銀の旅人

日々野

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2章◆恋と恩義と性欲と

第二番『妖精の目隠し』-3

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 目が覚めた時、隣にイリスはいなかった。
 腕の中に空いたぽっかりとした空洞に、何故だか少し寂しい気持ちになる。いつも通り目が見えていることに気付いたのは、その後だった。平衡感覚が乱れるような感じも特にない。

 タビトは体を起こすと軽く伸びをして、のろのろと部屋を出た。階段を降りている時はまだ夢を見ているような気分だったが、廊下を歩いてキッチンの前まで来た時、じわじわと現実感が戻って来た。調理台に向かっていたイリスがタビトに気付き、振り返る。

「おはよう。夕食、もうすぐできるよ。体は大丈夫?」

 にこやかに微笑むイリスの髪が一房、ぴょんとあらぬ方向に跳ねていることに気付くと、またタビトの胸の奥がきゅんと縮こまる。

 ――ああ。やっぱり夢じゃなかったんだ。というか寝癖ついてる、かわいい。

 また顔が赤くなり始めているのが分かったので、口に手をやり、俯くことで誤魔化す。

「はい。なんともないです……」
「そう、さすがだね。あと少し座って待っててくれる? あ、水飲む?」
「はい。自分でやります」

 その後しばらくして、イリスが作った夕食を二人で食べた。薄い円形のパン生地に、切った野菜と干し肉とチーズを乗せ、表面を軽く焙ったものだ。リンゴパイのように中心から三角になるように取り分け、一切れずつ自分の皿に移して食べる。イリスは「私は午後の間寝てただけだから」と言ってあまり手を付けず、タビトに多めに渡した。

「オレも寝てただけですけど」
「そう思うかもしれないけど、君の体は眠っている間も『妖精の目隠し』と戦ってた訳だから、それなりに消耗してるはずだよ。ちゃんと食べておいた方がいい」

 そう言われると、強く断る理由もない。というより、イリスが作った料理――ピツァというらしい――は簡単そうなのにとても美味しく、あっという間にタビトの胃の中に収まった。

 食後のお茶も飲み終わり、そろそろ部屋に戻る時間かという頃合いだった。勝手口の方から、「わんっ!」と高い犬の鳴き声がした。

 犬? とタビトは首を傾げたが、イリスは即座に立ち上がる。

「あれ、もう来てくれたんだ! さすがリウは仕事が早いな」

 タビトにはよく分からないことを呟きながらイリスが勝手口を開けたかと思うと、足の短い角パン似の犬――名前はたしかアンコ――がぴょんと入り込んできた。アンコは二段しかない階段の上の方に前足をかけ、タビトの方を見てもう一度「わん」と鳴く。まるでタビトを呼んでいるようだ。

「アンコ……だっけ。こんな時間まで散歩か?」

 アンコはイリス家の「土足厳禁」を忠実に守っているらしく、勝手口の小階段から動かない。仕方なくタビトから近付いて首をかいてやると、イリスがアンコの代わりに答える。

「実はリウに相談したんだ、君がこの前走り込みに行って迷子になった時ね。心がけ自体はいいことだからどうやって続けるのがいいかなって。そしたら『アンコと一緒に走ればいい、夜になったらそっちに寄越すから』って言ってくれたんだけど、さっそく今日やってくるとは」
「えぇ……こいつと走るんですかオレ。というかそれでうちまで来るって……めちゃめちゃ賢いですねこいつ」
「そうだよぉ、アンコはすごく頭がいい。だから滅多なこと言わないようにね。全部分ってるよ」

 イリスが悪戯っぽく笑う。
 そういう顔もかわいいな、とタビトは思いながらも、イリスの提案にはあまり気が乗らない。

「頭はいいかもしれないけど……でもこいつ、足短すぎるでしょ。体もデブいし。オレのペースに着いてこれると思えないんですけど」
「ああもう、言った傍から。駄目だよタビト、女の子に失礼なこと言っちゃ。アンコ怒ってるよ」
「わんっ!」

 同意だ、と言わんばかりにアンコがひと鳴きする。本当に全部通じていそうでタビトはちょっと怖くなったが、それはそれ、これはこれである。

「そう言われてもなぁー」
「まあ、元々今夜は快復期間にあてるつもりだったから嫌なら今日はこのまま帰してもいいよ。どうする?」

 タビトに向かって問いかけつつも、イリスの目線はじっとアンコに注がれている。彼女の柔らかな耳やもこもこした首を愛おしげに撫でるイリスの横顔は、慈愛に満ちた女神様のようだ。

 ――ん? 女神様?

 またおかしなことを考えていたことに気付き、タビトは自分で自分の頭を小突く。

 ――なんで女神様なんだよ、イリス先生は男だろうが。最近のオレはすぐこうなる。何かおかしい。

「タビト? もしかして頭痛い? やっぱり今日は帰ってもらおうか?」
「い……いえ。大丈夫です。そうですね、ちょっと走ってきます。気分転換に」

 どんどん思考がおかしな方に引き摺られていきそうな気配を感じたので、気乗りはしなかったが玄関に向かう。

 ――まあ、一日くらい付き合ってやろう。オレのペースに着いてこれないと分かれば、もう犬と散歩しろなんて言わないだろう。




 アンコと共に家を出て、一時間。
 タビトはイリスが言った言葉の意味を、身を以て理解した。

「あ、アンコぉ……お、オレが悪かった……ひどいこと言ったオレが悪かったからあ……」

 体が重い。まるでアーロットトウモロコシが詰まった麻袋を抱えているようだ。体から汗が噴き出る。もうこれ以上、足が上がらない。

「ほんとごめん……謝るから……だからアンコ、お願いだから……お願いだから、自分で歩いてくれぇぇええ……!」

 タビトはアンコを両腕に抱え、息も絶え絶えの状態でヨタヨタと走っていた。ふかふかの毛皮に覆われた体はみっちりと肉が詰まっていて、見た目以上に重い。

 アンコが「歩行拒否」の構えに入ったのは、夜の散歩が始まってすぐのことだった。何を言ってもテコでも動かず、いっそ置いていってやろうかと思ったが、彼女はあのリウルの愛犬である。アンコを夜の街に置き去りにして万一のことがあれば、翌日にはタビトが食材にされかねなかった。

 それでいてアンコは、歩くことは拒否しても指導官としては優秀だった。タビトがおかしな方向に進もうとすると、ちゃんと吠えたりもがいたりして知らせるのだ。タビトの走るペースが落ちたり、止まろうとしても短い脚をじたばたさせてもがく。けれど休憩を取るべきところになると自分から腕の中から飛び降り、まっすぐ歩道のベンチまで歩いていくと、座れとばかりにニコニコとタビトを見上げてくる。優秀すぎて、ちょっと怖い。これは本当に犬なのか。

 アンコにたっぷりしごかれながら一時間の散歩を終えて帰宅すると、イリスは楽しそうにタビトに水の入ったグラスを差し出した。

「お疲れさま。これで分かったでしょう?」

 はい、よく分かりましたと、言う他なかった。

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