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8章◆少年タビトの物語
老人と恋バナ-2
しおりを挟む本来なら何がなんでも否定しなければ――と躍起になるところだが、相手がアンジュだと何故か強く出られない。
タビト自身何かと世話になっているのに加え、イリスでさえ「先生」と呼ぶ人生の先輩だからだろうか。世の中の酸いも甘いも噛み分けてきた老人に寄り添うように言われると、隠し立てる必要などないように思えた。気持ちがばれたところで、この老人が何か悪さをするとも思えない。
「それでどこまでやったの? チューはした?」
「へえっ? ぃあっ、その、」
「そっかぁ、チューはしたのかぁ。いいねぇ若い子は、初々しくって」
「……!」
……悪さをするようには思えないが、やはりこんな風に茶化されるのは面白くない。
タビトは警戒を弱めてしまったことを早々に後悔し、むっつりと口を真一文字に結ぶ。
「こ、……これ以上はもう何も言いませんから」
「えー? そう言わずもっと色々聞かせておくれよぉ。わしくらいの爺になると若い子の恋バナくらいしか楽しみがないんだよ? 自前のはもう使い物にならないから。アッハッハ!」
何がそんなに面白いのか、アンジュは自分で言った爺ジョークに大ウケし、手を叩いて笑った。タビトはちょっと身を引きながら見守る。
「げ、……下品ですよ。アン爺さん」
「なに、爺なんてだいたい下品な生き物よ。上品なだけではこの歳まで生きられん。……おっそうだ、下品ついでにいいものをやろう」
浅いのか深いのかただ開き直っているだけなのか、アンジュが意味深なことを言いながら席を立つ。そして壁の一面を埋める四角い抽斗をいくつか覗き、四つ目の抽斗を開けたところで「おぉ、あったあった」と嬉しそうな声をあげた。
「これこれ、これだよ。タビトくん、分かるかな?」
「はぁ。……?」
アンジュが食卓の上に乗せてみせたのは、深い緑色の小瓶だった。手のひらから少しはみ出るくらいの大きさの細身の瓶で、元は白かったらしいラベルはうっすらと黄色っぽく変色している。書かれている文字も淡い茶色に退色しているせいで、何が書いてあるかさっぱり分からない。というかこれは、アビニア語なのだろうか。
タビトが首を捻っていると、アンジュが瓶の背を撫でながら言う。
「これは華藤油と言ってね。油なのにお花のいい匂いがするんだ。液自体はこってりしていて固めなんだけど、人肌にのせると体温で溶けてするするっとよく伸びる。この特徴がある界隈の人たちに気に入られてね、薬の材料としては基剤としてたまーに使われるくらいのものなんだけど、今ではそっちの用途で使われることが多いくらいで――」
「カトウユ……って、あの『華藤油』? 『イルシス』で見たやつだ! ホントにあったんだ!」
はっ、と、我に返った時には遅かった。
アンジュはタビトを見てにんまりと笑うと、華藤油の瓶をタビトの腕に押し付ける。
「なぁんだタビトくん、うぶな顔してちゃっかり下調べしてるんじゃないか。このこの」
「え……えっと、その。調べた訳ではないんですケド……」
「そんなことどっちでもいいから。ほらほら、欲しいんだろう? いいよタビトくん、これあげる。見た目は古いけど封は開けてないから、中身はほとんど劣化してないと思うよ」
「……」
何度も『イルシス』の中で見た、半ば憧れのアイテムを眼前に突き付けられ、タビトはついに手を伸ばす。
「ううっ……。あ、ありがとうございます……」
「そうそう、もらっときゃいいの。若者は素直が一番!」
恥じらいながらも大事そうに緑色の瓶を握り込むタビトを見て、アンジュは呵呵と笑った。かと思えばスッと真顔に戻る。
「あ。でも使うのは王都に帰ってからにしてね。うち床も壁も薄いから全部聞こえるよ」
「言われなくてもやりませんよ!」
夕飯の後タビトはアンジュと並んで食器を洗い、風呂を焚いて順番に入った。その後はアンジュの寝室で、前回の訪問でも習ったマッサージ指南の続きを受けた。と言っても、寝台に伏せるアンジュの腰に跨りアンジュの指示に従って黙々と指圧をする実演方式のため、いいように「使われている」感は否めない。
オレはどうしてこんなところまで来て爺さんの腰を揉んでるんだ――というやりきれなさを感じ始めた時、ようやくイリスが帰宅した。その頃にはアンジュはもう半分眠っていたので、タビトは迷うことなく玄関にすっ飛んでイリスを出迎えたのだった。
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