ひと夏の隠しごと

日々野

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先人の知恵

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「あ……!」

 川の上空で白い紙面がゆらゆらと漂い、一夏の顔から血の気が引いていく。

 ――最悪だ。こんなことになるなら、本を返す時に一緒に返せばよかったのに。こんなところにそのまま持ってくるなんて、なんて馬鹿なことを。これじゃ俺が、わざとこうしたみたいじゃないか。いや、そんなはずない。でも。

 風に揺られるポストカードから目を離さないまま呟く。

「ご、……ごめん。俺、そんなつもりは……」
「あー……いや、別にええで? わざわざ持ってきてくれたとこに言うのもアレやけど、ほんま別に……」
「よ、……よくない! 全然よくないよ! 俺取ってくる!」
「え? いや取ってくるって……一夏!?」

 一夏はポストカードの落下点に向かって走り出した。ゆらゆらと空中で動くせいで位置が定らないが、このままいけば今いるところの反対側の川面に落ちるはずだ。その前に掴むことができれば濡らさずに済む。一夏は川に入ることになるが――あれは迷信だ。今はそんなこと、気にしている場合じゃない。

 靴を脱ぐのもまどろっこしく、一夏は裏鏡の浅瀬に一歩踏み出す。冷たい水に足全体が包まれて少しだけひるんだが、深さは足首までしか届かない。

「一夏、もういいって! そんなん取りに行かんでええから! 戻ってこい!」

 後ろで千が叫んでいる。しかし一夏は振り返ることなく、ただ中空で舞う白いハガキを目で追った。チャンスは一度きりしかないのだから、絶対に逃せない。ハガキに意識を集中させながらざぶざぶと、水流を掻き分けるようにして前に進む。

 だから一夏は、気付かなかった。

 最初足首のところまでしかなかったはずの川の流れが、一歩踏み出すごとにどんどん深さを増していることに。今や一夏は腰まで水に浸かりながら、ハガキの落下点に手を伸ばす。

 ――あと、ほんの少し。背伸びをしたら届くはず。

 限界まで腕を伸ばしたそのとき、再び風が吹いた。

「あっ」

 まずい、川に落ちる――と、焦った一夏は斜めに飛んだ。が、半分水の中にいるせいで勢いが付かない上に、バランスを崩して倒れそうになる。それでもなんとか、指の先でポストカードの端を掴むことは成功したのだが、

 ――バシャン!!

 という水音と共に、一夏の全身が水流に包まれた。
 水の冷たさと濁った視界に混乱して、何が起こったのかすぐに気付けなかった。足を踏ん張ろうとしても足元の地面がずるずると崩れ、水の流れに体が流されていく。

 ――あれ。この川ってこんなに深かったの? いつの間に? というか流れ、速……

「一夏!」

 やみくもに伸ばしていた腕を、上からぐいと掴まれた。
 ざばあっと、うるさいほどの水音が鼓膜を叩く。目まぐるしく変わる天地に目が回り、ふらついているところを強引に引っ張られた。

「うわ、……」

 倒れそうになりながら前を向いたところで、千の背中が見えた。水に濡れ、くっきりと肩甲骨が浮き出たTシャツを見て、ようやく一夏は自分が溺れかけたことと、千に助けられたことに気付く。

 ――千、怒ってる。怒ってるよね? どうしよう。こんなことになるなんて。

 全身がびしょ濡れになったせいで服が体に張り付き、動きにくいし体が重い。そのせいで千のペースにも付いていけず、つんのめりながら必死で追いつこうとする。

 惨めだった。

 ポストカードを追って川に入り、溺れかけたところを助けられるなんて、やっていることがまるで幼い子どもだ。しかもそのポストカードも、水流に揉まれているうちにいつの間にか流されてしまったようだった。あの時、指の先でたしかに触れたのに。

 千はまるがいる岸辺に辿り着くとその場でくるりと振り返り、一夏を放り投げるようにして陸にあげた。間髪入れず怒鳴りつける。

「このアホ! 何考えとんねん! ちょっとは周り見ろや!」
「ご、……ごめん。ポストカード、拾えなかった……」
「はあ? あんなハガキどうでもええゆうたやろ! それよりなんでお前は……」

 千が続けようとしたとき、ぽつ、と水滴が肌を叩いた。

 ぽつ、ぽつ。……ぽつっ。

 と、雨粒がドアをノックするように、控えめに落ちていたのはほんの十秒ほどだった。みるみるうちに勢いが強くなり、糸のように絶え間なく天から雨が降り注ぐ。 

「あかん、降ってきてもうた。一夏、とりあえずうち来い。ほらまる、行くで!」

 千は右手で一夏の腕、左手でまるのリードを引き、慌ただしく堤防をのぼる。一夏がまるの少し後ろを歩いていると、柴犬は不思議そうな顔で一夏を振り返った。その顔が「何やってるん? 大丈夫?」と言っているようで、一夏はまた少し惨めになった。


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