「子守係風情が婚約者面をするな」と追い出された令嬢——公爵家の子供たちが全員、家出した

歩人

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「僕たちはフィオナ先生を選びます」——書き置きを残して、公爵家の子供が全員いなくなった朝

 ヴェルナー公爵邸の正門に、朝靄《あさもや》が薄く漂っていた。

 早朝五時。使用人たちですら寝静まっているこの時間に、門番のハンスは目を疑った。
 十二歳の少年が、旅装束で立っている。背中には五歳の幼子を背負い、右手で八歳の少女の手を握っていた。

「ルーカス坊ちゃん……?」

 ハンスが声を上げると、少年——ルーカスは静かに頭を下げた。

「ハンスさん、門を開けてください」

 吃音《きつおん》の欠片《かけら》もない、はっきりとした声だった。数年前まで、自分の名前すら満足に言えなかった少年とは思えない。

「開けてくださいと言われましても……こんな時間にどちらへ?」

「フィオナ先生のところに、行きます」

 背中のマティアスが、寝ぼけたように身じろぎした。

「……おにいちゃん、ついた?」

「まだだよ。もう少しだけ寝ていて」

 ルーカスの声は穏やかだった。弟を安心させる、あの声。——私が、教えた声だ。

 ハンスが困惑している間に、背中のマティアスがもぞもぞと体を起こした。

「おにいちゃん。フィオナせんせいのごはん、たべれる?」

「食べられるよ。先生のところに着いたら、きっと作ってくれる」

「にんじんのやつ? ほしのかたちの」

「うん。星の形のやつ」

 背中のマティアスが嬉しそうに身を乗り出した。まだ暗い空の下で、五歳の子供がこんなにも弾んだ声を出している。

「ルーカス坊ちゃん、お戻りください。旦那様に知れたら——」

「知れてかまいません」

 ルーカスは背筋を伸ばして言った。

「書き置きは父上の書斎に置いてきました。『僕たちはフィオナ先生を選びます』と」

 ハンスの顔が蒼白になった。
 けれどルーカスはもう振り返らなかった。まだ暗い街道を、弟を背負い、妹の手を引いて、歩き始めた。

 十二歳の少年の背中は、小さいけれど、真っ直ぐだった。

 ——この話を、私がどうして知っているのかって?

 簡単なことだ。三日後、三人は本当に、私のところに辿り着いたのだから。



 話は三ヶ月前に遡《さかのぼ》る。

 ヴェルナー公爵家の応接間。暖炉の火が穏やかに揺れていた午後、私の世界は終わった。——いいえ、終わったように見えただけで、本当は始まりだったのだけれど。

「フィオナ。お前との婚約は破棄する」

 エドワード様は窓辺に立ったまま、こちらを見もせずにそう言った。黒髪の隙間から覗く灰色の瞳が、冷ややかに光っている。

「……理由を、伺ってもよろしいでしょうか」

「理由?」

 エドワード様は初めて私を見た。その目には、嘲《あざけ》りとも哀れみともつかない色があった。

「子守係風情が、婚約者面をするな。——それが理由だ」

 子守係風情。
 その言葉が、胸の奥の柔らかい場所に、まっすぐ刺さった。

「私はクリスティーナ・ハウザー伯爵令嬢と婚約する。外交力、教養、社交術——公爵夫人に必要な全てを備えた女性だ」

 エドワード様は書類に目を戻した。もう話は終わりだと言わんばかりに。

「お前は子供たちの養育係としてよくやった。感謝はしている。だが、それだけだ。養育係の延長で公爵夫人が務まると思っていたなら、分不相応というものだ」

 感謝。そう、エドワード様にとって、私が子供たちのそばにいた五年間は「養育係としてよくやった」の一言で片づくものだった。

 ルーカスが自分の名前を言えなくて泣いた夜も。
 エミリアが悪夢で叫んで私の服をぐしゃぐしゃに握りしめた夜も。
 マティアスが「にんじんいやだ」と泣きながら、それでも私が星型に抜いた人参を一つだけ食べてみてくれた日も。

 全部、「子守」の一言。

 ——でも、いいの。

 前世の記憶が、私にそう囁《ささや》いた。
 私は前の世界では保育士だった。この世界に「保育」という概念はない。子供は小さな大人として扱われ、養育係は下女と同じ扱い。でも、私は知っている。子供は小さな大人なんかじゃない。日々成長し、日々変わり、その一瞬一瞬に大人の想像を超えた宇宙がある。

 だから、泣かなかった。

「——承知いたしました、エドワード様」

 私は深く頭を下げた。

「五年間、子供たちのそばに置いてくださり、ありがとうございました」

 エドワード様は少し驚いたように私を見た。おそらく、泣きすがるか、怒り狂うか——そういう反応を予想していたのだろう。

「話が早くて助かる。荷物はすでに馬車に積んである。今日中に出てくれ」

 今日中。
 つまり、子供たちに別れを告げる時間を、わずかしかくれないということ。

「子供たちに、ご挨拶だけさせてください」

「手短にな」

 エドワード様はもう窓の外を見ていた。



 子供部屋の扉を開けると、三人がいつものように過ごしていた。

 ルーカスは窓際で本を読んでいた。エミリアは画用紙に絵を描いていて、マティアスはエミリアの隣で積み木を重ねている。午後の陽射しが斜めに差し込んで、三人の髪をうっすらと金色に染めていた。

 この光景を見るのは、今日が最後。

 そう思った瞬間、喉の奥がきゅっと締まった。でも、保育士は泣かない。子供の前では、いつだって笑う生き物だ。前世でそう教わった。前世でも、そうしてきた。

 イルマ様——公爵夫人は孫たちを可愛がっていたが、息子の決定には逆らえなかった。今朝も私を見る目が悲しげだったのは、きっと既に聞いていたからだろう。

「みんな、先生からお話があるの」

 私はいつもの笑顔を浮かべた。——いいえ、浮かべたのではない。この子たちの前では、笑顔は自然と浮かぶものだった。

「先生は、今日からちょっと遠いところに行くことになったの」

 ルーカスが本から顔を上げた。深い青の瞳が、まっすぐ私を見た。ルーカスの目はエドワード様の灰色ではなく、亡くなったお母様——アンネ様譲りの深い青だ。アンネ様はマティアスを産んだ後、体が戻らないまま静かに逝ってしまった。あれから五年。三歳だったエミリアは母の死をはっきりとは理解できず、七歳だったルーカスだけが全てを分かっていた。聡明で、繊細で、だから人の嘘にすぐ気づいてしまう。

「……先生が、出て行くの?」

「うん。でもね、ルーカス。先生がいなくても大丈夫。ルーカスはもう、自分の言葉でちゃんと話せるでしょう?」

 出会った頃のルーカスは、「ぼ、ぼぼ、ぼくは」と言うだけで顔を真っ赤にして泣いていた。

 この世界の人たちは、それを「臆病」だと言った。「公爵家の嫡男にあるまじき」と。
 でも、私は知っていた。吃音は臆病でも怠惰でもない。脳と口の連携が追いつかないだけ。前世で学んだ知識が、この世界でも同じだと教えてくれた。

 だから私は歌を使った。
 言葉をメロディに乗せると、不思議と詰まらなくなる。最初は童謡。次に詩の朗読。ルーカスが好きだった英雄叙事詩を、二人で節をつけて読んだ。

 毎朝、起きたら歌う。毎晩、寝る前に詩を読む。
 一年で、短い文は詰まらなくなった。二年で、会話がスムーズになった。三年目、ルーカスは学園の弁論大会で優勝した。

 エドワード様はそのとき、「さすが私の息子だ」と言った。

 ……私の名前は、出なかった。

「先生」

 ルーカスの声が震えた。

「ぼく——僕は、先生のおかげで話せるようになった。それなのに——」

「ルーカス」

 私は膝をついて、目線を合わせた。この子の目の高さに降りる。それが保育士の基本。

「先生はね、ルーカスが自分の力で話せるようになったと思ってるよ。先生はきっかけをあげただけ。頑張ったのは、ルーカス自身」

 嘘ではない。でも全部が本当でもない。きっかけだけでは足りない。毎日の練習、失敗したときの励まし、成功したときの喜び——その全てが積み重なって、今のルーカスがいる。

 でも、それを言っても仕方がない。今の私にできるのは、この子の自信を折らないこと。

「先生、いやだ」

 エミリアが画用紙を抱えたまま、唇を噛んでいた。描きかけの絵が見えた——蜂蜜色の髪の女性と、三人の子供が手を繋いでいる絵。私だ。この子はいつも、私の絵を描いてくれていた。

「新しい人が来るんでしょ。でも、新しい人はマティアスの名前を間違えるの。『マルティン』って呼ぶの」

 ——ああ。
 もうクリスティーナ様が下見に来ていたのか。

「エミリア、新しい方もきっと優しい人だよ」

「ちがう。先生は夜、エミリアが怖い夢を見たとき、ずっと背中をとんとんしてくれた。新しい人はそんなことしない」

 エミリアの夜泣き。あれは本当に大変だった。
 原因は、三歳のときに見た雷——だけではない、と私は思っている。あの頃、エミリアはお母様を亡くしたばかりだった。雷は引き金にすぎない。本当の恐怖は、大切な人がいなくなること。三歳の子供は言葉にできないから、夜に叫ぶしかなかったのだ。

 この世界の医師は「放っておけば治る」と言った。エドワード様も「子供はそういうものだ」で片づけた。
 でも、前世の知識が告げていた。幼少期のトラウマは、放っておいて治るものではない。

 私はまず寝室の環境を変えた。雷の音が聞こえにくいように窓の位置を変え、夜は小さな灯りをつけた。寝る前に毎晩同じ絵本を読み、同じ歌を歌い、背中を同じリズムで叩く。ルーティンを作ることで、エミリアの心に「安全な夜」を刻んでいった。

 半年かかった。
 半年間、毎晩エミリアのベッドの横で眠った。叫び声で目が覚めて、背中をさすって、落ち着くまで歌を歌って。目の下にはいつも隈ができていた。侍女のマルタが心配して「お休みください」と何度も言ってくれたけれど、私は首を振った。この子が安心して眠れるまで、ここにいる。それが保育士だ。

 百八十日の果てに、エミリアはようやく朝まで眠れるようになった。

 エドワード様はある日、何気なく言った。「最近エミリアが静かでいい」と。

 それだけだった。

「せんせい、いかないで」

 マティアスが私の膝にしがみついた。小さな手が、ぎゅっと私のスカートを握る。温かくて、柔らかくて、指の力だけはびっくりするほど強い。子供の手って、いつもそうだ。離したくないものを握るとき、大人が驚くほどの力を出す。

「マティアス……」

「せんせいのごはんがいい。ほしのにんじんがいい。おはなのおにぎりがいい」

 マティアスの偏食は深刻だった。
 野菜は全く食べない。肉も決まった調理法でなければ口にしない。お菓子と白いパンだけで生きていた。

 エドワード様は「甘やかすからだ。腹が減れば何でも食べる」と言って、マティアスの前の皿を下げさせた。
 結果、マティアスは丸一日何も食べずに泣き続けた。あの夜、マティアスが空腹で眠れずに泣いている声を、私は自分の部屋で聞いていた。胸が張り裂けそうだった。

 翌朝、私は別の方法を選んだ。
 裏庭に小さな畑を作った。マティアスと一緒に種を蒔き、毎日水をやり、芽が出るのを一緒に喜んだ。小さな双葉を見つけたとき、マティアスは「うまれた!」と叫んで飛び跳ねた。自分で育てた人参を、自分で抜いて、自分で洗って——私が星の形に型抜きするのを、マティアスは目を輝かせて見ていた。

「マティアスが育てた人参だよ。食べてみる?」

 あの日、マティアスは生まれて初めて人参を食べた。
 星の形の、小さな人参を。口に入れたとき、目をまん丸にして「おいひい」と言ったあの声を、私は一生忘れない。

 それから花の形のおにぎり、動物の形のクッキー。食べることの楽しさを、一つずつ教えていった。一年かけて、マティアスは好き嫌いのほとんどない子供になった。

 ——子守ではない。
 これは、子守なんかではない。

 でも、そんなことをエドワード様に言ったところで意味はない。「保育」という言葉も概念もないこの世界で、私がやっていたことの価値を説明する言葉を、私は持っていなかった。

 通常、養育係は子供が六歳を迎えれば役目を終える。私が五年もの間この子たちのそばにいられたのは、途中でイルマ様が婚約の話をまとめてくださったからだ。養育係のままでは邸に残れない。婚約者の立場なら、子供たちのそばにいられる。——エドワード様にとっては、子守を続けてくれる都合のいい女というだけだった。それでも構わなかった。そしてその婚約が消えた今、私がここにいる理由も消えた。

「マティアス、先生はちょっと遠くに行くだけだよ。マティアスは強い子だから、大丈夫」

 三人を抱きしめた。三つの小さな体温が、私の腕の中で混ざり合った。ルーカスの本のインクの匂い、エミリアの画用紙の匂い、マティアスの日向くさい匂い。この匂いを、明日から嗅げなくなる。

 泣きたかった。でも泣かなかった。
 泣いたら、この子たちが不安になる。保育士はいつだって、子供の前では笑う生き物だ。

「ルーカス。エミリアとマティアスのこと、お願いしてもいい?」

「……うん」

 ルーカスは涙を拭って、頷いた。十二歳の瞳に、決意のようなものが光っていた。

「お願い。二人を、よろしくね」

 私は三人の頭を一人ずつ撫でて、子供部屋を出た。

 扉を閉めて、誰もいない廊下で、初めて涙を流した。背中越しにマティアスの泣き声が聞こえた。「せんせい、せんせい」と繰り返す声。エミリアが「泣かないの、マティアス」と言っている声。ルーカスが何も言わず、きっと二人を抱きしめているのだろう。

 私が教えたことを、もうこの子たちは自分でできるようになっている。

 ……だから、大丈夫。大丈夫だから。

 涙を拭いて、私は背筋を伸ばした。



 辺境の街グリューネヴァルトに着いたのは、馬車に揺られて一日半の旅路の果てだった。

 婚約破棄の際、エドワード様は手切れ金として少額の支度金を用意していた。それと、実家のメルツ伯爵家から届いた仕送りが、当座の支えだった。

 森に囲まれた小さな街。建物は古びていて、大通りと呼べるものもない。王都の華やかさとは正反対の、静かで素朴な場所。木々の間を抜ける風が湿った土の匂いを運んでくる。

 ここで私は、小さな学び舎を開くことにした。
 前世で保育士をしていた記憶。この世界で五年間、子供たちと過ごした経験。その全てを注ぎ込める場所が、ようやくできる。

 教会の神父様が空き部屋を一つ貸してくれた。壁は煤けていたが、窓は東向きで朝日が入る。子供たちが来る場所には、朝日が必要だ。それは前世からの、私の小さなこだわり。

 最初は散々だった。

「なんだよ、お勉強かよ!」

 初日に来た男の子——トビアス、八歳——は、椅子を掴んで投げた。

 グリューネヴァルトの子供たちは荒っぽかった。貧しい家庭が多く、親は朝から晩まで働いている。子供たちは放置され、街を走り回り、喧嘩と悪戯で日々を過ごしていた。

 椅子が壁にぶつかって大きな音を立てた。他の子供たちが怯えた目で私を見る。四歳の女の子が口をへの字に曲げて、泣く一歩手前の顔をしている。

 ——さて、どうしよう。

 前世の経験が教えてくれる。怒鳴っても無駄。叱りつけても逆効果。この子は注目されたいだけ。自分の存在を認めてほしいだけ。椅子を投げたのは攻撃じゃない。「俺を見ろ」という叫びだ。

「トビアス、すごいね。そんなに遠くまで投げられるんだ」

 トビアスが目を丸くした。

「明日は外でやろうか。どっちが遠くまで投げられるか、競争しようよ」

「……は?」

「先生と勝負。負けたほうが椅子を元の場所に戻す。どう?」

 トビアスは困惑した顔をしていた。怒られると思っていたのだろう。褒められるとも、ましてや勝負を挑まれるとも思っていなかったはずだ。

「……おもしれぇ姉ちゃんだな」

 翌日、裏庭で椅子投げ競争をやった。
 私は思いきり負けた。——いえ、本当に力がなくて負けたのだけれど。

 トビアスは大笑いした。「せんせい弱っ!」と。腹を抱えて笑いながら、目尻に涙を浮かべていた。こういう笑い方をする子は、普段あまり笑っていない子だ。保育士は、笑い方で子供の日常を読む。

 それから約束通り、トビアスは椅子を元の場所に戻した。次の日も、その次の日も。いつの間にか、トビアスは自分から椅子を並べるようになっていた。

「先生、並べておいたよ」
「ありがとう、トビアス。助かるなぁ」

 子供は命令では動かない。自分で選んだと思えたとき、初めて動く。
 前世でも、この世界でも、それは同じだった。

 口コミは少しずつ広がった。
 「あの学び舎に行くと、うちの子が落ち着く」「野菜を食べるようになった」「夜ちゃんと寝るようになった」

 一ヶ月で五人だった生徒は、三ヶ月で二十人になった。

 そんなある日、学び舎を一人の青年が訪ねてきた。

「失礼します。ここが噂の学び舎ですか?」

 亜麻色の髪に、深い緑の瞳。日に焼けた肌に、服にはうっすらとチョークの粉がついている。穏やかだけれど、どこか情熱的な光を宿した目。

「レオン・グリューネと申します。この街で教師をしています」

「フィオナ・メルツです。まだ学び舎と呼べるほど立派なものではないのですが……」

 レオン先生は教室を見回した。壁には子供たちの絵が貼ってあり、棚には手作りの教材が並んでいる。積み木の箱の横に、色とりどりの布で作ったお手玉。窓辺には小さな植木鉢が並び、マティアスに教えたのと同じやり方で、子供たちと種を蒔いた野菜が芽を出していた。

「……これは、すごいな」

 レオン先生の目が、棚の一角に止まった。

「それは?」

「観察記録です。子供たち一人ひとりの、成長の記録ですわ」

 私は革表紙のノートを手に取った。この学び舎で三ヶ月間つけた記録。全ての子供について——いつ何ができるようになったか。何に困っていたか。何が好きで、何が嫌いで、どんなときに笑って、どんなときに泣いたか。公爵家でも同じことを五年間続けていたけれど、あの記録はあちらの書斎に置いてきてしまった。

 レオン先生はノートを受け取り、ぱらぱらとめくった。

 そして、動きが止まった。

「……これは」

 ページを繰る手が、震えていた。

「フィオナ先生。これは——子守の記録じゃない」

 私は首を傾げた。

「一人の人間が、別の小さな人間の人生に、本気で向き合った記録だ」

 レオン先生は顔を上げた。深い緑の瞳が、真っ直ぐ私を見ていた。

「すごいな、これ。俺が十年教師をやってきて、一度もできなかったことだ。一人ひとりをここまで見るなんて……」

 レオン先生は少し間を置いて、声を低くした。

「……三年前、一人だけ救えなかった生徒がいた。家が貧しくて学校を辞めるしかなかった子だ。才能があったのに——俺は結局、教室の中のことしかできなかった。あの子が今どうしているか、俺は知らない」

 その声には、古い痛みが滲んでいた。レオン先生の目が、ほんの一瞬だけ遠くを見た。教壇に立ち続けてきた人が背負っている後悔——それは、私がよく知っている種類の痛みだった。前世でも、救えなかった子はいた。親の転勤で突然いなくなった子。虐待の通報が間に合わなかった子。保育士は無力だ。でも、無力だから何もしないわけにはいかない。

「でも、あなたの記録は違う。教室の外まで、生活の全部まで見ている。——俺がずっとやりたくて、できなかったことだ」

 そう言って、レオン先生は少し恥ずかしそうに笑った。笑うと目が細くなって、日に焼けた頬にえくぼが浮かんだ。

「だから——もし迷惑でなければ、俺にも学ばせてくれないか」

「レオン先生も、十分素敵な先生だと思いますわ」

「いや、俺は教壇の上からしか見ていなかった。あなたは膝をついて、子供と同じ目線で見ている。——教育って、こういうことだったんだな」

 その言葉が、不思議なほど胸に沁みた。

 五年間、誰にも言われなかった言葉。
 「子守ではない」——それだけのことを、この人は記録を読んだだけで理解してくれた。

 ふと、視線が合った。レオン先生が慌てて目を逸《そ》らし、耳の先がほんのり赤くなったのが見えた。
 ——不思議だ。私の頬まで、つられて熱くなる。



 公爵家では、地獄が始まっていた。

 ——というのは、後から聞いた話だ。ルーカスが辿り着いた後、侍女のマルタが手紙で教えてくれた。

 クリスティーナ様は確かに優秀な女性だった。外交力、社交術、教養。公爵夫人として申し分ない。
 ただ一つ、致命的な欠落があった。

 子供を「子供」として見ることが、できなかった。

 この世界では当然のことだ。子供は小さな大人。言い聞かせれば理解する。従わなければ罰する。それが常識。クリスティーナ様は常識通りの対応をしただけ。むしろ、この世界の基準で言えば正しい養育だった。

 でも、子供はそうはいかない。

 最初に崩れたのは、マティアスの食事だった。

 クリスティーナ様は星型の人参なんて作らない。そんなものは「下女の仕事」だ。普通の食事を出し、マティアスが食べなければ下げる。エドワード様の方針と同じ。

 三日で、マティアスはまたパンしか食べなくなった。中庭の菜園は誰にも水を与えられず、マティアスが育てた小さなトマトの苗は枯れた。マティアスはそれを見て、声も出さずに泣いたという。

 次に崩れたのは、エミリアの夜だった。

 クリスティーナ様は寝室に灯りを置かない。「暗闇を怖がるのは甘えだ」と。ルーティンの絵本も歌もない。

 一週間で、エミリアの夜泣きが復活した。三年ぶりの悲鳴に使用人たちが飛び起き、邸宅は深夜に騒然となった。

 最後に崩れたのは、ルーカスだった。

 ルーカスは崩れなかった。むしろ、逆だ。
 十二歳の少年は、静かに怒っていた。

「クリスティーナ様。マティアスの名前は『マティアス』です。『マルティン』ではありません」

「ああ、そうだったかしら。似たようなものでしょう」

 ルーカスの目が、冷たく光ったという。

 ——子供は見ている。全部、覚えている。

 私が前世から持ち込んだ、たった一つの確信。

 そしてある朝、三人は家を出た。



 グリューネヴァルトの学び舎の扉が叩かれたのは、早朝だった。

 私が扉を開けると、そこにいたのは——

「先生」

 ルーカスが立っていた。土埃《つちぼこり》にまみれた旅装束。背中にはぐっすり眠ったマティアス。隣にはエミリア。ルーカスの靴は泥だらけで、右の踵《かかと》がすり減って穴が開いていた。エミリアの髪は絡まって、いつも綺麗に結んでいたリボンが片方ない。マティアスの頬には小さな擦り傷。

 それでも、三人とも——生きていた。

「……ルーカス」

「三日かかりました。初日は王都の門を出てから街道を歩いて、農家の納屋で眠らせてもらいました。二日目は朝から歩いていたら、荷馬車のおじさんが山の麓まで乗せてくれて。三日目は山道を自分たちだけで登りました」

「三日……!」

 私は駆け寄った。三人の顔を見る。疲れている。でも、怪我はない。ルーカスの旅装束のポケットから、折り畳んだ地図が覗いていた。——書斎で写し取ったのだろう。パンと干し肉を包んだ布、水筒、エミリアの寝付きが悪いとき用の小さなランタン。十二歳の少年が考え得る限りの準備を、静かにやっていたのだ。ルーカスの手のひらにはマメができていた。マティアスを背負い続けたのだろう。十二歳の手に、十二歳には重すぎる責任の痕。

「なんで——どうして——」

「書き置きは残してきました。『僕たちはフィオナ先生を選びます』と」

 ルーカスの目から、涙がこぼれた。三日間、泣かなかったのだろう。妹と弟の前では泣けなかったのだろう。十二歳の少年が、三日間ずっと「お兄ちゃん」であり続けた。

「先生、ごめんなさい。勝手に来て。でも——」

「ルーカス」

 私は三人をぎゅっと抱きしめた。

「よく来たね。よく、頑張ったね」

 背中のマティアスが目を覚ました。

「……せんせい?」

「おはよう、マティアス」

「せんせいだ! せんせいだ!」

 マティアスがルーカスの背中からずり落ちるようにして、私に飛びついた。小さな腕が首の後ろに回って、力いっぱい抱きつく。エミリアが目に涙をためて、私の服をぎゅっと握った。

「せんせい、もうどこにもいかないで」

「うん。うん、もう行かないよ」

 レオン先生が奥から飛んできた。

「フィオナ先生、この子たちは——」

「私の……私の大切な子供たちです」

 レオン先生は全てを察したのか、すぐに温かい食事と寝床の準備を始めてくれた。何も聞かず、ただ動いてくれた。学び舎の薪ストーブに火を入れ、毛布を三枚持ってきて、台所でスープを温め始める音が聞こえた。

 ——ああ、この人は。

 教育のことだけじゃない。この人は、「いま何が必要か」をわかる人だ。



 公爵家が動いたのは、その翌日だった。

 早馬の蹄《ひづめ》の音が、朝の静寂を引き裂いた。半日で駆けつけたのだろう、馬は汗だくだった。続いて馬車が一台、グリューネヴァルトに到着した。中から降りてきたのは、エドワード様と——公爵夫人、つまり子供たちの祖母にあたるイルマ様だった。

 エドワード様は学び舎の前に立ち、冷たい声で言った。

「フィオナ。子供たちを返してもらう」

 私が答えるより先に、ルーカスが前に出た。

「父上」

 十二歳の少年は、真っ直ぐ父親を見上げた。

「一つ、聞いてもいいですか」

「何だ」

「エミリアの好きな花は何ですか」

 エドワード様の眉が動いた。

「……何の話だ」

「マティアスが昨日できるようになったことは?」

「くだらないことを——」

「くだらなくありません」

 ルーカスの声は震えていなかった。吃音の欠片もなく、はっきりと、まっすぐに。かつて「ぼ、ぼくは」と詰まっていた子が、父親の目を見て、一言も詰まらずに言い切った。

「フィオナ先生は全部知っています。エミリアが好きなのはスミレ。マティアスは昨日、初めて一人で靴紐《くつひも》が結べました。僕が最初に詰まらずに言えた言葉は、『おはよう』じゃなくて、『フィオナせんせい、おはよう』でした」

 エドワード様は黙った。

「父上は、僕たちの名前を正しく呼ぶ人を追い出して、名前を間違える人を連れてきた。それが、僕たちの答えです」

 沈黙が落ちた。街路を吹く風の音だけが、耳に痛いほど響いた。

 イルマ様が、静かに馬車から一冊の革表紙のノートを取り出した。

「エドワード。これを見なさい」

「何ですか、母上」

「フィオナ嬢が書斎に残していったものです。五年分の——子供たちの成長記録」

 イルマ様はノートを開いた。

「ルーカスの発語練習の経過。エミリアの睡眠記録。マティアスの食事記録。——全て日付入りで、体調の変化、感情の推移、対応方法とその結果まで記されています」

 エドワード様がノートを手に取った。ページをめくる。
 その手が、途中で止まった。

「これは……」

「ただの子守がこんな記録を残しますか」

 イルマ様の声は静かだったが、刃のように鋭かった。

「これは教育の記録です。エドワード、お前は五年間、この子たちのそばにいた女性が何をしていたか、一度でも見たことがありますか?」

 エドワード様の手が止まった。
 ノートのあるページに、小さな手形が押してあった。マティアスが三歳のときのもの。その横に私の字で、こう書いてある。

『今日、マティアスが初めて「おいしい」と言いました。星の人参を食べて。世界で一番きれいな「おいしい」でした』

 エドワード様の顔から、血の気が引いた。——一瞬、その灰色の目に、何か別のものが過《よ》ぎったように見えた。まるで遠い昔の記憶を見ているような、凍りついた表情。
 ノートを持つ手が、かすかに震えていた。指先が、マティアスの小さな手形の上で止まっている。
 ——好きな花を聞かれたことのない子供は、大人になっても、子供に花の名前を聞けない。
 私にはわからない。けれどその震えは、見間違いではなかった。

 私は一歩前に出た。

「エドワード様」

 声は穏やかに。でも、芯だけは折らない。

「子守ではありません」

 あの日言えなかった言葉を、今なら言える。

「私は、この子たちを——育てていたのです」

 レオン先生が、学び舎の入口に立っていた。

「子守ではない。育てていたんだ」

 レオン先生が静かに繰り返した。その声には怒りではなく、確信があった。

 エドワード様はしばらくノートを見つめていた。それから、顔を上げた。
 灰色の瞳には、初めて見る色があった。——困惑と、それから、ほんの少しの後悔。

「……返してもらうと言ったが」

 エドワード様は口を開き、そして閉じた。ルーカスを見て、エミリアを見て、マティアスを見た。

 マティアスは私の後ろに隠れて、スカートの裾をぎゅっと握っていた。

「いやだ。おうちにかえりたくない」

 五歳の子供の、小さな声。
 それは反抗ではなかった。選択だった。

 エドワード様は何も言えなくなった。

 イルマ様が静かに前に出た。

「フィオナ嬢。しばらくの間、子供たちをお願いできますか。養育費と教育費は公爵家が負担いたします。月に一度、子供たちの様子を書面でお知らせいただければ十分です」

「イルマ様……」

「公爵の名でこの学び舎を正式に支援いたします。辺境の教育振興という大義は、公爵家にとっても悪い話ではありません」

 イルマ様は穏やかに微笑んだ。孫たちの幸福を守る祖母の顔と、公爵家の体面を保つ当主夫人の顔を、この方は一つの表情に重ねていた。

「エドワード。これは命令ではありません。事実の確認です。お前の子供たちは、自分の足で、三日かけて歩いてこの女性のもとに来ました。それが全てです」



 エドワード様の馬車が去っていくのを、私は学び舎の前で見送った。

 隣にはルーカスがいて、私の手にはエミリアの小さな手があって、膝にはマティアスが座っていた。

「先生」

 ルーカスが言った。

「僕たち、ここにいていいの?」

「もちろんだよ」

「……ずっと?」

「ずっとだよ、ルーカス」

 ルーカスは泣かなかった。ただ、少しだけ目を赤くして、私の隣に座った。十二歳の少年は、もう幼い子供ではない。でもまだ、大人でもない。その中間の、一番不安定で、一番繊細な場所にいる。だからこそ、そばにいる大人が必要なのだ。

 レオン先生が温かいスープを持ってきてくれた。

「はい、まずはご飯にしよう。——マティアス君、人参入ってるけど大丈夫か?」

「にんじん? ほしのかたち?」

「いや、普通の形だけど——」

「だいじょうぶ! マティアス、にんじんたべれるもん!」

 マティアスがスプーンを握って、人参をぱくりと食べた。
 レオン先生が驚いた顔をした。

「……本当に食べた」

「ふふ、マティアスは偏食を自分で乗り越えたんですよ。すごいでしょう?」

「すごいな、マティアス君!」

「えへへ」

 マティアスが照れ笑いをした。スプーンを握った小さな手で、もう一切れ、人参をすくう。

 エミリアがスープを飲みながら、ぽつりと言った。

「……ここ、あったかいね」

「うん。あったかいよ」

「先生のそば、あったかい」

 私は、ようやく泣いた。
 子供たちの前だけれど、今日だけは許してほしい。嬉しくて、嬉しくて、どうしようもなかった。

 レオン先生が黙ってハンカチを差し出してくれた。

「……ありがとうございます」

「教育ってさ」

 レオン先生は子供たちを見ながら言った。

「こういうことだったんだな。教壇で何かを教えることじゃなくて、その子のそばにいて、その子を見て、その子が自分で歩けるようになるまで、そっと手を添えること」

「……はい」

「俺、ずっと勘違いしてた。フィオナ先生を見て、やっとわかった」

 レオン先生の深い緑の瞳が、夕日に染まっていた。

「だから——もしよかったら、俺にも手伝わせてくれないか。この学び舎を、一緒に」

 私は涙を拭いて、笑った。

「もちろんですわ。——よろしくお願いします、レオン先生」

 後日聞いた話では、エドワード様は帰りの馬車の中で、一言も喋らなかったという。
 跡継ぎであるルーカスが辺境にいるという事実は、公爵家に波紋を広げた。社交界では囁きが始まった。「公爵家の子供が全員家出した」と。

 クリスティーナ様との婚約は——どうなったのだろう。私は知らないし、興味もない。

 ただ一つだけ。
 数週間後、公爵家から一通の手紙が届いた。差出人はエドワード様。中にはたった一行、こう書かれていた。

『子供たちは元気か』

 私は便箋に、こう返した。

『子供たちは元気です。マティアスは昨日、学び舎で年下の子の手を引いて散歩に連れ出してくれました。エミリアは夜通しぐっすり眠れています。ルーカスは、毎朝学び舎で年下の子供たちに本を読み聞かせています。——どうかご安心ください』

 子供は見ている。全部、覚えている。

 そして、子供は自分の足で、自分の居場所を選ぶ。

 それを私に教えてくれたのは、前世の保育園の子供たちだった。そして今、この世界でもう一度、三人の子供たちが教えてくれた。

 グリューネヴァルトの小さな学び舎から、子供たちの笑い声が聞こえる。

 星の形の人参を食べる子がいる。
 夜泣きを乗り越えた子がいる。
 自分の言葉で語れるようになった子がいる。

 そして——椅子を自分から並べるようになった子がいる。
 窓辺の植木鉢に水をやる子がいる。
 年下の子の手を引いて、「大丈夫だよ」と言える子がいる。

 ——子守ではありません。
 私は、この子たちを育てているのです。

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