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あれだけ酷い扱いをしたのだから、きっともう傷ついたリュカは私の元に訪ねてこなくなるだろう。
そう思ったし、実際、そうだった。ほとんど毎日のように、私の家を実家なのかと思う頻度で朝に訪ねてきた彼の行動はなりを潜めた。出会わないように、リュカが居る間は外に出来る限り出ないように過ごしたのも、功を奏したのかもしれない。リュカから訪ねてこなければ、私は彼と顔を合わせることなく、一日を終えていく。
ただ、――それでも、三日も経つと、とんとん、と扉を叩いてきた。だから、全て無言で返した。
扉の向こうで、リュカは僅かに声を震わせる。フェルシア。フェルシア、ねえ、リュカだよ。
幼い頃、沢山、遊びに誘いに来たときと同じように私の名前を呼んで、自分の名前を口にして。
開けて。入っても良い? お願い。フェルシア、顔を見せてよ。会いたいよ。俺のこと好き? フェルシア。フェルシア、フェル――。
そういった声が聞こえなくなったのは、リュカと手ひどい別れ方をした、七日目の朝だった。
前日の朝、リュカが「フェルシア、俺、王都に行かなきゃ。でも、また来るからね。フェル、お願い、待ってて」と言っていたから、実際、王都に帰ったのだろうと思う。窓から外をうかがうに、リュカの姿は見られなかったから、多分、嘘でも無いのだろう。
リュカには王都が似合う。騒がしく、沢山の光がそこかしこで灯り、様々な人が行き交う。そういう場所が、リュカにとっての『帰る場所』であれば良いと思う。
こんな、北部の辺境、田舎町で、人口が少しずつ減っていくような――そんな場所は、きっとリュカの『帰る場所』ではない。
びゅお、と強い風が吹いて、地面に積もった雪が視界を覆う。もう間も無く、この村には厳しい冬がやってくる。
誰かの命を簡単に奪う、冬が。
冬が来ると、基本的に村の人々は家から出なくなる。外へ出たところですることもないし、凍るような寒さなのだから、出歩くなんてのは自ら死にに行くようなものである。
暖かな暖気膜の利いた室内で、冬支度のために置いていた食料を細々と食べ、そうして、手慰みに刺繍なんかをしたりして、日々を過ごすのだ。
例に漏れず、私も同じように暖かな室内で、手慰みに春夏兼用の衣類を繕いながら、日々を過ごしていた。今日の夕飯は野菜スープを作る予定で、朝から弱火で煮立てている。もう少しもすれば、夕飯の時刻になるだろう。
幼い頃、あれほどに欲しかった薪は、暖気膜があることもあってそこかしこで溢れており、もちろん、私の家にも充分な数が貯蓄されている。これを、火の魔法を使って作った種火の薪にして、食事を作るのだ。
ずっと固まった姿勢で刺繍をしていたこともあって、少しだけ体が疲れた。ん、と小さく伸びをして、思い出すのは――遠い昔の日のことだ。
私が風邪を引いた日。――両親が、外に出て行った日。
あの後、リュカによって私が発見されたのは、とてつもない幸運があってのことなのだろうと思う。布団の中で凍える私に、リュカは泣きながら私の名前を呼んで、布団の中に潜り込んでぎゅうっと抱きしめてくれた。熱を分け与えるように彼の尻尾が私の足に触れ、優しく撫でるように動いたのを覚えている。
本来なら、あの時、私は死んでいただろうと思う。厳冬において、他人の家を慮る余裕のある人々なんて居ない。あの冬ばかりは、リュカも、私の家に遊びに来るのを止められていたくらいだった。
家と家との距離。それすらを歩いている間にすら、凍死する可能性がある、冬。それなのに。――どうして。不意に、疑問のようなものが胸を過る。
――どうして、あの時、リュカは私の家に、来てくれたのだろう。
浮かんだ疑問に答えるように、不意にこつこつ、と音がした。ノックの音だ。え、と思って視線を寄せるが、それ以上の音はしない。
でも、した。さっき、絶対に。
小さく息を呑む。冬の日に、誰かの家を訪れる人なんて、一人も居ない。喉が震える。
もしかして。――もしかして。
「お、かあさ……、おとうさん……?」
あり得ないはずの妄想が喉の奥から零れ落ちる。私は手に持っていた衣服をテーブルの上に置いて、ゆっくりと扉の方へ歩を進めた。
きっと違う。きっと――物がぶつかっただけだ。冬の寒い風に吹かれて、扉に雪玉がぶつかるなんてことは、多くある。だから、過分な期待をしてはいけない。けれど。だって。
だって。さっき。ノックの音が。
走り出す心臓を必死に抑えて、私はゆっくりと扉を開ける。少しだけ重たいが、直ぐに扉は開いた。外は豪雪、夜の闇が裾野を広げるように視界いっぱいに広がる。
外には――誰も居ない。
やっぱり、と思う。期待をしてはいけなかった。寒さによって急激に体温が奪われていく。父母は帰ってこない。――私の元には、一生。
喉が、く、と窄まる。少しだけ泣き出しそうになって、私はゆっくりと扉を閉めようとノブに手を当てた。瞬間。
「フェル!」
聞き知った声が耳朶を打つ。顔を上げると、もこもこの防寒着を着た――リュカが、少し遠くに立っているのが見えた。
は、と小さく息を零す。どうしてここに。この厳しい寒さの中、出歩くのすら死に直結するというのに、どうして、寒さに一段と弱い彼が、出歩いているのだろうか。
「なんで……」
「フェル、寒い。寒い、ごめん、中入れて」
リュカは言うなり、とすとすと雪原を器用に走ってきた。そうして、私の答えを聞く前に室内に体を滑らせて、小さく息を吐く。直ぐに彼はもこもこの防寒着を脱ぎながら、「フェル?」と私を呼んだ。
「扉開けてると寒いよ。閉めたら?」
思わず閉口してしまう。待って、いや、なんで、リュカがここに。先日王都へ戻ったばかりだったはずなのに。
リュカはふんふんと軽く尻尾を振ると、台所の野菜スープに気付いたのか「あ、スープ。俺も食べたい」と、嬉しそうに言葉を弾ませる。
あ――あんな、手ひどい別れ方をしたのに、どうしてこんな、まるで何も無かったかのような振る舞いが出来るのだろう。
「りゅ、リュカ、出て――」
「行かないよ。こんな寒さの中、放り出すなんて、正気? 死んじゃうよ、俺が。エレモス王国の治癒術士を一人殺しても良いっていうなら、それに従うけれど。良いのかなあ、数少ない治癒術士を寒空の中放り出して殺しても」
脅しでは無いだろうか。何も返せずにいると、リュカは小さく笑って、私の背にぴったりと体を重ねてくる。そのまま、開きっぱなしの扉を閉めて、彼は「これで暖かいね」と、私の腰にぎゅうっと手を回した。
「正直、ちょっと死ぬかと思ったんだよね。夜になるとこの辺りって皆、直ぐ眠るでしょ。だから、村に来たはずなのに、どこも灯りついてないしどうしよう、こんなに暗いと自分の家もわかんないしなあって思ったらフェルが出てきてくれて。多分、運命だと思う」
「な、なんで……帰ってきたの」
「フェルに渡したいものがあったから。王都に戻ったのもその関係。俺の休みはまだまだあるので」
言いながら、リュカは私の肩口に顔を埋めた。すんすんと鼻を動かしながら、彼はふわふわの尻尾を私にぴったりとくっつける。体も、尻尾も、何もかも、冷えそうなくらい冷たい。
恐らく、歩いてきたのだろう。この時期は馬車も何もかも、止まる。この村に来るには、麓の街から歩いて来るしかないのだ。
「はー、寒い。ほんっと寒い。子どもの頃の俺もフェルも、よくああいう寒さの中走り回れたよね。信じられない」
「ちょっと、リュカ、……離れて」
「嫌だ。絶対離れないから」
「怒るよ」
リュカ、と名前を呼ぶと、リュカは僅かに体をぴくりと反応させて、「怒っても良いよ」とだけ続ける。
「詰っても良いし、何しても良いけど、……会わないってのだけは、やめてよ」
「……」
「そういうのだけは、本当に、……やめて」
静かな声だった。腰に回った手の平が、ぎゅう、と私の体を強く抱きしめる。まるでそうしないと、私がこの場から逃げ出してしまうとでも思っていそうな、そんな動きだった。
静かな室内に、鼻をすするような音が響く。泣いてるのか、彼は私の肩口に額を押しつけて、そのままぐりぐりと顔を動かした。
どうして、こう、変な時に子どもっぽい仕草を出すのだろう。……本気で突き放すことが出来なくなってしまう。私は小さく息を吐くと、リュカ、とリュカの頭をぺしりと叩いた。
「離して。……外は寒いし、夜だから、居ても良いけど、朝になったらちゃんと出て行って」
「そうしたらどうせ、また俺と会ってくれなくなるんでしょ」
「……」
「フェルは嘘つくの、下手だよ。誤魔化すのも、下手」
リュカは小さく笑う。そうして彼は、私からゆっくりと体を離した。眦がわずかに赤い。彼は私と視線が合うと、小さく笑った。柔らかな微笑みは、まるで花が綻ぶように可憐で、可愛らしい。一目見て引きつけられる、とは、きっとこのことを言うのだろうな、なんて思う。
……ただ、この笑顔で何人の女性を落としてきたんだろう、と考えると、なんだか薄ら寒いものが背筋を走るのだが。
「そりゃあリュカに比べたら嘘も誤魔化すのも下手だよ」
「俺? 俺はそんなに嘘ついたことないよ。フェルシアは俺のことどんだけクズだと思ってるわけ?」
「ものすごいクズと思ってる」
「あーあ、ほんと、そういうとこだよ、そういうとこ! 俺が泣いても良いんだ」
「良いよ」
全然全く問題が無い。多少は良心が痛むだろうが、それだけだ。リュカは拗ねたような表情を浮かべると、それからねえ、と、私の名前を呼ぶ。
「……クズじゃなくなったら、愛してくれるの?」
「どうしたの、急に」
「発情期に、他の人を抱かずに我慢したら、愛してくれる? フェルの一番の好きを俺にくれる? 遊びじゃないって、言ってくれる?」
やけに真摯な問いかけだった。リュカは緑の瞳を僅かに伏せて、テーブルに体重を預けるようにしてこちらを見つめてくる。野菜スープが煮立ちすぎそうな気配を察して、台所に向かった私に聞こえるくらいの声量で、彼は続けた。
「でも、俺にとって、発情期に好きな人を抱くっていうことのほうがクズなんだけど」
「どうして」
「性的な発散に付き合わせてるから。それに、ほら、狼がルーツだから春と秋、年に二回は発情期来るし。その度に疲れるまで発散に付き合わせるのって、クズじゃない?」
火を止める。私には獣人の知り合いはリュカと、リュカのご両親しか知らないから、獣人の発情期の過ごし方なんてものは全然わからない。リュカは多分、本当に――好きだからこそ、発情期に付き合わせたくないと思っているのだろう。
ただ単に性的な欲求を解消するためだけに、大事な人に負担を強いて、相手が疲れ果てるまで抱きつづける。作業だ、と口にしていた。――発情期に帰ってこないようにしているのも、それに私を付き合わせないのも、全て、彼の、ひたむきな愛情の示し方、なのかもしれない。
だが、私は普通に人間で、人間としての倫理観を持ち合わせていることもあり、リュカの倫理観に一切共感が出来ない。正直普通にどうかと思う。心は君にあるけれど、体は他の人と色々とするよ、なんて、どう考えても許せない。私は小さく首を振った。
野菜スープを器に注ぐ。二個分。そうしてから、リュカの傍に近づいた。
しょげているのか、耳も尻尾もへちゃりとしている。リュカ、と名前を呼ぶと、リュカはゆっくりと顔を上げて私を見た。
「……私にはリュカの、発情期に付き合わせる方がクズって気持ちは全然わからないけれど、それでも」
発情期は基本的にキツいと聞く。獣人のルーツによって、その重さや軽さが変わったりするのだとか。伝聞や書物くらいでしか聞いたことはないから、必ずしもその情報が合っているとは言いがたいけれど。
「好きな人が辛かったり、苦しい時に、傍に居るのは自分が良いって思うよ」
「……フェル」
「それは多分、リュカも私も同じでしょ?」
リュカが僅かに視線を動かした。緑色の虹彩が揺れる。彼は僅かに吐息を零すように、小さく、「……うん」とだけ頷く。しょんぼりとした顔だった。なんだか、いつも調子の良いリュカが、今日はこんなにしんなりとしているというか、湿った野菜みたいなしょもしょも感ばかりを出してくると、ペースが崩れる。
そもそも会わないって決めていたのに、なんて、自分の甘さにちょっとため息が出てくる。ただ、あの状態で放り出したら確実にリュカは死んでいただろうし、どうしようもないことと言えば、どうしようもないことなのかもしれない。
「……フェルは、俺の、こと、好き……?」
「……どうかなぁ」
「どうかなって。そういう流れだったじゃんか」
リュカが首を振る。野菜スープを机の上に置いて、私は椅子に腰を下ろした。対面に、リュカがゆっくりと腰を下ろす。
耳がしょんぼりと垂れたままだった。まったくもって、機嫌がわかりやすいな、なんて思う。
「そういう流れだったじゃん……」
「……リュカが、本当に、発情期に絶対に他の人を抱いたりしなかったら、そう思うかもしれない」
「じゃあ、今、思ってよ」
「今までがあるでしょ」
視線を向けると、緑色の瞳が見返す。今まで、王都で沢山の人々を相手に性欲を発散させてきた、という過去があるので、口約束は出来ないし、したくない。
――リュカが、きちんと、そうしてくれたのだと、実感するまで、私は多分、疑心を抱き続けていくことになるだろう。
じっと、どちらからも目線を逸らさずに、見つめ合う時間が流れる。そうこうしているうちに、リュカが小さく瞬いた。そうしてから、ゆっくりと言葉を吐き出す。
「……じゃあ、する。するよ。絶対に、我慢、その、発情期に他の人、抱いたりしない……から。けど、それなら、俺からも一つだけお願いさせてよ」
「何のお願い?」
「……発情期のとき、フェルの家、居させて欲しい……」
少しだけ顔を赤くして、リュカはそれだけ言う。それはつまり、そういう相手をしろ、ということなのだろうか。少しだけ呆然としてしまうと、リュカは早口に言葉を続けた。
「その。し、しないよ。しないつもり、だけど。……でも、我慢すると本当にキツくて、辛いから、傍に居て欲しい……。襲ったりしないように、頑張るから。手枷とか、かけてくれてもいいし。だって、その、……辛い時は、傍に居たいって思うんでしょ?」
「……それは、言ったけれど」
「なら傍に居てよ。そうしたら、俺、頑張るから。フェルに見張られてないと頑張れない! フェルはいいの? 俺が違う人とセックスしてもさぁ!」
なんだそれは、と思う。自制してほしい。
ただ、まあ、確かにリュカの今までがあって信頼しきれないのに、発情期の時一切顔を合わせず、終わった後に「誰ともセックスしなかったよ」なんて言われて来られても、びっくりするほど信用が出来ないのは本当のところである。
辛い時に傍に居たいと思う、と言い出したのは私だ。――だから、リュカが私の家に来たい、というのなら、それを拒否する言葉を吐き出すべきではないだろう。
「……わかった。おいで」
頷くと、リュカの耳が少しだけ震えて、立ち上がった。尻尾が僅かに震えるように揺れているのが、ばさばさという音で、なんとなく察せられる。
リュカは小さく頷いて、それから「フェルが王都に来ても良いけど」と言葉を続けた。行かないって言ってるのに。
小さく笑って返すと、リュカも同じように笑った。私は昔から、リュカの笑顔に弱い。
自分でも自覚しているのだから、相当なものだろう。
次の日の朝も、その次の日も、豪雪は止まなかった。いったん降り始めると凄い勢いで降りつもるのがこの地域の特色のようなもので、恐らくまだまだ止まないのは想像に難くなかった。
リュカはその間、私の家にずっと泊まった。隣家へすら帰れないのだから、当然とも言えるだろうが。私が冬支度で作った乾物を戻しながら食事を作る横で、魔法を使ってパンを無制限に生み出すのだから、食料問題は当面の間、全く問題無かった。
私の幸せにリュカを付き合わせるわけにはいかないから突き放したのに、どうしてこんなことになっているのだろう、と思いながら、リュカとの同居生活四日目を迎える。
外は僅かに晴れていて、数日にわたる豪雪が止んだことを示すように、窓の、ほんのすこしだけ雪が積もっていない隙間からのぞき見られる空が青く滲んでいた。
よし。出て行って貰おう。
発情期に会うとか、そういう約束をしてしまった手前、もう手遅れだと言われたら、もう何も答えられない。どうすればいいのだろう、私は。あの時リュカを見殺しにした方が良かったのだろうか。
幼なじみの殺人について想いを巡らせるより先に、床に布団を敷いて眠っていたリュカが目覚める。
「朝……?」
「そう、朝だよ、リュカ。おはよう。出て行って」
「急すぎない? 今更じゃん」
リュカが小さく伸びをして、眉根を擦る。
「フェルは何が怖いの?」
「……何言ってるの?」
「王都においでよ。ここは寂しいよ」
リュカは私の両親が居なくなってしまったことを、知っている。だからこそ、彼はここから私を引き離そうとするのだろう。悲しい思い出のある場所に、囚われているままではいけない、と。
でも、私は――私は、無理だ。ここから、出て行くことは出来ない。首を振る。
「……二人とも、まだ帰ってきてないから、私が待っていなくちゃいけないよ」
静かに言葉を続けると、リュカは僅かに眉根を寄せた。何かを考えるような、そんな間を置いてから、彼は「あの日」と言葉を続ける。
「フェルシアのご両親、二人とも、俺の家に来たよ」
「え――」
「今から、麓の村まで薬と薪をもらいに行くって。けれど、正直、この極寒の中では帰られるかどうかもわからない。もし私たちが朝まで戻らなければ、家のものは何を使ってもらってもかまわないので、どうか、娘を頼みますって」
聞いたことが無い。私はリュカを見つめる。リュカは滔々と、言葉をゆっくりと続けた。
「俺は、ほとんど、半分寝てて。けれど両親が聞いてたから、間違いないと思う。次の日の朝になっても二人が帰ってこないって、母さんが騒いで。だから俺が、フェルの家に行った」
「……そっか」
だから、あの日、リュカが助けてくれたのか、と思う。極寒の中、隣家に向かうまでの道のりですら、凍り付いて死んでしまうかもしれないのに、来てくれたのだ。
――両親が二人、居なくなってしまった私を、リュカのご両親は温かく迎え入れ、大事にしてくれた。冬が終わった後、実家で過ごす私を沢山援助してくれた。彼らがいなければ、多分、私は今の年まで生きていないだろう。
「ねえ、きっと、フェルのお母さんも、お父さんも、フェルにずっと待っていて欲しいとは思っていないよ」
「わからないでしょ」
それは、誰にも。居なくなってしまった、両親にしか、わからないことだ。
もしかしたらずっと待っていて欲しいと思っているかもしれない。
もしかしたら、もう待たなくて良いよと思っているかもしれない。
けれど、それを知る術は無い。だから、私は、ここで待つことに決めたのだ。
唇を引き結ぶ。リュカはじっと私を見た後、それから囁くように言葉を続けた。
「……フェル、俺、一応、王都で結構名をあげてて」
「急に何? どうしたの?」
「急にごめん。でも、聞いて――それでね、記憶力も良いし、まあまあ性格も良いじゃん? だから、色々な場に顔を出すことが多いんだ。――あの日、フェルのお母さんが持ってたネックレスの形、ずっと覚えてて」
ずっと探してた。
リュカは続けた。そうして、彼は初日に着てきた、もこもこの防寒具の中から、一つの袋を取り出す。
「あの日、麓の村まで、ご両親は行けたんだよ」
これは、フェルに、渡したいもの。リュカは続ける。そうしてから、軽く首を振った。
「……薬も、薪も、手に入れてた。引き留める村人をおして、『娘が待っているから』って、帰って行ったんだって。その後、ネックレスは色々と変遷を辿ってて、中の宝石が抜かれたり、意匠が少し変わったりしてたけれど――匂いが、変わってない。フェルのお母さんが、ずっと大事にしていて、フェルの家の匂いがついたものだから」
革袋だ。はい、と差し出されたそれをじっと見つめる。
唐突な状況に、頭がついていかない。どういうことだ。何が起こっているのだろう。わけがわからない。まるで、――まるで、ネックレスを、見つけだしたとでも言うような――。
「フェル、受け取って。帰ってきたよ」
静かな声だった。思考が追いつかない。ほとんど震える手を差し出して、革袋を受け取る。あまり、重くは無かった。
紐で縛られた口を開ける。袋を傾けると、しゃらり、と音がして、手の平にネックレスが落ちてきた。
リュカの言う通り、僅かに宝石が減っていて、形が変わっている。けれど、それは紛れもなく、――私の、母が、あの日、持って行ったものだった。祖母から受け継いだと、母が自慢げに話していた、綺麗なネックレスだった。
は、と小さく息を零す。胸の奥がぎゅうっと引き絞られるように痛んで、眦の奥が燻されたように熱くなる。思考がまとまらない。様々な感情が押し寄せてくるような心地がした。押しつぶされそうなほどの感情の濁流に、口の開閉を繰り返して、私はリュカを見る。
「これ……お母さんの……」
「そうそう。いつ渡そうかなって思ってたんだけど――今かな、って」
リュカはまるで明日の天気を口にするように、軽い口調で、言葉を続ける。多分、努めてそうしているのだろうことが、わかるような、そんな声だった。
お母さんが大事にしてきたネックレスは、沢山の人々の中を辿って、戻ってきた。
小さく息を呑む。――こつこつと、音がした夜。扉を開けてリュカを出迎えた日。あれはきっと、本当に。
ノックの音、だったのだろう。
ただいま、と、言う声が耳の奥で聞こえる。いつも、いつも、幼い頃何度も聞いたことのある声だった。
涙がぼろ、と零れる。溢れ出したそれを止められずに、私はネックレスを握って、そっとそれに額を近づけた。
おかえり、と言う声が、震えて響いた。
私がぼろぼろと涙を零しつづけている間、リュカは傍に居てくれた。ただひたすらに、本当に――何もせずに、隣に居てくれた。
そうして、私が泣き止んできた頃になると、うずうずとした様子でリュカは私の肩口に額をこすりつけてくる。何をしているのだろう、と視線を向けると、リュカは「どう? これで王都来られるよね」と続ける。
「……そのためだけにこのネックレス、探してたの?」
「いや、それだけじゃないけど! フェルの大事なものだし、あの日の話もいつかしようと思っていたから。絶対探し出してやるーって思って頑張ったよ。ただ、いつ渡してもなんか脅迫してるっぽい感じになりそうで、いつ渡そうかなあとは思ってた」
「脅迫って……」
「ネックレス探したんだから、俺のことを好きになってよ、とか、そういう脅迫に取られたらと思って」
リュカは僅かにしょんぼりとした表情を浮かべる。そんなことを考えて居たのか、なんて思って、少しだけ笑った。
ああ、でも、そういうところを口に出してしまう辺りが、なんだかリュカらしいな、と思う。彼は心の動きを強制することをよしとしないのだろう。誰かの大事なものを、生け贄のようにして、愛を乞うことはしないのだ。
「でも、ほんっと、探すの大変だった。本当、語ったら多分一日くらいかかる。俺さあ、凄いと思わない? 頑張ったでしょ?」
褒めて、とリュカが嬉しそうに笑う。その様子に小さく笑って、そのまま私はリュカの頭をすりすりと撫でた。リュカは嬉しそうに表情を緩ませて、そうして、眦に触れてくる。
「少し赤くなってるから、温めておかないと、明日に響くよ」
「うん、……そうするよ、後で」
「後でじゃ駄目だよ。待ってて、俺が魔法ですぐに温かいタオルを出すから!」
嬉しそうに言葉を弾ませて、リュカはすぐにタオルを探しに私から離れていった。
その背中を眺めてから、貰ったネックレスへ視線を落とし、私は小さく息を吐く。――私は、待つだけだった。
けれど、リュカは、探してくれた。私も探そうと思えば探せたはずなのに、両親の痕跡を辿ることにすら臆病になって、出来ずに居た。
この村にずっと一人で過ごして、そのまま生を終えるのが、一番、傷つかずに過ごせるから。
けれどそれは、間違いだったのかも知れない。私はどうしようもなく、臆病だった。
「……王都かぁ」
私は、私の幸せに、リュカを付き合わせても良いのだろうか。
私は――ここを出て、しまっても、大丈夫なのだろうか。
ネックレスを指先で辿る。もちろん、何も応えは無い。それはフェルシアが決めることだと、両親に怒られているような気がした。
確かに。その通りだ。
私のことは、私が決めなくちゃいけない。とりあえず、そう。
「ちょっと待って。タオルはこっちだよ」
変な所にタオルを探しに行っているリュカを呼び戻すことから、始めよう。
そうしていつか、――私の意思で、リュカと共に、王都へ行くと、決められるように。
リュカに好きだと、伝えられるように。
(終わり)
そう思ったし、実際、そうだった。ほとんど毎日のように、私の家を実家なのかと思う頻度で朝に訪ねてきた彼の行動はなりを潜めた。出会わないように、リュカが居る間は外に出来る限り出ないように過ごしたのも、功を奏したのかもしれない。リュカから訪ねてこなければ、私は彼と顔を合わせることなく、一日を終えていく。
ただ、――それでも、三日も経つと、とんとん、と扉を叩いてきた。だから、全て無言で返した。
扉の向こうで、リュカは僅かに声を震わせる。フェルシア。フェルシア、ねえ、リュカだよ。
幼い頃、沢山、遊びに誘いに来たときと同じように私の名前を呼んで、自分の名前を口にして。
開けて。入っても良い? お願い。フェルシア、顔を見せてよ。会いたいよ。俺のこと好き? フェルシア。フェルシア、フェル――。
そういった声が聞こえなくなったのは、リュカと手ひどい別れ方をした、七日目の朝だった。
前日の朝、リュカが「フェルシア、俺、王都に行かなきゃ。でも、また来るからね。フェル、お願い、待ってて」と言っていたから、実際、王都に帰ったのだろうと思う。窓から外をうかがうに、リュカの姿は見られなかったから、多分、嘘でも無いのだろう。
リュカには王都が似合う。騒がしく、沢山の光がそこかしこで灯り、様々な人が行き交う。そういう場所が、リュカにとっての『帰る場所』であれば良いと思う。
こんな、北部の辺境、田舎町で、人口が少しずつ減っていくような――そんな場所は、きっとリュカの『帰る場所』ではない。
びゅお、と強い風が吹いて、地面に積もった雪が視界を覆う。もう間も無く、この村には厳しい冬がやってくる。
誰かの命を簡単に奪う、冬が。
冬が来ると、基本的に村の人々は家から出なくなる。外へ出たところですることもないし、凍るような寒さなのだから、出歩くなんてのは自ら死にに行くようなものである。
暖かな暖気膜の利いた室内で、冬支度のために置いていた食料を細々と食べ、そうして、手慰みに刺繍なんかをしたりして、日々を過ごすのだ。
例に漏れず、私も同じように暖かな室内で、手慰みに春夏兼用の衣類を繕いながら、日々を過ごしていた。今日の夕飯は野菜スープを作る予定で、朝から弱火で煮立てている。もう少しもすれば、夕飯の時刻になるだろう。
幼い頃、あれほどに欲しかった薪は、暖気膜があることもあってそこかしこで溢れており、もちろん、私の家にも充分な数が貯蓄されている。これを、火の魔法を使って作った種火の薪にして、食事を作るのだ。
ずっと固まった姿勢で刺繍をしていたこともあって、少しだけ体が疲れた。ん、と小さく伸びをして、思い出すのは――遠い昔の日のことだ。
私が風邪を引いた日。――両親が、外に出て行った日。
あの後、リュカによって私が発見されたのは、とてつもない幸運があってのことなのだろうと思う。布団の中で凍える私に、リュカは泣きながら私の名前を呼んで、布団の中に潜り込んでぎゅうっと抱きしめてくれた。熱を分け与えるように彼の尻尾が私の足に触れ、優しく撫でるように動いたのを覚えている。
本来なら、あの時、私は死んでいただろうと思う。厳冬において、他人の家を慮る余裕のある人々なんて居ない。あの冬ばかりは、リュカも、私の家に遊びに来るのを止められていたくらいだった。
家と家との距離。それすらを歩いている間にすら、凍死する可能性がある、冬。それなのに。――どうして。不意に、疑問のようなものが胸を過る。
――どうして、あの時、リュカは私の家に、来てくれたのだろう。
浮かんだ疑問に答えるように、不意にこつこつ、と音がした。ノックの音だ。え、と思って視線を寄せるが、それ以上の音はしない。
でも、した。さっき、絶対に。
小さく息を呑む。冬の日に、誰かの家を訪れる人なんて、一人も居ない。喉が震える。
もしかして。――もしかして。
「お、かあさ……、おとうさん……?」
あり得ないはずの妄想が喉の奥から零れ落ちる。私は手に持っていた衣服をテーブルの上に置いて、ゆっくりと扉の方へ歩を進めた。
きっと違う。きっと――物がぶつかっただけだ。冬の寒い風に吹かれて、扉に雪玉がぶつかるなんてことは、多くある。だから、過分な期待をしてはいけない。けれど。だって。
だって。さっき。ノックの音が。
走り出す心臓を必死に抑えて、私はゆっくりと扉を開ける。少しだけ重たいが、直ぐに扉は開いた。外は豪雪、夜の闇が裾野を広げるように視界いっぱいに広がる。
外には――誰も居ない。
やっぱり、と思う。期待をしてはいけなかった。寒さによって急激に体温が奪われていく。父母は帰ってこない。――私の元には、一生。
喉が、く、と窄まる。少しだけ泣き出しそうになって、私はゆっくりと扉を閉めようとノブに手を当てた。瞬間。
「フェル!」
聞き知った声が耳朶を打つ。顔を上げると、もこもこの防寒着を着た――リュカが、少し遠くに立っているのが見えた。
は、と小さく息を零す。どうしてここに。この厳しい寒さの中、出歩くのすら死に直結するというのに、どうして、寒さに一段と弱い彼が、出歩いているのだろうか。
「なんで……」
「フェル、寒い。寒い、ごめん、中入れて」
リュカは言うなり、とすとすと雪原を器用に走ってきた。そうして、私の答えを聞く前に室内に体を滑らせて、小さく息を吐く。直ぐに彼はもこもこの防寒着を脱ぎながら、「フェル?」と私を呼んだ。
「扉開けてると寒いよ。閉めたら?」
思わず閉口してしまう。待って、いや、なんで、リュカがここに。先日王都へ戻ったばかりだったはずなのに。
リュカはふんふんと軽く尻尾を振ると、台所の野菜スープに気付いたのか「あ、スープ。俺も食べたい」と、嬉しそうに言葉を弾ませる。
あ――あんな、手ひどい別れ方をしたのに、どうしてこんな、まるで何も無かったかのような振る舞いが出来るのだろう。
「りゅ、リュカ、出て――」
「行かないよ。こんな寒さの中、放り出すなんて、正気? 死んじゃうよ、俺が。エレモス王国の治癒術士を一人殺しても良いっていうなら、それに従うけれど。良いのかなあ、数少ない治癒術士を寒空の中放り出して殺しても」
脅しでは無いだろうか。何も返せずにいると、リュカは小さく笑って、私の背にぴったりと体を重ねてくる。そのまま、開きっぱなしの扉を閉めて、彼は「これで暖かいね」と、私の腰にぎゅうっと手を回した。
「正直、ちょっと死ぬかと思ったんだよね。夜になるとこの辺りって皆、直ぐ眠るでしょ。だから、村に来たはずなのに、どこも灯りついてないしどうしよう、こんなに暗いと自分の家もわかんないしなあって思ったらフェルが出てきてくれて。多分、運命だと思う」
「な、なんで……帰ってきたの」
「フェルに渡したいものがあったから。王都に戻ったのもその関係。俺の休みはまだまだあるので」
言いながら、リュカは私の肩口に顔を埋めた。すんすんと鼻を動かしながら、彼はふわふわの尻尾を私にぴったりとくっつける。体も、尻尾も、何もかも、冷えそうなくらい冷たい。
恐らく、歩いてきたのだろう。この時期は馬車も何もかも、止まる。この村に来るには、麓の街から歩いて来るしかないのだ。
「はー、寒い。ほんっと寒い。子どもの頃の俺もフェルも、よくああいう寒さの中走り回れたよね。信じられない」
「ちょっと、リュカ、……離れて」
「嫌だ。絶対離れないから」
「怒るよ」
リュカ、と名前を呼ぶと、リュカは僅かに体をぴくりと反応させて、「怒っても良いよ」とだけ続ける。
「詰っても良いし、何しても良いけど、……会わないってのだけは、やめてよ」
「……」
「そういうのだけは、本当に、……やめて」
静かな声だった。腰に回った手の平が、ぎゅう、と私の体を強く抱きしめる。まるでそうしないと、私がこの場から逃げ出してしまうとでも思っていそうな、そんな動きだった。
静かな室内に、鼻をすするような音が響く。泣いてるのか、彼は私の肩口に額を押しつけて、そのままぐりぐりと顔を動かした。
どうして、こう、変な時に子どもっぽい仕草を出すのだろう。……本気で突き放すことが出来なくなってしまう。私は小さく息を吐くと、リュカ、とリュカの頭をぺしりと叩いた。
「離して。……外は寒いし、夜だから、居ても良いけど、朝になったらちゃんと出て行って」
「そうしたらどうせ、また俺と会ってくれなくなるんでしょ」
「……」
「フェルは嘘つくの、下手だよ。誤魔化すのも、下手」
リュカは小さく笑う。そうして彼は、私からゆっくりと体を離した。眦がわずかに赤い。彼は私と視線が合うと、小さく笑った。柔らかな微笑みは、まるで花が綻ぶように可憐で、可愛らしい。一目見て引きつけられる、とは、きっとこのことを言うのだろうな、なんて思う。
……ただ、この笑顔で何人の女性を落としてきたんだろう、と考えると、なんだか薄ら寒いものが背筋を走るのだが。
「そりゃあリュカに比べたら嘘も誤魔化すのも下手だよ」
「俺? 俺はそんなに嘘ついたことないよ。フェルシアは俺のことどんだけクズだと思ってるわけ?」
「ものすごいクズと思ってる」
「あーあ、ほんと、そういうとこだよ、そういうとこ! 俺が泣いても良いんだ」
「良いよ」
全然全く問題が無い。多少は良心が痛むだろうが、それだけだ。リュカは拗ねたような表情を浮かべると、それからねえ、と、私の名前を呼ぶ。
「……クズじゃなくなったら、愛してくれるの?」
「どうしたの、急に」
「発情期に、他の人を抱かずに我慢したら、愛してくれる? フェルの一番の好きを俺にくれる? 遊びじゃないって、言ってくれる?」
やけに真摯な問いかけだった。リュカは緑の瞳を僅かに伏せて、テーブルに体重を預けるようにしてこちらを見つめてくる。野菜スープが煮立ちすぎそうな気配を察して、台所に向かった私に聞こえるくらいの声量で、彼は続けた。
「でも、俺にとって、発情期に好きな人を抱くっていうことのほうがクズなんだけど」
「どうして」
「性的な発散に付き合わせてるから。それに、ほら、狼がルーツだから春と秋、年に二回は発情期来るし。その度に疲れるまで発散に付き合わせるのって、クズじゃない?」
火を止める。私には獣人の知り合いはリュカと、リュカのご両親しか知らないから、獣人の発情期の過ごし方なんてものは全然わからない。リュカは多分、本当に――好きだからこそ、発情期に付き合わせたくないと思っているのだろう。
ただ単に性的な欲求を解消するためだけに、大事な人に負担を強いて、相手が疲れ果てるまで抱きつづける。作業だ、と口にしていた。――発情期に帰ってこないようにしているのも、それに私を付き合わせないのも、全て、彼の、ひたむきな愛情の示し方、なのかもしれない。
だが、私は普通に人間で、人間としての倫理観を持ち合わせていることもあり、リュカの倫理観に一切共感が出来ない。正直普通にどうかと思う。心は君にあるけれど、体は他の人と色々とするよ、なんて、どう考えても許せない。私は小さく首を振った。
野菜スープを器に注ぐ。二個分。そうしてから、リュカの傍に近づいた。
しょげているのか、耳も尻尾もへちゃりとしている。リュカ、と名前を呼ぶと、リュカはゆっくりと顔を上げて私を見た。
「……私にはリュカの、発情期に付き合わせる方がクズって気持ちは全然わからないけれど、それでも」
発情期は基本的にキツいと聞く。獣人のルーツによって、その重さや軽さが変わったりするのだとか。伝聞や書物くらいでしか聞いたことはないから、必ずしもその情報が合っているとは言いがたいけれど。
「好きな人が辛かったり、苦しい時に、傍に居るのは自分が良いって思うよ」
「……フェル」
「それは多分、リュカも私も同じでしょ?」
リュカが僅かに視線を動かした。緑色の虹彩が揺れる。彼は僅かに吐息を零すように、小さく、「……うん」とだけ頷く。しょんぼりとした顔だった。なんだか、いつも調子の良いリュカが、今日はこんなにしんなりとしているというか、湿った野菜みたいなしょもしょも感ばかりを出してくると、ペースが崩れる。
そもそも会わないって決めていたのに、なんて、自分の甘さにちょっとため息が出てくる。ただ、あの状態で放り出したら確実にリュカは死んでいただろうし、どうしようもないことと言えば、どうしようもないことなのかもしれない。
「……フェルは、俺の、こと、好き……?」
「……どうかなぁ」
「どうかなって。そういう流れだったじゃんか」
リュカが首を振る。野菜スープを机の上に置いて、私は椅子に腰を下ろした。対面に、リュカがゆっくりと腰を下ろす。
耳がしょんぼりと垂れたままだった。まったくもって、機嫌がわかりやすいな、なんて思う。
「そういう流れだったじゃん……」
「……リュカが、本当に、発情期に絶対に他の人を抱いたりしなかったら、そう思うかもしれない」
「じゃあ、今、思ってよ」
「今までがあるでしょ」
視線を向けると、緑色の瞳が見返す。今まで、王都で沢山の人々を相手に性欲を発散させてきた、という過去があるので、口約束は出来ないし、したくない。
――リュカが、きちんと、そうしてくれたのだと、実感するまで、私は多分、疑心を抱き続けていくことになるだろう。
じっと、どちらからも目線を逸らさずに、見つめ合う時間が流れる。そうこうしているうちに、リュカが小さく瞬いた。そうしてから、ゆっくりと言葉を吐き出す。
「……じゃあ、する。するよ。絶対に、我慢、その、発情期に他の人、抱いたりしない……から。けど、それなら、俺からも一つだけお願いさせてよ」
「何のお願い?」
「……発情期のとき、フェルの家、居させて欲しい……」
少しだけ顔を赤くして、リュカはそれだけ言う。それはつまり、そういう相手をしろ、ということなのだろうか。少しだけ呆然としてしまうと、リュカは早口に言葉を続けた。
「その。し、しないよ。しないつもり、だけど。……でも、我慢すると本当にキツくて、辛いから、傍に居て欲しい……。襲ったりしないように、頑張るから。手枷とか、かけてくれてもいいし。だって、その、……辛い時は、傍に居たいって思うんでしょ?」
「……それは、言ったけれど」
「なら傍に居てよ。そうしたら、俺、頑張るから。フェルに見張られてないと頑張れない! フェルはいいの? 俺が違う人とセックスしてもさぁ!」
なんだそれは、と思う。自制してほしい。
ただ、まあ、確かにリュカの今までがあって信頼しきれないのに、発情期の時一切顔を合わせず、終わった後に「誰ともセックスしなかったよ」なんて言われて来られても、びっくりするほど信用が出来ないのは本当のところである。
辛い時に傍に居たいと思う、と言い出したのは私だ。――だから、リュカが私の家に来たい、というのなら、それを拒否する言葉を吐き出すべきではないだろう。
「……わかった。おいで」
頷くと、リュカの耳が少しだけ震えて、立ち上がった。尻尾が僅かに震えるように揺れているのが、ばさばさという音で、なんとなく察せられる。
リュカは小さく頷いて、それから「フェルが王都に来ても良いけど」と言葉を続けた。行かないって言ってるのに。
小さく笑って返すと、リュカも同じように笑った。私は昔から、リュカの笑顔に弱い。
自分でも自覚しているのだから、相当なものだろう。
次の日の朝も、その次の日も、豪雪は止まなかった。いったん降り始めると凄い勢いで降りつもるのがこの地域の特色のようなもので、恐らくまだまだ止まないのは想像に難くなかった。
リュカはその間、私の家にずっと泊まった。隣家へすら帰れないのだから、当然とも言えるだろうが。私が冬支度で作った乾物を戻しながら食事を作る横で、魔法を使ってパンを無制限に生み出すのだから、食料問題は当面の間、全く問題無かった。
私の幸せにリュカを付き合わせるわけにはいかないから突き放したのに、どうしてこんなことになっているのだろう、と思いながら、リュカとの同居生活四日目を迎える。
外は僅かに晴れていて、数日にわたる豪雪が止んだことを示すように、窓の、ほんのすこしだけ雪が積もっていない隙間からのぞき見られる空が青く滲んでいた。
よし。出て行って貰おう。
発情期に会うとか、そういう約束をしてしまった手前、もう手遅れだと言われたら、もう何も答えられない。どうすればいいのだろう、私は。あの時リュカを見殺しにした方が良かったのだろうか。
幼なじみの殺人について想いを巡らせるより先に、床に布団を敷いて眠っていたリュカが目覚める。
「朝……?」
「そう、朝だよ、リュカ。おはよう。出て行って」
「急すぎない? 今更じゃん」
リュカが小さく伸びをして、眉根を擦る。
「フェルは何が怖いの?」
「……何言ってるの?」
「王都においでよ。ここは寂しいよ」
リュカは私の両親が居なくなってしまったことを、知っている。だからこそ、彼はここから私を引き離そうとするのだろう。悲しい思い出のある場所に、囚われているままではいけない、と。
でも、私は――私は、無理だ。ここから、出て行くことは出来ない。首を振る。
「……二人とも、まだ帰ってきてないから、私が待っていなくちゃいけないよ」
静かに言葉を続けると、リュカは僅かに眉根を寄せた。何かを考えるような、そんな間を置いてから、彼は「あの日」と言葉を続ける。
「フェルシアのご両親、二人とも、俺の家に来たよ」
「え――」
「今から、麓の村まで薬と薪をもらいに行くって。けれど、正直、この極寒の中では帰られるかどうかもわからない。もし私たちが朝まで戻らなければ、家のものは何を使ってもらってもかまわないので、どうか、娘を頼みますって」
聞いたことが無い。私はリュカを見つめる。リュカは滔々と、言葉をゆっくりと続けた。
「俺は、ほとんど、半分寝てて。けれど両親が聞いてたから、間違いないと思う。次の日の朝になっても二人が帰ってこないって、母さんが騒いで。だから俺が、フェルの家に行った」
「……そっか」
だから、あの日、リュカが助けてくれたのか、と思う。極寒の中、隣家に向かうまでの道のりですら、凍り付いて死んでしまうかもしれないのに、来てくれたのだ。
――両親が二人、居なくなってしまった私を、リュカのご両親は温かく迎え入れ、大事にしてくれた。冬が終わった後、実家で過ごす私を沢山援助してくれた。彼らがいなければ、多分、私は今の年まで生きていないだろう。
「ねえ、きっと、フェルのお母さんも、お父さんも、フェルにずっと待っていて欲しいとは思っていないよ」
「わからないでしょ」
それは、誰にも。居なくなってしまった、両親にしか、わからないことだ。
もしかしたらずっと待っていて欲しいと思っているかもしれない。
もしかしたら、もう待たなくて良いよと思っているかもしれない。
けれど、それを知る術は無い。だから、私は、ここで待つことに決めたのだ。
唇を引き結ぶ。リュカはじっと私を見た後、それから囁くように言葉を続けた。
「……フェル、俺、一応、王都で結構名をあげてて」
「急に何? どうしたの?」
「急にごめん。でも、聞いて――それでね、記憶力も良いし、まあまあ性格も良いじゃん? だから、色々な場に顔を出すことが多いんだ。――あの日、フェルのお母さんが持ってたネックレスの形、ずっと覚えてて」
ずっと探してた。
リュカは続けた。そうして、彼は初日に着てきた、もこもこの防寒具の中から、一つの袋を取り出す。
「あの日、麓の村まで、ご両親は行けたんだよ」
これは、フェルに、渡したいもの。リュカは続ける。そうしてから、軽く首を振った。
「……薬も、薪も、手に入れてた。引き留める村人をおして、『娘が待っているから』って、帰って行ったんだって。その後、ネックレスは色々と変遷を辿ってて、中の宝石が抜かれたり、意匠が少し変わったりしてたけれど――匂いが、変わってない。フェルのお母さんが、ずっと大事にしていて、フェルの家の匂いがついたものだから」
革袋だ。はい、と差し出されたそれをじっと見つめる。
唐突な状況に、頭がついていかない。どういうことだ。何が起こっているのだろう。わけがわからない。まるで、――まるで、ネックレスを、見つけだしたとでも言うような――。
「フェル、受け取って。帰ってきたよ」
静かな声だった。思考が追いつかない。ほとんど震える手を差し出して、革袋を受け取る。あまり、重くは無かった。
紐で縛られた口を開ける。袋を傾けると、しゃらり、と音がして、手の平にネックレスが落ちてきた。
リュカの言う通り、僅かに宝石が減っていて、形が変わっている。けれど、それは紛れもなく、――私の、母が、あの日、持って行ったものだった。祖母から受け継いだと、母が自慢げに話していた、綺麗なネックレスだった。
は、と小さく息を零す。胸の奥がぎゅうっと引き絞られるように痛んで、眦の奥が燻されたように熱くなる。思考がまとまらない。様々な感情が押し寄せてくるような心地がした。押しつぶされそうなほどの感情の濁流に、口の開閉を繰り返して、私はリュカを見る。
「これ……お母さんの……」
「そうそう。いつ渡そうかなって思ってたんだけど――今かな、って」
リュカはまるで明日の天気を口にするように、軽い口調で、言葉を続ける。多分、努めてそうしているのだろうことが、わかるような、そんな声だった。
お母さんが大事にしてきたネックレスは、沢山の人々の中を辿って、戻ってきた。
小さく息を呑む。――こつこつと、音がした夜。扉を開けてリュカを出迎えた日。あれはきっと、本当に。
ノックの音、だったのだろう。
ただいま、と、言う声が耳の奥で聞こえる。いつも、いつも、幼い頃何度も聞いたことのある声だった。
涙がぼろ、と零れる。溢れ出したそれを止められずに、私はネックレスを握って、そっとそれに額を近づけた。
おかえり、と言う声が、震えて響いた。
私がぼろぼろと涙を零しつづけている間、リュカは傍に居てくれた。ただひたすらに、本当に――何もせずに、隣に居てくれた。
そうして、私が泣き止んできた頃になると、うずうずとした様子でリュカは私の肩口に額をこすりつけてくる。何をしているのだろう、と視線を向けると、リュカは「どう? これで王都来られるよね」と続ける。
「……そのためだけにこのネックレス、探してたの?」
「いや、それだけじゃないけど! フェルの大事なものだし、あの日の話もいつかしようと思っていたから。絶対探し出してやるーって思って頑張ったよ。ただ、いつ渡してもなんか脅迫してるっぽい感じになりそうで、いつ渡そうかなあとは思ってた」
「脅迫って……」
「ネックレス探したんだから、俺のことを好きになってよ、とか、そういう脅迫に取られたらと思って」
リュカは僅かにしょんぼりとした表情を浮かべる。そんなことを考えて居たのか、なんて思って、少しだけ笑った。
ああ、でも、そういうところを口に出してしまう辺りが、なんだかリュカらしいな、と思う。彼は心の動きを強制することをよしとしないのだろう。誰かの大事なものを、生け贄のようにして、愛を乞うことはしないのだ。
「でも、ほんっと、探すの大変だった。本当、語ったら多分一日くらいかかる。俺さあ、凄いと思わない? 頑張ったでしょ?」
褒めて、とリュカが嬉しそうに笑う。その様子に小さく笑って、そのまま私はリュカの頭をすりすりと撫でた。リュカは嬉しそうに表情を緩ませて、そうして、眦に触れてくる。
「少し赤くなってるから、温めておかないと、明日に響くよ」
「うん、……そうするよ、後で」
「後でじゃ駄目だよ。待ってて、俺が魔法ですぐに温かいタオルを出すから!」
嬉しそうに言葉を弾ませて、リュカはすぐにタオルを探しに私から離れていった。
その背中を眺めてから、貰ったネックレスへ視線を落とし、私は小さく息を吐く。――私は、待つだけだった。
けれど、リュカは、探してくれた。私も探そうと思えば探せたはずなのに、両親の痕跡を辿ることにすら臆病になって、出来ずに居た。
この村にずっと一人で過ごして、そのまま生を終えるのが、一番、傷つかずに過ごせるから。
けれどそれは、間違いだったのかも知れない。私はどうしようもなく、臆病だった。
「……王都かぁ」
私は、私の幸せに、リュカを付き合わせても良いのだろうか。
私は――ここを出て、しまっても、大丈夫なのだろうか。
ネックレスを指先で辿る。もちろん、何も応えは無い。それはフェルシアが決めることだと、両親に怒られているような気がした。
確かに。その通りだ。
私のことは、私が決めなくちゃいけない。とりあえず、そう。
「ちょっと待って。タオルはこっちだよ」
変な所にタオルを探しに行っているリュカを呼び戻すことから、始めよう。
そうしていつか、――私の意思で、リュカと共に、王都へ行くと、決められるように。
リュカに好きだと、伝えられるように。
(終わり)
応援ありがとうございます!
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ムーンさんから来ました。リュカがかわいいです。
他の作品もアルファさんでも読みたいです。初夜権〜とか。
これで完結ですか?うーん…これが獣人の言い分ならば、そこらじゅうの獣人はみんな同じことしててクズってこと?リュカのこれは言い訳でしかないと思うけど。