上 下
3 / 5

3

しおりを挟む

 こんこん、とノックの音がする。朝、朝食をリュカと共に摂っていた私は、思わず行動を止めてしまった。
 リュカ以外に私の家に尋ねてくる人なんて、ほとんど居ないのに。誰だろうか。

「誰ですか?」
「フェルシアちゃん。ここにリュカくんはいるかい?」

 声をかけると、すぐに応えがある。どうやら、少し離れた場所に住むおばあさんがやってきていたらしい。リュカくん。もちろん居る。視線を向けると同時に、リュカが椅子を引いて立ち上がり、戸を開けた。

「いるよ、どうしたの?」
「ああ――リュカくん。ごめんねえ、少しお願いしてもいいかな?」
「もちろん。何を?」

 リュカは軽く尻尾を振る。おばあさんは軽く首を振って、それから遊びに来ている孫が風邪を引いてしまったことを打ち明けた。
 数日前からのもので、薬などを飲ませてはいるのだが、いっこうに良くならない。そんな時、リュカの存在を思い出したのだ。
 要するに、リュカに孫の治癒を頼みたい、ということである。
 リュカは小さく頷いた。

「わかった、良いよ。行く。準備したらすぐ行くから、先に行って待っててよ」

 朗らかな返事だ。優しげに表情を緩めるリュカに、おばあさんはいいこだね、なんて声を震わせて頷く。待っているよ、と去って行ったおばあさんを見送って、戸を閉めた。――瞬間、リュカが私に抱きついてくる。

「さ、さむい! 暖気膜張ってあるのに、戸のさぁ、戸を開けたらもう外の寒さがもう、凄い――中にさあ……っ!」

 思わず小さく顎を引く。震えるリュカは、実際本当に寒かったらしく、体をぶるぶると震わせていた。そんな様子を見ると、急に抱きつかないで、とか、怒る言葉も喉の奥へ消えていく。背に手を回して、ゆっくりと撫でながら「頑張ったねぇ」と言うと、リュカは何度も頷いた。

「す、すごいでしょ……。頑張ったよ、俺……凄く! 褒められてしかるべきと思う」
「はいはい。ほら、防寒着に着替えなくちゃ」
「はあ、フェルシアほんっとあったかい、ぽかぽか……ぽかぽかしてる。ぽかぽかフェルシア……」

 肩口に額をぐりぐりと押しつけて、リュカはうわごとのように言葉を続ける。そんなに寒いのなら、途中で話を切って防寒着を取りにいくなりすればよかったのに、と思うが、リュカはそうしないのだ。
 多分、おばあさんが不安そうだったから。そういう気の回し方をするのだと、長い付き合いで知っている。私はリュカの頭を軽く撫でた。耳には触れないように、後頭部のあたりをそろそろと撫でる。

「頑張ったね。ほら、着替えようか」
「……うん。うん、ねえ、フェルシア、一緒に着いてきてよ」
「どうして……」
「フェルシアが居ると俺の治癒術がいつもより上手になる気がする」
「そんな……そんなことある?」
「あるよ。ある。だからフェルシアは俺と一緒に居なきゃ駄目だよ。王都まで着いてきてくれないと」
「行かないから」

 椅子の上に置かれた防寒着を手に、リュカの背を叩く。リュカはぎゅうっと私を一度強く抱きしめた後、ゆっくりと体を離した。そうして、私から防寒着を受け取る。もそもそと袖を通す彼を眺めながら、私も奥から自分の防寒着を取ってきた。袖を通した瞬間、リュカが小さく笑う。

「フェルシア、大好きだよ」
「どうもありがとう」
「本当に本当の大好き、だからね」

 逆に、本当に本当の大好き、じゃない大好きがあるのか、と問いただしたくなるが、口を噤む。
 リュカの発言に一つでも突っ込みを始めれば、無限に突っ込むことになってしまう。確実に疲労で死んでしまうだろう。
 クズの幼なじみの言葉は受け流すのが一番である。私は小さく笑って、どうも、と彼の手を取った。

 おばあさんの家には少しも歩けば到着した。ベッドの上で少女が顔を赤くしたまま、苦しそうに眠っている。その傍には、その少女のご両親と、兄弟らしい子どもが一人、いたたまれない様子で立っている。

「じゃあ、治癒を始めます」

 リュカは少女の傍に膝をついて、淡々と言葉を続けた。――そうして、そっと少女の額に触れる。ぶわ、とその手の平から美しい燐光が溢れ出し、少女の体を覆うように動いた。
 リュカが治癒をするところを見るのは、初めてではない。里帰りするたびに、彼は誰かの家に治癒術士として求められ、向かう。それらのいくつかに、私も着いていったことが何度かあるのだ。

 治癒術士が出す光は、癒やしの光と呼ばれていて、特有のものだ。柔らかく、暖かい。まるで蝋燭の火のようだと思う。
 癒やしの光によって体調は少しずつ快癒に向かっているらしく、苦しげな少女の顔色がすぐ、健康的なものになっていく。リュカがぐ、と拳を握った瞬間、少女を取り巻く光が消えた。残された少女は、ほっぺに薔薇色を散らして、すやすやと眠っている。

「これで大丈夫です。少し疲労がたまっていたのかもしれませんね」

 ご両親に話すようにして言葉を続け、それから傍のおばあさんにリュカは笑いかける。ほっとしたような表情を浮かべるご両親は、本当に少女のことを心配していたのだろう、目の下にうっすらとクマがあった。

「ありがとう、リュカくん。フェルシアちゃんも」
「私は何もしてませんよ」
「そんなことないよ。――そんなことない。二人とも……お礼に、よかったら、グロッギを作ったんだ。持たせるから、お家でお飲み」

 リュカに言われて来ただけなのに、まさかグロッギを貰えるなんて思ってもみなかった。
 グロッギは赤葡萄を醸成させて出来上がったお酒を暖め、アルコール分を飛ばして作る、美味しい飲み物だ。幼い頃は、よく母が作ってくれた。この寒い地域において、冬に呑まれるとてつもない高級品――と言えば、良いのだろうか。

「良いんですか? 嬉しい。久しぶりに飲みます」
「もちろん。クッキーも持ってお行き。ああ、こんなものしか渡せなくてごめんねぇ……」
「いえ、大丈夫です。おばあさんのお役に立てたなら、よかっ――い゛っ!?」

 リュカが滔々と言葉を続けた、瞬間、まるで悲鳴のような声が彼の喉から漏れる。え、と思って見てみると、リュカのふかふかの尻尾が、思い切り子どもによって握られていた。
 わあ。

「――~~ッ、う、ぅう……!」

 恐らく情け容赦なく握られたのだろう、痛みに呻きながらリュカが私に手を伸ばしてくる。確定で助けを求められているようだ。私は何が起こったのか、不安そうな顔をする子ども達の傍に近づいて、「ごめんね、このお兄さんの尻尾は触らないであげて」と続けた。

「なんで? ふわふわで、あったかそう! 俺もこの尻尾、欲しい!」
「ふわふわもこもこだよねえ、でもこの尻尾、触られるとお兄さんは痛いみたいだよ」

 ほら、と悶えるリュカを指さす。少年は尻尾を握ったままだったが、呻くリュカを見て慌てて手を離した。――母親が真っ先に駆けつけてきて、その少年の頭を軽くぽかりと叩く。

「こら! 何してるの! ごめんなさい、その、この子、まだ獣人の尻尾や耳について学んでいなくて……」
「ううー! 痛い! 痛い! お母さんのバカ!」
「バカはあなたよ! 折角治療のために来てくれたお兄ちゃんを痛がらせて! 謝るのが先でしょう!」

 わあわあといざこざが始まる。こうなってしまったら、私がまあまあ、まあまあ、まあまあまあまあ、なんて言っても親子の喧嘩は止まらない。父親に視線を送るが、直ぐに首を振って視線を逸らされた。
 これはもう、騒動の発端となったリュカしか喧嘩を収めることは出来ないだろうなあ、なんて視線を送る。が、リュカはずっと痛みに呻くのみである。
 そんなにも痛いのか、と思うが、獣人の耳と尻尾は神経が集中しているから、普通の犬や猫の尻尾と同じに考えてはいけないのだと、言われたことがある。

「リュカ。大丈夫?」
「うっ……うう……待って……待って……背中撫でて……」

 荒い呼吸のまま、必死になって懇願をされたので、そっと背中に手を伸ばして撫でる。リュカがぎゅうっと私に手を回してきた。呼吸が熱い。なんだか涙を流す一歩手前の時の吐息に、似ていた。
 相当痛かったのだろう。あやすようにリュカ、大丈夫、リュカ、と名前を呼ぶ。その度に大きな耳がぴくりと動いた。ふわふわの尻尾が、私の腰を抱きしめるようにくるりと回る。リュカはゆっくりと呼吸を繰り返した後、それから小さく「ちょっとマシになってきた……」と言って体を離した。

 今も尚、言い合いをする二人に近づいて、ゆっくりと座り込む。少年と視線を合わせた。
 肌が青白い。それに、痛みのせいか脂汗まで出ている。先ほどの、妹を治療していた時とは全く違う容貌に、少年も気付いたのだろう。母親がすぐ、少年の頭を下げさせるべく、手を動かした。

「すみません、本当に――知らなくて」
「大丈夫です。ええと、――初めまして。獣人のリュカ、です。獣人は尻尾と耳を強く触られると、凄く痛いんだ。もし君に獣人の友人が出来たら、そのことだけ、覚えていてあげてね」

 リュカはそれだけ言うと立ち上がった。そうして、私に寄りかかるようにして体重を預けてくる。

「かえろ……フェル……」

 痛みはまだ続いている、らしい。背中を撫でながら、「すみません、それじゃあ失礼します」と続け、少しだけ呆然とする人々に見送られて外に出た。
 おばあさんの家と、私の家が近くて良かった。数分もせずに家に到着したので、すぐに扉を開けて、ベッドにリュカを寝かせる。

「リュカ、大丈夫? 何か出来ること、あるなら言って」

 ここまで憔悴した姿を見たのは初めてだ。リュカは小さく瞬いて、それから「……撫でて」とだけ言う。
 頭を、だろうか。指先でそろそろと汗の浮いた額を撫でていると、リュカが「尻尾」と続ける。

「……痛いんでしょ? 撫でたらもっと辛くなるんじゃ……」
「痛いから、撫でて欲しいんだよ。フェルはぎゅうって握らないでしょ?」

 握らないけれど。良いのだろうか。少しだけ不安を覚えるが、リュカがそうして欲しいと言うのだから、私としては従うしかない。
 獣人が親しい人にしか触らせないという、尻尾に、そっと触れる。柔らかな毛並みを整えるように指先でそっと撫でていると、リュカが小さく息を零した。

「は、きもちい……沢山撫でて……」
「……痛くなったら言ってね」
「あは。フェルは痛くしないでしょ?」

 リュカが小さく息を吐く。指先で、そっと、リュカのもふもふの尻尾を撫でていく。リュカは心地良いのか、気持ち良いのか、先ほどまでの苦しげな表情をうっとりとしたものに変えていた。

「ほんと……獣人、やだ」
「どうしたの、急に」
「尻尾と耳はあるし。発情期もあるし……」
「発情期に沢山の女性に手を出しておいて何言ってるの……」

 もの凄く恩恵を受けているではないか、と思う。リュカは小さく息を零して「好きじゃない奴とするセックスなんて、ぜんっぜん楽しくも気持ち良くも無いよ。作業」とだけ続けた。さ、最低。

「相手の人はそう思ってないでしょ……」
「そう? でも俺は最初に、きちんと、遊びの関係で居ようね、って言うよ。それで追いかけてくる方が悪いんじゃん? なんか俺のせいで破局したとかもさぁ、そういうの本当、面倒くさい。俺関係ないし」
「……最低だよ、リュカ」
「そう? 大好きだの愛してるだの言って、気を持たせておきながら、そんなつもり一切無い方が最低じゃない? その点俺はきちんと言うからね。クズの中でも良い方のクズだよ」

 クズの中でも良い方のクズって何。……とにかく、軽口を叩けるほどにはどうやら回復したようである。尻尾から手を離した、瞬間、「まだやだ」と、ふわふわの尻尾がくるん、と私の腕に絡まってくる。自分で動かしているのかと思うほどの動きだった。

「まだ痛い。まだやって。フェルの手で、優しく撫でてよ」
「クズの尻尾撫でたくない……」
「言っておくけど、俺の治療、本来なら金銭の授与が発生するものだし、王都直属だから俺が治療したことチクったら莫大な金額を取り立てに王都から騎士がやってくるからね。あーあ、フェルシアのせいでおばあさんかわいそう」

 脅しじゃん、それ。
 思わず表情が硬くなる。心の中に浮かんだ様々な感情をため息とともに落として、私はリュカの尻尾を再度撫で始めた。リュカが小さく笑う音が聞こえる。

「あはっ。フェル優しい。あっ、もちろん、尻尾撫でるのじゃなくて、俺と一緒に王都来てくれる、っていうのでもいいよ」
「尻尾を撫でさせていただきます」
「ふふ。あ、根元とかは優しくすりすりされると勃つから」

 この世界で一番必要ない情報を手に入れてしまった気がする。絶対根元触らないようにしよう、と心の中で決めながら、ふわふわの尻尾を優しく手の平で撫でていく。尻尾は、それ自体がまるでリュカとは別個の生き物のようにふわふわと動いていた。
 しかし、魅力的な尻尾だな、と思う。この寒い世界で、なんだか見た目も温かそうだし、実際触れるととても温かい。子どもが触りたがる気持ちもよくわかる、というものである。

「……こうやって尻尾掴まれたりするの、今までもあったりした? その時は大丈夫だったの?」
「そりゃあね。俺の威光を妬んで尻尾掴んでこようとするやつもいれば、セックス中に隙あらば尻尾掴んでこようとするやつもいたよ。でもそういうときは避けられるんだよなぁ。なんか子どもって予備動作が無いっていうか。ほんと子ども嫌い」

 あんなににこやかに対応していたのに、子ども嫌いなのか。リュカが子どもを嫌っているとは一切思ってもいなかったので、少しだけ驚く。長いこと幼なじみで、沢山の時間を共に過ごしてきているにもかかわらず、それでも、リュカの知らない所が出てくるんだなあ、なんて少しだけしみじみとした。

「子ども嫌い、尻尾も、耳も嫌い。フェル以外、全部、嫌い……」
「どうしたの?」
「フェル。……王都来てよ……一緒に……」

 少しだけ低音の、僅かな苦しみの滲む声だった。先日、告げられた『寂しい』という言葉が頭を過る。
 幼い頃も、寂しがりだった。そしてきっと、それは今もどうやら、変わっていないらしい。

「……寂しがりやさんなのは変わらないなあ、リュカって」
「フェルだって寂しがりなくせに」

 少し拗ねたような声だった。よし、もう大丈夫だろう。指を離す。リュカが「少ない! まだ足りない」と言葉を続けるが、もう顔色も元に戻っているし、これ以上はやらない。首を振ると、「なんで!」と彼は言葉を続けた。
 なんでも何も。

「そんなに撫でられるの好きなら、王都に戻ったらセックスしてくれる人に頼めば良いじゃん」
「だ、だから、そいつらとフェルシアは違うよ。あんな奴らに撫でさせたいと思ったことなんてない」
「違うことないよ。同じだよ」

 首を振る。消費されて、捨てられる。その一点で、王都に住む人も、私も変わりないだろう。リュカが僅かに眉根を寄せる。少しだけ怒った顔だ。

「フェルは俺にとって特別だよ」
「もう全然響かないんだよなぁ」
「なんで。言っておくけど、俺、セックス中に好きとか大好きとか、言ったことないからね!」

 何故誇らしげにするのだろうか。全然わからない。もう本当にリュカの思考回路が一切私の手に負えないものになっている気がする。へええ、と言葉を続けると、リュカは目を細めて私を見た。

「俺が好きとか言うのはフェルだけだから!」

 すごい。本当に全然響かない。というかセックスは他の人とたくさんするけれど一番好きなのは君だよ! って言われて喜ぶ人間、王国のどこを探しても居ない気がするのだが。
 もうこんなクズは放っておこう。私は小さく息を吐いて、ベッドから離れる。リュカがフェル、と怒ったように私の名前を呼ぶが、放置することにした。保存食も作らなければならないし。

 リュカはぶうぶうと拗ねたような声をあげていたが、台所に立った私が戻るつもりはないということを理解したのだろう、彼は私の布団を抱き枕のようにしながら、「フェルはどうしてここに居たいの?」と、小さく続けた。

「絶対に王都の方が楽しいよ。なんでもあるし、何でも出来るし。――ねえ、ここは、寂しいところだよ」
「……私がここに居たい理由、リュカは知ってるでしょ」
「……知ってる、けど。だから、だよ。こんな――悲しくて寂しい場所で、死ぬかも知れない恐怖に苛まれながら生きる必要、ある?」

 あるから、居るのだ。ずっとここに。
 私はリュカを見る。――ここに居る理由を話す時、僅かに胸の奥がちくりと痛む心地がする。リュカと私で、まるで――まるで、お互い、どこまで踏み込んで話しても良いか、相手の沸点を見極めながら少しずつ会話を進めるような、そんな緊張感で空気が張り詰める。

「あるよ」
「……。……何作ってんの?」
「冬用の保存食」
「……手伝おうか」

 リュカがごろん、と軽く体を動かして、私の傍に来る。彼は当然のように私の腰に手を回した。私は小さく笑う。

「リュカ、出来るの?」
「出来るよ。一緒に作ったこともあるじゃん、母さん監修で」

 確かにあるけれど。十年以上前の話だ。覚えているのか、と少しだけ驚く。彼は軽く手を洗うと、直ぐに私の手伝いを始めた。冬の保存食、干して置いた果物を使って作る固めのパンだ。
 生地の精製は魔法で出来るので、その生地の中に果物を詰め込み、焼く作業を行う。昔は生地から作っていたが、今は少しだけ楽になった。

 生地に果物を入れ込んで、軽くこねる。それらをリュカが行ってくれた。生地は硬く、まあまあ力の要る仕事なので、少しだけ助かる。
 ありがたいなあ、なんてじっとリュカを見ていると、尻尾が軽く震えて、リュカの目がちら、とこちらを見る。そうして、唇の端を持ち上げるようにして僅かに笑った。

「懐かしいね」
「……そうだね」

 小さく頷いて返す。リュカがやけに嬉しそうに笑みを零すのが、視界の隅に見えた。こうやって一緒に保存食を作っていると、なんだか子どもの頃に戻ったような気がして、私も同じように笑った。


 その後、パンを焼くまでの間、リュカととりとめのない話題を話して、別れた。夕飯を食べて、別れる。そのまま布団に入って、目を閉じる。
 緩やかな眠りによって誘われる夢は、けれど、私にとって思い出したくも無いものだった。

 行ってくるね、と母が言った。すぐに帰ってくるから。大丈夫。待っているんだよ。父が言った。
 もしかしたら、薪を分けて貰えるかもしれない。その手には大事にしていた、母が祖母から受け継いだという、綺麗なネックレスがあった。物々交換に使うつもりなのだろう。その時の私は、ただ、どうしてネックレスを持っていくんだろう、くらいにしか思わなかったけれど。

 私は、ベッドの上で寝ていた。薪が足りない部屋で、一人、ふうふうと荒く息を吐いて。
 どこへ行くの。問う声が震える。母は「麓の村まで」と答えた。
 麓まで、優に一時間以上はかかる。冬の日、しかも夜中にも近い頃合いに外へ出るのはほとんど自殺のようなものである。行かないで、と言ったら、額を撫でられた。

 大丈夫。すぐに帰ってくるよ。お薬と、薪を持って。そうしたら、今年の冬はこせる。大丈夫だよ。
 行ってきます、フェルシア。明日には帰ってくるからね。大丈夫だよ。大丈夫だよ――。

 父母はそう言って出かけていって、――そうして。

 喉が震える。息がしづらくなって、私はふ、と目を覚ました。夜中だ。暖気膜のせいで寒さは感じないが、それでも、背筋を冷たい手の平で撫でられるような心地を覚えて、体が震える。
 指先で自身の腕を擦る。寒い、気がして、仕方が無い。荒い呼吸を収めるために、立ち上がって水を飲みに行く。喉を潤すと、少しだけ恐怖が消えていくような気がした。

「……最近見なかったのに……」

 喉から、掠れた声が出る。――懐かしいことをしたから。子どもの頃を思い出したから、神様が、忘れるな、と怒って、私にあんな夢を見せたのだろうか。
 お前の子どもの頃の思い出は、良いものばかりではないはずだ、と。
 お前のせいで――お前が、あの日、風邪を引いたせいで、両親は居なくなったのに、と。

 まだ深夜とは言いづらい時間帯だった。冬は早めに寝るようにしている。子どもの頃からそうだった。恐らく、この村落に住む人々も、きっと同じだろう。
 夜を楽しむのは都市に住む人々だけだ。

「……最低……」

 最低だ、と思う。体がこわばったまま、苦しくて、辛い。ずっと扉の方を見つめる。
 冬の寒さは、誰に対しても容赦なく降りかかる。そうして、私が子どもの頃、例を見ないほどの寒さが、この王国を襲った。
 王都ですら死亡者が沢山出た寒さ。田舎村ではさらに、である。寒さに耐えきれず、人がばたばたと死んでいった。そのせいもあって、冬支度が遅れ、私の家は――多くの家がそうであったように、冬支度をきちんとすることが出来ないまま、凍てつく夜を迎えた。

 冬さえ越えたら。今日、明日、そして明後日を越せたら。そうしたら、きっと、誰にも陽気が降り注ぐ春がやってくる。そう信じて、皆、身を寄せ合って暮らした。
 そんな中、私は、風邪を引いてしまった。薬も満足にない状況で、何日かうなされて――そうして、父母は、風邪薬をもらいに付近の村落へ向かうことに決めたらしい。
 そうして、帰ってこなかった。私は凍えそうな部屋の中に居るのをリュカに発見され、リュカの家にお邪魔することになった。リュカの家も大変だっただろうに、彼らは温かく私を迎え入れてくれて、――冬を越すことが、出来たのだ。

 もし、あの冬が厳冬でなかったら。
 もし、あの冬に風邪を引かなければ。
 もし、――暖気膜という発明が、もっと昔にあったなら。

 私はずっと、二人の帰りを、ここで待っている。

「……お母さん……お父さん……」

 小さく息を吐く。瞬間、静寂を破るようにどんどんどんどん、と扉を叩く音が聞こえた。びくり、と体を震わせて、それから「誰?」と声をかける。

「リュカ! リュカだよ、フェル、入って良い? 入るね」

 有無を言わさず、リュカが中に入ってくる。そうして、真っ暗な部屋を見てびくりと肩をふるわせたかと思うと、すぐに灯りをつけた。
 もこもこの防寒着を身につけた彼は、ベッド近くに座り込む私を見つけて、また驚いたような表情を浮かべる。

「よかっ、良かった。俺の家、急に暖気膜切れて、本当、びっくりした。修復魔法は置いてきたんだけど、直るのに時間がかかるらしくて、このままじゃ死ぬ! ってなって――、……フェル?」
「リュカ」

 リュカは近づいてくると、膝を突いて私と視線を合わせた。彼は手袋を即座に脱ぎ捨てると、少しだけ冷たい手の平で、私の頬に触れる。

「――どうしたの。何かあった?」
「……ううん、何も」
「何もって顔、してない」

 リュカは首を振る。そうして、私の眦を親指で軽く拭った後、不意に顔を近づけてきた。額をこつりと当てられる。至近距離だ。睫毛がぶつかる音すら聞こえてきそうな、そんな距離。

「――泣いてた?」
「……。少しだけね」
「どうして? もしかして、俺が帰って寂しかった、とか?」

 リュカが小さく含み笑いをする。からかうような口調だった。彼はゆっくりと防寒着を脱ぐと、そのまま私に体をぴたりと寄り添わせてくる。

「リュカ、――」

 不意にキスをされた。思わず驚いて息を呑む。リュカが小さく笑って、もう一度私の唇を食むようにキスすると、「大丈夫だよ」と続ける。

「俺はここに居るし、フェルシアの傍にずっと居るから」
「……急にキスするのはやめて」
「じゃあ許可を取ればいい? ねえ、フェルシア、キスしたいよ。ぎゅうって抱きしめて、一緒の体温を分け合いたい。沢山、奥の所にも触れたいな」
「急にどうしたの?」
「急にじゃないよ。ずっと思ってる。――泣いてる姿を見たら、特に」

 ちゅ、と息を零すようにリュカは私の眦にキスをした。ちょっとくすぐったい。もう、やめて、と言うと、リュカは小さく笑った。

「慰めるのにキスするとか、本当……、誰にでもやってるんでしょ」
「失礼だなぁ。俺はクズだけどクズなりに美学があるよ。好きな子にしか、慰める時にキスしないっていう」

 リュカはくすくすと笑いながら私の肩口に額を押しつけてきた。ぴんと立った耳が軽く震えて、私の顎のあたりをくすぐる。尻尾がふりふりと優しく揺れているのが見えた。
 慰めてくれているのはわかる。多分、リュカなりに、真剣に優しくしてくれているのだろう、ことも。
 けれど、だからこそ、リュカが沢山の人を抱いてきていることがどうしても引っかかって、素直に喜べない。なんとも言えないもやもやとした気持ちが胸の奥に広がるのを感じながら、私は首を振った。

 私はリュカとどうなりたいんだろう。私は――リュカに、どう言って貰えたら、満足するんだろう。
 自分でもわからない。ただきっと、リュカが発情期だからと他の人とセックスをした時点で、私がリュカの言葉に満足をすることは無くなったのだろうと思う。
 私はきっと、リュカと同じだけの気持ちをずっと抱えていて――それらが入った袋には、穴が空いているのだろうと思う。どれだけ好きだと言われても、端から零れ落ちて行ってしまう、そんな穴が。

「フェルだけ。――フェルだけ、だよ」
「……私が特別だって言うなら、発情期のセックス、他の子とするの、やめてよ……」
「それは難しいけど」
「……最低だよ」

 思わず普通に罵倒の言葉が飛び出てしまう。リュカは最低じゃないよ、とむしろ少しだけ拗ねたように言葉を口にする。

「何度も言うけど、発情期のセックスなんて作業だよ、作業。もう無感情でやるもんだから、あんなの」
「なんで?」
「なんでって、だから、ほら。俺がしたくてしてるわけじゃないっていうか。なんていうか強制感があるんだよね」
「でも相手は」

 そう思って居ないと思う、と答えそうになって、昼の会話と同じだな、と口を噤む。
 多分、リュカにとって、発情期にするセックスっていうのは、全然大切なものではないのだろう。発情が来たから、発散するために手頃な女性を引っかけてする。だから感情も無ければ、ほとんど作業のようなものになってしまうのだ。
 私には発情期が無いから、リュカのそういう気持ちはきっと一生わからない。ただ、リュカ自身が自分のことをクズだと自覚している分、まだマシなんだろうな、なんて思う。引っかけられた女性からしたらたまったものではないが。

「俺がしたいのはフェルとだけ。フェルとキスして、フェルと恋人になって、フェルとセックスするの! 知ってる? 狼って一途なんだよ。つまり、そのルーツを継いでる俺も一途ってこと!」

 ここまで一途という言葉が似合わない男もいないと思う。小さく笑うと、リュカが「なんで笑うの」と少し拗ねた声を上げて、それから同じように笑った。そっと、密着する体に手を伸ばす。ゆるく抱きしめると、リュカがにわかに「フェル?」と驚いたような声を上げたのがわかった。

「少しだけ、……このままで居させて」
「……フェルは俺のことよくクズって言うけど、フェルの方こそクズじゃん」
「どうして」
「俺がフェルのこと好きなの知ってて、利用してる」

 確かに、これは利用している、ということになるのかもしれない。リュカならきっと断らないだろうという気持ちの上で行っているからだ。
 クズか。確かに尤もな意見だ。小さく笑う。背筋を撫でると、リュカが小さく息を詰めた。「本当、最低、だからね……」と言いながら、彼も同じように私の背に手を回す。ゆるく、抱きしめるようにして回された手の平が僅かに震えているのがわかった。
 緊張しているのか、それとも、どうしてなのか。わからない、けれど。

「そうだね、私、クズかもしれない」

 寒くて、寒くて、仕方無い。あの夢を見た日は、どうしても怖くて、不安で、仕方無くなる。リュカに会って、昔のことを思い出すと、更にもう駄目だった。
 両親のことを考えない日はなかった。だからここに、ずっと、いる。それなのに、リュカが来て、リュカに王都へ行こうと誘われると、私はそれについていってしまいそうになる。
 そんなことは許されないのに。

 もう、これで、リュカに会うのはやめにしよう。もう二度と彼が訪ねてきても出ない。希望を持たせるから駄目なのだ。私は相手に自分と同じ気持ちを求めてしまう。それに、私のような泥船にずっと付き合わされているリュカがかわいそうだ。
 ここでずっと両親を殺したという気持ちに苛まれ続けるのが、私の人生にふさわしい。

「リュカ」

 小さく囁いて、リュカの唇に口をくっつける。少しだけ固い唇は、ふにゃりと形を変えた。リュカが驚いたような顔をして、「フェル?」と声を上げる。そのまま続けざまにゆっくりとキスをした。舌先を伸ばして、中にあるリュカの舌に触れる。ざら、とした舌は、私が触れると一瞬だけびくりと震えて、すぐに優しく絡んできた。口内をゆっくり愛撫しながら、リュカの体に触れる。筋肉質な体だった。上等な、柔らかな衣服に触れて、そのまま彼の腹部をくすぐりながら、いつのまにか勃ちあがりかけている陰茎に服の上から触れた。

「はっ、ふぇ、るしあ、どうしたの……?」
「――しよっか、リュカ」

 そっと囁く。リュカの目が熱い欲に煮えたぎるかのような色を宿した。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

私の婚約者は、いつも誰かの想い人

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:76,936pt お気に入り:3,611

【R18】ユートピア

恋愛 / 完結 24h.ポイント:7pt お気に入り:40

メイドから母になりました

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:866pt お気に入り:5,892

大学の図書館でえっちな触手にいたずらされて困ってます

AIM
恋愛 / 完結 24h.ポイント:113pt お気に入り:249

ココロオドル蝶々が舞う

ライト文芸 / 完結 24h.ポイント:85pt お気に入り:1

王家の影である美貌の婚約者と婚姻は無理!

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:781pt お気に入り:4,308

あなたは誰にもわたさない

恋愛 / 完結 24h.ポイント:14pt お気に入り:169

相手に望む3つの条件

恋愛 / 完結 24h.ポイント:655pt お気に入り:333

処理中です...