銀の旅人

日々野

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8章◆少年タビトの物語

水の中-3

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 サンサリードの清流の中を垂直に潜り、下へ下へと進んで行く。
 透き通った水の中は見通しがよく、タビトはすぐに目的のものを見つけることができた。同時にイリスが心配していた通りのことが起こっていた、と気付く。

 ――あのバカ、何やってんだ。

 内心で悪態を吐き、両手で大きく水をかいて前進する。威勢よく滝つぼに飛び込んだ少年、ラギは水底にほど近いところでぎゅっと目を瞑り、両手両足を無作為にバタバタと動かしてもがいていた。手と足がそれぞれ水の中で全く別の流れをつくるせいで打ち消し合い、どこにも進めなくなっているのだ。ただじっとしているだけでも自然と体は浮かぶというのに。

 タビトは呆れながらひとかきでラギに近づくと、暴れる腕の一本を掴んだ。その瞬間だけはラギは体を硬くさせたが、すぐ救助の手と気づいたらしく、目を瞑ったままの顔をタビトの方に向ける。
 タビトは少し斜めに視線がズレた顔に頷きかけると、ラギのもう片方の肩を抱き、一気に水面に向かって体を上昇させた。耳を塞ぐ圧迫感が、水面に近づくと共に薄れていく。

「ッぶはぁ!」

 飛び出すように水面から顔を出す。ラギは久方ぶりの空気――と言っても沈んでいたのは全部合わせてもせいぜい二分程度だろうが――を体がうまく処理できなかったのか、その場でゲホゲホと激しく咳き込み始めた。喉の奥を引き攣らせたような、高音の混じった痛々しい咳を聞くと、さすがのタビトも責める気をなくしてしまう。

「おい、大丈夫かよ。何やってんだ」

 水面に浮かんだまま細い肩を抱き、背を擦ってやる。ラギはゼエハアという荒い呼吸の合間に何度もえずきながら、やっとのことで答えた。

「だ。だって。ハァ……イリス先生とタビトが……お、溺れてると思って。ひっく」
「はぁ? 何お前、助けるつもりだったのか? 泳げないのに飛び込んでどうすんだよ」
「だって、こういうときは……『火事場の馬鹿力』っていうのが出るって。……ハァ、ギリーが言ってたから……」
「それで全部解決したら誰も苦労しないから……」

 ため息が漏れる。しかし自分達を助けるために飛び込んだ――などと言われるとやはり責められないし、勝手に敵対心を抱いてラギをのけ者にしようとしていたことに少しの罪悪感も抱いてしまう。……それでも、泳げないくせに滝つぼに飛び込むのは馬鹿げているが。

「まあいいや、とりあえず陸に戻るぞ。先生、そっち大丈夫……」

 イリスを掴まらせた岩の方に向かって声を掛けようとして、違和感に気付く。

 ――いない。

 いるべき場所にイリスの姿が見当たらない。不吉な予感が一瞬にしてタビトの背筋を駆け上がり血の気が引いたが、

「タビトぉー……」
「! 先生!」

 斜め後方から声がして振り返る。イリスの声を聞いてほっとしたのも束の間、その声の出所に愕然とした。岩肌に捕まっていたはずのイリスは、タビトがラギを助けて水面を上がってくる数十秒の間に、何故か下流の方に向かって流されていたのだ。どうやら胸を逸らせて仰向けに近い姿勢をとっているおかげで、溺れずには済んでいるらしい。白いシャツが水面のゆらゆらと揺れているのがタビトの位置からでもはっきりと見えた。一応イリスはラギと違い、泳げないなりにも体が沈まない姿勢には自力で辿り着くことができたようだ。しかしこれがいつまでもつか分からない。

 何が起こったらこの短い時間にあんなところまで流されることができるんだ――という疑問はいったん脇に置いて、タビトはイリスに向かって声を張り上げる。

「すぐ行きます! 先生はそのまま動かないでください! 沈まないことだけ考えて!」
「……分かったぁー……」

 イリスが流されながら答える。
 思っていたより平気そうな声を聞いて、タビトは少しだけ安堵した。そしてすぐ隣に目を落とす。

「おい、聞いたろ。オレ先生のとこ行ってくるから、お前はそのへんの岩に掴まって――」
「やだ」

 タビトの言葉の途中で、ぎゅっとラギがタビトの腕にしがみ付く。

「お。おれも行く。置いてかないで」
「おいラギ、今はそんな場合じゃ……」
「やだ! むり! タビトと一緒に行く!」

 ぎゅ、とラギがタビトの腕に抱き着き、ばしゃりと水が跳ねた。
 そこでタビトは、ラギが川の水だけでなく涙と鼻水が混じったもので顔じゅうびしょ濡れになっていたことに気付く。よほど怖かったのだろう、タビトの腕にひしと抱き着いててこでも離れそうにない。

 しかしタビトも今日泳ぎを習得したばかりの、言ってみれば初心者だ。自分とそう歳の変わらない少年を腕にくっつけたままイリスの元に行き、更にイリスを連れて岸に戻る……なんて無謀は冒せない。
 仕方なくタビトは再びイリスの方に向かって声を上げる。

「先生、すぐ行くからもうちょっとだけ待っててください! 先にこいつを足がつくとこに――」
「うぉぉおおおおおおっ!!」

 言葉の途中で、全く予期せぬ第三者の雄叫びが岩場に響き渡った。声の主を探して視線を走らせると、イリスが流されている付近の川岸から、ものすごい勢いで人影が駆けてくる。その人物は迷うことなく岩を蹴って水面に飛び込むと、ほとんど飛沫も立てずに着水した。その数秒後に「あれっ? えっ?」というイリスの混乱した声があがる。
 そして謎の闖入者は、高々と天に向かって片手を突き出して見せた。

「イリス先生、確保しましたよぉおお! タビトのアニキぃいい!!」

 仔犬が尻尾を振るようにオードが突き出した腕を左右に振り、タビトはようやく肩の力を抜いた。
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