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第二章
第6話 迷い犬
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これは、桐生千聖の物語。
彼女は昔から頭が良いともてはやされ、期待され続けてきた。
テストで100点の時は「次もきっと100点だ」。逆に点数を落とせば叱られるだけ。
彼女の認識は『天才』に固定され、出来て当然、出来なきゃ努力を。
バカみたいだった。
両親が完全に彼女にすがるようになった。将来は将来は、何度も繰り返されるその言葉に彼女の心は豹変した。月のように常に完璧で美しく、誰も届かない高みにたどり着いた。
1人孤独に輝く事で、誰もが思い描いた完璧な自分を作りあげる。
それは望まれた事で、運命。そう言い聞かせた。──下らない、思い上がりだとも気付かずに。否、気付かないふりをして。
だが、彼女の思い描いていた高みに、幸福など無かった。
あるのは、孤独。当たり前の事だった。高い高い月であればある程、人は手を伸ばすことを諦める。あれは違う次元だと割りきってしまう。
やがて彼女は迷った。
行き着くべきだった場所にたどり着いて、後は何をすれば良い。捨てられた子犬のように救いを求めて彷徨歩くだけなのか。
そんな美しくない月など、どこにも無いのに。
月は、何て醜いのだろう。
月は、何て小さい存在なんだろう。
迷い犬は、やがて月を軽蔑するようになった。
天才は孤独を呼び、彼女の人生が狂い、月が陰った彼女の瞳には、やがて光が消えた。
そして、最後の望みとなった人物はとても少年だった。
***
強く握られた胸倉から、千聖の手が震えているのが感じられた。
睨み付ける瞳の端にはうっすらと涙が溜まっている。
俺は、少しの躊躇の後、その細い腕を握り返して力ずくで千聖ごと反転。ポジションが逆転した。
千聖の顔が痛みに歪むのが見えて、込める力を少し緩める。
「離して!」
「悪いがお前から手を出して来た。咎めるなら自分だけにしておけ」
声のトーンを1段階落とす。すると、明らかに気圧されるのが見て取れた。
だが、これまではただの脅しに過ぎない。ここから、もっと強く言葉をぶつけさせてもらう。
「なあ、お前は何を目指しているんだ?いったいどこがゴールで、何になりたくて、そこまで苦しんでる?」
そんなの分かりきっているが、敢えてこうした質問をする。
すると、まんまと引っ掛かった千聖は、視線を鋭くして、
「私は完璧を、──月を目指したの!貴方たちには分からない努力かもしれない。それでも目指した!バカみたいに手を伸ばしてる何も出来ない奴らに、そんなことは無駄だって伝えてやった!そして、迷った……。それだけ」
一息に言い切って、肩で呼吸をする千聖。
誰も分からない努力。そんな言葉で飾り付けられただけの無駄を必死に語って。
「何カッコつけてんだよ。ただの迷い犬が」
「何言って」
千聖が明らかな動揺を見せる。それも当たり前だろう。自分は完璧な月だと信じて来た彼女が『迷い犬』などと、呼ばれるとは思わないだろう。
心に隙ができている今だろう。この言葉をぶつけるとしたら。
「月を目指した?無駄だ伝えてやった?お前ただのバカだろ?月は1人じゃ綺麗じゃ無いんだよ。太陽の力を借りて輝いて、周りの小さな星があって、やっと綺麗に見えるんだよ。美しく見えるんだよ。暗闇の中を照らしてくれるから、手を伸ばしたくなるんだよ」
「──っ!」
千聖が息を飲む気配がする。
後一言。この一言で、救い出して見せる。その、輝かない月の中から。
「来いよ、千聖。そのハリボテの月から、暗闇のなかを照らしてくれる、綺麗な綺麗な『月の下』に」
それは、思い返せば物凄い恥ずかしい台詞だったと思う。
ただの戯れ言だったかもしれない。
──ただ、迷い犬を連れ出す理由には十分だった。
千聖が額を俺の胸辺りに押し付けて来る。慌てて力を抜けば、今度は強く抱き付いて来た。
「バカみたい。──でも、翔哉は間違い無く、私の太陽だ」
顔を上げて、頬を伝う涙もそのままにして、眩しい太陽に負けないくらいの笑顔を浮かべた。
いつか、奏谷も──いや、今それを考えるのは、彼女に失礼だ。
今はただ、この迷い犬に優しく輝く月を見せてあげられれば、それで良い。
「あ、あの……、私は帰った方がいいですか?」
その時、大分遠慮しながら話掛けてくる桃井の声がした。
存在を忘れていたが、桃井もいたんだった。
***
あれから一週間が過ぎて、千聖は時間があれば俺の所に来るようになった。さらに千聖だけで無く、桃井まで。
桃井は何やら今後の発展が気になるやら何やら。
そして、相変わらず今日もやって来た2人に、こんな提案をしてみた。
「翔哉の友達と遊びに?」
そう、ようやく孤独から前向きに立ち直ろうと努力している千聖だが、友達が俺と桃井だけでは何の改善にもなっていない。だから、事前に奏谷たちと話し合って今回の計画が出来た。
実際、千聖も今現在嫌がる素振りを見せていないし、おそらく大丈夫だろう。
「あー、すいません私はパスで」
「なんで?」
桃井が不意にそう言うので、思わず脊髄反射としてそう問い返してしまった。桃井は俺以外と関わっている場面を見たことなどは無いが。なにか用事だろうか。
その答えは、すぐには分かりそうに無かった。
「理由は言えません。……でも、とにかく無理なんです。ごめんなさい」
「いや、いいよ。こっちこそ変に追求しちゃって悪いな」
俯いて、申し訳無さそうにしている桃井にそう言って、千聖の方に視線を移した。
その視線に気付いた千聖は、何事も無かったように答える。
「私は、行く。翔哉が普段どんなバカみたいな事してるか見ないと」
「おい、俺は年中無休賢い子だぞ」
千聖の答えにボケてみると、桃井と千聖がクスクスと笑う。
そうだ、それで良い。お前らは、笑ってないと。──だから奏谷、お前の笑顔を必ず引き出して見せる。
そんなささやかな決意を胸に、1日の授業の始まりを告げるチャイムを聞き流した。
──卒業まで、残り約4ヶ月。
彼女は昔から頭が良いともてはやされ、期待され続けてきた。
テストで100点の時は「次もきっと100点だ」。逆に点数を落とせば叱られるだけ。
彼女の認識は『天才』に固定され、出来て当然、出来なきゃ努力を。
バカみたいだった。
両親が完全に彼女にすがるようになった。将来は将来は、何度も繰り返されるその言葉に彼女の心は豹変した。月のように常に完璧で美しく、誰も届かない高みにたどり着いた。
1人孤独に輝く事で、誰もが思い描いた完璧な自分を作りあげる。
それは望まれた事で、運命。そう言い聞かせた。──下らない、思い上がりだとも気付かずに。否、気付かないふりをして。
だが、彼女の思い描いていた高みに、幸福など無かった。
あるのは、孤独。当たり前の事だった。高い高い月であればある程、人は手を伸ばすことを諦める。あれは違う次元だと割りきってしまう。
やがて彼女は迷った。
行き着くべきだった場所にたどり着いて、後は何をすれば良い。捨てられた子犬のように救いを求めて彷徨歩くだけなのか。
そんな美しくない月など、どこにも無いのに。
月は、何て醜いのだろう。
月は、何て小さい存在なんだろう。
迷い犬は、やがて月を軽蔑するようになった。
天才は孤独を呼び、彼女の人生が狂い、月が陰った彼女の瞳には、やがて光が消えた。
そして、最後の望みとなった人物はとても少年だった。
***
強く握られた胸倉から、千聖の手が震えているのが感じられた。
睨み付ける瞳の端にはうっすらと涙が溜まっている。
俺は、少しの躊躇の後、その細い腕を握り返して力ずくで千聖ごと反転。ポジションが逆転した。
千聖の顔が痛みに歪むのが見えて、込める力を少し緩める。
「離して!」
「悪いがお前から手を出して来た。咎めるなら自分だけにしておけ」
声のトーンを1段階落とす。すると、明らかに気圧されるのが見て取れた。
だが、これまではただの脅しに過ぎない。ここから、もっと強く言葉をぶつけさせてもらう。
「なあ、お前は何を目指しているんだ?いったいどこがゴールで、何になりたくて、そこまで苦しんでる?」
そんなの分かりきっているが、敢えてこうした質問をする。
すると、まんまと引っ掛かった千聖は、視線を鋭くして、
「私は完璧を、──月を目指したの!貴方たちには分からない努力かもしれない。それでも目指した!バカみたいに手を伸ばしてる何も出来ない奴らに、そんなことは無駄だって伝えてやった!そして、迷った……。それだけ」
一息に言い切って、肩で呼吸をする千聖。
誰も分からない努力。そんな言葉で飾り付けられただけの無駄を必死に語って。
「何カッコつけてんだよ。ただの迷い犬が」
「何言って」
千聖が明らかな動揺を見せる。それも当たり前だろう。自分は完璧な月だと信じて来た彼女が『迷い犬』などと、呼ばれるとは思わないだろう。
心に隙ができている今だろう。この言葉をぶつけるとしたら。
「月を目指した?無駄だ伝えてやった?お前ただのバカだろ?月は1人じゃ綺麗じゃ無いんだよ。太陽の力を借りて輝いて、周りの小さな星があって、やっと綺麗に見えるんだよ。美しく見えるんだよ。暗闇の中を照らしてくれるから、手を伸ばしたくなるんだよ」
「──っ!」
千聖が息を飲む気配がする。
後一言。この一言で、救い出して見せる。その、輝かない月の中から。
「来いよ、千聖。そのハリボテの月から、暗闇のなかを照らしてくれる、綺麗な綺麗な『月の下』に」
それは、思い返せば物凄い恥ずかしい台詞だったと思う。
ただの戯れ言だったかもしれない。
──ただ、迷い犬を連れ出す理由には十分だった。
千聖が額を俺の胸辺りに押し付けて来る。慌てて力を抜けば、今度は強く抱き付いて来た。
「バカみたい。──でも、翔哉は間違い無く、私の太陽だ」
顔を上げて、頬を伝う涙もそのままにして、眩しい太陽に負けないくらいの笑顔を浮かべた。
いつか、奏谷も──いや、今それを考えるのは、彼女に失礼だ。
今はただ、この迷い犬に優しく輝く月を見せてあげられれば、それで良い。
「あ、あの……、私は帰った方がいいですか?」
その時、大分遠慮しながら話掛けてくる桃井の声がした。
存在を忘れていたが、桃井もいたんだった。
***
あれから一週間が過ぎて、千聖は時間があれば俺の所に来るようになった。さらに千聖だけで無く、桃井まで。
桃井は何やら今後の発展が気になるやら何やら。
そして、相変わらず今日もやって来た2人に、こんな提案をしてみた。
「翔哉の友達と遊びに?」
そう、ようやく孤独から前向きに立ち直ろうと努力している千聖だが、友達が俺と桃井だけでは何の改善にもなっていない。だから、事前に奏谷たちと話し合って今回の計画が出来た。
実際、千聖も今現在嫌がる素振りを見せていないし、おそらく大丈夫だろう。
「あー、すいません私はパスで」
「なんで?」
桃井が不意にそう言うので、思わず脊髄反射としてそう問い返してしまった。桃井は俺以外と関わっている場面を見たことなどは無いが。なにか用事だろうか。
その答えは、すぐには分かりそうに無かった。
「理由は言えません。……でも、とにかく無理なんです。ごめんなさい」
「いや、いいよ。こっちこそ変に追求しちゃって悪いな」
俯いて、申し訳無さそうにしている桃井にそう言って、千聖の方に視線を移した。
その視線に気付いた千聖は、何事も無かったように答える。
「私は、行く。翔哉が普段どんなバカみたいな事してるか見ないと」
「おい、俺は年中無休賢い子だぞ」
千聖の答えにボケてみると、桃井と千聖がクスクスと笑う。
そうだ、それで良い。お前らは、笑ってないと。──だから奏谷、お前の笑顔を必ず引き出して見せる。
そんなささやかな決意を胸に、1日の授業の始まりを告げるチャイムを聞き流した。
──卒業まで、残り約4ヶ月。
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