こんにちは、いれてください

うづき

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 扉の向こうで、小さく息を飲む音が聞こえた。そうして、「……いれて、ください」と再度、申し出るような声が聞こえる。先ほどと少し違った声音だった。顔を合わせずに断るのも、失礼だったかもしれない。鍵に触れた瞬間、堰を切ったように、言葉が響いてくる。

「いれて。いれてください。いれてください」
「加賀くん?」
「いれて。いれて、いれて、いれて。いれてください。いれて――冬里! いれて!」

 まるで壊れた機械のように、何度も同じ言葉を繰り返す。その度に声の調子が変わって、冬里はぞっとした。
 おかしい。録音された、誰かの音声を、何度も聞いているような、そんな違和感のようなものを覚える。鍵に触れていた手が、無意識に離れた。じり、とその場で後ずさるようにして、一歩退く。その間も、せがむ声は響いていた。

「冬里、冬里、いれて、いれて。どうして? 冬里、逃げないで。いれて。冬里。冬里!」

 触れていたノブががちゃがちゃと鳴る。冬里にはわけがわからないが、扉を挟んだ向こうで、加賀が恐慌状態に陥っていることだけはわかった。
 鼓動の音がど、ど、と耳元で鳴っているような、恐怖を覚える。震えそうな吐息を必死に飲み下し、そうしてから、冬里は退いた一歩を、踏み出した。
 ゆっくりとした動作で、荒れ狂うように動くノブに触れる。そうして鍵を回し、扉を開いた。

「加賀くん?」

 ――開いた先。冬里は僅かに息を飲む。
 そこには誰も居なかった。
 先ほどまでの騒がしさはどこへ消えたのか、しんとした空気が周囲に満ちている。加賀は。視線を動かして探すが、見当たらない。

 先ほどまで、動いていたノブ。加賀が動かしていたはずだ。扉を開くまで、動いていたということは――加賀が触れていたはずだ。

「……加賀くん?」

 もう一度声をかける。応えは無い。冬里は靴を履いて、扉を後ろ手に閉めながら玄関から外に出る。庭園の方を見てみるが、やはり姿は無い。
 一瞬で消えた――とは、考えづらいだろう。ならば、どこへ行ったのか。冬里には想像もつかない。

 首を傾げていると、隣家に住んでいる老婆が、うろうろとしている冬里に気付いたのか「冬里ちゃん!」と声をかけてくる。じりじりと地面を焼くような暑気から誘うように、手招きをしているのが見えたので、冬里はそのまま老婆の元へ近づいた。影に立ち、少しばかり一息吐く。

「どうしたんよ、うろうろしてぇ。こんな暑いのに帽子被らんと。なんかあったで、待っとき」

 老婆はころころと言葉を続けると、そのまま室内へ下がっていく。そうして、直ぐに手元に帽子を持って戻ってきた。冬里の頭に半ば強引にかぶせ、そうして「うん、似合っとるよ」と柔らかく微笑んだ。

「新品やでね」
「あ、ありがとうございます……。そうだ、その、聞きたいことがあって」

 麦わら帽子のそれを指先で被り直しながら、冬里は首を傾げる。加賀のことを尋ねると、老婆は少し考えた後、小さく首を振った。

「聞いたことないわぁ。この辺、加賀なんて名字の子、おらんと思う」
「え……」
「誰かの親戚とかやったらわからんけど……」

 老婆は少しばかり困ったように笑った。そうしてから、家に上がっていき、と柔らかく声をかけてくる。

「顔色悪いで。お茶でも飲んでいき」
「あ……、すみません。ありがとうございます」
「ええよええよ、話し相手になってや」

 老婆に促されて、室内に入る。樟脳の匂いが僅かにする。蚊取り線香が焚かれているのか、縁側に煙りがくゆっているのが見えた。
 老婆が過ごしやすいように、色々と工夫されているのだろう。おばあちゃんの家、というのが一番形容として似合っているような室内に、冬里はそっと息を吐いた。

 どうやら、知らず知らずの内に緊張していたらしい。居間に通される。小さな木製の器に、いくつかのお菓子が盛られていて、その傍にお茶の入ったガラスのコップが置かれていた。恐らく、老婆が飲んでいたものだろう。

「直ぐに冬里ちゃんの分を用意するからね」
「ありがとうございます、でも本当、お構いなく」
「何言うてるん。お茶飲まなあかんで。こんな暑いんやから」

 年代物の扇風機が、少しばかり異音を発しながら首を回しているのが見える。開いた窓から流れてくる風が、冬里の頬を撫でるようにくすぐる。そっと目を細めると同時に、お茶を入れたコップを手に、老婆が戻ってきた。氷が入れられたそれが差し出される。
 そっとコップの縁に口元をつけると、きんきんに冷えた麦茶が喉を通っていくのがわかった。食道を通る冷たさを感じていると、「お菓子は買った?」と、老婆が首を傾げた。

「お菓子、……っていうのは、お盆のお祭りのやつ、ですよね」
「そうそう。用意しとかんと。子ども達も楽しみにしとるでね」

 老婆は息を零すようにして笑う。

「用意は……一応してます。その、おまんじゅうじゃなくても、大丈夫なんですよね?」
「よう知っとるね」

 老婆から話を聞いてすぐ、スーパーで洋菓子の類いを揃えたが、昔話になぞらえるなら、おまんじゅうを用意するべきなのではないだろうか。そう考えて問いかけると、老婆は僅かに驚いたように目を瞬かせ、皺の刻まれた眦を崩した。

「大丈夫よぉ、昔はね……それこそ、ずっとおまんじゅうだったけど。おまんじゅうは子どもも、もう、喜ばんからね。かがち様だって新しいもの、食べたいでしょう」

 滔々とした言葉に、冬里は小さく笑う。確かにそうですね、と頷きながら、飲み物を喉に注ぐ。

 瞬間。
 呼び鈴が鳴った。
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