短編 愛を語った口で、言い訳を

朝陽千早

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愛を語った口で、言い訳を

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 夜の帳が下りた頃、私は今日受けた夫の暴言を思い返していた。

「また暗い顔をしやがって、見ているだけで気分が悪くなる」
「食事が不味い。お前の存在そのものが不快だ」
「四年も経つのに子供の一人も産めないとはな。無能にもほどがある」

 ……言葉は違えど、突き刺さる場所はいつも変わらない。

 私は旧侯爵家の次女として育ち、商家出身の新興貴族アドリアン・ド・リズエストと四年前に政略結婚した。

 政略結婚だからといって、最初から破綻していたわけじゃない。最低限の敬意くらいはあった。けど、私の実家からの多額の援助金が流れ込むようになると、彼の態度は豹変した。

「お前は俺がいなければ何もできない無能な女だということを忘れるな」

 毎日のように浴びせられる侮辱的な言葉。
 それは時や場所を選ばずにやってくる。でも私は何も言い返さなかった。反論すれば、より激しい暴言が返ってくることを学んでいたから。

 そんな地獄のような日々で、唯一の救いがエルシェンヌ侯爵夫人だった。

 彼女もまた政略結婚の犠牲者。年の離れた夫との冷え切った関係に悩む彼女と、私は自然と親しくなった。まだ幼い子供がいるものの、侯爵との間に温もりはなく、孤独に耐えているようだった。

「イザリーナ、また痩せたんじゃない?」

 エルシェンヌは いつも心配してくれる。美しい金髪と深いブルーの瞳を持つ彼女は、まさに理想的な貴族女性だった。

「少し食欲がなくて……」

「また嫌なこと言われたのね? 本当に男性というものは理解に苦しむわ」

 そう言ってカップを傾ける彼女の横顔を見ながら、私は何度も思った。
 ──この人がいてくれて、よかった、と。

 彼女だけは私を裏切らない。
 夫にも、家族にも、誰にも寄りかかれなかった私にとって──エルシェンヌだけが、心の拠り所だった。

 少なくとも、私はそう信じていた・・・・・

 運命が変わったのは、ある雨の夜のことだった。

 アドリアンは、商会の会合とやらで屋敷を出ていった。

「本棚に埃が積もっていたぞ。暇なくせに何もできない女だな」

 玄関先で投げつけられた言葉が、まだ耳の奥に残っている。

 無視すればいいのに、気づけば私は書斎にいた。
 本棚の隙間に指を滑らせ、机の上の紙を揃える。書類を束ねていたとき、視線の先に、わずかに開いた引き出しがあった。羊皮紙が一枚はみ出している。

 思わず手に取ったその紙には、見覚えのある筆跡で整然と文字が並んでいた。

『愛しいアドリアン様へ』

 心臓が一瞬止まった。
 封蝋には、エルシェンヌが普段から使用している家紋入りのスタンプが押されている。
 微かに漂う香は、彼女の常用している香料と同じ。筆跡だけでなく、これらも彼女のものであることを物語っていた。

『昨夜のことを思い返すたびに、胸が苦しくなります。あなたに抱かれている時だけが本当の私になれます』

 手が震える。

『来週の木曜日、午後三時。あの場所でお待ちしております。誰にも邪魔はさせません。あなただけの私でいたいのです』

 机の奥を調べると、同様の手紙が十数通出てきた。
 アドリアンはそれらを“戦利品”のようにしまい込んでいた。

 そして、アドリアンからの返信の下書きも見つかった。

『君だけが僕の心の支え。妻なんてもう存在しないも同然だ』
『君の肌の感触が忘れられない。早く会いたい』

 私は床にへたり込んだ。親友と夫の不倫。しかも、かなり長期間続いているようだった。

 ああ、そういうことだったのか……。

 エルシェンヌは、私の気持ちに寄り添ってくれていたわけじゃなかった。
 ただ、自分の罪悪感を軽くしたかっただけなのだ。私を慰めるふりをして、自分を許す理由を探していただけ──。

 そして私は、夫にとって“そこにいるだけの存在”になっていたのだろう。だから、疎ましがられていたのだ。

 胸がズキズキと痛む。
 私は必死で込み上げるものを堪えた。

 ここで泣いてしまったら、私はただの惨めな女に成り下がってしまう。

 そう言い聞かせて、何度もまばたきをした。
 最後に残ったのは、怒りでも悲しみでもない、空っぽな静けさだった。



 翌朝、私はヴェルノ侯爵邸を訪れた。

 侯爵は五十代半ばの威厳ある男性で、政界でも重鎮として名を知られている。
 妻のエルシェンヌとは、二十歳近く年が離れていた。

「イザリーナ殿、どのようなご用件で?」

「閣下にお伝えしなければならないことがございます。奥様のことで」

 一瞬、彼の眉が僅かに動いた。

「妻に……何か?」

 私は黙って、手にした手紙を差し出す。

「夫の書斎の奥で見つけたものです。同じようなものが十数通ありました」

 侯爵は何も言わず、それを受け取る。

 目を落とし、静かに読み始めた。
 文章の途中で指が止まり、眉が寄る。

「……妻の筆跡だ。間違いない」

 声には深く沈んだような静けさがあった。
 手紙を読み終えると、侯爵はゆっくりとため息をついた。

「やはり、そうでしたか」

「やはり?」

「薄々感づいてはいたのです。妻の外出が増えたこと、帰宅時間が不規則になったこと。しかし、確証がなかった」

 侯爵は手紙を机に置いた。

「改めて伺います。どのようなご用件でしょう? 単に事実を伝えるためだけのご訪問では、ないのでしょう?」

 私はわずかに口元を綻ばせた。

「ええ。事実を伝えるだけなら、書簡でも済みました」

 ヴェルノ侯爵の視線が、机上の手紙から私に移る。

「閣下のお力添えを、どうしてもいただきたくてまいりました」

「助力?」

「私一人では、できないこともございます。二人を追い詰めるには、証拠が、証言が、そして……立場の力が要ります」

 侯爵はわずかに目を細めた。

「……あなた、思ったよりずっと怖い方だ」

 その言葉に、私は微笑を返した。
 恐ろしさは、時として、誠実さの裏返しにもなるのだから。


 それから数週間、私たちは秘密裏に証拠集めを進めた。

 侯爵の人脈を使い、貴族専用の迎賓館の記録を調べさせた。
 エルシェンヌとアドリアンが、半年間で十五回、同じ日に滞在していた記録が確認された。
 それもすべて隣同士の部屋。しかも、複数の宿の案内係や使用人が二人を見かけたと証言している。

 さらに、宿の管理人が提出した貸し出し記録には、エルシェンヌの名義で借りられた鍵が、翌朝アドリアンによって返却されていた事例が確認された。

 そこには、単なる偶然や言い訳の余地など存在しなかった。

「これで十分でしょう」

 侯爵が満足そうに言った。

「ええ、完璧ですわ。明後日の夕方、二人を呼び出します」

「楽しみにしております。妻がどのような言い訳をするのか」

 侯爵の声には、冷たい怒りが込められていた。

 私の胸にも、静かな怒りが燃えていた。だが、それは感情的な怒りではなく、氷のように冷たい復讐心だった。

 二人には、相応の報いを受けてもらう。ただし──私のやり方で。



 決行の日がやってきた。

 私が選んだのは屋敷でもっとも広く、重厚な扉で隔てられた第一応接室。
 壁に並ぶ美術品と、天井のシャンデリアが、今ばかりは冷たく感じられた。

 アドリアンはすでに通してある。

 私は廊下でエルシェンヌを迎えた。

「急にお呼び立てしてしまい、申し訳ありません」

「構いませんわ。でも……何の話があるのかしら?」

「ええ。少々、込み入った話ですわ」

 扉を開けると、上座のソファに座るアドリアンと目が合った。

 エルシェンヌはほんの一瞬、視線を泳がせた。

「あら、アドリアン様。ご挨拶が遅れてしまって、申し訳ありませんわ」

「あ、ああ、どうも」

 微笑みを浮かべながらも、声の奥に張りつめた緊張が見え隠れしていた。

「どうぞ、おかけください」

 エルシェンヌが座ったのを確認し、私は扉を静かに閉めた。

 厚い扉が、低く沈んだ音を立てて閉まった。  
 まるで、この部屋だけが世界から切り離されたように。

「イザリーナ? なぜ扉を……?」

 エルシェンヌの声がわずかに震えた。

「大切なお話がございます。途中で誰かに立ち入られては困りますので」

 静かにそう告げながら、私は目の前の“舞台”を見渡す。  
 幕は上がった。あとは演者たちが、どれだけ見苦しく足掻いてくれるか。

 私は椅子に腰を下ろし、手元の封筒に指を添えた。

「本日は、お二人にお見せしたいものがございます」

 封筒の中から数枚の紙を取り出し、ゆっくりとテーブルの上に並べていく。

「こちらは、迎賓館の滞在記録です」

 私は一枚を取り上げ、淡々と読み上げた。

「三月十二日。その記録に名が並ぶのは──エルシェンヌ・ド・ヴェルノ。アドリアン・ド・リズエスト。他にも、同様の記録が十四件。半年間、十五回も──」

 二人の顔色が、目に見えて変わっていく。

「偶然と呼ぶには、無理がある気がいたしますね」

「イザリーナ……ち、違うのよこれは……」

 かすれた声で口を開くエルシェンヌ。

「お前、俺の部屋を勝手に漁ったのか! まともに仕事もできないくせに、余計なことばかり!」

 アドリアンが声を荒げ、威圧するように身を乗り出す。
 その怒鳴り声に、エルシェンヌがびくりと肩を跳ねさせた。

「落ち着いてください。……まだ始まったばかりです」

 私は、あらかじめ別に用意しておいた封筒に手を伸ばした。

「そして、こちらが──お二人の愛の証拠です」

 一枚一枚、丁寧に揃えてから、声に出して読み上げる。

「『昨夜、あなたの腕の中で私はようやく、“女”としての意味を思い出しました』」

「やめて!」

 エルシェンヌの声が鋭く響く。
 立ち上がろうとした彼女を、私は目だけで制した。

「『あなたに触れられるたび、皮膚が溶けてしまいそうで、でもそれが幸せなのです。どうか、あの夜を永遠に閉じ込めて──私の身体に』
『妻という名の檻を、どうか忘れて。私はあなただけの“エルシェンヌ”でいたい』」

 私は一度手を止め、視線をあげた。

「まるで詩の一節のようですね。これほど率直な愛の表現、貴婦人の嗜みとして学ばねばなりませんね」

 エルシェンヌの顔が、見る間に真っ赤に染まっていく。
 蒼白から一転、羞恥と怒りに焼かれるように血が昇っていった。

「やめて……もう、やめてイザリーナ……っ!」

 声が震え、口元を押さえる手も震えていた。
 と、この空気に耐えかねたのか、アドリアンが勢いよく立ち上がる。

「いい加減にしろ! ……そんなもの、でっち上げだ! 俺を貶めるために仕組んだんだな!」

「でっち上げ、ですか」

 次の封筒を開く。

「では、こちらはどうでしょうか」

 アドリアンの筆跡で書かれた返信の下書き。
 私はそれを抜き出し、一枚ずつ整えて置いた。

「『君だけが僕の心の支え。妻はもう僕にとって存在しないも同然だ』」

「……っ」

「『君の裸体を思い出すたびに興奮する』」

 アドリアンの顔が見る見る赤く染まり、そして引きつった。

「これは、アドリアン。あなたの字ですよね?」

 私は証拠の山を、ひとつずつ整然と並べ直す。そして静かに告げた。

「これらを明日、貴族評議会に提出いたします」

「待ってくれ!」

 アドリアンが立ち上がった。

「冗談だろう? そんなことをしたら……」

「冗談?」

 私は首を傾げた。

「私が冗談を申したことがありますか? 不倫は、貴族の品位を著しく損なう行為。……除爵になるかもしれませんね。以前にも、外聞を汚した男爵家が爵位を剥奪された前例がございます」

 不貞は私的な裏切りではない。
 貴族に課された“品位”と“責務”を裏切る行為だった。
 とりわけ公的地位にある者の不貞は、家名そのものを貶めるとされている。そして、場合によっては爵位の剥奪も決議される。

 エルシェンヌが蒼白になった。

「イザリーナ、お願い! そんなことをしたら、私の家が、子供たちが……」

「子供たちのことを心配なさるのでしたら、最初から不倫などなさらなければよろしかったのに」

 私の声は氷のように冷たかった。

 この時、私の心は不思議なほど静かだった。怒りも悲しみも通り越して、ただ淡々と事実を述べているだけだった。

 その報いを受ける時が来たのだ。



 私は席を立ち、窓辺へと歩いた。  
 染まりゆく夕陽を背に、二人の方へとゆっくり振り返る。  

「でも、そうですね……。お一人だけなら、助けて差し上げても構いません」  

 二人の顔に、かすかな希望の色が浮かぶ。  

「え、本当に……?」  

「ええ。ただし、それは“より罪の軽い方”──  言い換えれば、“巻き込まれた側”だけです」  

 私は静かに告げた。  

「不倫を仕掛け関係を続けた張本人と、誘われ、迷い、落ちてしまっただけの者。その違いがはっきりしていれば──私は後者には情状酌量を考慮します」  

 アドリアンとエルシェンヌが互いに視線を交わす。  

「……ですから、語ってください。真実を明かしてくだされば、片方は助かります」  

 部屋は沈黙に包まれた。  

「そんなこと、できるはずが……」  

 エルシェンヌがかすれた声で呟く。  

「できませんか? でしたら、お二人とも明日──」  

「待て!」  

 アドリアンが叫んだ。  

「最初に誘惑してきたのはこいつだ! 俺はこいつに唆されたんだ!」  

「アドリアン! なにを言っているの!?」  

「事実だろ。お前が俺の書斎に忍び込んで、甘ったるい声で身体を擦り寄せてきたんじゃないか!」  

「それは違うわ! あなたが言ったのよ。“妻とはもう終わっている、君と一緒にいたい”って──」  

「そんなの社交辞令だ! 本気にするほうが悪い!」  

「社交辞令ですって!? “君がいなければ死んでしまう”って、あの夜──あなた……!」  

「お前が誘ったんだろうが! 媚びて、身体を押し付けてきて……あの状況で断れる男がいるか!?」  

 見ていて、清々しいほど醜い争いだった。  
 さっきまでの愛も気品も、すべてが嘘だったと証明するように。

 罵り合いは、ますます激しさを増していた。

「お前が最初に俺の気を引いてきたんだろうが、甘えた声で!」

「何を言ってるのよ! あなたが『今夜は一緒にいたい』って言ったんじゃない!」

「そんなの真に受けるやつがいるか! お前こそ、俺が断れないのを分かってて……!」

 醜い言葉が飛び交い、互いを地に引きずり落とそうと必死だった。

 けれど──。

 その言葉の応酬は、ふとした沈黙に変わった。

 罵っても罵っても、どちらも優位に立てないことに気づいたのか、アドリアンの視線がふと私に向けられた。

 その瞳に宿る光は、逃げ場を求めるもののそれだった。

「……最初は、ほんの気の迷いだったんだ」

 アドリアンが低く呟くように続けた。

「君の言う通り、エルシェンヌとの関係において、過ちはあった。だが、君にも……いや、君にこそ、一片の非もなかったと、果たして言えるのか?」

 私は静かに彼を見つめた。

「確かに俺は仕事の疲れを理由に君に辛く当たったこともあったし、言葉を交わすことすら面倒に感じていた日もあった。……だが、君もそれに対して何も言わなかった」

 私は静かに目を閉じた。何を言っているんだこの人は……。

「君は、私の変化に気づいていたはずだ。それでも、問いただすことも、歩み寄ることもせず、ただ黙って、冷たい距離を保ち続けていた」

 その声は反省ではなく “仕方なかった”と認めさせたい甘えの響きに満ちていた。

「家庭の中に、心の拠り所がなければ、人は他所に慰めを求める。それは、愚かだったと今なら言えるが……私はただ──誰かに必要とされたかっただけだった」

 ……つまり、こういうことだ。

「妻が夫を顧みなかったから、夫は外に癒やしを求めた」  
「それは悪いことではあったが、誰にでも起こり得ること」  
「本気ではなかった。だから、許されるべきだ」

 なんと都合のいいことだろう。
 散々、私を無下に扱ってきたくせに、責任転嫁も甚だしい。

「つまり私が悪いと言うことですか?」

「ああ、そうだ、俺は悪くない」

「そ、そうよ。私たちは悪くないわ!」

 エルシェンヌが矢継ぎ早に追撃してくる。

 私は穏やかに目を開けた。

「なるほど。では、どうぞご自由に。明日の評議会でも、“冷酷な妻が仕組んだ罠だった”と、存分にお話しください。そうすればお二人とも助かりますね。おめでとうございます」

 エルシェンヌの表情が引き攣った。
 アドリアンの喉がゴクリと鳴る。

 部屋に沈黙が落ちた。互いを見やる視線に、探りと警戒が交錯する。


 そして沈黙を破ったのは──。

「い、いやそうは言っていない。君は悪くない。悪いのは全てエルシェンヌだと言いたいのだ」

 アドリアンが口火を切った。

「は? ちょ、ねえ!? なんでそうなるのよ!?」

「エルシェンヌが“貴方のことを思うと眠れない”と、手紙をよこし、夜ごと私の書斎に忍んできた。俺はそれに抗えなかった」

「ち、違う! そんなの嘘よ!」

 エルシェンヌが鋭く叫ぶ。

「悪いのは全部アドリアンだわ。彼こそ、逢瀬の度に“妻とは形だけの関係だ”って……“君がいなければ生きていけない”って言ってきたわ……!」

「そんな言葉、男が言う決まり文句にすぎない!」

「でもあなたは私を抱いたわよね! 優しく触れて、“全部捨ててもいい”って……!」

「あれが本気だと思ったのか? どれだけ都合よく解釈して──!」

「はあ!?」

 私はゆっくりと椅子に腰を下ろした。

「君は侯爵夫人の名を使って俺を囲い込もうとしたよな? “夫は老いて冷たい”と、哀れな女を演じて!」

「あなたは“愛している”と何十回も言った! “私と再婚してもいい”と誓ったわ!」

「そんな約束覚えてないな! 誰が証明できる?」

「では、あの夜の抱擁は何!? 私を弄ぶだけだったの!?」

 声が、震えていた。怒りではなく、恐怖にも似た必死さ。

 私の目の前で、貴族たちが貴族であることをやめていく。  
 仮面も尊厳も、自ら剥ぎ捨てる姿は──見ていて、哀れですらあった。

 もうそろそろいいか。最初こそ楽しかったけれど、もう聴くに耐えない。

「……もういいです」

 私の声が静かに空気を裂いた。

 アドリアンとエルシェンヌは、まるで糸が切れた操り人形のように言葉を失った。

 手元の証拠書類を整えながら、私は続ける。

「少なくともエルシェンヌ、あなたにはほんの僅かでも“罪悪感”があった。罪を認め、声を震わせながらも真実を語ろうとした。アドリアンを責める中でも──彼への想いが残っているように見えたわ」

 エルシェンヌの目は、驚きと混乱で見開かれていた。

「対して、アドリアン。あなたは最初から、自分だけが助かろうとしていた。エルシェンヌを陥れ、責任を押し付け、己の非を一言も認めなかった」

「イザリーナ……」

 私はそのまま、窓辺へと歩く。そっとアドリアンに目を向けた。

「アドリアン。あなたの行いは、個人としての品位を損なっただけでなく、貴族社会全体への背信です。あなたへの告発は、予定通り──明日の評議会にて行います」

「ま、待ってくれ、イザリーナ……!」

「ええ、待ちます。明日十時にあなたが評議会に現れるまではね」

 私は微笑んだ。その顔には、もう怒りも悲しみもなかった。

 ただ、終わったという実感と、それに続く静かな始まりだけがあった。

 そのときだった。

 扉をノックする音が響いた。

「イザリーナ様、ヴェルノ侯爵閣下がお見えです」

 私は頷いた。

「お通ししてくださいませ」

 扉がゆっくりと開かれ、侯爵が姿を現す。

 その歩みには一点の揺らぎもなかった。まっすぐに、静かに──しかし確固たる意志を持って、彼は部屋の中心へと進む。

 エルシェンヌはその姿を目にした瞬間、まるで時間が止まったかのように固まった。

「……あ……あなた……」

「隣室ですべて聞いていた」

 侯爵は感情を感じさせない声で続けた。

「貴族の“化けの皮”が剥がれる音。久方ぶりに、胸のすく思いだった」

「どうして……」

 エルシェンヌの声は、もはや囁きにも届かないほど小さかった。

「私からお願いしました」

「これが君の“やり方”なのだな」

 侯爵の視線が私に向けられる。私は静かに頷いた。

 エルシェンヌは目尻を尖らせ、私を睨みつける。


「イザリーナ……あなた、最初から助ける気など……!」


 私は微かに頬を綻ばせる。
 侯爵は、沈黙を挟んでから、ゆっくりとエルシェンヌの前に歩み寄った。

「立て。エルシェンヌ。お前の姿は、もはやヴェルノ家の誇りを表すに足らぬ」

「お、お許しを……」

「許しが欲しいなら、貴族の責を果たせ」

 エルシェンヌは泣き崩れることすらできず、ただ静かに頷いた。

 そして侯爵はアドリアンのほうへと視線を向ける。

「君のような男に、“貴族”を名乗る資格はない。だが君の処遇については、イザリーナ殿に一任する」

「ありがとうございます。閣下」

 アドリアンはしばらく私を見つめていたが、何も言わなかった。

 すべてを失い、言葉すら残っていなかったのだろう。

 侯爵は、エルシェンヌの腕を取り、静かに部屋を後にする。

 アドリアンはふらりとよろめきながら、私の前にやってくる。膝をつき、私にすがりつくように。

「……イザリーナ……頼む……頼むから……俺だけは見逃してくれ……」

 掠れた声。唇は乾き、目は血走っていた。

「爵位を剥奪されたら、家も、名も、何もかも失う……! 生きていけない……!」

 私を見上げる目には、恐怖と哀願しかなかった。

「お願いだ……イザリーナ……本当は、君に感謝していた……君を愛しているんだ! だから、だから……っ」

 私は静かに息を吸い、振り返らずに言った。

「“本当は”なんて言葉が通じるのは、嘘のない誠実な関係だけですわ。あなたとは……最初から、その正反対でしたもの」

「そんな……俺は……俺は……!」

「明朝十時。貴族評議会にて、全てを明らかにいたします」

 私は書類の束を整え、机に置いた。

 アドリアンは声を失い、崩れるようにその場に座り込んだ。



 私は私室に戻り、庭園を見下ろす。
 雨上がりの空気のように、世界が静かだった。

 最後まで、愛も、誠意も──何ひとつ差し出されることはなかった。

 私は窓を少しだけ開けて、柔らかな風に頬を撫でられながら、目を閉じる。

 残響はもう、私の中に残っていない。

 誰にも聞かれぬ声で、心の奥にだけ届く言葉をひとつ。

「……おかえり、私」

 忘れかけていた自分が、少しだけ戻ってきた気がした。
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