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「お前は道具だった」と笑った婚約者が、5年後に物乞いになって戻ってきた件
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秋の王都は、黄金色の並木道が美しい。
馬車の行き交う大通りを、私はセドリック様と二人で歩いていた。王族がこうして気軽に散策するのは本来好ましくないのだけれど、護衛を少し離れた位置につけ、時折こうして「普通の夫婦」のように街を歩くのが、私たちのささやかな楽しみだった。
「カタリナ、あの店に新しい紅茶が入ったそうだ。帰りに寄ろうか」
「ええ、ぜひ。セドリック様がお好きなダージリンの新茶があるかもしれませんわ」
穏やかな午後だった。
二年前に結婚してから、こんな日常が当たり前になった。かつての私には想像もできなかった、温かくて、静かで——何より、対等な日々。
その平穏を破ったのは、一つの声だった。
「——カタリナ」
低く、かすれた声。
聞き覚えがあるような、ないような。
振り向くと、そこに立っていたのは一人の男だった。
汚れた外套《がいとう》を纏《まと》い、頬はこけ、かつて艶やかだったはずの金髪は色褪せて乱れている。青い瞳だけが、異様な光を帯びていた。
「カタリナ……僕だ。僕を、覚えているか」
セドリック様の手が、私の手をそっと握り直す。護衛が一歩前に出ようとするのを、私は目で制した。
男を見つめる。
——ああ。
「あら、どなたでしたっけ?」
私は微笑んだ。五年の歳月は人をここまで変えるのかと、少し驚きながら。
「僕だ! ヴィクトル・フォン・レーヴェンハイム——いや、もう姓は名乗れないが……頼む、カタリナ。話を聞いてくれ」
ヴィクトル。
ああ、そうだ。その名前。かつて私の婚約者だった男。私を「道具」と呼んだ男。
「……ああ、思い出しました」
私は変わらず微笑んだまま、小さく頷いた。
「お久しぶりですね。随分とお変わりになられて」
あの日のことを、思い出す。
五年前——卒業式の、夜のこと。
王立学園の卒業記念舞踏会。
シャンデリアの光が広間を華やかに照らし、若い貴族たちが晴れやかな顔で語り合っていた。三年間の学園生活の最後を飾る、最も華やかな夜。
私はいつものように、ヴィクトル様の隣に立っていた。
淡い青紫のドレス。髪はきちんと結い上げて。完璧な侯爵令嬢として、完璧な婚約者として。
ヴィクトル様は相変わらず社交的で、誰とでも朗らかに言葉を交わしていた。端正な顔立ち、爽やかな笑顔、隙のない立ち振る舞い。学園一の好青年と評されるのも頷ける——表の顔だけを見れば、の話だけれど。
「みんな、少し聞いてくれ」
突然、ヴィクトルが広間の中央で声を上げた。
周囲の会話が止まり、視線が集まる。
——ああ、来た。
私の心は、凪いでいた。
「僕は今日、一つ報告がある」
ヴィクトルは私の方を向いた。その唇には、完璧な微笑み。けれどその目の奥には、隠しきれない愉悦があった。他人を踏みにじることに快感を覚える人間特有の、あの光。
私は知っている。ずっと前から。
「カタリナ。君との婚約を、今日をもって解消する」
広間にどよめきが走った。
令嬢たちが息を呑み、令息たちが眉をひそめる。衆人環視の中での婚約破棄——それがどれほどの侮辱であるか、この場にいる誰もが理解していた。
「ヴィクトル様……?」
私は驚いたふりをした。目を見開き、一歩後ずさる。完璧な演技だった——いえ、そう見えるように練習していたのだから当然だ。
「悪く思わないでくれ」
ヴィクトルは両手を広げ、芝居がかった仕草で言った。
「正直に言おう。お前は——僕が公爵令嬢に近づくための道具だったんだ」
沈黙が、落ちた。
「侯爵家の婚約者という肩書きは便利だった。お前の人脈も、お前の家の資産も。全部、僕がマルガレーテ嬢に近づくための足がかりだ。感謝しているよ、カタリナ」
彼の隣に、一人の令嬢が進み出た。エルンスト公爵家のマルガレーテ嬢。豊かな栗色の髪、翡翠の瞳。確かに美しい人だ。彼女は少しばかり居心地が悪そうに——けれど誇らしげに、ヴィクトルの腕に手を添えた。
「僕とマルガレーテ嬢は、正式に婚約した。こちらが本当の相手だ」
周囲からは驚愕と、それから私への同情の視線。
哀れなカタリナ。道具として使い捨てられた侯爵令嬢。
——ふふ。
私は唇の端を持ち上げた。
「そうでしたか」
静かに、穏やかに。いつもの微笑みを浮かべて。
「それはおめでとうございます。どうぞ、お幸せに」
深く、優雅にお辞儀をした。
一滴の涙もこぼさず。声も震えず。
ヴィクトルの目に、一瞬だけ戸惑いが過《よ》ぎったのを、私は見逃さなかった。泣きじゃくる姿を期待していたのだろう。すがりつく私を振り払う場面を想像していたのだろう。
残念。あなたの筋書き通りにはいきませんよ。
踵を返し、広間を出る。
背後でどよめきが続いていたが、振り返らなかった。
廊下に出て、一人になって。
ようやく、小さく息を吐いた。
——ようやく。ようやく言ってくれましたね、ヴィクトル。
「道具だった」。その言葉を、あなた自身の口から聞きたかった。
かつて好きだった人だから。十五歳の私が頬を赤くして見上げた人だから。その人が本当に、私を人として見ていなかったのか——自分の耳で確かめたかった。
確認できた。
だから、もう迷わない。
「これで——遠慮なく、動けます」
私は微笑んだ。今度は誰に見せるためでもなく。
話は少し遡《さかのぼ》る。
ヴィクトルの正体に気づいたのは、卒業式の一年前——学園二年目の冬のことだった。
きっかけは、実家の帳簿。
侯爵家の令嬢として財務の基礎を学んでいた私は、休暇で実家に戻った折、ある不審な項目に目を留めた。
「贈答品費用……?」
ヴィクトル様経由の支出が、異様に膨らんでいた。
社交のための贈答品——名目はそうなっている。けれど、金額が合わない。侯爵家の格式に見合う贈答にしても、あまりに多すぎる。
最初は何かの間違いだと思った。
ヴィクトル様を疑いたくなかった、というのが正直なところだ。まだあの頃の私は——ほんの少しだけ、彼を信じたい気持ちが残っていたから。
けれど数字は嘘をつかない。
私は信頼できる密偵を雇った。父の古い友人が紹介してくれた、腕利きの情報屋だ。表向きは商人をしているその人物に、ヴィクトルの行動を調べてほしいと依頼した。
結果は——想像以上だった。
ヴィクトルは私の家から引き出した資産を、公爵令嬢マルガレーテへの贈り物に流用していた。高価な宝飾品、珍しい書籍、異国の織物。全てカタリナの家の金で、別の女性の歓心を買っていた。
それだけではない。
ヴィクトルはマルガレーテ嬢と定期的に密会していた。学園の裏庭、王都の高級料理店、郊外の別邸。密偵が持ち帰った報告書には、日時と場所が克明に記されていた。
「……そう」
報告を受けた夜、私は一人、自室で帳簿を開いた。
横領の額を一つずつ洗い出し、証拠を整理した。感情を殺して、数字と向き合った。
泣きたくなかった、と言えば嘘になる。
好きだった人だ。初めての婚約者だ。十五歳の私が夢見た未来が、帳簿の上で崩れていくのを見るのは——それなりに、堪えた。
けれど泣いている暇はなかった。
泣けば、負ける。
感情に溺れれば、判断を誤る。
私がすべきことは涙を流すことではなく、証拠を揃えることだった。
一年をかけた。
帳簿の不正。密会の記録。横領の金の流れ。ヴィクトルの本当の目的。全てを完璧に裏付ける証拠を揃えるのに、まるまる一年。
そしてその証拠を——私は第二王子セドリック殿下にお渡しした。
セドリック殿下を選んだのには理由がある。殿下は学園時代から不正を嫌う方として知られていた。権力に媚びず、正義を重んじる。何より——証拠を握り潰すような方ではない。
「これは……」
証拠の束を受け取ったセドリック殿下は、しばらく無言で目を通し、それから顔を上げた。
「ヴァレンシュタイン嬢。これを集めるのに、どれだけかかった」
「一年ほどです」
「一年」
殿下は目を細めた。怒りでも同情でもない、何か——敬意に近い光が、その瞳にあった。
「君は今、怒りで震えているのに笑っている」
指摘されて初めて気づいた。私の指先が、小さく震えていたことに。
「……お見苦しいところをお見せしました」
「いいや」
セドリック殿下は静かに言った。
「証拠は確かに預かった。しかるべき手続きを取る。——だが一つ聞いてもいいか。なぜ今すぐ告発しない? 卒業を待つ理由は何だ」
「……彼の口から、聞きたいのです」
「聞きたい?」
「私が本当に道具だったのかどうか。彼自身の言葉で。——自白があれば裁判もより確実になりますし」
それは半分本当で、半分は言い訳だった。
本当の理由は——確かめたかっただけ。かつて好きだった人が、最後の最後まで私を人として見ていなかったのかどうか。
もし万が一、ヴィクトルが思い直すなら。もし卒業式の日に彼が「すまなかった」と言うなら——。
そんなことは起きないとわかっていた。わかっていて、なお一縷《いちる》の望みを捨てきれなかった。あの頃の私は、まだどこかで。
けれど結果は、ご存じの通りだ。
「お前は道具だった」
彼はそう言って、笑った。
一縷の望みは、あの夜、完全に消えた。
卒業式の翌日。
ヴィクトルがマルガレーテ嬢との婚約を高らかに宣言した、まさにその翌日に——全てが動き出した。
セドリック殿下が王宮の裁判所に証拠を提出した。
横領の帳簿。資産の流れを示す書類。密偵の報告書。一年かけて集めた証拠は、一分の隙もなかった。
ヴィクトルは弁解を試みた。
「誤解だ」「カタリナが自分に使ってくれと言った」「侯爵家との合意の上だ」——どれ一つ、証拠の前には通用しなかった。
裁判は迅速だった。
証拠が完璧すぎて、争う余地がなかったのだ。
判決——横領の罪により、ヴィクトル・フォン・レーヴェンハイムの爵位を剥奪。財産を没収。社交界からの永久追放。
ヴィクトルの実家であるレーヴェンハイム子爵家も、監督責任を問われて連座の処分を受けた。子爵位は降格され、かつての名家は見る影もなく没落した。
そして——公爵令嬢マルガレーテ嬢も、真相を知るに至った。
マルガレーテ嬢は聡明な方だった。自分が受け取っていた贈り物の全てが、別の令嬢の家から横領された金で購入されたものだと知ったとき、彼女は蒼白になったと聞く。
「私も、利用されていたのね」
マルガレーテ嬢はヴィクトルとの婚約を即座に破棄した。
そしてある日、私のもとを訪れた。
「ヴァレンシュタイン嬢。——本当に、申し訳なかった」
「あなたが謝ることではありませんわ、マルガレーテ様。あなたも被害者です」
「それでも」
マルガレーテ嬢は深く頭を下げた。その姿に、私は不思議と清々しいものを感じた。この方は——きちんとした人だ。騙されていたとはいえ、自分の非を認められる人だ。
「顔を上げてください。私はあなたを恨んでなどいませんよ。恨むべきは、私たち二人を利用した人です」
それきり、マルガレーテ嬢とは穏やかな関係が続いている。社交の場で顔を合わせれば微笑みを交わす程度だが——あの日交わした言葉は、お互い忘れていないと思う。
ヴィクトルの転落と入れ替わるように、私とセドリック殿下の距離は少しずつ縮まっていった。
最初は証拠の件で何度もお会いする必要があった。裁判の経過報告、追加の証言、手続きの確認。事務的なやり取りのはずだったのに——いつからか、殿下は裁判と関係のない話もしてくださるようになった。
「カタリナ嬢。今日は裁判の話ではなく、一つ聞いていいか」
「はい、何でしょう」
「好きな花はあるか」
「……は?」
「いや、庭園の花を植え替えようと思ってな。参考に」
あまりに唐突で、思わず噴き出してしまった。殿下は少し耳を赤くして、不器用に目を逸らした。
——ああ。この方は、嘘がつけない人だ。
ヴィクトルとは正反対だった。
甘い言葉を囁くわけでもなく、大げさな贈り物をするわけでもなく。ただ不器用に、正直に、真正面から向き合ってくれる人。
「すずらんが好きです」
「すずらん」
「小さくて、目立たなくて。でも芯が強い花です」
殿下は黙って頷いた。
次にお会いしたとき、殿下の庭園の一角に、すずらんが植えられていた。何も言わず、当然のように。
卒業から二年後、セドリック殿下は正式に求婚してくださった。
「君を道具として見たことは、一度もない。これからも、決してない。——僕と共に歩いてくれるか」
あの日、初めて——本当に初めて、私は人前で涙を見せそうになった。
「……はい。喜んで」
こうして私はセドリック殿下の妻となり、今は王子妃として穏やかに暮らしている。
復讐がしたかったわけではない。
ヴィクトルを陥れたかったわけでもない。
ただ、正しいことをしただけだ。不正を不正として告発し、証拠を然るべき場所に渡しただけだ。
結果としてヴィクトルが没落したのは——彼自身の行いの報いであって、私の企みではない。
少なくとも、私はそう思っている。
——さて。回想はここまでだ。
目の前には、五年の歳月に磨り潰された男が立っている。
かつて学園一の好青年と呼ばれたヴィクトル・フォン・レーヴェンハイム。端正な顔立ちは頬がこけて影を落とし、自慢の金髪は褪せて束になり、仕立てのいい衣服の代わりに汚れた外套を纏っている。
けれど青い瞳だけが、あの頃と同じ光を帯びていた。何かを欲しがる、飢えた光。
「カタリナ……頼む。話を聞いてくれ」
「ええ、聞いていますよ」
私は微笑んだ。いつもの笑顔。仮面のように完璧な笑顔。
「僕が間違っていた」
ヴィクトルは一歩近づいた。護衛が身じろぎしたが、セドリック様が手で制した。
「あの時は若かった。愚かだった。本当に大切なものが何か、わかっていなかったんだ」
「まあ」
「君だったんだ、カタリナ。本当に愛すべきだったのは、ずっと君だった。今ならわかる。だから——もう一度、やり直してくれないか」
やり直す。
その言葉を聞いて、私の中で何かが静かに凪いだ。怒りでも悲しみでもない。ただ——とても澄んだ、冷たい水のような感情。
「やり直す?」
私は首を傾げた。
「何を、です?」
「僕たちの関係を——」
「私とあなたの間に、やり直すようなものがありましたか?」
ヴィクトルの顔が強張った。
「あなたはかつて仰いましたよね。『お前は道具だった』と。道具と使い手の間に、やり直すべき関係があるとは——私には思えないのですけれど」
「あれは、あの時は本気じゃ——」
「本気でしたよ」
静かに、けれど確信を持って言い切った。
「あの夜のあなたの目。私はよく覚えています。あれは心の底から愉しんでいる人の目でした。人を踏みにじって、それを誇らしく思っている人の目」
「違う、僕は——」
「五年前、あなたが笑いながら『道具だった』と言ったとき」
私は一拍置いた。微笑みを崩さないまま。
「私の中のあなたは、死にました」
秋風が、並木道を吹き抜けた。
黄金色の葉が二人の間を舞い落ちる。
「今ここにいるのは、私の知らない人です。私の知っていたヴィクトル様は——存在しなかった。最初から、どこにも」
ヴィクトルの顔から血の気が引いていくのが見えた。
それから——その表情が、ゆっくりと歪んだ。
「お前が……」
低い声。震えている。怒りか、それとも別の何かか。
「お前が、僕を嵌めたのか」
ああ、やはり。
そう来ると思っていた。追い詰められた人間は、必ず他人のせいにする。自分が蒔いた種だとは、決して認めない。
「証拠を集めて、王子に渡して、僕を——!」
「嵌めた?」
私が言葉を返すより先に、隣からセドリック様の声が響いた。
「彼女は嵌めてなどいない」
セドリック様が一歩前に出た。穏やかだが、有無を言わさない声。王族としての威厳が、その一言に滲んでいた。
「カタリナは正当な手続きで告発しただけだ。証拠を集め、裁判所に提出し、法に委ねた。それだけのことだ」
「だけ、だと——」
「嵌めたのではない。お前が自分で墓穴を掘ったんだ」
セドリック様の言葉は静かだったが、その場の空気を完全に支配していた。
「横領をしたのはお前だ。他人の資産を流用したのもお前だ。婚約者を道具と呼んで切り捨てたのもお前だ。その全てがお前自身の選択だ。カタリナはそれを記録しただけに過ぎない」
ヴィクトルの唇が震えた。
何か言い返そうとして——言葉が出てこないのだろう。反論できる材料が、何もないのだから。
「衛兵」
セドリック様が短く呼んだ。控えていた護衛が二人、すっと前に出る。
「この者を下がらせろ。王子妃に無礼を働いた」
「待ってくれ——カタリナ! カタリナ!」
衛兵に両腕を掴まれながら、ヴィクトルが叫んだ。その声はもう、かつての爽やかさの欠片もない。ただ必死で、みっともなくて——哀れだった。
「僕は変われる! やり直せるんだ! 頼む——」
私は振り返らなかった。
「——頼む」
最後の声が、秋風に溶けて消えた。
馬車の中で、私は黙っていた。
セドリック様も、しばらく何も言わなかった。
ただ隣に座って、私の手をそっと握ってくれていた。
「……セドリック様」
「ん?」
「少し、眠いです」
「そうか」
セドリック様は私の頭をそっと自分の肩に寄せた。
「寝ていいぞ。家に着いたら起こす」
「……ありがとうございます」
嘘だ。眠いわけではない。
ただ——顔を見られたくなかった。
頬を、涙が伝っていた。
五年間。ずっと泣かなかった。
ヴィクトルに道具と呼ばれたあの夜も。証拠を整理しながら眠れない夜を過ごしたときも。裁判の経過を聞いたときも。
泣いたら負けだと思っていた。涙を見せたら、仮面が剥がれてしまうと。
でも、もう。
「……終わりました」
声が震えた。堪えきれなかった。
「ようやく……終わりましたわ」
セドリック様の手が、私の手を少しだけ強く握った。
「ああ。終わったよ」
静かな声。温かい手。それだけで十分だった。
涙が止まらなかった。悲しいのではない。悔しいのでもない。ヴィクトルが哀れだからでもない。
ただ——安堵していた。
五年間被り続けた仮面を、ようやく外せた。道具ではなく一人の人間として、泣くことを自分に許せた。それがただ、どうしようもなく嬉しかった。
馬車の窓の外を、黄金色の葉が流れていく。
秋の王都は、今日も美しい。
「……セドリック様」
「ん」
「すずらん、まだ咲いていますか。お庭の」
「当たり前だ。毎年咲く。来年もその先も」
「……そうですか」
私は目を閉じた。
セドリック様の肩に寄りかかって。涙の跡が乾いていくのを感じながら。
道具ではない。
踏み台でもない。
この人の隣で、私は私として生きている。
それだけで——もう、十分だった。
馬車の行き交う大通りを、私はセドリック様と二人で歩いていた。王族がこうして気軽に散策するのは本来好ましくないのだけれど、護衛を少し離れた位置につけ、時折こうして「普通の夫婦」のように街を歩くのが、私たちのささやかな楽しみだった。
「カタリナ、あの店に新しい紅茶が入ったそうだ。帰りに寄ろうか」
「ええ、ぜひ。セドリック様がお好きなダージリンの新茶があるかもしれませんわ」
穏やかな午後だった。
二年前に結婚してから、こんな日常が当たり前になった。かつての私には想像もできなかった、温かくて、静かで——何より、対等な日々。
その平穏を破ったのは、一つの声だった。
「——カタリナ」
低く、かすれた声。
聞き覚えがあるような、ないような。
振り向くと、そこに立っていたのは一人の男だった。
汚れた外套《がいとう》を纏《まと》い、頬はこけ、かつて艶やかだったはずの金髪は色褪せて乱れている。青い瞳だけが、異様な光を帯びていた。
「カタリナ……僕だ。僕を、覚えているか」
セドリック様の手が、私の手をそっと握り直す。護衛が一歩前に出ようとするのを、私は目で制した。
男を見つめる。
——ああ。
「あら、どなたでしたっけ?」
私は微笑んだ。五年の歳月は人をここまで変えるのかと、少し驚きながら。
「僕だ! ヴィクトル・フォン・レーヴェンハイム——いや、もう姓は名乗れないが……頼む、カタリナ。話を聞いてくれ」
ヴィクトル。
ああ、そうだ。その名前。かつて私の婚約者だった男。私を「道具」と呼んだ男。
「……ああ、思い出しました」
私は変わらず微笑んだまま、小さく頷いた。
「お久しぶりですね。随分とお変わりになられて」
あの日のことを、思い出す。
五年前——卒業式の、夜のこと。
王立学園の卒業記念舞踏会。
シャンデリアの光が広間を華やかに照らし、若い貴族たちが晴れやかな顔で語り合っていた。三年間の学園生活の最後を飾る、最も華やかな夜。
私はいつものように、ヴィクトル様の隣に立っていた。
淡い青紫のドレス。髪はきちんと結い上げて。完璧な侯爵令嬢として、完璧な婚約者として。
ヴィクトル様は相変わらず社交的で、誰とでも朗らかに言葉を交わしていた。端正な顔立ち、爽やかな笑顔、隙のない立ち振る舞い。学園一の好青年と評されるのも頷ける——表の顔だけを見れば、の話だけれど。
「みんな、少し聞いてくれ」
突然、ヴィクトルが広間の中央で声を上げた。
周囲の会話が止まり、視線が集まる。
——ああ、来た。
私の心は、凪いでいた。
「僕は今日、一つ報告がある」
ヴィクトルは私の方を向いた。その唇には、完璧な微笑み。けれどその目の奥には、隠しきれない愉悦があった。他人を踏みにじることに快感を覚える人間特有の、あの光。
私は知っている。ずっと前から。
「カタリナ。君との婚約を、今日をもって解消する」
広間にどよめきが走った。
令嬢たちが息を呑み、令息たちが眉をひそめる。衆人環視の中での婚約破棄——それがどれほどの侮辱であるか、この場にいる誰もが理解していた。
「ヴィクトル様……?」
私は驚いたふりをした。目を見開き、一歩後ずさる。完璧な演技だった——いえ、そう見えるように練習していたのだから当然だ。
「悪く思わないでくれ」
ヴィクトルは両手を広げ、芝居がかった仕草で言った。
「正直に言おう。お前は——僕が公爵令嬢に近づくための道具だったんだ」
沈黙が、落ちた。
「侯爵家の婚約者という肩書きは便利だった。お前の人脈も、お前の家の資産も。全部、僕がマルガレーテ嬢に近づくための足がかりだ。感謝しているよ、カタリナ」
彼の隣に、一人の令嬢が進み出た。エルンスト公爵家のマルガレーテ嬢。豊かな栗色の髪、翡翠の瞳。確かに美しい人だ。彼女は少しばかり居心地が悪そうに——けれど誇らしげに、ヴィクトルの腕に手を添えた。
「僕とマルガレーテ嬢は、正式に婚約した。こちらが本当の相手だ」
周囲からは驚愕と、それから私への同情の視線。
哀れなカタリナ。道具として使い捨てられた侯爵令嬢。
——ふふ。
私は唇の端を持ち上げた。
「そうでしたか」
静かに、穏やかに。いつもの微笑みを浮かべて。
「それはおめでとうございます。どうぞ、お幸せに」
深く、優雅にお辞儀をした。
一滴の涙もこぼさず。声も震えず。
ヴィクトルの目に、一瞬だけ戸惑いが過《よ》ぎったのを、私は見逃さなかった。泣きじゃくる姿を期待していたのだろう。すがりつく私を振り払う場面を想像していたのだろう。
残念。あなたの筋書き通りにはいきませんよ。
踵を返し、広間を出る。
背後でどよめきが続いていたが、振り返らなかった。
廊下に出て、一人になって。
ようやく、小さく息を吐いた。
——ようやく。ようやく言ってくれましたね、ヴィクトル。
「道具だった」。その言葉を、あなた自身の口から聞きたかった。
かつて好きだった人だから。十五歳の私が頬を赤くして見上げた人だから。その人が本当に、私を人として見ていなかったのか——自分の耳で確かめたかった。
確認できた。
だから、もう迷わない。
「これで——遠慮なく、動けます」
私は微笑んだ。今度は誰に見せるためでもなく。
話は少し遡《さかのぼ》る。
ヴィクトルの正体に気づいたのは、卒業式の一年前——学園二年目の冬のことだった。
きっかけは、実家の帳簿。
侯爵家の令嬢として財務の基礎を学んでいた私は、休暇で実家に戻った折、ある不審な項目に目を留めた。
「贈答品費用……?」
ヴィクトル様経由の支出が、異様に膨らんでいた。
社交のための贈答品——名目はそうなっている。けれど、金額が合わない。侯爵家の格式に見合う贈答にしても、あまりに多すぎる。
最初は何かの間違いだと思った。
ヴィクトル様を疑いたくなかった、というのが正直なところだ。まだあの頃の私は——ほんの少しだけ、彼を信じたい気持ちが残っていたから。
けれど数字は嘘をつかない。
私は信頼できる密偵を雇った。父の古い友人が紹介してくれた、腕利きの情報屋だ。表向きは商人をしているその人物に、ヴィクトルの行動を調べてほしいと依頼した。
結果は——想像以上だった。
ヴィクトルは私の家から引き出した資産を、公爵令嬢マルガレーテへの贈り物に流用していた。高価な宝飾品、珍しい書籍、異国の織物。全てカタリナの家の金で、別の女性の歓心を買っていた。
それだけではない。
ヴィクトルはマルガレーテ嬢と定期的に密会していた。学園の裏庭、王都の高級料理店、郊外の別邸。密偵が持ち帰った報告書には、日時と場所が克明に記されていた。
「……そう」
報告を受けた夜、私は一人、自室で帳簿を開いた。
横領の額を一つずつ洗い出し、証拠を整理した。感情を殺して、数字と向き合った。
泣きたくなかった、と言えば嘘になる。
好きだった人だ。初めての婚約者だ。十五歳の私が夢見た未来が、帳簿の上で崩れていくのを見るのは——それなりに、堪えた。
けれど泣いている暇はなかった。
泣けば、負ける。
感情に溺れれば、判断を誤る。
私がすべきことは涙を流すことではなく、証拠を揃えることだった。
一年をかけた。
帳簿の不正。密会の記録。横領の金の流れ。ヴィクトルの本当の目的。全てを完璧に裏付ける証拠を揃えるのに、まるまる一年。
そしてその証拠を——私は第二王子セドリック殿下にお渡しした。
セドリック殿下を選んだのには理由がある。殿下は学園時代から不正を嫌う方として知られていた。権力に媚びず、正義を重んじる。何より——証拠を握り潰すような方ではない。
「これは……」
証拠の束を受け取ったセドリック殿下は、しばらく無言で目を通し、それから顔を上げた。
「ヴァレンシュタイン嬢。これを集めるのに、どれだけかかった」
「一年ほどです」
「一年」
殿下は目を細めた。怒りでも同情でもない、何か——敬意に近い光が、その瞳にあった。
「君は今、怒りで震えているのに笑っている」
指摘されて初めて気づいた。私の指先が、小さく震えていたことに。
「……お見苦しいところをお見せしました」
「いいや」
セドリック殿下は静かに言った。
「証拠は確かに預かった。しかるべき手続きを取る。——だが一つ聞いてもいいか。なぜ今すぐ告発しない? 卒業を待つ理由は何だ」
「……彼の口から、聞きたいのです」
「聞きたい?」
「私が本当に道具だったのかどうか。彼自身の言葉で。——自白があれば裁判もより確実になりますし」
それは半分本当で、半分は言い訳だった。
本当の理由は——確かめたかっただけ。かつて好きだった人が、最後の最後まで私を人として見ていなかったのかどうか。
もし万が一、ヴィクトルが思い直すなら。もし卒業式の日に彼が「すまなかった」と言うなら——。
そんなことは起きないとわかっていた。わかっていて、なお一縷《いちる》の望みを捨てきれなかった。あの頃の私は、まだどこかで。
けれど結果は、ご存じの通りだ。
「お前は道具だった」
彼はそう言って、笑った。
一縷の望みは、あの夜、完全に消えた。
卒業式の翌日。
ヴィクトルがマルガレーテ嬢との婚約を高らかに宣言した、まさにその翌日に——全てが動き出した。
セドリック殿下が王宮の裁判所に証拠を提出した。
横領の帳簿。資産の流れを示す書類。密偵の報告書。一年かけて集めた証拠は、一分の隙もなかった。
ヴィクトルは弁解を試みた。
「誤解だ」「カタリナが自分に使ってくれと言った」「侯爵家との合意の上だ」——どれ一つ、証拠の前には通用しなかった。
裁判は迅速だった。
証拠が完璧すぎて、争う余地がなかったのだ。
判決——横領の罪により、ヴィクトル・フォン・レーヴェンハイムの爵位を剥奪。財産を没収。社交界からの永久追放。
ヴィクトルの実家であるレーヴェンハイム子爵家も、監督責任を問われて連座の処分を受けた。子爵位は降格され、かつての名家は見る影もなく没落した。
そして——公爵令嬢マルガレーテ嬢も、真相を知るに至った。
マルガレーテ嬢は聡明な方だった。自分が受け取っていた贈り物の全てが、別の令嬢の家から横領された金で購入されたものだと知ったとき、彼女は蒼白になったと聞く。
「私も、利用されていたのね」
マルガレーテ嬢はヴィクトルとの婚約を即座に破棄した。
そしてある日、私のもとを訪れた。
「ヴァレンシュタイン嬢。——本当に、申し訳なかった」
「あなたが謝ることではありませんわ、マルガレーテ様。あなたも被害者です」
「それでも」
マルガレーテ嬢は深く頭を下げた。その姿に、私は不思議と清々しいものを感じた。この方は——きちんとした人だ。騙されていたとはいえ、自分の非を認められる人だ。
「顔を上げてください。私はあなたを恨んでなどいませんよ。恨むべきは、私たち二人を利用した人です」
それきり、マルガレーテ嬢とは穏やかな関係が続いている。社交の場で顔を合わせれば微笑みを交わす程度だが——あの日交わした言葉は、お互い忘れていないと思う。
ヴィクトルの転落と入れ替わるように、私とセドリック殿下の距離は少しずつ縮まっていった。
最初は証拠の件で何度もお会いする必要があった。裁判の経過報告、追加の証言、手続きの確認。事務的なやり取りのはずだったのに——いつからか、殿下は裁判と関係のない話もしてくださるようになった。
「カタリナ嬢。今日は裁判の話ではなく、一つ聞いていいか」
「はい、何でしょう」
「好きな花はあるか」
「……は?」
「いや、庭園の花を植え替えようと思ってな。参考に」
あまりに唐突で、思わず噴き出してしまった。殿下は少し耳を赤くして、不器用に目を逸らした。
——ああ。この方は、嘘がつけない人だ。
ヴィクトルとは正反対だった。
甘い言葉を囁くわけでもなく、大げさな贈り物をするわけでもなく。ただ不器用に、正直に、真正面から向き合ってくれる人。
「すずらんが好きです」
「すずらん」
「小さくて、目立たなくて。でも芯が強い花です」
殿下は黙って頷いた。
次にお会いしたとき、殿下の庭園の一角に、すずらんが植えられていた。何も言わず、当然のように。
卒業から二年後、セドリック殿下は正式に求婚してくださった。
「君を道具として見たことは、一度もない。これからも、決してない。——僕と共に歩いてくれるか」
あの日、初めて——本当に初めて、私は人前で涙を見せそうになった。
「……はい。喜んで」
こうして私はセドリック殿下の妻となり、今は王子妃として穏やかに暮らしている。
復讐がしたかったわけではない。
ヴィクトルを陥れたかったわけでもない。
ただ、正しいことをしただけだ。不正を不正として告発し、証拠を然るべき場所に渡しただけだ。
結果としてヴィクトルが没落したのは——彼自身の行いの報いであって、私の企みではない。
少なくとも、私はそう思っている。
——さて。回想はここまでだ。
目の前には、五年の歳月に磨り潰された男が立っている。
かつて学園一の好青年と呼ばれたヴィクトル・フォン・レーヴェンハイム。端正な顔立ちは頬がこけて影を落とし、自慢の金髪は褪せて束になり、仕立てのいい衣服の代わりに汚れた外套を纏っている。
けれど青い瞳だけが、あの頃と同じ光を帯びていた。何かを欲しがる、飢えた光。
「カタリナ……頼む。話を聞いてくれ」
「ええ、聞いていますよ」
私は微笑んだ。いつもの笑顔。仮面のように完璧な笑顔。
「僕が間違っていた」
ヴィクトルは一歩近づいた。護衛が身じろぎしたが、セドリック様が手で制した。
「あの時は若かった。愚かだった。本当に大切なものが何か、わかっていなかったんだ」
「まあ」
「君だったんだ、カタリナ。本当に愛すべきだったのは、ずっと君だった。今ならわかる。だから——もう一度、やり直してくれないか」
やり直す。
その言葉を聞いて、私の中で何かが静かに凪いだ。怒りでも悲しみでもない。ただ——とても澄んだ、冷たい水のような感情。
「やり直す?」
私は首を傾げた。
「何を、です?」
「僕たちの関係を——」
「私とあなたの間に、やり直すようなものがありましたか?」
ヴィクトルの顔が強張った。
「あなたはかつて仰いましたよね。『お前は道具だった』と。道具と使い手の間に、やり直すべき関係があるとは——私には思えないのですけれど」
「あれは、あの時は本気じゃ——」
「本気でしたよ」
静かに、けれど確信を持って言い切った。
「あの夜のあなたの目。私はよく覚えています。あれは心の底から愉しんでいる人の目でした。人を踏みにじって、それを誇らしく思っている人の目」
「違う、僕は——」
「五年前、あなたが笑いながら『道具だった』と言ったとき」
私は一拍置いた。微笑みを崩さないまま。
「私の中のあなたは、死にました」
秋風が、並木道を吹き抜けた。
黄金色の葉が二人の間を舞い落ちる。
「今ここにいるのは、私の知らない人です。私の知っていたヴィクトル様は——存在しなかった。最初から、どこにも」
ヴィクトルの顔から血の気が引いていくのが見えた。
それから——その表情が、ゆっくりと歪んだ。
「お前が……」
低い声。震えている。怒りか、それとも別の何かか。
「お前が、僕を嵌めたのか」
ああ、やはり。
そう来ると思っていた。追い詰められた人間は、必ず他人のせいにする。自分が蒔いた種だとは、決して認めない。
「証拠を集めて、王子に渡して、僕を——!」
「嵌めた?」
私が言葉を返すより先に、隣からセドリック様の声が響いた。
「彼女は嵌めてなどいない」
セドリック様が一歩前に出た。穏やかだが、有無を言わさない声。王族としての威厳が、その一言に滲んでいた。
「カタリナは正当な手続きで告発しただけだ。証拠を集め、裁判所に提出し、法に委ねた。それだけのことだ」
「だけ、だと——」
「嵌めたのではない。お前が自分で墓穴を掘ったんだ」
セドリック様の言葉は静かだったが、その場の空気を完全に支配していた。
「横領をしたのはお前だ。他人の資産を流用したのもお前だ。婚約者を道具と呼んで切り捨てたのもお前だ。その全てがお前自身の選択だ。カタリナはそれを記録しただけに過ぎない」
ヴィクトルの唇が震えた。
何か言い返そうとして——言葉が出てこないのだろう。反論できる材料が、何もないのだから。
「衛兵」
セドリック様が短く呼んだ。控えていた護衛が二人、すっと前に出る。
「この者を下がらせろ。王子妃に無礼を働いた」
「待ってくれ——カタリナ! カタリナ!」
衛兵に両腕を掴まれながら、ヴィクトルが叫んだ。その声はもう、かつての爽やかさの欠片もない。ただ必死で、みっともなくて——哀れだった。
「僕は変われる! やり直せるんだ! 頼む——」
私は振り返らなかった。
「——頼む」
最後の声が、秋風に溶けて消えた。
馬車の中で、私は黙っていた。
セドリック様も、しばらく何も言わなかった。
ただ隣に座って、私の手をそっと握ってくれていた。
「……セドリック様」
「ん?」
「少し、眠いです」
「そうか」
セドリック様は私の頭をそっと自分の肩に寄せた。
「寝ていいぞ。家に着いたら起こす」
「……ありがとうございます」
嘘だ。眠いわけではない。
ただ——顔を見られたくなかった。
頬を、涙が伝っていた。
五年間。ずっと泣かなかった。
ヴィクトルに道具と呼ばれたあの夜も。証拠を整理しながら眠れない夜を過ごしたときも。裁判の経過を聞いたときも。
泣いたら負けだと思っていた。涙を見せたら、仮面が剥がれてしまうと。
でも、もう。
「……終わりました」
声が震えた。堪えきれなかった。
「ようやく……終わりましたわ」
セドリック様の手が、私の手を少しだけ強く握った。
「ああ。終わったよ」
静かな声。温かい手。それだけで十分だった。
涙が止まらなかった。悲しいのではない。悔しいのでもない。ヴィクトルが哀れだからでもない。
ただ——安堵していた。
五年間被り続けた仮面を、ようやく外せた。道具ではなく一人の人間として、泣くことを自分に許せた。それがただ、どうしようもなく嬉しかった。
馬車の窓の外を、黄金色の葉が流れていく。
秋の王都は、今日も美しい。
「……セドリック様」
「ん」
「すずらん、まだ咲いていますか。お庭の」
「当たり前だ。毎年咲く。来年もその先も」
「……そうですか」
私は目を閉じた。
セドリック様の肩に寄りかかって。涙の跡が乾いていくのを感じながら。
道具ではない。
踏み台でもない。
この人の隣で、私は私として生きている。
それだけで——もう、十分だった。
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