「お前は道具だった」と笑った婚約者が、5年後に物乞いになって戻ってきた件

歩人

文字の大きさ
1 / 1

「お前は道具だった」と笑った婚約者が、5年後に物乞いになって戻ってきた件

しおりを挟む
 秋の王都は、黄金色の並木道が美しい。

 馬車の行き交う大通りを、私はセドリック様と二人で歩いていた。王族がこうして気軽に散策するのは本来好ましくないのだけれど、護衛を少し離れた位置につけ、時折こうして「普通の夫婦」のように街を歩くのが、私たちのささやかな楽しみだった。

「カタリナ、あの店に新しい紅茶が入ったそうだ。帰りに寄ろうか」

「ええ、ぜひ。セドリック様がお好きなダージリンの新茶があるかもしれませんわ」

 穏やかな午後だった。
 二年前に結婚してから、こんな日常が当たり前になった。かつての私には想像もできなかった、温かくて、静かで——何より、対等な日々。

 その平穏を破ったのは、一つの声だった。

「——カタリナ」

 低く、かすれた声。
 聞き覚えがあるような、ないような。

 振り向くと、そこに立っていたのは一人の男だった。
 汚れた外套《がいとう》を纏《まと》い、頬はこけ、かつて艶やかだったはずの金髪は色褪せて乱れている。青い瞳だけが、異様な光を帯びていた。

「カタリナ……僕だ。僕を、覚えているか」

 セドリック様の手が、私の手をそっと握り直す。護衛が一歩前に出ようとするのを、私は目で制した。

 男を見つめる。
 ——ああ。

「あら、どなたでしたっけ?」

 私は微笑んだ。五年の歳月は人をここまで変えるのかと、少し驚きながら。

「僕だ! ヴィクトル・フォン・レーヴェンハイム——いや、もう姓は名乗れないが……頼む、カタリナ。話を聞いてくれ」

 ヴィクトル。
 ああ、そうだ。その名前。かつて私の婚約者だった男。私を「道具」と呼んだ男。

「……ああ、思い出しました」

 私は変わらず微笑んだまま、小さく頷いた。

「お久しぶりですね。随分とお変わりになられて」

 あの日のことを、思い出す。
 五年前——卒業式の、夜のこと。



 王立学園の卒業記念舞踏会。
 シャンデリアの光が広間を華やかに照らし、若い貴族たちが晴れやかな顔で語り合っていた。三年間の学園生活の最後を飾る、最も華やかな夜。

 私はいつものように、ヴィクトル様の隣に立っていた。
 淡い青紫のドレス。髪はきちんと結い上げて。完璧な侯爵令嬢として、完璧な婚約者として。

 ヴィクトル様は相変わらず社交的で、誰とでも朗らかに言葉を交わしていた。端正な顔立ち、爽やかな笑顔、隙のない立ち振る舞い。学園一の好青年と評されるのも頷ける——表の顔だけを見れば、の話だけれど。

「みんな、少し聞いてくれ」

 突然、ヴィクトルが広間の中央で声を上げた。
 周囲の会話が止まり、視線が集まる。

 ——ああ、来た。

 私の心は、凪いでいた。

「僕は今日、一つ報告がある」

 ヴィクトルは私の方を向いた。その唇には、完璧な微笑み。けれどその目の奥には、隠しきれない愉悦があった。他人を踏みにじることに快感を覚える人間特有の、あの光。

 私は知っている。ずっと前から。

「カタリナ。君との婚約を、今日をもって解消する」

 広間にどよめきが走った。
 令嬢たちが息を呑み、令息たちが眉をひそめる。衆人環視の中での婚約破棄——それがどれほどの侮辱であるか、この場にいる誰もが理解していた。

「ヴィクトル様……?」

 私は驚いたふりをした。目を見開き、一歩後ずさる。完璧な演技だった——いえ、そう見えるように練習していたのだから当然だ。

「悪く思わないでくれ」

 ヴィクトルは両手を広げ、芝居がかった仕草で言った。

「正直に言おう。お前は——僕が公爵令嬢に近づくための道具だったんだ」

 沈黙が、落ちた。

「侯爵家の婚約者という肩書きは便利だった。お前の人脈も、お前の家の資産も。全部、僕がマルガレーテ嬢に近づくための足がかりだ。感謝しているよ、カタリナ」

 彼の隣に、一人の令嬢が進み出た。エルンスト公爵家のマルガレーテ嬢。豊かな栗色の髪、翡翠の瞳。確かに美しい人だ。彼女は少しばかり居心地が悪そうに——けれど誇らしげに、ヴィクトルの腕に手を添えた。

「僕とマルガレーテ嬢は、正式に婚約した。こちらが本当の相手だ」

 周囲からは驚愕と、それから私への同情の視線。
 哀れなカタリナ。道具として使い捨てられた侯爵令嬢。

 ——ふふ。

 私は唇の端を持ち上げた。

「そうでしたか」

 静かに、穏やかに。いつもの微笑みを浮かべて。

「それはおめでとうございます。どうぞ、お幸せに」

 深く、優雅にお辞儀をした。
 一滴の涙もこぼさず。声も震えず。

 ヴィクトルの目に、一瞬だけ戸惑いが過《よ》ぎったのを、私は見逃さなかった。泣きじゃくる姿を期待していたのだろう。すがりつく私を振り払う場面を想像していたのだろう。

 残念。あなたの筋書き通りにはいきませんよ。

 踵を返し、広間を出る。
 背後でどよめきが続いていたが、振り返らなかった。

 廊下に出て、一人になって。
 ようやく、小さく息を吐いた。

 ——ようやく。ようやく言ってくれましたね、ヴィクトル。

 「道具だった」。その言葉を、あなた自身の口から聞きたかった。

 かつて好きだった人だから。十五歳の私が頬を赤くして見上げた人だから。その人が本当に、私を人として見ていなかったのか——自分の耳で確かめたかった。

 確認できた。

 だから、もう迷わない。

「これで——遠慮なく、動けます」

 私は微笑んだ。今度は誰に見せるためでもなく。



 話は少し遡《さかのぼ》る。

 ヴィクトルの正体に気づいたのは、卒業式の一年前——学園二年目の冬のことだった。

 きっかけは、実家の帳簿。
 侯爵家の令嬢として財務の基礎を学んでいた私は、休暇で実家に戻った折、ある不審な項目に目を留めた。

「贈答品費用……?」

 ヴィクトル様経由の支出が、異様に膨らんでいた。
 社交のための贈答品——名目はそうなっている。けれど、金額が合わない。侯爵家の格式に見合う贈答にしても、あまりに多すぎる。

 最初は何かの間違いだと思った。
 ヴィクトル様を疑いたくなかった、というのが正直なところだ。まだあの頃の私は——ほんの少しだけ、彼を信じたい気持ちが残っていたから。

 けれど数字は嘘をつかない。

 私は信頼できる密偵を雇った。父の古い友人が紹介してくれた、腕利きの情報屋だ。表向きは商人をしているその人物に、ヴィクトルの行動を調べてほしいと依頼した。

 結果は——想像以上だった。

 ヴィクトルは私の家から引き出した資産を、公爵令嬢マルガレーテへの贈り物に流用していた。高価な宝飾品、珍しい書籍、異国の織物。全てカタリナの家の金で、別の女性の歓心を買っていた。

 それだけではない。
 ヴィクトルはマルガレーテ嬢と定期的に密会していた。学園の裏庭、王都の高級料理店、郊外の別邸。密偵が持ち帰った報告書には、日時と場所が克明に記されていた。

「……そう」

 報告を受けた夜、私は一人、自室で帳簿を開いた。
 横領の額を一つずつ洗い出し、証拠を整理した。感情を殺して、数字と向き合った。

 泣きたくなかった、と言えば嘘になる。
 好きだった人だ。初めての婚約者だ。十五歳の私が夢見た未来が、帳簿の上で崩れていくのを見るのは——それなりに、堪えた。

 けれど泣いている暇はなかった。

 泣けば、負ける。
 感情に溺れれば、判断を誤る。
 私がすべきことは涙を流すことではなく、証拠を揃えることだった。

 一年をかけた。
 帳簿の不正。密会の記録。横領の金の流れ。ヴィクトルの本当の目的。全てを完璧に裏付ける証拠を揃えるのに、まるまる一年。

 そしてその証拠を——私は第二王子セドリック殿下にお渡しした。

 セドリック殿下を選んだのには理由がある。殿下は学園時代から不正を嫌う方として知られていた。権力に媚びず、正義を重んじる。何より——証拠を握り潰すような方ではない。

「これは……」

 証拠の束を受け取ったセドリック殿下は、しばらく無言で目を通し、それから顔を上げた。

「ヴァレンシュタイン嬢。これを集めるのに、どれだけかかった」

「一年ほどです」

「一年」

 殿下は目を細めた。怒りでも同情でもない、何か——敬意に近い光が、その瞳にあった。

「君は今、怒りで震えているのに笑っている」

 指摘されて初めて気づいた。私の指先が、小さく震えていたことに。

「……お見苦しいところをお見せしました」

「いいや」

 セドリック殿下は静かに言った。

「証拠は確かに預かった。しかるべき手続きを取る。——だが一つ聞いてもいいか。なぜ今すぐ告発しない? 卒業を待つ理由は何だ」

「……彼の口から、聞きたいのです」

「聞きたい?」

「私が本当に道具だったのかどうか。彼自身の言葉で。——自白があれば裁判もより確実になりますし」

 それは半分本当で、半分は言い訳だった。
 本当の理由は——確かめたかっただけ。かつて好きだった人が、最後の最後まで私を人として見ていなかったのかどうか。

 もし万が一、ヴィクトルが思い直すなら。もし卒業式の日に彼が「すまなかった」と言うなら——。

 そんなことは起きないとわかっていた。わかっていて、なお一縷《いちる》の望みを捨てきれなかった。あの頃の私は、まだどこかで。

 けれど結果は、ご存じの通りだ。

「お前は道具だった」

 彼はそう言って、笑った。
 一縷の望みは、あの夜、完全に消えた。



 卒業式の翌日。
 ヴィクトルがマルガレーテ嬢との婚約を高らかに宣言した、まさにその翌日に——全てが動き出した。

 セドリック殿下が王宮の裁判所に証拠を提出した。
 横領の帳簿。資産の流れを示す書類。密偵の報告書。一年かけて集めた証拠は、一分の隙もなかった。

 ヴィクトルは弁解を試みた。
 「誤解だ」「カタリナが自分に使ってくれと言った」「侯爵家との合意の上だ」——どれ一つ、証拠の前には通用しなかった。

 裁判は迅速だった。
 証拠が完璧すぎて、争う余地がなかったのだ。

 判決——横領の罪により、ヴィクトル・フォン・レーヴェンハイムの爵位を剥奪。財産を没収。社交界からの永久追放。

 ヴィクトルの実家であるレーヴェンハイム子爵家も、監督責任を問われて連座の処分を受けた。子爵位は降格され、かつての名家は見る影もなく没落した。

 そして——公爵令嬢マルガレーテ嬢も、真相を知るに至った。

 マルガレーテ嬢は聡明な方だった。自分が受け取っていた贈り物の全てが、別の令嬢の家から横領された金で購入されたものだと知ったとき、彼女は蒼白になったと聞く。

「私も、利用されていたのね」

 マルガレーテ嬢はヴィクトルとの婚約を即座に破棄した。
 そしてある日、私のもとを訪れた。

「ヴァレンシュタイン嬢。——本当に、申し訳なかった」

「あなたが謝ることではありませんわ、マルガレーテ様。あなたも被害者です」

「それでも」

 マルガレーテ嬢は深く頭を下げた。その姿に、私は不思議と清々しいものを感じた。この方は——きちんとした人だ。騙されていたとはいえ、自分の非を認められる人だ。

「顔を上げてください。私はあなたを恨んでなどいませんよ。恨むべきは、私たち二人を利用した人です」

 それきり、マルガレーテ嬢とは穏やかな関係が続いている。社交の場で顔を合わせれば微笑みを交わす程度だが——あの日交わした言葉は、お互い忘れていないと思う。

 ヴィクトルの転落と入れ替わるように、私とセドリック殿下の距離は少しずつ縮まっていった。

 最初は証拠の件で何度もお会いする必要があった。裁判の経過報告、追加の証言、手続きの確認。事務的なやり取りのはずだったのに——いつからか、殿下は裁判と関係のない話もしてくださるようになった。

「カタリナ嬢。今日は裁判の話ではなく、一つ聞いていいか」

「はい、何でしょう」

「好きな花はあるか」

「……は?」

「いや、庭園の花を植え替えようと思ってな。参考に」

 あまりに唐突で、思わず噴き出してしまった。殿下は少し耳を赤くして、不器用に目を逸らした。

 ——ああ。この方は、嘘がつけない人だ。

 ヴィクトルとは正反対だった。
 甘い言葉を囁くわけでもなく、大げさな贈り物をするわけでもなく。ただ不器用に、正直に、真正面から向き合ってくれる人。

「すずらんが好きです」

「すずらん」

「小さくて、目立たなくて。でも芯が強い花です」

 殿下は黙って頷いた。
 次にお会いしたとき、殿下の庭園の一角に、すずらんが植えられていた。何も言わず、当然のように。

 卒業から二年後、セドリック殿下は正式に求婚してくださった。

「君を道具として見たことは、一度もない。これからも、決してない。——僕と共に歩いてくれるか」

 あの日、初めて——本当に初めて、私は人前で涙を見せそうになった。

「……はい。喜んで」

 こうして私はセドリック殿下の妻となり、今は王子妃として穏やかに暮らしている。

 復讐がしたかったわけではない。
 ヴィクトルを陥れたかったわけでもない。
 ただ、正しいことをしただけだ。不正を不正として告発し、証拠を然るべき場所に渡しただけだ。

 結果としてヴィクトルが没落したのは——彼自身の行いの報いであって、私の企みではない。

 少なくとも、私はそう思っている。



 ——さて。回想はここまでだ。

 目の前には、五年の歳月に磨り潰された男が立っている。

 かつて学園一の好青年と呼ばれたヴィクトル・フォン・レーヴェンハイム。端正な顔立ちは頬がこけて影を落とし、自慢の金髪は褪せて束になり、仕立てのいい衣服の代わりに汚れた外套を纏っている。

 けれど青い瞳だけが、あの頃と同じ光を帯びていた。何かを欲しがる、飢えた光。

「カタリナ……頼む。話を聞いてくれ」

「ええ、聞いていますよ」

 私は微笑んだ。いつもの笑顔。仮面のように完璧な笑顔。

「僕が間違っていた」

 ヴィクトルは一歩近づいた。護衛が身じろぎしたが、セドリック様が手で制した。

「あの時は若かった。愚かだった。本当に大切なものが何か、わかっていなかったんだ」

「まあ」

「君だったんだ、カタリナ。本当に愛すべきだったのは、ずっと君だった。今ならわかる。だから——もう一度、やり直してくれないか」

 やり直す。

 その言葉を聞いて、私の中で何かが静かに凪いだ。怒りでも悲しみでもない。ただ——とても澄んだ、冷たい水のような感情。

「やり直す?」

 私は首を傾げた。

「何を、です?」

「僕たちの関係を——」

「私とあなたの間に、やり直すようなものがありましたか?」

 ヴィクトルの顔が強張った。

「あなたはかつて仰いましたよね。『お前は道具だった』と。道具と使い手の間に、やり直すべき関係があるとは——私には思えないのですけれど」

「あれは、あの時は本気じゃ——」

「本気でしたよ」

 静かに、けれど確信を持って言い切った。

「あの夜のあなたの目。私はよく覚えています。あれは心の底から愉しんでいる人の目でした。人を踏みにじって、それを誇らしく思っている人の目」

「違う、僕は——」

「五年前、あなたが笑いながら『道具だった』と言ったとき」

 私は一拍置いた。微笑みを崩さないまま。

「私の中のあなたは、死にました」

 秋風が、並木道を吹き抜けた。
 黄金色の葉が二人の間を舞い落ちる。

「今ここにいるのは、私の知らない人です。私の知っていたヴィクトル様は——存在しなかった。最初から、どこにも」

 ヴィクトルの顔から血の気が引いていくのが見えた。
 それから——その表情が、ゆっくりと歪んだ。

「お前が……」

 低い声。震えている。怒りか、それとも別の何かか。

「お前が、僕を嵌めたのか」

 ああ、やはり。
 そう来ると思っていた。追い詰められた人間は、必ず他人のせいにする。自分が蒔いた種だとは、決して認めない。

「証拠を集めて、王子に渡して、僕を——!」

「嵌めた?」

 私が言葉を返すより先に、隣からセドリック様の声が響いた。

「彼女は嵌めてなどいない」

 セドリック様が一歩前に出た。穏やかだが、有無を言わさない声。王族としての威厳が、その一言に滲んでいた。

「カタリナは正当な手続きで告発しただけだ。証拠を集め、裁判所に提出し、法に委ねた。それだけのことだ」

「だけ、だと——」

「嵌めたのではない。お前が自分で墓穴を掘ったんだ」

 セドリック様の言葉は静かだったが、その場の空気を完全に支配していた。

「横領をしたのはお前だ。他人の資産を流用したのもお前だ。婚約者を道具と呼んで切り捨てたのもお前だ。その全てがお前自身の選択だ。カタリナはそれを記録しただけに過ぎない」

 ヴィクトルの唇が震えた。
 何か言い返そうとして——言葉が出てこないのだろう。反論できる材料が、何もないのだから。

「衛兵」

 セドリック様が短く呼んだ。控えていた護衛が二人、すっと前に出る。

「この者を下がらせろ。王子妃に無礼を働いた」

「待ってくれ——カタリナ! カタリナ!」

 衛兵に両腕を掴まれながら、ヴィクトルが叫んだ。その声はもう、かつての爽やかさの欠片もない。ただ必死で、みっともなくて——哀れだった。

「僕は変われる! やり直せるんだ! 頼む——」

 私は振り返らなかった。

「——頼む」

 最後の声が、秋風に溶けて消えた。



 馬車の中で、私は黙っていた。

 セドリック様も、しばらく何も言わなかった。
 ただ隣に座って、私の手をそっと握ってくれていた。

「……セドリック様」

「ん?」

「少し、眠いです」

「そうか」

 セドリック様は私の頭をそっと自分の肩に寄せた。

「寝ていいぞ。家に着いたら起こす」

「……ありがとうございます」

 嘘だ。眠いわけではない。
 ただ——顔を見られたくなかった。

 頬を、涙が伝っていた。

 五年間。ずっと泣かなかった。
 ヴィクトルに道具と呼ばれたあの夜も。証拠を整理しながら眠れない夜を過ごしたときも。裁判の経過を聞いたときも。

 泣いたら負けだと思っていた。涙を見せたら、仮面が剥がれてしまうと。

 でも、もう。

「……終わりました」

 声が震えた。堪えきれなかった。

「ようやく……終わりましたわ」

 セドリック様の手が、私の手を少しだけ強く握った。

「ああ。終わったよ」

 静かな声。温かい手。それだけで十分だった。

 涙が止まらなかった。悲しいのではない。悔しいのでもない。ヴィクトルが哀れだからでもない。

 ただ——安堵していた。

 五年間被り続けた仮面を、ようやく外せた。道具ではなく一人の人間として、泣くことを自分に許せた。それがただ、どうしようもなく嬉しかった。

 馬車の窓の外を、黄金色の葉が流れていく。

 秋の王都は、今日も美しい。

「……セドリック様」

「ん」

「すずらん、まだ咲いていますか。お庭の」

「当たり前だ。毎年咲く。来年もその先も」

「……そうですか」

 私は目を閉じた。
 セドリック様の肩に寄りかかって。涙の跡が乾いていくのを感じながら。

 道具ではない。
 踏み台でもない。
 この人の隣で、私は私として生きている。

 それだけで——もう、十分だった。

しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

公爵令嬢は結婚式当日に死んだ

白雲八鈴
恋愛
 今日はとある公爵令嬢の結婚式だ。幸せいっぱいの公爵令嬢の前に婚約者のレイモンドが現れる。 「今日の結婚式は俺と番であるナタリーの結婚式に変更だ!そのドレスをナタリーに渡せ!」  突然のことに公爵令嬢は何を言われたのか理解できなかった。いや、したくなかった。 婚約者のレイモンドは番という運命に出逢ってしまったという。  そして、真っ白な花嫁衣装を脱がされ、そのドレスは番だという女性に着させられる。周りの者達はめでたいと大喜びだ。  その場所に居ることが出来ず公爵令嬢は外に飛び出し……  生まれ変わった令嬢は復讐を誓ったのだった。  婚約者とその番という女性に 『一発ぐらい思いっきり殴ってもいいですわね?』 そして、つがいという者に囚われた者の存在が現れる。 *タグ注意 *不快であれば閉じてください。

いっとう愚かで、惨めで、哀れな末路を辿るはずだった令嬢の矜持

空月
ファンタジー
古くからの名家、貴き血を継ぐローゼンベルグ家――その末子、一人娘として生まれたカトレア・ローゼンベルグは、幼い頃からの婚約者に婚約破棄され、遠方の別荘へと療養の名目で送られた。 その道中に惨めに死ぬはずだった未来を、突然現れた『バグ』によって回避して、ただの『カトレア』として生きていく話。 ※悪役令嬢で婚約破棄物ですが、ざまぁもスッキリもありません。 ※以前投稿していた「いっとう愚かで惨めで哀れだった令嬢の果て」改稿版です。文章量が1.5倍くらいに増えています。

「無理をするな」と言うだけで何もしなかったあなたへ。今の私は、大公家の公子に大切にされています

葵 すみれ
恋愛
「無理をするな」と言いながら、仕事も責任も全部私に押しつけてきた婚約者。 倒れた私にかけたのは、労りではなく「失望した」の一言でした。 実家からも見限られ、すべてを失った私を拾い上げてくれたのは、黙って手を差し伸べてくれた、黒髪の騎士── 実は、大公家の第三公子でした。 もう言葉だけの優しさはいりません。 私は今、本当に無理をしなくていい場所で、大切にされています。 ※他サイトにも掲載しています

お前は要らない、ですか。そうですか、分かりました。では私は去りますね。あ、私、こう見えても人気があるので、次の相手もすぐに見つかりますよ。

四季
恋愛
お前は要らない、ですか。 そうですか、分かりました。 では私は去りますね。

こうして私は悪魔の誘惑に手を伸ばした

綴つづか
恋愛
何もかも病弱な妹に奪われる。両親の愛も、私がもらった宝物もーー婚約者ですらも。 伯爵家の嫡女であるルリアナは、婚約者の侯爵家次男ゼファーから婚約破棄を告げられる。病弱で天使のような妹のカリスタを抱き寄せながら、真実の愛を貫きたいというのだ。 ルリアナは、それを粛々と受け入れるほかなかった。 ゼファーとカリスタは、侯爵家より譲り受けた子爵領へと移り住み、幸せに暮らしていたらしいのだが。2年後、『病弱』な妹は、出産の際に命を落とす。 ……その訃報にルリアナはひっそりと笑みを溢した。 妹に奪われてきた姉が巻き込まれた企みのお話。 他サイトにも掲載しています。※ジャンルに悩んで恋愛にしていますが、主人公に恋愛要素はありません。

真実の愛に祝福を

あんど もあ
ファンタジー
王太子が公爵令嬢と婚約破棄をした。その後、真実の愛の相手の男爵令嬢とめでたく婚約できたのだが、その先は……。

婚約破棄が聞こえません

あんど もあ
ファンタジー
私は、真実の愛に目覚めた王子に王立学園の卒業パーティーで婚約破棄を宣言されたらしいです。 私には聞こえないのですが。 王子が目の前にいる? どこに? どうやら私には王子が見えなくなったみたいです。 ※「承石灰」は架空の物質です。実在の消石灰は目に入ると危険ですのでマネしないでね!

真実の愛を見つけた王太子殿下、婚約破棄の前に10年分の王家運営費1.5億枚を精算して頂けます?

ぱすた屋さん
恋愛
「エルゼ、婚約を破棄する! 私は真実の愛を見つけたのだ!」 建国記念祭の夜会、王太子アルフォンスに断罪された公爵令嬢エルゼ。 だが彼女は泣き崩れるどころか、事務的に一枚の書類を取り出した。 「承知いたしました。では、我が家が立て替えた10年分の王家運営費――金貨1億5800万枚の精算をお願いします」 宝石代、夜会費、そして城の維持費。 すべてを公爵家の「融資」で賄っていた王家に、返済能力などあるはずもない。 「支払えない? では担保として、王都の魔力供給と水道、食料搬入路の使用を差し止めます。あ、殿下が今履いている靴も我が家の備品ですので、今すぐ脱いでくださいね?」 暗闇に沈む王城で、靴下姿で這いつくばる元婚約者。 下着同然の姿で震える「自称・聖女」。 「ゴミの分別は、淑女の嗜みですわ」 沈みゆく泥舟(王国)を捨て、彼女を「財務卿」として熱望する隣国の帝国へと向かう、爽快な論理的ざまぁ短編!

処理中です...