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第七話『Age.16(前編)』

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 油断してた。お嬢様の十六歳の誕生日パーティーがつつがなく終わり、翌日に残った後片付けをしてたときのこと。
「お嬢様に来客?」
「来客というよりは……」
 私はお嬢様のお付きのメイドなので、お嬢様絡みの用件はいったん私を経由することになってる。だからその日も、あまり馴染みのない若いメイドが青い顔をして私にそう告げてきたとき、すっごくイヤな予感がしたんだ。
「どこのどなた? 今日はお嬢様に来客予定はないわよ?」
「えと、でも……」
 全然要領を得ない。仕方がないので無視して、玄関へ歩を進める。
(誕生日の翌日……なにかあったっけか)
 私のときにどうだったかを思い浮かべ、そして思い出してしまった。全身から血の気がひく心地を覚える。
「まさか……嘘でしょ⁉」
 確かに『アレ』は誕生日の翌日だった。だが私のときと今のお嬢様とは事情が違う、物理的に『アレ』を疑われる筋合いはないのだ。
(……もしそうだったら、来客というのは)
 やがて玄関が視界に入るところまで来ると、すでに玄関は解放されてそこにいたのは王宮の兵が数人。こちらのメイド数人と口論とまでは言わないまでも、ちょっと揉めている感じ。
「あ、ダスラ!」
「お待たせいたしました。お嬢様になんの御用でしょうか?」
 私はズイッと前に出て、王宮の衛兵たちの前に立ちはだかる。
「貴殿は?」
 ヒゲの生えたおっさん、いや知ってる。衛兵長だ、そいつがうさんくさそうに私を見やる。
「私はお嬢様お付きのメイドで、ダスラと申します。本日は面会の約束アポイントはお有りですか?」
「我々は事件の参考人として、ナーサティヤ・ラーセン嬢を招聘するべくまかり越した次第だ。これは公務である」
「事件? なんの事件でございましょう」
「お前ごときが知るところではない」
 あっそう。ていうか知ってるよ、スーリヤのバカがうちのお嬢様に階段から突き落とされたとか騒いでるんでしょう。
「私は『公爵令嬢』であるお嬢様お付きのメイドです。事情がわからない限りは、お取次ぎはいたしかねます」
「ぐ……」
「これは強制ですか? 任意ですか? 招聘というからには、それなりの礼を尽くしてもらえるのですよね?」
 さすがに捕縛はないだろう、私のときも捕縛されなかったし。
(そういや私のときも、ダスラがめっちゃキレてたっけ)
 そこまで思い出して、なんでそれを私が知ってるかって……それ、死角になってる廊下の角から見てたんだった。
(あ、じゃあ⁉)
 しまった、もしも歴史が繰り返されるならば次の展開てば。
「なにごとですか?」
 そうそう、そう言ってダスラの前に姿を現したんだったよ私。
「王宮の衛兵が、お嬢様を『事件の参考人として招聘したい』と訪問してまいりました」
 私はあえて『参考人として招聘』を強調しておく。容疑者として捕縛じゃないとお嬢様と衛兵たち、双方に念を押すように。
「なんの事件でしょうか」
 お嬢様は心底不思議そうに訊く。そりゃそうだ、お嬢様は昨夜は誕生日パーティーで一時の羽休みをしたものの、前日までは学校にすら通えないくらい多忙な日々を送ってたのだ。
(だから現場不在証明アリバイは完璧なはず)
「スーリヤ・ヴリトラ伯令嬢の殺害未遂で、ナーサティヤ様に容疑がかかっております」
「‼」
 殺害未遂という物騒な言葉に、お嬢様を始めメイドたちの表情が凍り付く。私はやっぱりかと思いつつも、とにかく平静を保ってみた。
 私が動揺したら、お嬢様にも伝染する。ここはどうするべきか……って。
(逃げてかわすのは悪手だ)
 そしてそれはお嬢様も思ったのだろう、呆れたように溜め息をついて。
「そうですか、ご苦労様です。ダスラ、王宮へ参りますので準備を」
「……かしこまりました」
 準備といっても、外出着ドレスに着替えて化粧直しするぐらい。そして一介の平民メイドである私は、お留守番だ。
(油断した……)
 いや、どこでどうなにをすれば防げたのかはわからないが、それでも後悔だけが募る。
「大丈夫よ、ダスラ。私はなにもしてないもの」
「存じております」
「‼ ふふっ」
 即答した私のそれに、お嬢様が嬉しそうに笑う。無条件の信頼が、お嬢様には嬉しかったのだろう。
 あくまで招聘なので、捕縛されたり逃走防止のために腕を取られるなんてことはなくて。というか公爵家の令嬢、淑女ですからね。
(お嬢様、ご武運を!)
 威風堂々と両脇に衛兵をかしづいて馬車に向かうその後ろ姿は、とても凛々しかった。あの日のダスラも、こんな気持ちで見送ってたのかな。
 私のときと同じならば、スーリヤ嬢が階段から突き落とされたというのは一昨日。誕生日パーティーの前日で、お嬢様は終日ひねもす公務のために机の上から離れられないでいた。
「それは、この公爵家の人間が証言できるから大丈夫かな?」
 ……いや、身内の証言は『庇っている』と見られかねない。そしてお嬢様が公務をなさっていた部屋に、立ち入りを許されているのは私だけだ。
(もしかして、私だけしかお嬢様の無実を証言できない⁉)
 いやいやいや。いや? いや、どうなんだろう……。
 私のときは、誕生日前日は学園に通っていた。だから同じ学園生であるスーリヤ嬢を階段から突き落とすなんて簡単にできる状況が揃ってて。
「そのときは、セレスたち三人が一緒にいたって証言してくれたんだっけ」
 でも『取り巻きの証言はアテにならない』なんて、けんもほろろだった。証言者がことごとく身内だというのが、今回の状況と非常によく似ている。
 だがあくまでスーリヤ嬢殺害未遂は、対した罪状ではなかったはず。公爵令嬢のお嬢様と違いあちらは伯爵令嬢なのだ、多少なりともの忖度があるだろう。
「問題は、殿下殺害未遂のほうよね」
 顎に手をやって、必死に記憶をさぐる。今回の疑惑では証拠が出てこなかったというのもあって、私は深夜に解放されてラーセン邸に帰ってきた。
 殿下が毒殺未遂の憂き目に遭い、その毒の瓶が私の部屋から出てきたというのは伝聞でしか知らない。確かこの日からそう離れていない出来事だったと思う。
「こうしちゃいられない‼」
 私はお嬢様の部屋へ駆け出す。勢いよく扉を開けて、中に誰もいないことを確認。
(まさか、もう?)
 静かに内側から施錠して、ベッドの下やらチェストの裏をチェック。念のため、カーペットもめくって。
「まだ毒瓶は持ち込まれていない?」
 もしそうだったら、いやそうじゃなくても獅子身中の虫がこの公爵家にいる。誰が持ち込んだのか知らないが、外部の人間がそう容易くお嬢様の居室には入れないからだ。
 さきほどまで庶務をなさってたのだろう、机上には乱雑に書類が積み重ねられている。ペン先にインクが付いたままで書類の上に放置されているから、書類にインクが滲んでいた。
「私の怒声を聴いて、あわててやってきたんだろうなぁ」
 なんだよ、お嬢様が玄関口に馳せ参じたのは私のせいか。いや、どっちみち衛兵たちを追い返すなんて一介のメイドにはできないけどさ。
「くっそ! くっそ!」
 もうなにがなんだか悔しくて、机上にバンと両手を叩きつける。八つ当たりですよ、えぇ。
『カランッ……』
 よほど机の天板を強く叩いたのだろう、引き出しの中からなにかが倒れる音がした。
「……ん?」
 気になって、まず正面の広い引き出しを開けてみる。いくつかの書類があるだけで、高さもないからここは違う。
 次に右側の小さい引き出しをば。ここは若干の高さがあるものの、中には事務で使う小物がゴチャゴチャと入っているだけ。
「ていうかこれ」
 思わず手に取って笑ってしまった。『ダスラ用』の軟膏だ。
 真ん中の引き出しもチェックしたが、こちらも書類しか入っていない。そして一番下の引き出し、ここは十個の数字ボタンがあり暗証番号を入力しないと開かないやつだ。
「ま、私もかつてのナーシャですからね」
 勝手知ったるかつての自分のお部屋、お嬢様から暗証番号を教えてもらったことはないが自分のときのそれを覚えている。
「あれ?」
 鍵が開かアンロックしない⁉
「嘘っ‼」
 私のときとは違う暗証番号が設定されているようだ、これは予想外だった。しかたないので、お嬢様に関係のある数字を片っ端から入力してみる。
「つーか何桁なのよ⁉」
 最大で八桁まで設定できるが、あくまで最大。最小はゼロキー一つだけでもいいのだ。
(だから考えられる組み合わせは、九千九百九十九万九千九百九十九とおり……)
 うへぁ……。とりあえず、ゼロから順番に試してみる。
 そして黙々と作業すること小一時間、三百くらいまでやって私はもう疲労困憊だ。
「このペースでは、時間がいくらあっても足りない……」
 とりあえず順番に試すのは保留して、再度思いつく限りの番号を試す。セレスの誕生日、ガネーシャの誕生日、カーリーの誕生日も試してみた。
「ダメかぁ」
 私は絶望して、お尻をペターッとつけて足を投げ出し天を仰いだ。この引き出しに毒薬が隠されている可能性はまったくの不明だが、ほかに隠すような場所もない。
「引き出しを壊すわけにもいかんしなぁ」
 ゼロからボタンを押して開錠ボタンを押すというのを黙々と一時間余もやってたから、もう脳みそが上手く回転しない。だからそれは本当に偶然だった、無意識だったんだ。
 もう本当に意味もなく、私はその番号を試してた。解錠できるなんて思ってない、本当に指先で遊んでみたって感じで。
『ガチャッ』
 鍵の開く、音がした。
「え、嘘⁉」
 お嬢様が私にも教えてくれない引き出しの鍵の暗証番号、それは――ダスラの生年月日だったんだ。
「……」
 この感情に、どんな名前があるかは知らない。ただただ、涙がこぼれそうで慌てて上を向く。
(そうだ、こうしちゃいられない!)
 すぐに我に返り、引き出しをチェック。一番上に見えるのは、お嬢様の日記だ。
(読んでみたいところだけど……)
 さすがにね、それはね?
 そして引き出しの奥、倒れた薬瓶が見える。私は恐る恐る、手を伸ばしてそれを取り出した。
「……」
 間違いなかった、これは毒薬だ。ご丁寧にもドクロマークにDANGERなんて書かれてあって、これが毒じゃなかったら逆にびっくりだわ。
(お嬢様が用意した、なんてあるわけないよね)
 だとしたら、暗証番号で施錠された引き出しに誰がどうやって入れたのか。
(引き出しを開けずに入れた?)
 だとすると、その方法はただ一つ。私は引き出しごと机から取り外す。
「やっぱり!」
 案の定だった。引き出しの底板に、薬瓶の大きさくらいの丸い穴を開けて閉じた痕跡がある。
「畜生、どこのどいつが‼」
 身体中の血液が沸騰する心地がする。公爵家の令嬢の部屋に入り込めるなんて、絶対内部の人間だ。
「っていうか、一番それが簡単にできるのって私じゃん」
 お嬢様のお付きのメイドである私が、一番たやすくこの状況を作れてしまうのである。
(万が一のときには、私が殿下殺害の罪を被るのもありか……)
 何が悲しくて、前世でも今世でも殿下殺害未遂の冤罪で処刑されなきゃいけないのか。ただ私が犯人だとした場合、公爵家にもお嬢様にも類が及ぶ。
「とりあえず、コレは始末しなきゃ」
 どこか遠くへ捨てよう、公爵家との関連が疑われない場所に。そして立ち上がろうとした私の薬瓶を持った手を、不意にガシッと背後から掴まれた。
「⁉」
「ダスラ、なにをやっているの? その薬瓶はなに?」
 思ったよりここまで時間がかかっていたようだ。私の手首を握って見下ろすお嬢様の瞳が、笑っていなかった。
「ナ、ナーシャ様⁉ もうお帰りで……」
「ダスラはなにを探しているの?」
 これまでに聴いたことのない重低音が、お嬢様の口からもれる。そしてゆっくりと、部屋中を見渡して。
 私もつられて部屋中を見回すと、そこにはもうね。めくられたカーペットやら開きっぱなしの引き出し、背面が見えるようにずらされたチェスト。
 どこをどう見ても空き巣の犯行現場です、立派なものです。本当にありがとうございました。
「わ、私は……」
「ねぇ、ダスラが私の物を泥棒するなんて思ってない。だから教えて」
「ナーシャ様……」
 険しい顔なれど、お嬢様の瞳に涙が浮かんでいる。
 もちろんお嬢様とて、私が泥棒をするはずなんてないと思ってるんだろう。でもこの現場を目の当たりにしては、それも揺らぐ。
 信じたい、信じたくない。そんな葛藤と、お嬢様は戦っていらっしゃる。
 ――私は覚悟を決めて、口を開いた。


「なるほど? つまりまとめるとこういうこと? 
『やんごとなき方が毒殺され、その毒が入った瓶が私の部屋から見つかる計画がある。それで暗殺計画が実行される前に、毒瓶を見つけて処分しようと思った』
 ……で合ってる?」
「はい」
「それ、私に信じてもらえると思ってるんだ?」
 いえ、思ってないです。
 私は今、お嬢様の前で正座してる。上半身はブラのみで、落ちないように押さえつけてて。
 当然ながら、背中はいつもより強く多めに鞭でしばかれ済みだ。すっごく痛い。
「じゃあ訊くけど。そのやんごとなき方って誰?」
「……アシュヴィン殿下です」
「‼」
 お嬢様はびっくりなさってる、そりゃそうだ。婚約者だってのもあるが、王族に手をかけるなんて問答無用で処刑だもんね。
「じゃあそれを計画したのは誰?」
「わからないです」
 私が素直にそう言った瞬間、一瞬にして逆上した表情をお嬢様が見せる。そして向かい合ってるものだから、お嬢様の鞭が私の聖域――デコルテに飛んできた。
「ギッ⁉」
 鎖骨から乳房の上部にかけて、赤いミミズ腫れが走る。これまで露出の多い服だと肌が見えてしまう部分には、決して鞭を入れなかった部分だ。
「もう一度訊くわ。計画したのは誰?」
「本当にわからないんです。ただこの計画が実行された場合、得をする人物には心当たりがあります」
「誰よ?」
「ヴリトラ伯爵です」
 スーリヤ嬢の父だ。なんの証拠もなくてただの推測だけど、こいつが犯人だと言いきってるわけじゃないからいいよね。
「そう。じゃあ核心に迫るけれども」
「なぜ私がそれを知り得たか、ですよね?」
「わかってるじゃない。なんでなの?」
「言えないです」
 いやほんと、どう言えばいいのか。私は前世であなたナーシャだったんですよってか。
 いくらお嬢様に信用してもらうためであっても、これだけは絶対に言えない。まぁ言ったところで信じてもらえるわけがないけど。
「言えない、ね」
「はい、すいません」
 怒りのあまりプルプル震えてらっしゃるお嬢様の瞳に、涙が浮かぶ。これは怒りの涙じゃなくて、悲しみの涙だ。
「ただ、信じてください。言えないことも多いですが、決してナーシャ様を裏切ってはいません‼」
 どう言えばいいだろう、どう言ったら伝わるだろう。私も泣きそうだよ、ほんと。
「で、この瓶にはなにが入っているの?」
「これもわかりません。私は毒薬としか聞いてないので。ただ、瓶のラベルを見るかぎりでは神経系に左右する毒だと思われます。多分ですが、肺の筋肉が麻痺して……」
「窒息して死ぬ、と」
「はい」
「ふーん、これがねぇ?」
 お嬢様はそう言って、瓶のガラス蓋をキュポンと抜く。そして臭いを嗅ごうとするものだから、私は血相を変えて慌てて立ち上がった。
「危険です、おやめください‼」
 お嬢様の両手を握る形で阻止したものだから、ブラが落ちてお胸をポロンしちゃったけどそんなのはどうでもいい。もし揮発性の毒だったら、臭いを嗅ぐだけでやられてしまう。
「……ダスラ、痛いわ」
「あ、すいません」
 必死だったのもあり、お嬢様の手首を本気の力で握ってしまった。
「とりあえず服着てちょうだい」
「はい」
 言われるがままに服を着る。落ちてるブラはめんどいので、そのままにしておいた。
「あの、正座は続行で?」
「当然でしょう⁉」
 まぁそうでしょうね。というかどうやってこの場を切り抜ければいいのか、お嬢様に信用してもらえるのか。
「ねぇ、ダスラ。さっきからあなたが言っていること、もう本当に支離滅裂なの」
「わかってます」
「私に信じてもらえるだなんて、思ってないわよね?」
「まぁそうですが、信じてくださいとしか言いようもないです」
 お嬢様が、真っすぐな瞳で私を見下ろす。そして私も、これに関しては後ろめたいことはなにもないので、見つめ返す。
「話にならない……」
 ボソッと呟くお嬢様のそれに、私は反論できない。やっぱり、前世のことは言うべきなんだろうか……。
(いや、信じられない話にさらに信じられない話を追加してもやぶへびなだけだ)
 進退窮まったとはこういうことだろうか。
「もし殿下が毒殺されそうになって、その捜査の手がお嬢様に伸びたならば、とりあえず私の言うことは半分は信用してもらえますか?」
「そういう計画があった、実行された、ということではあるけど」
「あるけど?」
「ダスラがそれを知っててなぜ黙っていたのか、どこから知ったのか。それは話せないの?」
 そうか、私は今のお嬢様にとって裏切り者かもしれないんだ。こんなことになるなら、素直に貴金属目当てに泥棒しようと思ったとか嘘つけばよかったな。
「とりあえずお嬢様、その毒瓶は早急に始末する必要があります。渡していただけますか?」
「……」
 お嬢様からの返事はない。もはや、完全に信用を失っているのかもしれない。
「お願いします……お願い、ナーシャ」
「ダスラ?」
 もうダメだ、お嬢様に嫌われるのはイヤだイヤだイヤだ……信用されないのもイヤだ、捨てられるのもイヤだ。そしてなにより、近くにいて助けてあげられなくなるのはもっとイヤだ。
 涙が、次々と滝のようにあふれ出ては止まらない。お嬢様の前でこんなに泣いたのは、初めてかもしれない。
「お願いだから、ナーシャ……」
「……わかった。処分したら、また戻ってきてちょうだい」
 そう言ってお嬢様は、薬瓶を手渡してくれた。私は一礼して部屋を去るのだけどね?
(ナーシャ呼びしてしまった)
 なんて今さら気づいて。とりあえずはと足早に洗面所へ急ぐ。
 毒を流し、瓶の中を水洗いする。そしてそれを持って庭先に行き、拳に余るほどの大きさの石でガラス瓶を粉々に砕いた。
(これで、お嬢様の部屋から毒瓶が出ることはなくなった)
 だけどなんだか安心できないで、私は不安に押しつぶされそうになる。
「ただいま戻りました」
「えぇ」
 そして私は言われるまでもなく、再びお嬢様の前で正座して座る。裁きのときは、まだ終わってはいない。
「ねぇ、ダスラ」
「なんでしょうか」
「ダスラが言うには、近日中に殿下が毒殺されるのよね?」
「……まぁそうですね」
 毒殺されそうになるけど助かる、死んだのは毒見役だ。
 だがまるで未来を見てきたかのように、それを言い当てるのは不自然すぎる。だからこれは言いたくても言えない、すごくじれったい。
「もしそれが本当だとして、私は殿下のことは好きじゃないけど嫌いでもないの」
「え?」
「あぁ、そうね。嫌いかもしれないけど、殺したいほど嫌いってわけじゃないのよね」
「はい」
 私は、お嬢様が次になにを言うかわかってしまった。だけどそれはリスクも大きいし、私個人の感情的にも従いたくない。
「殿下が毒を盛られるとわかってて、それを看過スルーはできない」
「お優しいのですね。でも大丈夫です。もし本当にヴリトラ伯が黒幕だった場合、その目的はスーリヤ嬢と殿下が婚姻を結ぶこと、お嬢様に濡れ衣を着せることです」
「うん?」
 嘘は言っていない。ただ、ヴリトラ伯が黒幕かどうかは推定でしかない。
「つまり、殿下を殺す理由がヴリトラ伯にはないというか、逆に死なれても困るわけです」
「なるほどね……つまり、飲む前に気づかせるみたいな形にするのかしら?」
「恐らくは」
 というか毒見役が死ぬのだけどね。でもそれを言ったら、毒見役が死ぬとわかっててそれを見過ごすことになる……今のお嬢様なら、それは絶対に阻止なさろうとするだろう。
(いま目の前にいるのは、ナーシャじゃないお嬢様ナーシャなのだ)
 ナーシャだったころの私だったら、『毒見役が死ぬ? ほーん、それで?』としか思わなかったに違いない。
「とりあえずは、信用していただけましたか?」
「ううん、全然?」
「……」
 手ごわいなぁ。でも当初のころのような、疑わしい視線ではなくなっている。
「どうしたら信用してもらえるんだろう……」
「そうねぇ? あ、そうだ!」
 なにかひらめいたって感じで、お嬢様が机の引き出しを漁る。文具などの小物が収納されている一番上の小さい引き出しだ。
 そしてなにかを見つけたという表情になってそれを取り出し、私の元に戻ってきて。
「はい、これ」
「あ、はい」
 お嬢様が手渡してきたのは、ピンセットだ。これをどうしろというのだろう。
「ダスラのねぇ、右手人差し指の爪をちょうだい?」
「は⁉」
「さすがに爪を剥ぐなんて残酷なことはできないから、自分で剥いで?」
「……」
 どういう……えーっと? 話の流れ的に、それをやってのけたら信用してもらえるってことで合ってるよね?
「えぇ、そうね? 信用してあげるわ」
 さすがに私の身体にも震えがくる。お嬢様が怖いんじゃなくて、ただ単純にどれだけ痛いんだろうっていう、それだけ。
(自分でやるのかぁ)
 私は生唾をゴクリと呑み込む。右手のひらを広げて床に置き、左手でピンセットを握って。
「じゃあ、いきます!」
「……う、うん」
 まさか私が本当にやると思わなかったのか、それとも本当にやるんだろうかって戸惑いの表情をお嬢様が浮かべる。でも今の私にとって、お嬢様からの信頼を回復させることが一番大事だ。
『ビッ‼』
 とイヤな音がして、私は苦痛のあまり声も出ずに頭を床にゴンとつけて悶絶してしまう。一気に剥がした爪を掴んだピンセットを握る左手が、ブルブル震える。
「本当にやるなんて、ダスラはバカなの⁉」
 ひどいや。脂汗と涙をポロポロ流してカエルみたいに這いつくばってる私の右手の患部に、ヒンヤリとなにかが盛られた感触がした。
「いま手当してるから、動かないで!」
 おそるおそる顔を上げたら、お嬢様が私の爪がなくなった指先に軟膏を塗っている。そのまま簡単に包帯を巻いてもらって、私だけじゃなくお嬢様もぐったりだ。
「これ、付くかしら?」
 いつのまにかピンセットはお嬢様が持ってて、その剥がれた私の爪を見ながらブツブツと小さくつぶやいてる。そして泣きそうな表情で、こちらを振り返って。
「とりあえず、騙されたと思って信用することにするわ」
「ありがとうございます」
 良かった。本当に良かった……たとえそれが、かりそめの信頼回復であっても。
「近いうちに、殿下に毒が盛られるって事件が発生するわけよね?」
「ですね。そこでお疑いがお嬢……ナーシャ様にかかります」
 また名前呼びを忘れてしまいそうになった。セーフかな?
「いま鞭打たれても指の痛さでそれどころじゃないだろうから、勘弁してあげるわ」
 鬼かな? いや、優しいのか。
「でも私はなにもしていないわ。この部屋から出るだろう毒瓶も、ダスラが見つけて処分してくれたし」
「ですね」
 安心……いや、本当にそうだろうか。とりあえずは、近日中にそれが実行される。
 決戦の日は、近い――。
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