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第一話 満たされない心 *

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仕事から帰宅して一息ついた瞬間、スマホの通知音が鳴った。

「今日はパチンコ行って飲んでから帰るわ。夕飯いらない」

この文章、いい加減見飽きた。そう思いながら素早く返信する。

「分かった。楽しんで来てね!」

すぐに既読になったがそれっきり返信はなかった。

夫は私よりも15歳年上の55歳。結婚して10年が経つが子供はいない。欲しくない訳ではなかったけど、授からなかっただけだ。恋愛の末に結婚したので新婚当初は仲が良かったが、今ではただの同居人。食事は一緒に摂るし、一緒のベッドで寝るけれど、基本的に男女の営みはない。

忘れもしない。あれは夫と最後にした時のことだ。夜、ベッドに入った時、私はどうしようもなく彼のことが恋しくなった。すぐ隣にいるのに、まるで遠くにいるように感じたのだ。私は仰向けに寝ている夫の上にまたがり、唇にそっとキスを落とした。すると、彼は重いまぶたをそっと開け、何も言わずに私のキスに応えてくれた。そして、私の寝巻きをゆっくりと脱がせ、肌に手を滑らせた。その優しくて暖かな手が胸の膨らみや先端の突起をそっと愛撫する度に体中に甘い刺激が走った。

「んんっ……あっ……」

体が酷く火照り、我慢できなくなった私は彼の下着を脱がせ、熱く濡れそぼった秘部に彼自身をあてがった。しかし、彼のピークはそこまでだった。どんなに挿れようとしても入らなかった。カーテンの隙間から月明かりが差し込んだ。微かに見えた彼の顔は、酷く悲しそうだった。

志麻子しまこ……すまない。どうも気分が乗らないんだ」

「……ううん、私の方こそ、その……いきなりごめんなさい。ずっとしてなかったから、寂しくて」

すると、彼はゆっくりと体を起こすと、自分の上にまたがったままの私をそっと抱き締めてくれた。そして、静かな声で言った。

「もちろんお前のことは好きだよ。でもさ、今はなんかこう……違うんだ」

「……違う?違うってどういうこと?」

「女とか妻というより、家族……って言った方がしっくり来るっていうかさ」

私を傷つけないように言葉を選んでいるのが分かった。でもそれは即ち「私を女として見られなくなった」ということだ。私は内心とてもショックだった。でも、それ以上彼の気持ちを聞く勇気はなかった。

「……そっか」

そう返事をするのが精一杯だった。彼は遠慮がちに「すまない」と言って、私の額にそっとキスをしてくれた。その優しさが私には余計に辛かった。

「……シャワー、浴びて来るね」

床に落ちた寝巻きを拾うと、寝室を出た。風呂場に向かい、熱いシャワーを浴びた。ついさっき、彼に触れられた熱がまだ微かに残っていた。全部洗い流してしまったらもう二度と戻れないような気がした。

「私はまだ、こんなに好きなのに……っ。どうしてよ……っ」

思い切り泣いた。彼に聞こえないように声を押し殺しながら。

それからだった。仕事帰りの夫から「パチンコ行って飲んでくるから夕飯いらない」と連絡が来るようになったのは。夫は出版社に勤めているが、ちょうど仕事が忙しくなった時期で、毎日やつれた顔をしていた。だから初めて連絡を受けた時は息抜きなんだと思って信じて疑わなかったのだ。しかし、数ヶ月後に街中で夫が女といるところを偶然見かけてしまった。私は追求もせずにただ黙っていた。

もちろんショックだった。でも、他に女ができても、夫はきちんと私の元に帰って来てくれるし、時には二人で出かける事もあった。夜の営みがなくなってしまっただけで、生活は何にも変わらなかった。だから私は夫を追求しなかった。

それでもやはり「女として見られない」ことを悲しく思ったし、求められないこともとても寂しかった。私は夫と違って彼を「男として好き」だったからだ。夫から「夕飯いらない」と、連絡があった日は、今頃他の女と愛し合っているのかと思うと嫉妬で気が狂いそうになるぐらいに。

「ダメだわ、家にいるとそればかり考えちゃう。外に出よう」

思い立って一人で飲みに行くことにした。若い頃はよく行ったけれど結婚してからは行っていない。久しく着ていない肩が露わになった少し色っぽいワンピースをクローゼットの奥から引っ張り出し、メイクをいつもより念入りにし、無造作に結んでいる長い髪をおろした。眼鏡ではなくてコンタクトにした。鏡の中には見知らぬ自分がいた。

「夫との外出より気合い入れちゃったわ……まぁいいか」

弾んだ気持ちで私は玄関の扉を開けたのだった。

夫の行きつけのパチンコ店や飲み屋、それに女といるのを見た場所を避け、電車で30分ぐらいの少し遠くの街に出た。近代的な駅前から外れて細い路地に入ると、昭和から忘れ去られたような小さな飲み屋が沢山並んでいた。古びたのれん、ぼんやりと赤いちょうちんがまるで私を誘っているかのように思えて少し胸が高鳴る。

路地を進むと一番奥に立ち飲み屋があった。扉が開けっぱなしになっていたので私は思い切って足を踏み入れた。

「いらっしゃいませ!お一人様ですか?!」

頭にタオルを巻いた店員の若い男の子が、満面の笑みを浮かべながら威勢の良い声で話しかけて来た。

「はい。一人です」

「お好きな席へどうぞ!混雑した場合は相席になりますので、それだけご了承ください!」

私は軽く会釈をすると、出入り口に近い丸テーブルの席へ着いた。この席にはまだ誰もいない。メニューを手に取り、とりあえず目についたレモンサワーと枝豆を注文し、ぼんやりしながら飲んでいた。

すると、一人の男性客が入って来た。年は恐らく私と同じぐらい。背が高くて少しがっちりとした体型。爽やかなピンク色のワイシャツが特徴的だった。しかし私にはどうしても気になることがあった。その男性は眼鏡をかけているのだが、全く似合っていないのだ。

(銀縁はシンプルでいいけど地味過ぎるわ……もっとデザイン性のあるものの方が似合いそうなのに)

私は眼鏡店で働いている。だから職業柄、他人の眼鏡が気になって仕方がない。店員と話をしているその男性客の顔を見つめながら、無意識のうちに頭の中で彼に似合う眼鏡を探した。すると、店員と話終わった彼が不意にこちらを見た。

(しまった、目が合ってしまったわ……)

私は思わず下を向いて、見なかったフリをした。

「どうも。ご一緒しても構いませんか?」

驚いて顔を上げると、地味で似合わない銀縁の眼鏡が目の前にあった。


第二話へ続く。
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