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1巻
1-3
「もうすぐ結婚されるそうですね? ハンさんから聞きましたよ」
「はい。来月に教会で挙式する予定です」
切れ長の目をいっそう細めて笑顔になるレイを、俺は無表情で視界に入れる。
「もしかして、お相手の方も文官ですか?」
「いいえ。親の商会を手伝っている女性で、家族思いで優しい人なんです」
まさか、あの女が優しいわけがない。宰相補佐の婚約者だというのは嘘なのか。
レイの前では優しい女を演じているとも考えられるが、あんな女を優しいと感じるほど宰相補佐官は馬鹿なのか。
俺は曖昧に笑って聞き流した。レイの婚約者が別の優しい女であることを願う。
部屋を退出すると、政務宮に行きハンを探す。そしてルシャードの執務事務室で、ハンにレイの婚約者について調査してほしいと、理由は伏せて頼んだ。
レイはマイネの教育に適してないかもしれない。
金ノ宮に戻る途中もそんなことを考えながら歩いていた。そのせいで、こちらに向かってくるダイタに気づくのが遅れた。赤い髪を認識したときには、引き返すのは不自然な距離だった。
王宮に住むようになってから、会うのは三回目になるのか。
ダイタに極力会わないように努めていたが、意識しているのは俺だけかと思うと馬鹿馬鹿しくなり、どうしていいのかわからなくなる。
ダイタの濡れたような黒い瞳は、じっと俺を見ていた。
「ゲリン、ちょっと話があるんだけど、今いいか?」
「はい」
返事をして、仕方なく政務宮の廊下で立ち止まる。ダイタは気のよさそうな笑みを浮かべた。
「ゲリンも近衛騎士の訓練場に来て、騎士たちと一緒に鍛錬してみないかと思ってな。毎日とはいかないが、どうだ?」
「――え? いいんですか?」
かなり予想外だ。
ダイタが団長を勤める近衛騎士団は、王族を守るために存在する。そのため、精鋭と呼ぶに相応しい者ばかりが在籍し、王宮の外れに設けられた広大な訓練場で日々鍛錬に励んでいた。
そこに、俺が参加してもいいのか。
「あぁ。ルシャードの許可はもらってるから、いつでも来ていい。でもひとつだけ条件がある」
「なんですか?」
「発情期が近い時期は、参加できない」
ダイタが言いづらそうに口にするが、それは当然だろう。
「……それだけですか?」
「それだけ守ってくれたらいい……なぁ、やっぱり昔みたいな喋り方に戻せよ。むず痒くてしょうがない」
一瞬、遠くを見るような眼差しを見せたダイタに、俺はわざと淡々とした様子で返す。
「もう九年も前の話です。忘れました」
「忘れたか……酷い奴だな。お前は別れの挨拶もなかった酷い奴だって思い出したわ」
ダイタは苦笑した。
別れの挨拶をしなかったのはダイタにも原因がある。ダイタは気まずくないのだろうか。
確かめたことはないが、発情期に慰めたオメガは俺だけではなかったのかもしれない。関係があったオメガのひとりでしかないのならば、ダイタの態度にも説明がつく。
そう思うと、胸が締めつけられるように痛かった。
「そんなことより、近衛の鍛錬に参加できるようにしていただいて、ありがとうございます」
「実力がある奴が参加してくれれば近衛の士気が上がるし、ゲリンもひとりで鍛錬してばかりでは感覚が鈍るだろ」
それに答えようとしたとき、後ろから気安く肩を叩かれた。振り向くとオティリオだ。俺とダイタの会話に割り込むように彼は口を開いた。
「なに? ゲリン、騎士に交じって訓練するの?」
いつから聞いてたんだ。訝る俺の代わりにダイタが答える。
「ゲリンにも参加してもらおうと思って、誘ったところだ」
「面白そうだね。ゲリンが参加するときは僕も見学に行こうかな。ゲリンが試合をするとこ、見てみたい」
「来なくていいですよ」
素っ気なく返しながらも、夢だった近衛騎士に交じっての鍛錬に心が騒ぐ。
「ゲリン、嬉しそうだね。尻尾が揺れてるよ」
オティリオが揶揄うように俺の獣の耳を撫でた。オティリオはふさふさとした獣の耳と尻尾が好きらしく、俺の耳と尻尾を意味もなく無遠慮に触ることがあった。
耳全体には短い毛が密に生えているから、触れるとしっとりとして柔らかいのだろう。
「あぁ。もう触らないでください」
オティリオの手から逃げるように、無意識にダイタの背中側に回った。長身の広い背中が俺を隠す。
その背中を捻って軽く頭を下げたダイタの顔が、俺に向けられた。
「午前は基礎練しかしないから、試合がしたいなら午後に来るといい。久しぶりに俺とも剣を合わせてみないか?」
幼い頃、俺とダイタはともに近衛騎士から剣技を学ぶことがあった。僅差だったふたりの力は、ダイタが成人してからどんどん引き離されていき、俺が勝つことは滅多になくなっていた。
それでも、ダイタと剣を交えるのが好きだった。
オメガであると判定されても鍛錬をやめずに続けられたのは、ダイタという存在があったからかもしれない。
記憶を呼び起こした俺は、無意識に微笑を浮かべた。
「団長じきじきに手合わせしてもらえるなんて光栄です」
至近距離で俺と目を合わせたダイタは、何か言いたげな仕草をしたが口を閉ざしたままだ。
剣を交えている間は、自分がオメガであることも、ダイタがアルファであることも忘れられた。
五感を研ぎ澄まし、ダイタの息遣いと俺の息遣いが重なる感覚が好きだった。技を競い合うようにして勝負をした記憶がまざまざと蘇る。
あの時間が好きだった。ダイタも俺と同じ気持ちだったらいいのに。
それに、騎士団長となったダイタの指導を近衛騎士に交じって受けられるのは、オメガの俺にとっては予期せぬことで、とても嬉しかった。
‡‡‡
それから十日後。マイネの妃教育の日。
いつも通り午前中に金ノ宮を訪問したレイが、玄関ホールで申し訳なさそうに頭を下げた。
「急用ができましたので、本日の授業の日程を変更させていただきたい」
どうしたことか、婚姻に関する書類を本日中に王宮に提出するように迫られたらしい。
今から婚約者の住む邸まで急いで行かなくてはならないという。
しかも、なぜかルシャードから指示があり、俺もレイに同行するように命じられた。
婚約者とレイの様子を確認してこいって意味だろうか。レイは不審そうにしたが、俺にも理由がわからないと誤魔化しておく。
レイの道案内に従って王都を二十分ほど歩き、見覚えのある青い屋根の赤煉瓦邸に到着した。
俺は密かにため息をついた。違っていてほしかったが、これでレイの婚約者があの女だと確定したな。
俺が助けた姉だという女がちょうど玄関扉の外にいて、レイが声をかけた。
「急にうかがってすみません。アイリスはいますか?」
婚約者の名前はアイリスらしい。
「アイリスなら部屋にいます。どうぞ。私は出かけるので失礼しますが、部屋まで上がってくださって結構ですよ」
姉が家の中に入れてくれた。
玄関ホールは狭いものの、使用人の姿もあり、なかなか裕福な暮らしがうかがえる。
「せっかくなので、ゲリンさんに婚約者を紹介しますよ」
そう言ったレイのあとに続いて深みのあるブラウンの階段を上がると、突き当たりに位置するアイリスの部屋の前まで来た。
……ところが。
白い扉の向こうから聞こえるやり取りに、俺とレイは動けなくなった。
真っ昼間から男女の卑猥な音と甘ったるい会話が続き、俺の背中に冷や汗が流れる。婚約者の裏切りが扉を隔てて生々しく伝わってきた。
立ち竦んでいるレイの表情は、もう怖くて見ることができない。
レイが聞いているとはつゆ知らず、最中の女は耳を塞ぎたくなるような声を上げた。やめてくれ。それをどんな気持ちでレイが聞いているのか。
「アイリス……」
呆然とするレイが、婚約者の名を呟いた。
そして苦しげに息を吐いたかと思うと、決心したかのように扉に手を伸ばし、勢いよく開けた。
――俺はこのまま帰りたかったのに。
正面の壁際にある寝台の中で、女が突然の闖入者に驚き、次にそれが誰なのかに気づくと同時に、血相を変えて覆い被さった男を押し退ける。
静まり返ったのは一瞬だけ。
レイが部屋の中に一歩入ると、アイリスが言い訳をしはじめた。
「違うの! 無理やりお義兄さんに襲われたの!」
怖い女だ。浮気をしていたことさえ驚きなのに、相手の男が義兄だとは。姉を襲わせたのも、そんな事情があったかと思うと、ぞっとした。
彼女は迫真の演技で震え出したが、押されて床に転がり落ちた男は、打ちつけた腰を手で押さえながらも慌てて否定する。
「嘘だ! 最初に誘ったのはアイリスだ!」
部外者の俺はここにいてもいいのだろうか。しかしレイをひとりにすることもできず、部屋の外で成り行きを見守るしかないが。
「レイ、信じてくれないの? 私が浮気するわけないじゃない」
裸体の女がそんなことを言っても説得力はない。しらを切るつもりなら、呆れてしまう。
「信じるわけないだろ。俺は扉の前で聞いてたんだから。いつから浮気してたんだ?」
レイの反応は至極当然だった。
女の表情が苛立ったように歪み、長い息を吐いたあとに本性をさらけ出した。
「はぁ……面倒くさっ」
「なんと言った?」
アイリスの変化を目の当たりにして、レイは眉を顰める。
「謝っても、許してくれないんでしょお?」
「当たり前だ! 許すわけないだろ!」
感情的になって怒鳴ったレイを、馬鹿にしたようにアイリスが笑った。
「簡単に騙された、あんたも悪いのよ」
挑発するような口調だった。婚約者だった優しい女など存在しなかったのだとレイは愕然としているはずだ。可哀想に、騙されて幻を見ていたのだ。
俺は内心でため息をつく。
すると突如、ピリピリと部屋中が小さく振動しはじめた。
ついで、アイリスの周囲にだけ黒いモヤが漂う。
得体の知れない力に「何これ? やめて!」とアイリスが叫ぶが、レイは黙ったまま微動だにしない。
――これは、アルファの威圧フェロモン!
上位とされるアルファの中には、ベータとオメガの行動を一時的に支配する『威圧フェロモン』を発せられる者がいる。
まずいかもしれない。俺にも何が起きているのかわからないが、明らかにアイリスの呼吸が苦しそうで、目の焦点がおかしい。
このまま続けたら恐ろしい結末になる。
「駄目だ、レイ!」
俺が叫ぶと、ふっと威圧フェロモンが消滅した。
すぐにアイリスの呼吸は戻ったようだが、わなわなと震え出し、自分自身を抱きしめるように腕を回す。少なくとも、今は冷静に話し合いができる状態だとは思えない。
俺は動揺しているレイを引きずって邸の外まで出た。今はふたりを引き離したほうがいい。
「……すみません」
レイが呟く。懸命に冷静さを取り戻そうとしているけれども、かえってそれが痛々しい。レイはアイリスの言葉に深く傷ついていた。
「レイ様が謝る必要なんてないです」
「でも、巻き込んでしまったから」
頭を支えながら手のひらでこめかみの辺りを触れたレイは、何かを振り払うように小さく首を振った。
「何言ってるんですか。大丈夫ですか? とりあえず帰りましょう」
俺は、次第に項垂れていくレイを連れてなんとか王宮まで戻り、王宮の奥にある寄宿舎まで送った。役職付きのレイの部屋は、最上階にあった。
玄関に一歩入ると安心したかのようにレイは動かなくなり、不意にオリーブ色の目からぽろぽろと涙がこぼれた。
「あれ?」
レイは頬に落ちた涙を指先で拭い、不思議そうな声を出す。
一度涙があふれ出すと、止まらなくなった。
「おかしいな」
狼狽するようにレイが呟く。
あんな女とも知らず、騙されて好きになってしまったレイ。拳ひとつぶんぐらい背の高いレイの悲しそうに泣く顔を見ていられなくなった俺は、彼の顔を隠すように腕の中に抱きしめた。
レイの黒髪は見た目よりも硬くはなかった。
「レイは何も悪くない」
泣きたいだけ泣けばいい。泣いて忘れてしまえ。
別れて正解だ。結婚前にわかってよかったじゃないか。
そんな言葉が次々に浮かんだけれど、どんな慰めも白々しく思えて、結局口にすることはできなかった。
レイは俺の肩に頬を寄せて声を殺して泣いた。そんなレイの涙が止まるまで、俺はそっと寄り添うことしかできなかった。
レイのアルファの匂いがした。それは陽だまりのような暖かさを感じる匂いだった。
「……ありがとうございます」
レイがくぐもった声を出す。
思ったよりも早く落ち着きを取り戻した彼は、眼鏡を外して目元を制服の袖で拭いた。
俺は背中に回した腕を解く。
「今日、ゲリンさんがいてくれて、よかったです」
掠れた声でレイはぽつぽつと言った。俺は何もしてやれなかったのに。
眼鏡をかけ直したレイの表情は、すっきりと吹っ切れたようにも見えるが、「帰ります」と俺が告げると、再び沈んだような顔を覗かせた。
「何もかも忘れてぐっすり寝てください。ルシャード殿下には体調不良で帰ったと伝えておきますから」
俺はそう言い残してレイの部屋を出ると、政務宮のルシャードの執務室に向かう。
レイを泣かせてしまったのは俺のせいなのではないかと後悔していた。俺がハンに調査なんて頼んだばかりに。
ルシャードは執務室にいた。
優雅にティーカップを持ち上げてお茶を飲む、そんな何気ない所作が絵になる人だ。
「戻ったか。レイはどうした?」
ルシャードは部屋に入った俺を一瞥し、首を傾げた。宝石のように輝く黄金の瞳にかかる金髪が、さらさらと音が聞こえてきそうに揺れる。
「体調を悪くされたので寄宿舎に帰りました」
「そうか」
「――ご説明していただけますか?」
なぜルシャードは俺をレイに同行させたのか。まるで、こうなることがわかっていたかのようだった。
「ハンが調べたら、アイリスはレイに相応しくないとわかった」
それについては俺も激しく同意する。
「家族の留守を狙って義兄と浮気していると報告があった。だからアイリスの姉に協力してもらって、あの時間、誰も家にいない状況を作った。行為に及ぶかどうかは賭けだったが、その様子だと、ちょうどいい頃合いだったみたいだな」
ちょうどいいだと。この悪魔め。
「あんな不貞行為をレイに見せる必要はなかったはずです。調査結果を教えればよかったんじゃないですか」
あのとき、部屋の中に入る直前に、レイが呆然としながら婚約者の名を呼んだ声が忘れられない。
悪いのはすべてあの女だけれど、冷静で気丈なレイを精神的に追い込んだのは、ルシャードだ。
「調査結果を見せるだけでは納得しないかもしれないし、現実を見せたほうがいいだろ。レイは優秀だ。浮気女のせいでマイネの妃教育が滞ってはならない。はっきりさせたほうが、すぐ忘れられるかと思ったが……違ったか?」
「……酷いことをしたとは思わないのですか?」
「婚姻までに時間がなかったから、少々手荒だったかもしれないな。だからゲリンを行かせた。お前がいれば大丈夫だと思ったのだ」
そんなの温情でもなんでもない。俺は思いつく限りの悪口を心の中で罵りながら退室した。
その後、レイは婚約破棄をした。
驚いたことに、アイリスはレイだけでなく、両親に対しても礼儀正しく優しい女を演じきっていたそうだ。しかも姉の虚偽の悪事を両親に吹き込み、冷遇するように仕向けてもいたらしい。
そんな悪事の報いを受けたのか、義兄との醜聞は瞬く間に広がり、父親の商会に影響を及ぼしはじめた。
その結果、アイリスはレイとの婚約破棄をきっかけに両親から勘当され、義兄と一緒に姿を消したとか。貧しい暮らし向きに耐えられずに娼館で働きはじめたという噂もあるが、真偽のほどはわからない。
そんなアイリスと結婚二週間前に婚約破棄となった宰相補佐官レイは、仕事に支障が出ることもなく、立ち直りも早くすぐに元に戻ったように見える。
ルシャードの思惑通り、アイリスの膿を強引に取り除いたのがよかったとは認めたくない。
あれ以来、レイは俺に心を開いたようで、よそよそしかった表情がなくなった。
「情けないところを見られてしまったから、もうゲリンさんの前で格好つけても仕方がないです」
レイはそう言って恥ずかしそうに目を細めて笑った。初対面の笑顔と違い、近寄りがたい印象はもうなかった。
あのとき俺の胸の中で涙を見せたレイは、九年前にダイタに婚約すると告げられた俺のようだった。
レイを慰めているつもりで、俺は自分自身を慰めていたのかもしれない。
ダイタなんて忘れてしまえと。
‡‡‡
オティリオに連れられて、俺とカスパーの三人は大きなマツの木が植えられた政務宮の裏手に来ていた。マツの枝が頭上に広がり、午後の陽光をまだらに遮る。
カスパーは楽しそうに、地面に転がっているマツボックリを持参したかごに集め続けていた。
「そんなに集めてどうするの?」
かごの中を確認したオティリオが笑った。
側近の任務が休みなのか、オティリオは制服ではない。たっぷりと幾重にも重なったフリルが袖と胸元に施された白いブラウスに、淡い水色の上着を袖を通さずに軽く肩に羽織っていた。
「みんなに、あげるの」
カスパーは自慢げに返事をする。
俺も屈んで地面に転がっているマツボックリをひとつ拾い、軽く空に向かって投げて掴み取った。手のひらにマツボックリがしっくりと馴染む。
するとそのとき、うなじにちくりと視線を感じた。
さりげなく背後を一瞥すると、そこにいたのは長い銀髪の男。太い幹に隠れて、こちらをちらちらと盗み見する姿は、梟の木で遭遇したお化けに違いない。
「殿下、あれは誰ですか?」
俺は声をひそめてオティリオに訊いた。
危害を加えそうな気配はまったくないが、護衛として正体だけは知っておきたい。
怪訝そうに眉を顰めたオティリオが背後に視線を向け、すぐにふっと笑って目を細める。そして、お化けを呼び寄せた。
「クラウス! こっちにおいでよ」
オティリオにクラウスと呼ばれた男は、驚いたように身体を跳ねさせたあと、逡巡しながらもゆっくりと歩み寄ってきた。
先端の毛が長い三角の獣の耳に、もっさりとした尻尾。聖獣人か。
「末の弟のクラウスだよ」
オティリオはクラウスの腕を掴んで紹介した。
アンゼル王国の国王ディアークには、三人の弟が存在する。
ルシャードとオティリオ。そして、なかなかお目にかかれない末の王弟クラウスは、人前に出ることがなく引きこもりだと聞いていた。
太陽の下で見るクラウスは、銀色の絹のような髪を肩から背中に流し、胸まで届くほどの長い美しい髪で目元を隠している。
お化けに見間違えるなどありえない。
上品な比翼仕立ての光沢のあるブラウスを第二ボタンまで外して着崩し、綺麗な鎖骨のラインを覗かせたクラウスは、同じようなブラウスを王子様然と着こなすオティリオとは違う。
兄と並ぶと、弟のほうが背が高いことがわかる。
クラウスの顔は、はっきりと確認できないのに、なんとなくふたりは似てなそうだと思った。
「ルシャード兄上の息子のカスパーと護衛のゲリンだよ。兄上が婚姻したのは知ってるよね?」
こくんと頷き、クラウスは呟く。
「ルシャード兄上の番かと思った……そっか。護衛だったのか」
「護衛の、ゲリンです」
クラウスは俺がオメガだと察してルシャードの伴侶だと思ったのだろう。そんな勘違いなど払拭したくて、護衛だと強調しておく。
「ちちうえの、おとうと? クラウスさまも、せいじゅう?」
カスパーがそう訊いた。あの日遭遇したお化けだとは気づいてなさそうだ。
「うん。でも僕は翼が生えてても飛べない。先天的に機能しないんだ」
そう話すクラウスは優秀なアルファのはずなのに、アルファ特有のプライドの高さが感じられなかった。
「とべないの?」
「うん。でも逆にそれでよかった。僕は政治に全然興味がないから。出来損ないって言われて期待されないぐらいがちょうどよかったって思うんだ」
「クラウスは出来損ないじゃないよ。そういうことを軽々しく言うもんじゃない」
オティリオが間髪容れずに口を挟んだ。
「だってオティリオ兄上みたいに社交的じゃないし。どうせ役立たずだから」
あっけらかんとクラウスは言い放つ。悲観的でもなく、卑屈になっているわけでもなく、事実を口にしただけという不思議な表情だった。
そこでカスパーがクラウスが胸に抱えている紙に興味を示す。
「それ、なに?」
クラウスは耳をきりりと立たせて尻尾をゆっくりと揺らすと、嬉しそうに返事をした。
「絵を描いてたんだ。絵を描くのが好きなんだ」
「なに、かいてたの?」
カスパーが訊ねると、クラウスの尻尾の揺れがぴたっと止まる。そして口ごもりながら、すっと人差し指を俺に伸ばした。
もしかして、俺を描いていたのか。
「俺?」
思わず、口からこぼれた。
クラウスが頷き、オティリオが少し驚いたように言った。
「ゲリンを描いたのか? クラウスが人を描くなんて珍しいな」
「見せてもらうこと、できますか?」
「うん。いいよ」
クラウスは尻尾を揺らしながら、抱えていた紙を裏返した。
そこには、忠実に再現された俺の顔がある。一瞬、息を呑んだ。
木炭で描かれた俺は、端整な顔立ちの中に大きくて印象的な瞳があり、その瞳を引き立てる長めのまつ毛がさらに繊細さを加えていた。
鼻筋はすっと通って柔らかい印象を与え、口元はふんわりとした曲線を描き、愛らしさと色気を同時に漂わせるのに成功している。
オメガ特有の繊細さと鋭い目元を持った男は、紙の中ではクールに優しく微笑んでおり、全体的に整った中に、少年のようなあどけなさと大人の色気が共存していた。
「うまいな」
「ゲリンに、そっくり」
オティリオは感嘆し、カスパーも驚いている。
「こんな魅力的に描いてくれて、ありがとうございます」
「ゲリンを描くのは楽しい。もっと描きたい」
一瞬、クラウスの琥珀色の瞳が垣間見えた。
彼のくっきりとした目が、俺を射貫くように捉える。
細部まで表現しようとするその熱のこもった視線が、俺の頭の先から足のつま先までゆっくりと移動して、まるで手のひらで撫でられたような感覚があった。
クラウスの視線には、何か強く迫るものがある。
「じゃあ、引きこもってばかりいないで、今日みたいに外に出ないとな」
オティリオが兄らしく忠告するが、クラウスにはあまり響いていないようだ。
銀髪で隠しても隠しきれない存在感のある瞳は、まだ俺を見ていた。
……面白い。
俺は無意識に笑っていた。
第二章 拘束された偽りの恋人
天井が高いドーム型の銀ノ宮の食堂で、俺とオティリオは向かい合って座っていた。
カーテンが引かれていない大きな窓からは、あと少しで夜の闇に包まれそうな庭園を眺められる。日が落ちかけた夕闇の中で、人工的なランタンの光がまばらに浮かぶ景観は、昼間とは違った幻想的な雰囲気を醸し出していた。
改まって白亜の銀ノ宮に食事に呼んで人払いまでしたとなると、人に聞かれたくない話でもあるのだろう。そう思いながら、俺は目の前にいるオティリオに訝しげな視線を向けた。
ぱちりとした碧眼と目が合う。オティリオは小さく咳払いしたあと、突拍子もないことを切り出した。
「五日間だけの恋人になってほしい」
口に含んだ赤ぶどう酒を噴き出しかけ、危うく制服を汚すところだった。
「意味がわからないです。どういうことですか?」
冷えたぶどう酒が喉を通る。
「はい。来月に教会で挙式する予定です」
切れ長の目をいっそう細めて笑顔になるレイを、俺は無表情で視界に入れる。
「もしかして、お相手の方も文官ですか?」
「いいえ。親の商会を手伝っている女性で、家族思いで優しい人なんです」
まさか、あの女が優しいわけがない。宰相補佐の婚約者だというのは嘘なのか。
レイの前では優しい女を演じているとも考えられるが、あんな女を優しいと感じるほど宰相補佐官は馬鹿なのか。
俺は曖昧に笑って聞き流した。レイの婚約者が別の優しい女であることを願う。
部屋を退出すると、政務宮に行きハンを探す。そしてルシャードの執務事務室で、ハンにレイの婚約者について調査してほしいと、理由は伏せて頼んだ。
レイはマイネの教育に適してないかもしれない。
金ノ宮に戻る途中もそんなことを考えながら歩いていた。そのせいで、こちらに向かってくるダイタに気づくのが遅れた。赤い髪を認識したときには、引き返すのは不自然な距離だった。
王宮に住むようになってから、会うのは三回目になるのか。
ダイタに極力会わないように努めていたが、意識しているのは俺だけかと思うと馬鹿馬鹿しくなり、どうしていいのかわからなくなる。
ダイタの濡れたような黒い瞳は、じっと俺を見ていた。
「ゲリン、ちょっと話があるんだけど、今いいか?」
「はい」
返事をして、仕方なく政務宮の廊下で立ち止まる。ダイタは気のよさそうな笑みを浮かべた。
「ゲリンも近衛騎士の訓練場に来て、騎士たちと一緒に鍛錬してみないかと思ってな。毎日とはいかないが、どうだ?」
「――え? いいんですか?」
かなり予想外だ。
ダイタが団長を勤める近衛騎士団は、王族を守るために存在する。そのため、精鋭と呼ぶに相応しい者ばかりが在籍し、王宮の外れに設けられた広大な訓練場で日々鍛錬に励んでいた。
そこに、俺が参加してもいいのか。
「あぁ。ルシャードの許可はもらってるから、いつでも来ていい。でもひとつだけ条件がある」
「なんですか?」
「発情期が近い時期は、参加できない」
ダイタが言いづらそうに口にするが、それは当然だろう。
「……それだけですか?」
「それだけ守ってくれたらいい……なぁ、やっぱり昔みたいな喋り方に戻せよ。むず痒くてしょうがない」
一瞬、遠くを見るような眼差しを見せたダイタに、俺はわざと淡々とした様子で返す。
「もう九年も前の話です。忘れました」
「忘れたか……酷い奴だな。お前は別れの挨拶もなかった酷い奴だって思い出したわ」
ダイタは苦笑した。
別れの挨拶をしなかったのはダイタにも原因がある。ダイタは気まずくないのだろうか。
確かめたことはないが、発情期に慰めたオメガは俺だけではなかったのかもしれない。関係があったオメガのひとりでしかないのならば、ダイタの態度にも説明がつく。
そう思うと、胸が締めつけられるように痛かった。
「そんなことより、近衛の鍛錬に参加できるようにしていただいて、ありがとうございます」
「実力がある奴が参加してくれれば近衛の士気が上がるし、ゲリンもひとりで鍛錬してばかりでは感覚が鈍るだろ」
それに答えようとしたとき、後ろから気安く肩を叩かれた。振り向くとオティリオだ。俺とダイタの会話に割り込むように彼は口を開いた。
「なに? ゲリン、騎士に交じって訓練するの?」
いつから聞いてたんだ。訝る俺の代わりにダイタが答える。
「ゲリンにも参加してもらおうと思って、誘ったところだ」
「面白そうだね。ゲリンが参加するときは僕も見学に行こうかな。ゲリンが試合をするとこ、見てみたい」
「来なくていいですよ」
素っ気なく返しながらも、夢だった近衛騎士に交じっての鍛錬に心が騒ぐ。
「ゲリン、嬉しそうだね。尻尾が揺れてるよ」
オティリオが揶揄うように俺の獣の耳を撫でた。オティリオはふさふさとした獣の耳と尻尾が好きらしく、俺の耳と尻尾を意味もなく無遠慮に触ることがあった。
耳全体には短い毛が密に生えているから、触れるとしっとりとして柔らかいのだろう。
「あぁ。もう触らないでください」
オティリオの手から逃げるように、無意識にダイタの背中側に回った。長身の広い背中が俺を隠す。
その背中を捻って軽く頭を下げたダイタの顔が、俺に向けられた。
「午前は基礎練しかしないから、試合がしたいなら午後に来るといい。久しぶりに俺とも剣を合わせてみないか?」
幼い頃、俺とダイタはともに近衛騎士から剣技を学ぶことがあった。僅差だったふたりの力は、ダイタが成人してからどんどん引き離されていき、俺が勝つことは滅多になくなっていた。
それでも、ダイタと剣を交えるのが好きだった。
オメガであると判定されても鍛錬をやめずに続けられたのは、ダイタという存在があったからかもしれない。
記憶を呼び起こした俺は、無意識に微笑を浮かべた。
「団長じきじきに手合わせしてもらえるなんて光栄です」
至近距離で俺と目を合わせたダイタは、何か言いたげな仕草をしたが口を閉ざしたままだ。
剣を交えている間は、自分がオメガであることも、ダイタがアルファであることも忘れられた。
五感を研ぎ澄まし、ダイタの息遣いと俺の息遣いが重なる感覚が好きだった。技を競い合うようにして勝負をした記憶がまざまざと蘇る。
あの時間が好きだった。ダイタも俺と同じ気持ちだったらいいのに。
それに、騎士団長となったダイタの指導を近衛騎士に交じって受けられるのは、オメガの俺にとっては予期せぬことで、とても嬉しかった。
‡‡‡
それから十日後。マイネの妃教育の日。
いつも通り午前中に金ノ宮を訪問したレイが、玄関ホールで申し訳なさそうに頭を下げた。
「急用ができましたので、本日の授業の日程を変更させていただきたい」
どうしたことか、婚姻に関する書類を本日中に王宮に提出するように迫られたらしい。
今から婚約者の住む邸まで急いで行かなくてはならないという。
しかも、なぜかルシャードから指示があり、俺もレイに同行するように命じられた。
婚約者とレイの様子を確認してこいって意味だろうか。レイは不審そうにしたが、俺にも理由がわからないと誤魔化しておく。
レイの道案内に従って王都を二十分ほど歩き、見覚えのある青い屋根の赤煉瓦邸に到着した。
俺は密かにため息をついた。違っていてほしかったが、これでレイの婚約者があの女だと確定したな。
俺が助けた姉だという女がちょうど玄関扉の外にいて、レイが声をかけた。
「急にうかがってすみません。アイリスはいますか?」
婚約者の名前はアイリスらしい。
「アイリスなら部屋にいます。どうぞ。私は出かけるので失礼しますが、部屋まで上がってくださって結構ですよ」
姉が家の中に入れてくれた。
玄関ホールは狭いものの、使用人の姿もあり、なかなか裕福な暮らしがうかがえる。
「せっかくなので、ゲリンさんに婚約者を紹介しますよ」
そう言ったレイのあとに続いて深みのあるブラウンの階段を上がると、突き当たりに位置するアイリスの部屋の前まで来た。
……ところが。
白い扉の向こうから聞こえるやり取りに、俺とレイは動けなくなった。
真っ昼間から男女の卑猥な音と甘ったるい会話が続き、俺の背中に冷や汗が流れる。婚約者の裏切りが扉を隔てて生々しく伝わってきた。
立ち竦んでいるレイの表情は、もう怖くて見ることができない。
レイが聞いているとはつゆ知らず、最中の女は耳を塞ぎたくなるような声を上げた。やめてくれ。それをどんな気持ちでレイが聞いているのか。
「アイリス……」
呆然とするレイが、婚約者の名を呟いた。
そして苦しげに息を吐いたかと思うと、決心したかのように扉に手を伸ばし、勢いよく開けた。
――俺はこのまま帰りたかったのに。
正面の壁際にある寝台の中で、女が突然の闖入者に驚き、次にそれが誰なのかに気づくと同時に、血相を変えて覆い被さった男を押し退ける。
静まり返ったのは一瞬だけ。
レイが部屋の中に一歩入ると、アイリスが言い訳をしはじめた。
「違うの! 無理やりお義兄さんに襲われたの!」
怖い女だ。浮気をしていたことさえ驚きなのに、相手の男が義兄だとは。姉を襲わせたのも、そんな事情があったかと思うと、ぞっとした。
彼女は迫真の演技で震え出したが、押されて床に転がり落ちた男は、打ちつけた腰を手で押さえながらも慌てて否定する。
「嘘だ! 最初に誘ったのはアイリスだ!」
部外者の俺はここにいてもいいのだろうか。しかしレイをひとりにすることもできず、部屋の外で成り行きを見守るしかないが。
「レイ、信じてくれないの? 私が浮気するわけないじゃない」
裸体の女がそんなことを言っても説得力はない。しらを切るつもりなら、呆れてしまう。
「信じるわけないだろ。俺は扉の前で聞いてたんだから。いつから浮気してたんだ?」
レイの反応は至極当然だった。
女の表情が苛立ったように歪み、長い息を吐いたあとに本性をさらけ出した。
「はぁ……面倒くさっ」
「なんと言った?」
アイリスの変化を目の当たりにして、レイは眉を顰める。
「謝っても、許してくれないんでしょお?」
「当たり前だ! 許すわけないだろ!」
感情的になって怒鳴ったレイを、馬鹿にしたようにアイリスが笑った。
「簡単に騙された、あんたも悪いのよ」
挑発するような口調だった。婚約者だった優しい女など存在しなかったのだとレイは愕然としているはずだ。可哀想に、騙されて幻を見ていたのだ。
俺は内心でため息をつく。
すると突如、ピリピリと部屋中が小さく振動しはじめた。
ついで、アイリスの周囲にだけ黒いモヤが漂う。
得体の知れない力に「何これ? やめて!」とアイリスが叫ぶが、レイは黙ったまま微動だにしない。
――これは、アルファの威圧フェロモン!
上位とされるアルファの中には、ベータとオメガの行動を一時的に支配する『威圧フェロモン』を発せられる者がいる。
まずいかもしれない。俺にも何が起きているのかわからないが、明らかにアイリスの呼吸が苦しそうで、目の焦点がおかしい。
このまま続けたら恐ろしい結末になる。
「駄目だ、レイ!」
俺が叫ぶと、ふっと威圧フェロモンが消滅した。
すぐにアイリスの呼吸は戻ったようだが、わなわなと震え出し、自分自身を抱きしめるように腕を回す。少なくとも、今は冷静に話し合いができる状態だとは思えない。
俺は動揺しているレイを引きずって邸の外まで出た。今はふたりを引き離したほうがいい。
「……すみません」
レイが呟く。懸命に冷静さを取り戻そうとしているけれども、かえってそれが痛々しい。レイはアイリスの言葉に深く傷ついていた。
「レイ様が謝る必要なんてないです」
「でも、巻き込んでしまったから」
頭を支えながら手のひらでこめかみの辺りを触れたレイは、何かを振り払うように小さく首を振った。
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俺は、次第に項垂れていくレイを連れてなんとか王宮まで戻り、王宮の奥にある寄宿舎まで送った。役職付きのレイの部屋は、最上階にあった。
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レイは頬に落ちた涙を指先で拭い、不思議そうな声を出す。
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レイのアルファの匂いがした。それは陽だまりのような暖かさを感じる匂いだった。
「……ありがとうございます」
レイがくぐもった声を出す。
思ったよりも早く落ち着きを取り戻した彼は、眼鏡を外して目元を制服の袖で拭いた。
俺は背中に回した腕を解く。
「今日、ゲリンさんがいてくれて、よかったです」
掠れた声でレイはぽつぽつと言った。俺は何もしてやれなかったのに。
眼鏡をかけ直したレイの表情は、すっきりと吹っ切れたようにも見えるが、「帰ります」と俺が告げると、再び沈んだような顔を覗かせた。
「何もかも忘れてぐっすり寝てください。ルシャード殿下には体調不良で帰ったと伝えておきますから」
俺はそう言い残してレイの部屋を出ると、政務宮のルシャードの執務室に向かう。
レイを泣かせてしまったのは俺のせいなのではないかと後悔していた。俺がハンに調査なんて頼んだばかりに。
ルシャードは執務室にいた。
優雅にティーカップを持ち上げてお茶を飲む、そんな何気ない所作が絵になる人だ。
「戻ったか。レイはどうした?」
ルシャードは部屋に入った俺を一瞥し、首を傾げた。宝石のように輝く黄金の瞳にかかる金髪が、さらさらと音が聞こえてきそうに揺れる。
「体調を悪くされたので寄宿舎に帰りました」
「そうか」
「――ご説明していただけますか?」
なぜルシャードは俺をレイに同行させたのか。まるで、こうなることがわかっていたかのようだった。
「ハンが調べたら、アイリスはレイに相応しくないとわかった」
それについては俺も激しく同意する。
「家族の留守を狙って義兄と浮気していると報告があった。だからアイリスの姉に協力してもらって、あの時間、誰も家にいない状況を作った。行為に及ぶかどうかは賭けだったが、その様子だと、ちょうどいい頃合いだったみたいだな」
ちょうどいいだと。この悪魔め。
「あんな不貞行為をレイに見せる必要はなかったはずです。調査結果を教えればよかったんじゃないですか」
あのとき、部屋の中に入る直前に、レイが呆然としながら婚約者の名を呼んだ声が忘れられない。
悪いのはすべてあの女だけれど、冷静で気丈なレイを精神的に追い込んだのは、ルシャードだ。
「調査結果を見せるだけでは納得しないかもしれないし、現実を見せたほうがいいだろ。レイは優秀だ。浮気女のせいでマイネの妃教育が滞ってはならない。はっきりさせたほうが、すぐ忘れられるかと思ったが……違ったか?」
「……酷いことをしたとは思わないのですか?」
「婚姻までに時間がなかったから、少々手荒だったかもしれないな。だからゲリンを行かせた。お前がいれば大丈夫だと思ったのだ」
そんなの温情でもなんでもない。俺は思いつく限りの悪口を心の中で罵りながら退室した。
その後、レイは婚約破棄をした。
驚いたことに、アイリスはレイだけでなく、両親に対しても礼儀正しく優しい女を演じきっていたそうだ。しかも姉の虚偽の悪事を両親に吹き込み、冷遇するように仕向けてもいたらしい。
そんな悪事の報いを受けたのか、義兄との醜聞は瞬く間に広がり、父親の商会に影響を及ぼしはじめた。
その結果、アイリスはレイとの婚約破棄をきっかけに両親から勘当され、義兄と一緒に姿を消したとか。貧しい暮らし向きに耐えられずに娼館で働きはじめたという噂もあるが、真偽のほどはわからない。
そんなアイリスと結婚二週間前に婚約破棄となった宰相補佐官レイは、仕事に支障が出ることもなく、立ち直りも早くすぐに元に戻ったように見える。
ルシャードの思惑通り、アイリスの膿を強引に取り除いたのがよかったとは認めたくない。
あれ以来、レイは俺に心を開いたようで、よそよそしかった表情がなくなった。
「情けないところを見られてしまったから、もうゲリンさんの前で格好つけても仕方がないです」
レイはそう言って恥ずかしそうに目を細めて笑った。初対面の笑顔と違い、近寄りがたい印象はもうなかった。
あのとき俺の胸の中で涙を見せたレイは、九年前にダイタに婚約すると告げられた俺のようだった。
レイを慰めているつもりで、俺は自分自身を慰めていたのかもしれない。
ダイタなんて忘れてしまえと。
‡‡‡
オティリオに連れられて、俺とカスパーの三人は大きなマツの木が植えられた政務宮の裏手に来ていた。マツの枝が頭上に広がり、午後の陽光をまだらに遮る。
カスパーは楽しそうに、地面に転がっているマツボックリを持参したかごに集め続けていた。
「そんなに集めてどうするの?」
かごの中を確認したオティリオが笑った。
側近の任務が休みなのか、オティリオは制服ではない。たっぷりと幾重にも重なったフリルが袖と胸元に施された白いブラウスに、淡い水色の上着を袖を通さずに軽く肩に羽織っていた。
「みんなに、あげるの」
カスパーは自慢げに返事をする。
俺も屈んで地面に転がっているマツボックリをひとつ拾い、軽く空に向かって投げて掴み取った。手のひらにマツボックリがしっくりと馴染む。
するとそのとき、うなじにちくりと視線を感じた。
さりげなく背後を一瞥すると、そこにいたのは長い銀髪の男。太い幹に隠れて、こちらをちらちらと盗み見する姿は、梟の木で遭遇したお化けに違いない。
「殿下、あれは誰ですか?」
俺は声をひそめてオティリオに訊いた。
危害を加えそうな気配はまったくないが、護衛として正体だけは知っておきたい。
怪訝そうに眉を顰めたオティリオが背後に視線を向け、すぐにふっと笑って目を細める。そして、お化けを呼び寄せた。
「クラウス! こっちにおいでよ」
オティリオにクラウスと呼ばれた男は、驚いたように身体を跳ねさせたあと、逡巡しながらもゆっくりと歩み寄ってきた。
先端の毛が長い三角の獣の耳に、もっさりとした尻尾。聖獣人か。
「末の弟のクラウスだよ」
オティリオはクラウスの腕を掴んで紹介した。
アンゼル王国の国王ディアークには、三人の弟が存在する。
ルシャードとオティリオ。そして、なかなかお目にかかれない末の王弟クラウスは、人前に出ることがなく引きこもりだと聞いていた。
太陽の下で見るクラウスは、銀色の絹のような髪を肩から背中に流し、胸まで届くほどの長い美しい髪で目元を隠している。
お化けに見間違えるなどありえない。
上品な比翼仕立ての光沢のあるブラウスを第二ボタンまで外して着崩し、綺麗な鎖骨のラインを覗かせたクラウスは、同じようなブラウスを王子様然と着こなすオティリオとは違う。
兄と並ぶと、弟のほうが背が高いことがわかる。
クラウスの顔は、はっきりと確認できないのに、なんとなくふたりは似てなそうだと思った。
「ルシャード兄上の息子のカスパーと護衛のゲリンだよ。兄上が婚姻したのは知ってるよね?」
こくんと頷き、クラウスは呟く。
「ルシャード兄上の番かと思った……そっか。護衛だったのか」
「護衛の、ゲリンです」
クラウスは俺がオメガだと察してルシャードの伴侶だと思ったのだろう。そんな勘違いなど払拭したくて、護衛だと強調しておく。
「ちちうえの、おとうと? クラウスさまも、せいじゅう?」
カスパーがそう訊いた。あの日遭遇したお化けだとは気づいてなさそうだ。
「うん。でも僕は翼が生えてても飛べない。先天的に機能しないんだ」
そう話すクラウスは優秀なアルファのはずなのに、アルファ特有のプライドの高さが感じられなかった。
「とべないの?」
「うん。でも逆にそれでよかった。僕は政治に全然興味がないから。出来損ないって言われて期待されないぐらいがちょうどよかったって思うんだ」
「クラウスは出来損ないじゃないよ。そういうことを軽々しく言うもんじゃない」
オティリオが間髪容れずに口を挟んだ。
「だってオティリオ兄上みたいに社交的じゃないし。どうせ役立たずだから」
あっけらかんとクラウスは言い放つ。悲観的でもなく、卑屈になっているわけでもなく、事実を口にしただけという不思議な表情だった。
そこでカスパーがクラウスが胸に抱えている紙に興味を示す。
「それ、なに?」
クラウスは耳をきりりと立たせて尻尾をゆっくりと揺らすと、嬉しそうに返事をした。
「絵を描いてたんだ。絵を描くのが好きなんだ」
「なに、かいてたの?」
カスパーが訊ねると、クラウスの尻尾の揺れがぴたっと止まる。そして口ごもりながら、すっと人差し指を俺に伸ばした。
もしかして、俺を描いていたのか。
「俺?」
思わず、口からこぼれた。
クラウスが頷き、オティリオが少し驚いたように言った。
「ゲリンを描いたのか? クラウスが人を描くなんて珍しいな」
「見せてもらうこと、できますか?」
「うん。いいよ」
クラウスは尻尾を揺らしながら、抱えていた紙を裏返した。
そこには、忠実に再現された俺の顔がある。一瞬、息を呑んだ。
木炭で描かれた俺は、端整な顔立ちの中に大きくて印象的な瞳があり、その瞳を引き立てる長めのまつ毛がさらに繊細さを加えていた。
鼻筋はすっと通って柔らかい印象を与え、口元はふんわりとした曲線を描き、愛らしさと色気を同時に漂わせるのに成功している。
オメガ特有の繊細さと鋭い目元を持った男は、紙の中ではクールに優しく微笑んでおり、全体的に整った中に、少年のようなあどけなさと大人の色気が共存していた。
「うまいな」
「ゲリンに、そっくり」
オティリオは感嘆し、カスパーも驚いている。
「こんな魅力的に描いてくれて、ありがとうございます」
「ゲリンを描くのは楽しい。もっと描きたい」
一瞬、クラウスの琥珀色の瞳が垣間見えた。
彼のくっきりとした目が、俺を射貫くように捉える。
細部まで表現しようとするその熱のこもった視線が、俺の頭の先から足のつま先までゆっくりと移動して、まるで手のひらで撫でられたような感覚があった。
クラウスの視線には、何か強く迫るものがある。
「じゃあ、引きこもってばかりいないで、今日みたいに外に出ないとな」
オティリオが兄らしく忠告するが、クラウスにはあまり響いていないようだ。
銀髪で隠しても隠しきれない存在感のある瞳は、まだ俺を見ていた。
……面白い。
俺は無意識に笑っていた。
第二章 拘束された偽りの恋人
天井が高いドーム型の銀ノ宮の食堂で、俺とオティリオは向かい合って座っていた。
カーテンが引かれていない大きな窓からは、あと少しで夜の闇に包まれそうな庭園を眺められる。日が落ちかけた夕闇の中で、人工的なランタンの光がまばらに浮かぶ景観は、昼間とは違った幻想的な雰囲気を醸し出していた。
改まって白亜の銀ノ宮に食事に呼んで人払いまでしたとなると、人に聞かれたくない話でもあるのだろう。そう思いながら、俺は目の前にいるオティリオに訝しげな視線を向けた。
ぱちりとした碧眼と目が合う。オティリオは小さく咳払いしたあと、突拍子もないことを切り出した。
「五日間だけの恋人になってほしい」
口に含んだ赤ぶどう酒を噴き出しかけ、危うく制服を汚すところだった。
「意味がわからないです。どういうことですか?」
冷えたぶどう酒が喉を通る。
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