん砕け散り、あっという間になくなった。後に残されたのは、眠っていたセレネだけ。
冷たい少女の身体を腕に抱える。後ろからお兄様が駆け寄って来た。彼女の肉体を彼に預ければ、悲痛な顔でセレネを見つめる。痛ましいその表情に、私の鼻の奥がツンとした。
「セレネ、セレネ……」
抱きしめる顔に、恨みは見当たらない。私にあんな事を言っておきながら、いざ本人に触れれば恨み言など出てこないのだろう。
目覚める事のない最愛の妹をきつく抱きしめて、彼は彼女の唇にそっと柔らかなキスを落とす。
ふっとセレネが微笑んだ気がした。錯覚だと思う。でも、そうであって欲しいと思った。
耳元で、何度も私に話しかけてきたセレネの声が届く。
『ありがとう――』
刹那、セレネの肉体は一瞬で塵と化し、お兄様の腕から零れ落ちた。
……カチリ、コチリ。
大きな時計塔が時刻を告げる。ゴーン、ゴーン……
深夜零時を回り、私と彼ははっとした。
「時間が、動いた……」
止まっていた時が流れ始めた。だがその流れは、果たして正常な物になるのだろうか? 失われた100年を取り戻すように、早送りしている速さで流れる事も……
振り返れば、お兄様の身体が床に崩れ落ちる。刺された胸を片手で押さえ、呼吸が不規則に荒い。スエットはあっという間に鮮血で染まった。
ああ、そうだ。時が動けば彼も死ぬ――
死ぬ運命だった。死ぬ事を望んでいた。
それならば、私の役目は彼の最期を看取る事。
「セレネ、いっぱいいっぱい謝ってた。でも、ルードヴェルトお兄様の事は、心の底から愛してたよ。だから、あなたも。来世では幸せな家庭を築いてね。私もちょっと頑張るから」
くすりと笑ったお兄様は、小さく「ああ」と呟き、息を引き取った。
*・◆・◆・◆・*
1ヶ月ちょいの強制トリップは何事もなかったかのようになくなり、私は穏やかで平穏な日々を送り始めていた。思えば何で急にあそこに呼ばれたのか、今でも謎だ。この1ヶ月に何か変わった出来事があったわけでもないのに。
付き合いが悪いと咎められていた飲み会にも積極的に参加。二十代も後半に近づけば、そろそろ本格的に将来の伴侶選びを考えねば……。セレネが無理だった分、私がちゃんと好きな人をゲットして、温かい家庭を作るのだ。それがお兄様に告げた最後の誓いでもあるから。
「ねーまひる。今日って合同飲み会だって知ってた?」
「は? いや、いつ決まったのそれって」
同僚は気合いをいれて化粧直しに勤しんでいる。私も普通にオシャレ着を着て来たつもりだったが、甘かったか。
まあ、別に合コンではないし。ぶっちゃけ社内でいい人を見つけようとは思っていない。社内恋愛は煩わしい。なら何で行くんだよって話だけど、それはまあ、普通に飲みたいだけである。
「先月海外赴任から戻って来た隣の課の寿課長も来るんだってよ! 胃潰瘍か何かで暫く入院してたんだけど、今月の初めに退院したんだって。やっばい、気合い入れなきゃ!!」
「は? 誰それ」
いい男なんだってば! と言い張る同僚にそっけない返事を返して、指定されたカジュアルレストランに向かった。店に入った瞬間、後ろから強い力で誰かに肘を引っ張られる。
「え、っ!?」
たたらを踏んで振り返れば、見知らぬ端整な顔立ちの男が。黒髪黒目のスーツ姿の、恐らくサラリーマンだろう。
誰? と訝しむ顔で無礼な男を睨みつけると、彼は喉の奥でくつくつ笑った。
「久しぶり、だな。マヒル」
「はい? どちら様ですか?」
眉を潜める不機嫌顔に、デジャブを感じるのは何故か。こんな美形なら覚えているはずなのに――とそこまで考えて、はたりと気付く。
それは彼が掴んでいる私の手を、無理やり胸の辺りに持っていったからだ。
「まだ思い出せないか」
その仕草、艶を含んだ笑みと声、そして最後に見せた微笑――。
絶句する私に、店に入って戻ってきた同僚が声をかけた。
「まひる遅いー! って、あれ? 寿課長!?」
「ごめんね、少ししたら行くから」
営業スマイルを駆使し同僚を追い払った男は、私の手首を持ち上げて意地悪く笑った。
声が出せない私は、何度も口を開閉し、目を見開く。
「な、な、な……ルードヴェルトお兄様―!?」
「今はお兄様じゃない。君の隣の課の寿賢人だ。まずまひるに礼を言う。数ヶ月前から体調を崩して、帰国後胃潰瘍で入院したんだが。数日前には身体の調子が全て治った」
冷や汗が浮かぶ。次第に蕩けそうな目で私を見つめてくる男は、「セレネと私を救った君のおかげだな」と言い逃れできない爆弾発言を投下した。
顔を青ざめさせている私に、寿課長は更に私を追い詰める発言を続ける。
「不可解な夢も見続けなくて済んだ。――さて、今世で君と俺は赤の他人に生まれ変わったことについてはどう思う?」
「ど、どど、どうと仰られても……」
目を泳がせる私の頬に手を当てて、課長は薄らと寒気がするほど美しく微笑んだ。
「何の遠慮も障害もない。それに君が言ったんじゃないか。来世では幸せな家庭を築け、と」
チュ、と軽いキスを唇に落とされて、私の思考は完全ストップ。
違う、そうは言ったけど何か違う……!
……不可思議な問題が解決した数日後。私はまたしても頭も悩ませる別現象に苛まされる羽目になった。
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土足のまま自室に強制帰宅は嬉しいものじゃない。
暫く呆然と突っ立っていた私は、ブーツを脱ごうとしたその手を止めた。右手が真っ赤に染まっていたからだ。小さな悲鳴が零れる。手のひらが血で染まるなんて体験、普通はそうあるもんじゃない。
仕方がないのでそのまま一番近くの水洗い場に向かい、キッチンで手を洗った。ついでにうがいも済ませれば、幾分かすっきりする。
頭痛はもうしない。鈴の音も聞こえない。時計を確認すれば、時刻は午前0時を少し回った時間だった。
一分ちょっとのトリップ。今日ばかりは、ただの冒険気分ではいられない。あの場に連れて行かれた意味を知ってしまったからには、私はじっくり明日までに考えなければ。
「セレネ……。あなた、実のお兄さんを愛してたんだね」
冷え切ってしまった身体を温める為に浴室に籠り、鏡に映る自分を見つめる。あの銀髪の美少女とは似ても似つかない、平凡で十人並の顔。髪は若干明るい色に染めているが、瞳は当然黒だ。セレネが何色だったのかは、自分の顔をみている今は思い出せない。
何故、あんな悲劇が起きたの。胸を貫かれて死ぬはずだったあの人は、誰に殺されそうになったの。
私が今日赴いたあの部屋は、きっとセレネの自室だ。ぐしゃぐしゃのベッドに割れた花瓶、可愛らしく集められた香水瓶。
その時の記憶を探ろうと、湯船に浸かったまま目を閉じたが、頭は鈍い痛みを訴えたのでやめた。身体を洗い、パジャマを着て今日は寝てしまおう。床掃除はまた明日すればいい。
『お前の罪はお前が贖え――』
言われた言葉が生々しく甦る。
セレネの罪は、まひるが贖う。あの止められた時間を動かす為に。ずっと私に訴え続けていた少女の願い通りに動かなければ、あの場は永遠にあのままだ。
そう、私に訴え続けていたのは、セレネ自身。かつての私が犯した罪を、どうしても償いたくて。お兄様の願いを叶えたくて。死んでしまった彼女にはどうする事もできない。だから私に動いて欲しいと。
「完全に巻き込まれただけな気がする……」
でも他人事では済まされない。思わず大きなため息が零れた。
この不可思議なトリップを止める為にも、あの半死人状態の彼を救う為にも、私が動かないわけにはいかないのだ。
どっとした疲れが押し寄せて、私は泥のように眠りに落ちた。
*・◆・◆・◆・*
『月の女神に愛されたお姫様
月光色にアメジストは女神様の大好物
願いは何でも叶えましょう。可愛い可愛い私の娘
気を付けて、気を付けて。あなたの望みは女神の望み
口に出してはいけません。我儘を言ってはいけません
欲望だらけの人間に、知られるわけにもいきません
閉じ込めて、閉じ込めて。誰の目にもつかないように
望みは何でも叶うのに、少女に自由はありません
かわいそうなセレネ様。今でも一人、塔の上――』
子供達が口ずさむ歌は、昔からこの国に伝わる童謡だった。
侯爵家の娘でセレネと呼ばれる少女は、賑やかに走り回る子供達を窓の外から眺めては、また今日も図書館から本を借りる。
居住区になっている3階の自室に持ち帰り、そっと読書を楽しむ。耳に残るあの歌を、彼女も一人口ずさんだ。
『かわいそうなセレネ様。願えば何でも叶えて貰える。……でもそれ故に、私に自由はあまりないわ』
自由に過ごせるのは、この時計塔内部のみ。一人での外出は許されない。家族と過ごすのも許されない。
月の女神が好む月光色に金を一滴混ぜた珍しい髪色。紫水晶を閉じ込めた美しい瞳。両方の色を兼ね備える娘は、特別女神に愛される。言い伝えでは、生まれた時に祝福を与えられ、この色を授かるのだとか。
この色を持つ娘は、必ずセレネと名付けられる。そしてセレネも例外なく、セレネになった。
特別美しく、幸福な未来を約束された娘。いつの時代か、争いの火種になる危険性をともなう為、女神の娘は国で特別に管理され始めた。
隔離された世界は、彼女を閉じ込める鳥かご。外的から身を守るのと同時に、出会う人間も制御される。
迂闊に話す事も許されない。彼女の望みは女神の望み。国が欲しいと望めば、時の王すら命を落とす。
あれが食べたい、これが読みたい――他愛もない事なら周囲の人間が聞き入れる。
歴代の女神の娘は皆、言葉の魔力を重んじる。娘が嫁ぐまで、少しの辛抱。セレネも同じく、ただひっそりと静かに暮らしていた。
唯一の楽しみは、お兄様が会いに来てくれる事。次期侯爵で騎士団にも在籍している兄は、特別美しく、強く、そして優しい。言葉を選んでゆっくり話す自分を、辛抱強く待ってくれる。
いつの頃か、微笑みかけられるだけで、大きな手で頭を撫でられるだけで、甘い疼きを胸の奥に感じていた。
嬉しい、楽しい、もっと傍にいたい。でもそれを言ってしまったら、お兄様はきっと騎士を辞めてしまうだろう。
『また、今度……。遊びにいらしてね』
彼女が望める精一杯の願い。目を見て約束してくれるお兄様が大好きだった。
だがあの日、その笑顔を自分が奪ってしまった。
女神の娘を娶っても私欲の為には利用せず、後ろ盾になり得る稀有な嫁ぎ先を父侯爵と国王陛下が見つけ出した。欲望が薄く、野望を抱かない、毒にも薬にもなりえない男。空気のような男は、彼女より一回り以上年上のとある伯爵。愛人はいるが正妻はいない。そんな男を選ばれて、セレネは初めて心からの望みを口にした。
『お願い、お兄様。結婚はする。でも、好きでもない人に抱かれるのは嫌……』
――せめて自分の初めては、愛するあなたと繋がりたい。
『セレネ、いけない。そんな事を言っては。お前は私の妹なのだよ』
『それでも、私はお兄様を愛しています。一度だけでいいの。お願い、一度だけ……今だけは、私の恋人になって……』
言葉の続きは与えられた口づけに奪われた。苦しげに顔を歪めた表情を見て、セレネは自分が相手を動かしているのだと思った。望みを告げてしまったから。心優しい兄は、拒む事ができない。
――かわいそうな私の妹。何も不自由はないか?
そう言って憂いを見せてくれたお兄様。私を妹としてしか見てなくてもいいの。
熱く情熱的な口づけに、意識が次第に薄れていく。触れられているだけで満ち足りる幸せを、セレネは初めて味わっていた。たとえこの感情が自分だけの物だとしても、同じ気持ちが返されないとしても。
それでいい。それでいいの。
セレネは今、はっきりと望みを叶えて貰っている。女神ではない、実の兄に。
だから、嘘だと思った。情交の間、美しい兄が自分を情欲を称えた目で見つめ、愛を囁いた時は。
『好きだ、好きだセレネ。私はずっとお前が好きだった。愛しい妹ではなく、女として。こんな事はいけないとわかっている。お前を穢すなど、許される事ではない』
『嬉しい、お兄様……。誰にも許されなくてもいい。私がお兄様に穢されたいの……』
深く求め合うのは許されない罪。犯した禁忌は、女神の手ではなく人の手によって裁かれる。
日付が変わる少し前。愛しげにセレネの頬を撫でた兄は騎士服を纏いその場を離れようとした。が、許可した者しか出入りが認められないこの場所に、まさかの侵入者が現れた。
夜這いに来たのであろう彼女の最有力婚約者候補が、背後から胸を一突き。剣で兄の身体を貫いた。
『嫌ぁあああ!!』
情欲の痕が漂う部屋で、何があったのか敏感に察したのだろう。セレネの悲鳴に、男は咄嗟に逃げ出した。不法侵入を問われて困るのは彼も同じだ。衝動的とは言え、侯爵の跡取りを殺したのはまずい。
刺した犯人は放っておき、ぐらりと前かがみに倒れる兄の身体をセレネが抱き留める。
『嫌よ、嫌! 死んじゃイヤ……ッ!!』
溢れる血が止まらない。咳き込んだ後、口からも血が漏れてくる。
自分の所為だ。禁忌を犯した後、こんな罰が下るなんて思ってもいなかった。セレネが望んだから、帰宅予定だった彼を引き留めたりしたから――
罪を犯す誘いをかけたのは自分が先なのに、お兄様が死んでしまう。こんなのは、こんな事は……
『絶対に嫌、私は認めない……。お兄様が死んじゃうなんて認めない! お願い、死なないで!!』
彼女が叫んだ瞬間。カチリ、コチリと動いていた時計塔の針がぴたりと止まる。
11時58分42秒。
時計塔の真上を煌々と輝く満月が照らす。
“その願い、叶えたり――……”
頭の中に直接声が届けられた。
全ての時が止まった。兄は傷を負ったまま一人で生きる半死人となり、セレネは望みの代償なのか、氷の中に閉じ込められて、永遠に目覚める事はなかった。
*・◆・◆・◆・*
……とんでもない記憶を思い出してしまった。
朝から頭痛が半端ない。会社休みたいんだけど、と思いつつも仮病を使える度胸もなく。私は今日も満員電車に揺られながら会社に行った。
定時で仕事を終わらせて、飲みの誘いは全て断る。付き合いが悪いと思われようが構わない。今は体力的にも精神的にも、そんな余裕もなければ気分でもないのだ。
一晩寝て考えただけじゃ時間が足りない。私があちらに行く理由も、一応何となく把握はできたけど。衝撃的すぎる内容に頭を抱えないはずがない。
魔法とか月の女神信仰とか近親相姦に殺人(未遂?)とか! 散々不思議トリップをしているくせに何今更驚くんだという感じだが、簡単に受け入れられる事じゃないのだ。
でも嘘だと思う事はできなかった。だって私自信が覚えている。その記憶の断片を、確かに感じ取っていたから。
仕事帰りにドラッグストアやスポーツ店により、必要な物を買い込んだ。包帯や消毒液、ホッカイロにライターと金属バット。後は男物の着替えも一式。生憎元カレの忘れ物なんて持ってはいない。潤いのある生活は、どうやら前世も今世もあまり縁がないらしい。
「いや、大好きな人を見つけていたセレネの方がリア充ではあったのか……」
多分享年17~8歳頃だと思うけど。あと好きでもない男と政略結婚させられそうではあったけども。一度きりとは言え、愛し合う事が出来た彼女は、不幸とは言い難いかもしれない。いや、その後は紛れもない不幸だが。
5、4、3、2、1……
必要な物をリュックに詰め込み背負ったまま、カウントダウンをして目を瞑る。
いつも通り外のベランダっぽい時計塔にテレポートと思いきや。着いた先は、あの地下室の神殿だった。氷の真横に、影のように佇む男を見てドキっと心臓が高鳴る。
お兄様、人相悪くなりましたよね? 以前はもっと柔らかい笑みを浮かべていたのに。
だが仕方あるまい。100年もの間この場所に閉じ込められていれば、そうもなるわ。しかも傷は負ったままで生き地獄と言える。
突然現れた私に軽く目を瞠ったが、その人はセレネではなく「マヒル」と私を呼んだ。
昨日この人が自分の名を名乗った覚えはない。でも記憶の中から、彼の名前はすんなり思い出せた。
「貧血の具合はどう? ルードヴェルトお兄様」
私にお兄様呼びされてムッとしたのか、それとも正確に名前を呼んだから驚いたのか。片眉を上げた彼は、すぐに柳眉を寄せた。
「いつも通り最悪だ」
「ですよね。一応私、包帯やら痛み止めやらをいろいろと持って来たんですよ」
その他もどんどんリュックから取り出す。そして針と糸を見せれば、彼の顔が若干引きつった。
「何をする気だ」
「見ての通り、縫い合わせます。傷口を」
針は一応火で炙っておいたわよ。感染症のリスクはあるだろうけど、100年放置で大丈夫だったならきっと今更どうってことないでしょう。
だが彼は首を振って無意味だと告げた。傷を縫っても血が止まるわけではないらしい。
それでも不快感をずっと味わうのよりはマシだろうと、清潔なタオルと着替えを渡す。脱ぎにくそうなジャケットはご自分で脱いでもらい、下に着ていた白いシャツは痛々しいまでに赤く染まっていてホラーだった。
ずっしり重みがある。食べ物食べてなくて血は流れ続けているのに最低限の身体機能は落ちていないって、どういう仕組みなの。
血を拭かれるのを拒否るお兄様に問答無用で大人しくさせて、気休め程度の止血をする。とりあえず包帯でぐるぐる巻いて新しいシャツを手渡した。
スエットの服を着ている美形……残念すぎて萌えない。
彼に恋していたのはかつてのセレネ。私はお兄様に恋をする事はありえないだろう。自分の記憶だが、私は別人格だと思っている。多分それで問題はないはず。
さて、今宵でこの摩訶不思議トリップも最後にしましょうか。
立ち上がった私は、持ってきていた最終兵器を取り出した。金属バットである。訳がわからず眉を潜めるお兄様に微笑んでみせた後、私は何の躊躇いもなく氷漬けのセレネにバットを振りおろした。
ガツーン……!
軽いひびが入っただけで、一度では割れない。背後から慌てた声が聞こえてくる。
「何をしているお前は」
「あなたが言う罪とやらを考えて、贖うつもりですよ。氷漬けのセレネを壊そうと。そしたら時が動くかもしれないし、あなたも死ねるでしょう?」
死ねるでしょう? なんて凄い台詞、使う日が来るとは……。何様発言だ、それは。
もう一度バットを振り下ろす。あたった先は、彼女の顔だった。背後で息を呑む気配を感じた。
「お前は、そんな物でかつての自分を砕こうというのか。正気か」
「いたって正気ですよ、私は。大真面目ですよ! 誰かわからん声にずっと“捜して、壊して”お願いされて、日本からこの国に強制トリップですよ。どこで何をしろと? と思っていたけれどようやくわかりました。私の身体は私が壊します。既に身体は死んで私に転生されているんで、問題ありません。自分の落とし前は自分でつけろって、あなたも言ったじゃありません、かっ!」
ガキン! ホームランを打ったようないい音が響く。セレネの顔にぴしっと深くひびが入った。
数度バットで叩いて、ため息を吐く。疲れるわ、これ……。砕いてしまえるのが一番手っ取り早いと思ったが、早いのはやっぱり溶かす事じゃない?
でもな、氷のまま砕くのと、火で溶かして生身が出てくるのとじゃ違うっていうか……。流石に肉体を火あぶりするのはハードルが高い……
いっその事、手榴弾でチュドーン! っとか。
そんなバカな事を思いつつ、素手で冷たい氷に触れれば。その氷がブブン、と振動のように震えた気がした。
私が触る所を中心に、氷に亀裂が刻まれていく。ピキ、ビシッ……と硬く冷たい氷はどんどん砕け散り、あっという間になくなった。後に残されたのは、眠っていたセレネだけ。
冷たい少女の身体を腕に抱える。後ろからお兄様が駆け寄って来た。彼女の肉体を彼に預ければ、悲痛な顔でセレネを見つめる。痛ましいその表情に、私の鼻の奥がツンとした。
「セレネ、セレネ……」
抱きしめる顔に、恨みは見当たらない。私にあんな事を言っておきながら、いざ本人に触れれば恨み言など出てこないのだろう。
目覚める事のない最愛の妹をきつく抱きしめて、彼は彼女の唇にそっと柔らかなキスを落とす。
ふっとセレネが微笑んだ気がした。錯覚だと思う。でも、そうであって欲しいと思った。
耳元で、何度も私に話しかけてきたセレネの声が届く。
『ありがとう――』
刹那、セレネの肉体は一瞬で塵と化し、お兄様の腕から零れ落ちた。
……カチリ、コチリ。
大きな時計塔が時刻を告げる。ゴーン、ゴーン……
深夜零時を回り、私と彼ははっとした。
「時間が、動いた……」
止まっていた時が流れ始めた。だがその流れは、果たして正常な物になるのだろうか? 失われた100年を取り戻すように、早送りしている速さで流れる事も……
振り返れば、お兄様の身体が床に崩れ落ちる。刺された胸を片手で押さえ、呼吸が不規則に荒い。スエットはあっという間に鮮血で染まった。
ああ、そうだ。時が動けば彼も死ぬ――
死ぬ運命だった。死ぬ事を望んでいた。
それならば、私の役目は彼の最期を看取る事。
「セレネ、いっぱいいっぱい謝ってた。でも、ルードヴェルトお兄様の事は、心の底から愛してたよ。だから、あなたも。来世では幸せな家庭を築いてね。私もちょっと頑張るから」
くすりと笑ったお兄様は、小さく「ああ」と呟き、息を引き取った。
*・◆・◆・◆・*
1ヶ月ちょいの強制トリップは何事もなかったかのようになくなり、私は穏やかで平穏な日々を送り始めていた。思えば何で急にあそこに呼ばれたのか、今でも謎だ。この1ヶ月に何か変わった出来事があったわけでもないのに。
付き合いが悪いと咎められていた飲み会にも積極的に参加。二十代も後半に近づけば、そろそろ本格的に将来の伴侶選びを考えねば……。セレネが無理だった分、私がちゃんと好きな人をゲットして、温かい家庭を作るのだ。それがお兄様に告げた最後の誓いでもあるから。
「ねーまひる。今日って合同飲み会だって知ってた?」
「は? いや、いつ決まったのそれって」
同僚は気合いをいれて化粧直しに勤しんでいる。私も普通にオシャレ着を着て来たつもりだったが、甘かったか。
まあ、別に合コンではないし。ぶっちゃけ社内でいい人を見つけようとは思っていない。社内恋愛は煩わしい。なら何で行くんだよって話だけど、それはまあ、普通に飲みたいだけである。
「先月海外赴任から戻って来た隣の課の寿課長も来るんだってよ! 胃潰瘍か何かで暫く入院してたんだけど、今月の初めに退院したんだって。やっばい、気合い入れなきゃ!!」
「は? 誰それ」
いい男なんだってば! と言い張る同僚にそっけない返事を返して、指定されたカジュアルレストランに向かった。店に入った瞬間、後ろから強い力で誰かに肘を引っ張られる。
「え、っ!?」
たたらを踏んで振り返れば、見知らぬ端整な顔立ちの男が。黒髪黒目のスーツ姿の、恐らくサラリーマンだろう。
誰? と訝しむ顔で無礼な男を睨みつけると、彼は喉の奥でくつくつ笑った。
「久しぶり、だな。マヒル」
「はい? どちら様ですか?」
眉を潜める不機嫌顔に、デジャブを感じるのは何故か。こんな美形なら覚えているはずなのに――とそこまで考えて、はたりと気付く。
それは彼が掴んでいる私の手を、無理やり胸の辺りに持っていったからだ。
「まだ思い出せないか」
その仕草、艶を含んだ笑みと声、そして最後に見せた微笑――。
絶句する私に、店に入って戻ってきた同僚が声をかけた。
「まひる遅いー! って、あれ? 寿課長!?」
「ごめんね、少ししたら行くから」
営業スマイルを駆使し同僚を追い払った男は、私の手首を持ち上げて意地悪く笑った。
声が出せない私は、何度も口を開閉し、目を見開く。
「な、な、な……ルードヴェルトお兄様―!?」
「今はお兄様じゃない。君の隣の課の寿賢人だ。まずまひるに礼を言う。数ヶ月前から体調を崩して、帰国後胃潰瘍で入院したんだが。数日前には身体の調子が全て治った」
冷や汗が浮かぶ。次第に蕩けそうな目で私を見つめてくる男は、「セレネと私を救った君のおかげだな」と言い逃れできない爆弾発言を投下した。
顔を青ざめさせている私に、寿課長は更に私を追い詰める発言を続ける。
「不可解な夢も見続けなくて済んだ。――さて、今世で君と俺は赤の他人に生まれ変わったことについてはどう思う?」
「ど、どど、どうと仰られても……」
目を泳がせる私の頬に手を当てて、課長は薄らと寒気がするほど美しく微笑んだ。
「何の遠慮も障害もない。それに君が言ったんじゃないか。来世では幸せな家庭を築け、と」
チュ、と軽いキスを唇に落とされて、私の思考は完全ストップ。
違う、そうは言ったけど何か違う……!
……不可思議な問題が解決した数日後。私はまたしても頭も悩ませる別現象に苛まされる羽目になった。
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