「当たらぬ占いなど不要だ」と追放された令嬢の最後の予言——「一年以内に、あなたは全てを失う」

歩人

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「当たらぬ占いなど不要だ」と追放された令嬢の最後の予言——「一年以内に、あなたは全てを失う」

 炎が、全てを飲み込んでいた。

 カルバート公爵邸——アルディア王国屈指の名門が誇る壮麗な屋敷が、真紅の炎に包まれ、崩れ落ちていく。柱が裂け、天井が崩落し、数百年の歴史を刻んだ調度品が一瞬で灰と化す。

 逃げ惑う使用人たちの悲鳴。馬のいななき。夜空を焦がす火柱。

 その地獄の只中で、若い騎士が膝をついていた。

「……彼女の、言う通りだった」

 レオン・グレイスは、煤に汚れた顔で呟いた。炎に照らされた瞳に映るのは、絶望と後悔。

 彼女——セラフィーナ・ルナティア。

 追放された、予言の令嬢。

 あの日、彼女が最後に残した言葉が、今になって胸を抉《えぐ》る。

「一年以内に、あなたは全てを失う」

 あれは脅しではなかった。呪いでもなかった。

 ただの——予言だった。



 時は遡る。一年前、春。

 カルバート公爵邸の大広間。

 セラフィーナ・ルナティアは、婚約者の前に静かに立っていた。

 銀色の髪が窓から差し込む光に淡く輝く。薄紫の瞳は穏やかで、どこか遠くを見つめているようだった。

 目の前の男——エドウィン・カルバートは、一切の感情を排した冷たい声で宣告した。

「不吉な女など、我が家には不要だ」

 深い青の瞳が、氷のようにセラフィーナを見据えている。漆黒の髪は一本の乱れもなく、完璧に整えられた装いは大公爵の威厳そのもの。

 セラフィーナは微笑んだ。いつものように、穏やかに。

「……そうですか」

「新しい婚約者を迎える。マリアンヌ嬢——社交界の華だ。少なくとも、不吉な予言で人を怯えさせたりはしない」

「……ええ。それが、よろしいかと思います」

 怒りはなかった。悲しみは——あった。けれど、それすらも深い諦めの底に沈んでいた。

 三年間。

 三年間、この人のために尽くした。予知の眼《さきみのめ》が視せる災いを伝え続けた。

 一度も——信じてもらえなかった。

 その瞬間だった。

 視界が暗転する。

 突然、セラフィーナの世界が闇に閉ざされた。大広間も、エドウィンも、何もかもが消え——代わりに、鮮烈な映像が脳裏に流れ込んでくる。

 炎。

 崩壊する屋敷。逃げ惑う人々。空を焦がす赤い光。

 そして——全てを失い、泥濘《ぬかるみ》の中に膝をつくエドウィンの姿。

 映像が途切れ、現実に引き戻される。

 激しい頭痛が襲った。こめかみが脈打ち、視界がぐらりと揺れる。けれどセラフィーナは倒れなかった。最後の予言を告げなければならない。

「……視えます」

 声が変わった。

 いつもの穏やかな声ではない。低く、深く、大広間の空気を震わせるように響く声。

 エドウィンの眉が僅かに動いた。

「またか。今度は何が『視えた』のだ?」

 嘲りを込めた声。けれどセラフィーナの瞳が淡く光を帯びたのを見て、一瞬だけ言葉が途切れた。

 セラフィーナは静かに告げた。

「一年以内に、あなたは全てを失います」

 大広間の空気が凍りついた。

 侍女たちが息を呑む。側近のレオンが顔を強張らせる。

 エドウィンだけが、鼻で笑った。

「……脅しのつもりか」

「違います。これは……予言です」

 セラフィーナはそれだけ言うと、静かに一礼した。そして背を向け、荷物をまとめるために自室へ向かった。

 振り返らなかった。



 セラフィーナの予知の眼《さきみのめ》が初めて発現したのは、五歳のときだった。

 突然、目の前が暗くなった。怖くて泣きじゃくる幼い自分の脳裏に、兄が馬から落ちる映像が流れ込んできた。

「お兄様が怪我をするの! お馬さんに乗っちゃだめ!」

 泣きながら訴えた。誰も信じなかった。翌日、兄は落馬して腕を骨折した。

 家族は顔を見合わせた。気味が悪い、と。

 十二歳のとき、大火災を予知した。三日前から頭痛がひどくなり、炎に包まれる街の映像が何度も何度も押し寄せてきた。

「火事になります! 逃げてください!」

 必死に叫んだ。「不吉なことを言うな」と叱られた。

 三日後、本当に火災が起きた。使用人が二人、亡くなった。

 父であるルナティア侯爵は、初めてセラフィーナの力を認めた。けれど同時にこう言った。

「お前の力は人を不安にさせる。あまり口にするな」

 それから社交界に出ても、「不吉な令嬢」の噂は常についてまわった。パーティーでは避けられ、茶会に招かれることもなく、まるで幽霊のようだと陰口を叩かれた。

 誰もが距離を置く中、唯一手を差し伸べたのがエドウィン・カルバートだった。

 ただし、それは愛ではなかった。

「予知能力があるなら、政治に使える」

 それが彼の本音だった。セラフィーナにはわかっていた。

 それでも——自分を必要としてくれる人がいるなら。そう思って、婚約を受け入れた。



 三年間の婚約生活は、セラフィーナにとって「信じてもらえない」日々の連続だった。

 最初の大きな予知は、婚約から半年後。

 夜会の直前、セラフィーナの視界が暗転した。エドウィンが苦しみ、倒れる映像。赤いワインと、歪んだ笑みの給仕。

「今夜のワインは、飲まないでください」

 セラフィーナは震える声で懇願した。

「根拠は?」

「……視えたのです。あなたが苦しむ姿が」

「迷信だ」

 エドウィンは取り合わなかった。しかし夜会の席で、偶然グラスに肘が当たり、ワインがこぼれた。結局飲まずに済んだ。翌日、その給仕が政敵に買収されていたことが発覚し、逮捕された。

 セラフィーナは安堵した。エドウィンは言った。

「偶然だ」

 次の予知は一年後。視えたのは、崩落する石橋と、その下敷きになる馬車。

「あの橋は、使わないでください」

「理由を説明したまえ」

「説明できません。ただ……崩れる音が、聞こえるのです」

「聞こえるはずがない。君は考えすぎだ」

 しかしセラフィーナがあまりにも必死だったので、エドウィンは舌打ちしながら迂回路を選んだ。数時間後、その橋は崩落した。通りかかった商人の馬車が巻き込まれ、大怪我を負った。

「老朽化していただけだ。偶然だ」

 そして三度目。婚約から二年半が経った頃。

 政敵との契約書にサインしようとするエドウィンに、セラフィーナは泣きながら縋《すが》りついた。

「その契約書に、サインしないでください!」

「君は口を出すな。これは政治だ」

 周囲の貴族たちがくすくすと笑った。「公爵が令嬢に振り回されている」「情けない」。

 エドウィンの顔が紅潮した。屈辱だった。

 それでも——セラフィーナの尋常ではない様子に、プライドに折り合いをつけるように「慎重を期して」署名を延期した。数日後、契約書に巧妙な罠が仕掛けられていたことが発覚した。

「……私の慎重さが功を奏しただけだ」

 毒殺未遂も、橋の崩落も、政敵の罠も。

 全て「偶然」で片付けられた。

 一度も、感謝されなかった。

 そして——あの契約書の一件が、決定打だった。

 マリアンヌが囁いたのだ。「社交界の皆様が、公爵様のお立場を心配なさっていますわ。あの令嬢がお傍にいる限り——」。美しい微笑みの裏に、計算があった。けれどプライドを傷つけられたエドウィンの耳には、正論にしか聞こえなかった。

 人前で泣きつく婚約者は、公爵家の恥だ。こんな不吉な女はもう要らない、と。



 追放の日。

 セラフィーナは最後の予言を残し、公爵邸を後にした。

 唯一、侍女のアリシアだけが付き従った。

 小柄で、栗色の髪をきちんと結んだ娘。セラフィーナが幼い頃からずっと傍にいてくれた、たった一人の理解者。

「お嬢様……本当に、よろしかったのですか」

 辺境に向かう馬車の中で、アリシアが不安げに問うた。

 セラフィーナは窓の外に流れていく景色を眺めていた。王都アルディスの尖塔が、少しずつ小さくなっていく。

「ええ。もう、疲れましたから」

 穏やかな声だった。いつもの、感情を押し殺した声。

「信じてもらえないのに伝え続けるのは……とても、疲れるのです」

 窓ガラスに、自分の顔が映っていた。銀色の髪、薄紫の瞳。

 その瞳を、一筋の涙が伝った。



 辺境の西部、ローゼンベルク村。

 人口二百人ほどの小さな村。都の権力闘争とは無縁の、穏やかな場所。

 セラフィーナとアリシアは、村の外れにある小さな家を借りて暮らし始めた。正体は隠した。ただの「都から来た貴族の娘」として。

 薬草を育て、村人の手伝いをし、子供たちに読み書きを教えた。

「……ここは、穏やかですね」

 縁側で薬草を干しながら、セラフィーナは呟いた。

「お嬢様、もう予知は……?」

「ありますよ。時々。でも……」

 目を伏せる。

「もう誰にも伝えません。信じてもらえないから」

 アリシアは唇を噛んだ。何か言いたそうにして、けれど飲み込んだ。

 追放から一ヶ月が過ぎた頃。

 夜中に、セラフィーナは飛び起きた。

 予知だった。

 視えたのは——小さな影が、暗い穴に落ちていく映像。子供の泣き声。村の井戸。

 翌朝、セラフィーナは一瞬迷った。また信じてもらえなかったら。また「不吉だ」と言われたら。

 けれど——子供が危ないのだ。

 村長を訪ねた。

「あの……村の井戸なのですが」

「井戸? どうかしましたかな」

「お孫さんを……気をつけてあげてください。井戸に、近づけないように」

 村長は不思議そうな顔をした。けれど、都の令嬢の真剣な眼差しに、素直に頷いた。

「分かりました。気をつけますよ」

 翌日。村長が孫を見張っていたところ、本当に幼い子が井戸の縁によじ登ろうとした。慌てて抱き上げ、事なきを得た。

「あなたのおかげです! 本当に、ありがとうございます!」

 村長が深々と頭を下げた。

 セラフィーナは、目を見開いた。

 ——ありがとう。

 その言葉を、何年ぶりに聞いただろう。

 二十一年の人生で、予知を信じてもらえたのは初めてだった。感謝されたのも、初めてだった。

「……どういたしまして」

 声が震えた。涙が零れそうになるのを、必死にこらえた。



 同じ頃、王都では。

 カルバート公爵邸。側近のレオン・グレイスが蒼白な顔で執務室に駆け込んだ。

「公爵……機密文書が、流出しました」

 エドウィンの手が止まった。

「何だと」

「裏切り者は……ヴィクター副官です。政敵に買収されていました」

「あり得ん。彼は私の腹心だぞ」

 しかし証拠は覆しようがなかった。ヴィクターは既に姿を消していた。

 レオンが躊躇いがちに口を開いた。

「公爵……セラフィーナ様が、以前こう仰っていました。『信頼している方の中に、裏切り者がいます』と……」

「偶然だ」

 エドウィンは即座に切り捨てた。

「誰だって疑心暗鬼になれば、そのくらいのことは言う」

 けれど、心の奥のどこかで——小さな棘が刺さった。

 レオンもまた、胸の内で棘を抱えていた。毒殺未遂も、橋の崩落も、そして今度の裏切りも——全て、セラフィーナ様が予知していた。三度目の「偶然」を、偶然と呼び続けることに、もう限界が来ていた。

 追放から三ヶ月後。

 主要取引先のリヒテンベルク商会が突然倒産した。カルバート家は莫大な損失を被った。

 財務官が震える声で報告した。

「公爵、これは……予測不能でした」

「兆候はなかったのか?」

「……セラフィーナ様が、『あの商会とは距離を置いて』と仰っていましたが」

「黙れ」

 エドウィンの声が、鋭く響いた。

 新しい婚約者マリアンヌが、寄り添うように言った。

「あの令嬢のことは、忘れましょう? 過去に囚われていては前に進めませんわ」

「……ああ。その通りだ」

 追放から半年。

 領地で原因不明の疫病が発生した。

 高熱と発疹。原因不明。治療法不明。日に日に患者が増えていく。

 医師が首を振った。

「これは……かつてセラフィーナ様が警告していた『見えない病《やまい》』ではありませんか」

「彼女は医学の専門家ではない」

「しかし公爵……」

 レオンが、もう黙っていられないという顔で進み出た。

「公爵。裏切り者のことも、商会のことも、疫病のことも——全て、セラフィーナ様の予言通りです」

「黙れと言っている!」

 エドウィンが机を叩いた。書類が散らばった。

 静寂が落ちた。

 レオンもマリアンヌも、凍りついたように動けなかった。

 エドウィンの手が、微かに震えていた。



 追放から九ヶ月。

 政敵たちが一斉に攻勢をかけた。

 カルバート家の利権が剥奪され、同盟を結んでいた貴族たちが次々と手を引いた。王宮での発言力は地に落ち、かつて「天才公爵」と称えられた男の周囲から、人が消えていった。

「なぜだ……なぜこうも不運が重なる」

 エドウィンは執務室で頭を抱えていた。

 マリアンヌが不安げに佇んでいた。

「エドウィン様……私、怖いです」

「大丈夫だ。必ず立て直す」

 そう言いながら、自分でもその言葉を信じられなかった。

 レオンが控えめに提案した。

「公爵……あの、セラフィーナ様を、お呼び戻しになっては……」

「ふざけるな! 私が、あの女に頼ると思うか!」

 プライドが、認めることを拒んでいた。

 自分が間違っていたと。あの女の予言が——全て、正しかったと。



 追放から十一ヶ月。

 それは、深夜のことだった。

 原因不明の火災が、カルバート公爵邸を襲った。

 乾いた風に煽られ、炎は瞬く間に屋敷全体に広がった。数百年の歴史を持つ名門の邸宅が、一夜にして灰燼《かいじん》に帰した。

「公爵! 逃げてください!」

 レオンが叫んだ。

「文書は!? 財宝は!?」

「もう間に合いません!」

 命からがら、炎の中から脱出した。

 振り返ると、自分の全てだった屋敷が、赤々と燃えていた。

 翌日。

 焼け跡の前で茫然と立ち尽くすエドウィンに、マリアンヌが告げた。

「もう……無理です。婚約は解消させていただきます」

「待ってくれ……」

「あなたには、もう何も残っていません」

 美しい顔に浮かんでいたのは、冷たい計算だった。沈む船から逃げる鼠。それだけのことだった。

 去っていく背中を、エドウィンは見送ることしかできなかった。

 レオンだけが、傍に残った。

「公爵……」

 エドウィンは、力なく笑った。

「……レオン。セラフィーナは、どこにいる」

「辺境の、ローゼンベルク村だと聞いております」

 廃墟となった屋敷の前で、エドウィンは空を仰いだ。

 冬の空は、残酷なほど澄んでいた。

「一年以内に、全てを失う」

 彼女の最後の予言が、脳裏で鳴り響いた。

「……彼女の、言う通りだった」

 全てを失って、ようやく分かった。

 セラフィーナの予言は——一度も、外れたことがなかったのだ。



 ボロボロの姿で馬に跨るエドウィンを、レオンが引き留めた。

「公爵、せめてお供を——」

「いい。これは……私一人の罪だ」

 冬の辺境への道は、長く、寒かった。

 かつて大公爵として君臨した男の面影はなかった。煤に汚れた外套。痩せこけた頬。充血した青い瞳。

 馬を駆りながら、三年間の記憶が蘇る。

 ワインを飲まないでと懇願する、セラフィーナの震える声。橋を渡らないでと訴える、必死な瞳。契約書にサインしないでと泣きすがる、華奢な指。

 全て——全て、自分を救おうとしていたのだ。

 信じてもらえなくても。嘲笑されても。不吉だと蔑まれても。

 それでも——。



 ローゼンベルク村に辿り着いたのは、追放からちょうど一年が過ぎた、早春の朝だった。

 小さな村だった。石造りの家々が肩を寄せ合い、畑には冬を越えた麦の芽が顔を出している。都の喧噪《けんそう》とは別世界の、穏やかな場所。

 村人が、ボロボロの旅人を怪訝《けげん》そうに見つめた。

「あの……どちら様で……」

「セラフィーナ・ルナティアは、ここにいるか」

 枯れた声でそれだけ告げると、村人は驚いた顔で村外れの小さな家を指さした。

 庭には、丁寧に手入れされた薬草畑が広がっていた。

 扉が、静かに開いた。

 アリシアが顔を出し、エドウィンを見て息を呑んだ。

「お嬢様……エドウィン様が……」

 奥から、穏やかな声が聞こえた。

「……分かっています」

 セラフィーナが姿を現した。

 銀色の髪は相変わらず月光のように淡く輝いていた。薄紫の瞳は穏やかで、一年前と何も変わらない。

 けれど——どこか、柔らかくなっていた。辺境の暮らしが、この人を少しだけ解放したのかもしれない。

「……久しぶりだな、セラフィーナ」

「……ええ。お久しぶりです、エドウィン様」

 エドウィンは、自分の惨めな姿を見せることに恥じらいすら感じなかった。もう、プライドなど砕け散っていた。

「君の言う通りになった。全て……失った」

「……」

「笑え。『それみたことか』と言え。私は、それだけのことをした」

 セラフィーナは、首を横に振った。

「そんなこと、言いません」

 そして——静かに扉を開け、中に招き入れた。

 小さなテーブルに椅子を勧め、温かいお茶を淹れた。湯気の向こうに、ハーブの穏やかな香り。

 エドウィンは、茶杯を両手で包みながら、俯いた。

「……なぜだ。なぜ君は……私を憎まない」

「憎んでいませんから」

「私は君を追放した。侮辱した。不吉な女と呼んだ。君の警告を……全て、無視した」

「……ええ」

「それなのに……」

 セラフィーナは穏やかに微笑んだ。一年前と同じ——いや、もう少し温かい微笑みだった。

「私はただ……あなたに、傷ついてほしくなかっただけです」

 エドウィンの手から、茶杯が零れそうになった。

「……予知は、呪いです」

 セラフィーナは窓の外を見つめながら、静かに語り始めた。

「見たくないものを、見てしまう。止められない災いを、知ってしまう。そして……誰も信じてくれない」

 声は穏やかだった。けれど、その一言一言に、二十一年分の孤独が滲んでいた。

「五歳のとき、初めて視えたんです。兄が怪我をする映像。必死に訴えました。笑われました。翌日、兄は骨折しました」

「……」

「十二歳のとき、大火災を視ました。三日前から頭が割れそうで、叫ぶように伝えました。『不吉な子』と言われました。三日後、使用人が二人、亡くなりました」

「……」

「それでも私は……大切な人が傷つくのを、見ていられなかった」

 静かに涙が頬を伝った。セラフィーナは拭おうともせず、ただ微笑んでいた。

「信じてもらえなくても、伝えずにはいられなかった。視えてしまうから。助けられるかもしれないから。それが……私の呪いです」

 エドウィンは、椅子から崩れ落ちるように膝をついた。

「……すまなかった」

 掠れた声だった。

「君はずっと、私を救おうとしていたのに」

「……」

「私は……傲慢だった。自分の力だけで全てを支配できると思っていた。見えないものを、認めようとしなかった」

 額を床につけた。天才公爵と呼ばれた男の、無様な姿だった。

「許してくれとは言わない。ただ……もう一度だけ、教えてほしい」

 顔を上げた。青い瞳に、初めて——本当の感情が宿っていた。

「今度こそ、君の予言を信じる」

 セラフィーナは、優しく手を差し伸べた。

「……立ってください、エドウィン様」

 その瞬間——薄紫の瞳が、淡く光を帯びた。

 予知が降りてきた。

 視界が暗転し、映像が流れ込む。今度は——災いではなかった。

 夜の王宮。密かに集う男たち。陰謀の証拠。そして——光の差す道。

「……視えます」

「何が」

「あなたが、全てを取り戻す道が」



 セラフィーナは、視えた全てを伝えた。

「都に戻ってください。三日後の夜、王宮の西棟で密会があります」

「密会?」

「あなたを陥れた者たちが集まります。次の標的を決める場です。そこで証拠を掴み、国王陛下に直訴してください」

 エドウィンは、じっとセラフィーナを見つめた。

 かつてなら、「根拠は」「論理的に説明したまえ」と言っただろう。

 けれど今は——。

「……信じよう」

 静かに、けれど確かに頷いた。

「今度こそ、信じる」

 セラフィーナの瞳から、涙が零れた。けれどそれは——嬉しい涙だった。

 二十一年間、誰にも信じてもらえなかった言葉。

「信じる」

 たったそれだけの言葉が、こんなにも温かいなんて。



 エドウィンは、都に戻った。

 セラフィーナの予言通り、三日後の深夜、王宮西棟に政敵たちが集まっていた。カルバート家を陥れた陰謀の首謀者たちが、次の標的について密議を交わしている。

 レオンと共に潜入し、決定的な証拠を押さえた。

 翌日、国王に謁見。

「この証拠を、ご覧ください」

 陰謀が白日の下に晒された。政敵たちは一斉に失脚した。

 国王が問うた。

「卿は、誰からこの情報を?」

「……予言者からです」

「予言?」

「ええ。かつて私は、予言を信じませんでした」

 エドウィンは真っ直ぐに国王を見据えた。

「しかし今は——信じています」

 次にセラフィーナが視せてくれたのは、北の森に生える特別な薬草のビジョンだった。

 エドウィンは迷わず北の森に入り、その薬草を見つけ出した。疫病に苦しむ領民たちに煎じて飲ませると、嘘のように快方に向かった。

 ひとつひとつ。

 セラフィーナの導きに従い、エドウィンは失ったものを取り戻していった。

 信頼を。領地を。人の心を。

 レオンが感嘆した。

「公爵……まるで奇跡のようです」

「奇跡ではない」

 エドウィンは、西の空を見つめて言った。

「彼女が——導いてくれているんだ」



 全てを取り戻した春の日。

 エドウィンは再び、ローゼンベルク村を訪れた。

 今度はボロボロの旅人ではなく、大公爵としての正装で。けれど表情は、かつての冷徹さとは程遠い、穏やかなものだった。

 薬草畑で子供たちに囲まれているセラフィーナを見つけた。

「お姉ちゃん、これなあに?」

「これはカモミールよ。お腹が痛いときに効くの」

「お姉ちゃんの予知ってすごいね! 村長のおじいちゃんが言ってたよ!」

「……ええ。でも、使い方次第ですよ」

 穏やかな笑顔だった。都にいた頃には見せなかった、心からの笑顔。

「セラフィーナ」

 振り向いた彼女と、目が合った。

「……エドウィン様」

「都に戻ってきてくれないか」

 セラフィーナは少し考え、それから静かに首を振った。

「……私は、ここが好きです。ここには、私の予言を信じてくれる人たちがいますから」

 エドウィンは、その言葉に胸を貫かれた。

 都では誰にも信じてもらえなかった彼女が、この小さな村で、初めて居場所を見つけたのだ。

「ならば——」

 エドウィンは膝をついた。

 子供たちが目を丸くする。アリシアが息を呑む。村人たちがざわめく。

「もう一度、私の婚約者になってほしい」

「……」

「今度は、君を大切にする。君の言葉を信じる。君の予言を——呪いではなく、祝福として受け止める」

 セラフィーナの薄紫の瞳が、大きく見開かれた。

 ——祝福。

 その言葉を、予知の眼《さきみのめ》に対して使った人は、誰もいなかった。

 父は「人を不安にさせる力」と言った。社交界は「不吉」と呼んだ。エドウィン自身も「迷信」と切り捨てた。

 それを——祝福、と。

「私はもう、都と辺境を行き来してもいい。君がここにいたいなら、私がここに来る。何度でも」

「……」

「信じてくれ。今度こそ——」

 セラフィーナの頬を、涙が伝った。

 けれどそれは、あの追放の日の涙とは違っていた。

「……はい」

 小さく、けれど確かに頷いた。

 子供たちが歓声を上げた。アリシアが泣き崩れた。村人たちが拍手した。

 エドウィンは立ち上がり、セラフィーナの手をそっと取った。

 細い指。けれど——この手が、ずっと自分を支えていたのだ。



 それから一年が経った。

 カルバート公爵家は完全に復活した。けれどエドウィンとセラフィーナは、都と辺境を行き来する生活を選んだ。

 ローゼンベルク村の小さな家は、今もセラフィーナの帰る場所だった。

 春の陽射しの中、薬草畑で子供たちと笑うセラフィーナ。その傍らに、不器用に薬草を摘むエドウィン。

「お姉ちゃんの予知ってすごいよね! この前も村長のおじいちゃんの風邪、当てたでしょ!」

「あれは予知じゃなくて、季節の変わり目だからですよ」

 くすくすと笑うセラフィーナ。

「でもね」

 子供たちの頭を撫でながら、穏やかに言った。

「予知は、一人では意味がないの。信じてくれる人がいて、初めて……誰かを救えるのよ」

 エドウィンが、優しく微笑んだ。かつての冷徹な面影はどこにもなかった。

「これからも、君の予言を信じる」

「……ありがとうございます」

 二人の手が、そっと繋がれた。

 セラフィーナの予知の眼《さきみのめ》は、相変わらず災いだけを視せる。それは変わらない。

 けれど——もう、一人ではなかった。

 予言は呪いではない。

 信じてくれる人がいれば——それは、祝福になる。

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