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2章◆恋と恩義と性欲と
道程-2
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キッチンの入り口に背を向けて、イリスが調理台に向かっている。
じゅうう、と軽やかに油が跳ねる音がして、もう一つのコンロからは白い湯気がのぼる。何てことのない、けれど幸福な朝の風景だ。
タビトはキッチンの入り口にもたれかかったまま、しばらくぼうっとその後ろ姿を眺めていた。
フライパンから皿に目玉焼きを移そうとしたイリスが体を斜めにし、その拍子にタビトに気付く。
「なんだ、起きてたのか。おはよう」
と、少しだけ目を細めて控えめに笑う。朝の陽光の中で、その笑顔はきらきらと煌いて見えた。ぼうっとしていた頭に急速に血が回ってくるのを感じながら、タビトも応える。
「……お、おはようございます」
「もうすぐご飯できるよ。そうだ、お茶淹れるの手伝ってほしいな」
「はい。……」
のろのろとキッチンに入り、茶葉が仕舞ってある棚に向かう。
「何の葉っぱにします?」
「んー、何でもいいよ。君の気分で選んで」
「そーですねぇ……」
正直言って、タビトはあまり香茶が好きではなかった。香りはたしかに良いけれど、味というものがほとんどしない。うっすら舌に残る苦さの種類が、微妙に違う程度だ。その中でも唯一――正確に言うと茶葉ではないが――南部で採れた木の実や果物を数種類まとめて乾燥させたものから作る茶は、ほんのり甘くて美味しい。なのでそれを選ぶことにした。イリスがいつも使っているポットを棚から出して、軽く中を拭いてから、干からびた果物の欠片を木匙で二杯ぶん入れる。
イリスがテーブルに皿を並べ終わるのと、ポットの準備が整うのはほとんど同時だった。いつもの席につき、タビトがマグカップに二人分の茶を注ぐと、イリスが楽しげに笑う。
「あ、やっぱりこれにしたんだ。だと思った」
そして自分のカップを引き寄せ、そっと持ち上げて香りを嗅ぐ。
「いい匂い。君、これ好きだよね。私も好き」
不意打ちに現れた「好き」に、タビトの心臓が大きく跳ねた。しかしイリスは気付くことなく、「それじゃ食べよっか」とスープ用の銀の匙をとる。
二人だけの静かな朝食だ。
イリスがふうふう、と匙の上でスープを冷ますのを見ながら、タビトは今朝思いついたことを考える。
自分はイリスのことが好きなのか。――もちろん、好きだ。
初めて会った時から、ずっとイリスはタビトに優しい。こんなに良くしてくれる人のことを、好きにならない方が難しい。でもそれは、例えばリウルがイリスに抱いているような――いわゆる恩義というものとどう違うのかと問われると、分からなくなる。
その上厄介なことに、イリスは美しい。これはもう動かしようのない事実だ。ちょっとした仕草は可愛らしく、時折色っぽさも感じる。だから余計に分からなくなる。自分はただ、性欲に支配されているだけなのではないのか。ただ自分に優しく、美しいものに惹かれているだけで、好きだと言っていいんだろうか。
もそもそと食事を口に運んでいると、イリスが唐突に席を立った。
「あ、今日ちょっと急がないといけないんだった。ごめんタビト、後のことよろしくね。今夜も遅くなると思うから、夕飯は先に食べといて」
「あ、……はい。……」
イリスは慌てた様子でキッチンの入り口に向かおうとして、ぴたりと止まる。かと思うとタビトの方を見て、ふわりと花開くように微笑んだ。
「タビト、いつも家のことしてくれてありがとう。おかげですごく助かってるよ」
「……アッ、ハイ……」
そしてイリスは手を一度だけ振り、ぱたぱたと騒がしい足音を立てながら出て行った。
一人残されたタビトの手から、銀の匙が滑り落ちる。せっかく褒めてもらえたのに、「ア」と「ハイ」しか言えない自分が情けない。そして何より、
――駄目だ。やっぱ好きかも。
という気持ちで、胸の中がいっぱいになっていた。
――もっと先生の役に立ちたい。あの笑顔で笑いかけてもらいたい。こう思うのは、恩義? 性欲? それとも好きだから? そもそも、好きってナニ?
十八年間生きてきて、今まで他人から受けた愛情は両親からもらったものだけ。色恋にはとんと無縁だったタビトには、あまりにも難しい問題だった。
じゅうう、と軽やかに油が跳ねる音がして、もう一つのコンロからは白い湯気がのぼる。何てことのない、けれど幸福な朝の風景だ。
タビトはキッチンの入り口にもたれかかったまま、しばらくぼうっとその後ろ姿を眺めていた。
フライパンから皿に目玉焼きを移そうとしたイリスが体を斜めにし、その拍子にタビトに気付く。
「なんだ、起きてたのか。おはよう」
と、少しだけ目を細めて控えめに笑う。朝の陽光の中で、その笑顔はきらきらと煌いて見えた。ぼうっとしていた頭に急速に血が回ってくるのを感じながら、タビトも応える。
「……お、おはようございます」
「もうすぐご飯できるよ。そうだ、お茶淹れるの手伝ってほしいな」
「はい。……」
のろのろとキッチンに入り、茶葉が仕舞ってある棚に向かう。
「何の葉っぱにします?」
「んー、何でもいいよ。君の気分で選んで」
「そーですねぇ……」
正直言って、タビトはあまり香茶が好きではなかった。香りはたしかに良いけれど、味というものがほとんどしない。うっすら舌に残る苦さの種類が、微妙に違う程度だ。その中でも唯一――正確に言うと茶葉ではないが――南部で採れた木の実や果物を数種類まとめて乾燥させたものから作る茶は、ほんのり甘くて美味しい。なのでそれを選ぶことにした。イリスがいつも使っているポットを棚から出して、軽く中を拭いてから、干からびた果物の欠片を木匙で二杯ぶん入れる。
イリスがテーブルに皿を並べ終わるのと、ポットの準備が整うのはほとんど同時だった。いつもの席につき、タビトがマグカップに二人分の茶を注ぐと、イリスが楽しげに笑う。
「あ、やっぱりこれにしたんだ。だと思った」
そして自分のカップを引き寄せ、そっと持ち上げて香りを嗅ぐ。
「いい匂い。君、これ好きだよね。私も好き」
不意打ちに現れた「好き」に、タビトの心臓が大きく跳ねた。しかしイリスは気付くことなく、「それじゃ食べよっか」とスープ用の銀の匙をとる。
二人だけの静かな朝食だ。
イリスがふうふう、と匙の上でスープを冷ますのを見ながら、タビトは今朝思いついたことを考える。
自分はイリスのことが好きなのか。――もちろん、好きだ。
初めて会った時から、ずっとイリスはタビトに優しい。こんなに良くしてくれる人のことを、好きにならない方が難しい。でもそれは、例えばリウルがイリスに抱いているような――いわゆる恩義というものとどう違うのかと問われると、分からなくなる。
その上厄介なことに、イリスは美しい。これはもう動かしようのない事実だ。ちょっとした仕草は可愛らしく、時折色っぽさも感じる。だから余計に分からなくなる。自分はただ、性欲に支配されているだけなのではないのか。ただ自分に優しく、美しいものに惹かれているだけで、好きだと言っていいんだろうか。
もそもそと食事を口に運んでいると、イリスが唐突に席を立った。
「あ、今日ちょっと急がないといけないんだった。ごめんタビト、後のことよろしくね。今夜も遅くなると思うから、夕飯は先に食べといて」
「あ、……はい。……」
イリスは慌てた様子でキッチンの入り口に向かおうとして、ぴたりと止まる。かと思うとタビトの方を見て、ふわりと花開くように微笑んだ。
「タビト、いつも家のことしてくれてありがとう。おかげですごく助かってるよ」
「……アッ、ハイ……」
そしてイリスは手を一度だけ振り、ぱたぱたと騒がしい足音を立てながら出て行った。
一人残されたタビトの手から、銀の匙が滑り落ちる。せっかく褒めてもらえたのに、「ア」と「ハイ」しか言えない自分が情けない。そして何より、
――駄目だ。やっぱ好きかも。
という気持ちで、胸の中がいっぱいになっていた。
――もっと先生の役に立ちたい。あの笑顔で笑いかけてもらいたい。こう思うのは、恩義? 性欲? それとも好きだから? そもそも、好きってナニ?
十八年間生きてきて、今まで他人から受けた愛情は両親からもらったものだけ。色恋にはとんと無縁だったタビトには、あまりにも難しい問題だった。
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