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お勉強デート
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「あれ。一夏ちゃん、今日は千くんとこ?」
「うん。昼には帰るから」
「分かった。昼ごはんこっちで作っとくけど、いらんようになったら連絡してな」
午前八時過ぎ。朝食を食べ、子ども達と庭木の水やりを終えると、一夏は秋子に借りたビニールバッグを片手に永瀬家を出た。中に入っているのは、いわゆる『お勉強セット』というやつである。
初めて千の部屋にあがって写真を撮られたあの日、少し雑談をしてから帰宅したのだが、そこで千が一切宿題に手を付けていなかったことが判明した。八月も上旬が終わろうというこの時期、まだ焦るような時間でもないけれど、放っておけば千は最終日まで溜め込むに違いない――という強い予感に突き動かされ、午前中は一緒に勉強をすることにした。さいわい二人の得意科目がきっぱりと分かれていて、千も頭が悪い訳ではないので、互いに教え合うことで宿題は着々と片付いていった。
午前中は二人で勉強。昼食はどちらかの家でよばれることもあったし、互いに自宅に戻ることもある。午後からは千が子守りの手伝いにやってくることもあれば、こない時もある。でも、夕方の犬の散歩は一緒に。
この五日間で、こういう生活リズムができていた。
山田家の玄関チャイムを見るたび、バスの降車ボタンを思い出す。
呼び出しボタンが一つあるだけのシンプルな造りで、通話機能は付いておらず、チャイム音すら訪問者には聞こえない。本当に鳴っているのかちょっと不安になるインターフォンだが、この家の場合は数秒待てば必ず……
――どす、どす、どす、どす。……ガラッ。
「おはよ。あがって」
まだ少し眠そうな顔の千が登場する。
「おはよう。これ叔母さんからおすそ分け」
「またか。別にいつも気ぃ使わんでええのになあ。まあ、ありがとう」
千がビニール袋の中を覗き込むと、永瀬家にお中元で届いたアイスコーヒーの紙パックが二つ入っている。
「お。コーヒーか。ええやん。今飲む?」
「そうだね。もらおうかな」
「じゃあ先部屋行っとって」
廊下の途中で千がキッチンに入り、一夏はそのまま進んで『民俗博物館』さながらの部屋に入った。もはや慣れたもの……と言いたいところだが、やはり部屋に入った瞬間あちこちから視線を感じて少しの間立ち竦んでしまう。ボクは何もやましいことは考えてませんよ、と心の中で唱えながら険しい鬼の面や不気味な木の仮面の前を横切り、座卓の横で鞄をおろした。
「さて……」
座って待っているのも暇なので、ぐるりと部屋を見渡す。不気味な面や人型の像は少し怖いが、それ以外のものは見ていて興味深いものばかりだ。以前見せてもらった『貝合わせ』のお守りもそうだし、木彫りの動物は毛並みや鱗など細部まで緻密に彫られているものもある。おそらくほとんどが地元の人間の手作りだと思えば、とんでもない技術の結晶だ。
一夏はまだあまり鑑賞していなかった、学習机付近にふらふらと歩み寄る。しっかりした本棚や移動式チェストがセットになっているタイプの机だが、本来教科書や辞書などを並べるべき棚はすべて工芸品で埋まっている。中でもビーズでつくった虹色の犬の置物は特に見事で、触れないように左右から覗き込むようにして眺めていたら、ふと机の上にあるものが目についた。
それは工芸品ではなく、色褪せたポストカードだった。全体がうっすらと黄色くなっていることから、それなりに古いものだと分かる。ハガキの八割は青い空と白い砂地がどこまでも続いているだけの風景写真で、下に少しだけ空白があった。その空白と写真に跨るようにして、流れるような文字で短いメッセージが書かれている。
『恋は目で落ち、心で育つ。 R.R』
どこかで聞いたこのある格言だな、と一夏は思った。どことなくロマンチックな雰囲気はあるが、風景写真とはいまいち噛み合っていない気がする。しかしそれよりも気になるのは『R.R』というイニシャルらしきものだ。姓も名もどちらもラ行というのは、日本人としてはかなり珍しい。外国の人だろうか。でもそれにしては、メッセージはすごく手慣れた日本語で書かれてる。
「……一夏?」
ポストカードに見入っていたせいで、背後で襖が開いた音に気付かなかった。顔を上げると、両手で盆を持った千がどこか不安げな表情で一夏を見ている。
「あ、……」
千は一夏が見ていたものに気付くと、さっと表情を硬くした。しかしすぐにその表情を引っ込め、ぎこちなく笑ってみせる。
「氷が冷凍庫ん中でめっちゃ固まっててさー、アイスピックでガンガンやってたから時間かかってもうた。ミルクとシロップ、とりあえず一個ずつ持ってきたけど足りる?」
「あ、うん。……足りると思う。ありがとう……」
千は座卓に盆を置くと、ふらりと一夏の方へ歩み寄る。そして机の上のポストカードを目にとめると、再び不自然な笑顔を浮かべた。
「ごめんな散らかってて。っていつものことやけど。ちょっと片付けとくわー」
そう言いながらただ積んであるだけの教科書を机の端に移動させ、ポストカードを素早く抽斗に仕舞い、手の側面でサッと机を払う。……明らかに様子がおかしかった。
「もしかして俺、……見ちゃいけないもの見ちゃった?」
「え? やー、んなことはないで。別に」
「あのポストカード……」
一夏が口を開きかけたとき、スパン、と乾いた音が部屋に響いた。反射的に音のした方に顔を向けると、眼鏡をかけた中年の男が部屋の入口に立っている。
「千んんん、助けてぇ……あっ、永瀬さんとこの。一夏くんも来とったんか。こりゃちょうどええわ!」
千の父、万太郎である。彼は一夏を見て一人で納得したように頷くと、竹筒のようなものを掲げてみせた。
「灯華会の灯杯づくり、手伝って?」
「あれ。一夏ちゃん、今日は千くんとこ?」
「うん。昼には帰るから」
「分かった。昼ごはんこっちで作っとくけど、いらんようになったら連絡してな」
午前八時過ぎ。朝食を食べ、子ども達と庭木の水やりを終えると、一夏は秋子に借りたビニールバッグを片手に永瀬家を出た。中に入っているのは、いわゆる『お勉強セット』というやつである。
初めて千の部屋にあがって写真を撮られたあの日、少し雑談をしてから帰宅したのだが、そこで千が一切宿題に手を付けていなかったことが判明した。八月も上旬が終わろうというこの時期、まだ焦るような時間でもないけれど、放っておけば千は最終日まで溜め込むに違いない――という強い予感に突き動かされ、午前中は一緒に勉強をすることにした。さいわい二人の得意科目がきっぱりと分かれていて、千も頭が悪い訳ではないので、互いに教え合うことで宿題は着々と片付いていった。
午前中は二人で勉強。昼食はどちらかの家でよばれることもあったし、互いに自宅に戻ることもある。午後からは千が子守りの手伝いにやってくることもあれば、こない時もある。でも、夕方の犬の散歩は一緒に。
この五日間で、こういう生活リズムができていた。
山田家の玄関チャイムを見るたび、バスの降車ボタンを思い出す。
呼び出しボタンが一つあるだけのシンプルな造りで、通話機能は付いておらず、チャイム音すら訪問者には聞こえない。本当に鳴っているのかちょっと不安になるインターフォンだが、この家の場合は数秒待てば必ず……
――どす、どす、どす、どす。……ガラッ。
「おはよ。あがって」
まだ少し眠そうな顔の千が登場する。
「おはよう。これ叔母さんからおすそ分け」
「またか。別にいつも気ぃ使わんでええのになあ。まあ、ありがとう」
千がビニール袋の中を覗き込むと、永瀬家にお中元で届いたアイスコーヒーの紙パックが二つ入っている。
「お。コーヒーか。ええやん。今飲む?」
「そうだね。もらおうかな」
「じゃあ先部屋行っとって」
廊下の途中で千がキッチンに入り、一夏はそのまま進んで『民俗博物館』さながらの部屋に入った。もはや慣れたもの……と言いたいところだが、やはり部屋に入った瞬間あちこちから視線を感じて少しの間立ち竦んでしまう。ボクは何もやましいことは考えてませんよ、と心の中で唱えながら険しい鬼の面や不気味な木の仮面の前を横切り、座卓の横で鞄をおろした。
「さて……」
座って待っているのも暇なので、ぐるりと部屋を見渡す。不気味な面や人型の像は少し怖いが、それ以外のものは見ていて興味深いものばかりだ。以前見せてもらった『貝合わせ』のお守りもそうだし、木彫りの動物は毛並みや鱗など細部まで緻密に彫られているものもある。おそらくほとんどが地元の人間の手作りだと思えば、とんでもない技術の結晶だ。
一夏はまだあまり鑑賞していなかった、学習机付近にふらふらと歩み寄る。しっかりした本棚や移動式チェストがセットになっているタイプの机だが、本来教科書や辞書などを並べるべき棚はすべて工芸品で埋まっている。中でもビーズでつくった虹色の犬の置物は特に見事で、触れないように左右から覗き込むようにして眺めていたら、ふと机の上にあるものが目についた。
それは工芸品ではなく、色褪せたポストカードだった。全体がうっすらと黄色くなっていることから、それなりに古いものだと分かる。ハガキの八割は青い空と白い砂地がどこまでも続いているだけの風景写真で、下に少しだけ空白があった。その空白と写真に跨るようにして、流れるような文字で短いメッセージが書かれている。
『恋は目で落ち、心で育つ。 R.R』
どこかで聞いたこのある格言だな、と一夏は思った。どことなくロマンチックな雰囲気はあるが、風景写真とはいまいち噛み合っていない気がする。しかしそれよりも気になるのは『R.R』というイニシャルらしきものだ。姓も名もどちらもラ行というのは、日本人としてはかなり珍しい。外国の人だろうか。でもそれにしては、メッセージはすごく手慣れた日本語で書かれてる。
「……一夏?」
ポストカードに見入っていたせいで、背後で襖が開いた音に気付かなかった。顔を上げると、両手で盆を持った千がどこか不安げな表情で一夏を見ている。
「あ、……」
千は一夏が見ていたものに気付くと、さっと表情を硬くした。しかしすぐにその表情を引っ込め、ぎこちなく笑ってみせる。
「氷が冷凍庫ん中でめっちゃ固まっててさー、アイスピックでガンガンやってたから時間かかってもうた。ミルクとシロップ、とりあえず一個ずつ持ってきたけど足りる?」
「あ、うん。……足りると思う。ありがとう……」
千は座卓に盆を置くと、ふらりと一夏の方へ歩み寄る。そして机の上のポストカードを目にとめると、再び不自然な笑顔を浮かべた。
「ごめんな散らかってて。っていつものことやけど。ちょっと片付けとくわー」
そう言いながらただ積んであるだけの教科書を机の端に移動させ、ポストカードを素早く抽斗に仕舞い、手の側面でサッと机を払う。……明らかに様子がおかしかった。
「もしかして俺、……見ちゃいけないもの見ちゃった?」
「え? やー、んなことはないで。別に」
「あのポストカード……」
一夏が口を開きかけたとき、スパン、と乾いた音が部屋に響いた。反射的に音のした方に顔を向けると、眼鏡をかけた中年の男が部屋の入口に立っている。
「千んんん、助けてぇ……あっ、永瀬さんとこの。一夏くんも来とったんか。こりゃちょうどええわ!」
千の父、万太郎である。彼は一夏を見て一人で納得したように頷くと、竹筒のようなものを掲げてみせた。
「灯華会の灯杯づくり、手伝って?」
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