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第十一話・雷獣は何処に居る

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 コユキが戻ってくるのを待ちながら、女子三人でのんびりとティータイム。
「ティア師って、どういう方なんですか?」
 というマリンの問いに、複雑そうな表情で考え込むソラ。
「うーん、素敵な人よ?」
「そう言えば私、ティア師が慰めてくれていたのに無視してたそうです……」
 シトリンが、青い顔で項垂れる。
「あぁ、それは気にしないでいいわ。むしろティア姉のほうがシトリンちゃんのことを気にしてたから、元気な顔を見せてあげて?」
「⁉ はい!」
「確かに、素敵な方のようですね。ベネトナシュにおられるとお聞きしましたけど、フェクダへはどうしていらしたんですか?」
「んー、羽を隠したいからなんとかならないかって相談を受けたのよね」
「羽、ですか」
 妖精族は、その背中に大きな羽がある。小さな妖精なら特にどうってことはないのだけど、人間サイズの妖精だとそれはどうしても目立ってしまうのだ。
 くわえて、そういう種族の妖精は少なくともフェクダにはほとんどいない。
「面白いから断ったけどね」
「『面白い』が断るにどう繋がるのかわからないですけど……」
 マリンは苦笑いを隠せない。どうやらソラとティアの関係は、仲のよい姉妹のようで微笑ましくもあり。
「それはそうと、シトリンちゃんはハンター業には興味ないの?」
 何気にソラが口にしたそれに、マリンの顔が少し強ばる。
「ハンター、ですか?」
「そう」
 シトリンは虚を衝かれたように反応するも、マリンは少し渋い顔だ。
「モノクルはもう落ちないようにしたし、左眼のウィークポイントも解消されたようなもんでしょ?」
「ソラ姉、確かにそうですけど……シトリンの過去を考えると、『そういう』のを仕事にはさせたくないです」
 マリンが真面目シリアスな顔で応じる。シトリンはマリンの顔色を伺いながら、
「私も、マリンさんが嫌がることはしたくないです」
 と追随。ソラは軽く笑って、
「二人とも、気分を害したならごめんね? 軽く訊いてみただけのつもりだったの」
「いえ……」
 だが浮かない顔のマリンとは対照的に、少し思慮のありそうな表情のシトリンだ。
「あの、もしハンターになれば……お金をいっぱい稼げるんでしょうか?」
 意を決して口を開くシトリンだったが、
「うちはお金には困ってないけん。それに何か買いたいものがあるのなら、金庫から持っていってええよ?」
「マリンさんはそう言ってくれますけど、それはマリンさんが稼いだお金じゃないですか?」
 珍しく、マリンに反論するシトリンだ。
「それじゃ駄目なんです」
「シトリンちゃん、駄目って何が?」
「シトリン、私はシトリンにはもうああいう思いはさせたくないし、怪我もしてほしくないんよ!」
 この話はしたくないとばかりに、マリンの声量が少し大きくなった。
「落ち着きなさい、マリン。シトリンちゃん、何が駄目なのかな?」
「たとえばマリンさんに……その……」
 要領を得ないシトリンに、
「はっきり言いんさい」
 と不機嫌を隠さないマリン、イラ立ちを隠せないでいる。
 それをやんわりと手で制して、ソラは優しく無言でシトリンに続きを促す。
「マリンさんにプレゼントしたいって思っても、マリンさんの稼いだお金で買うのは間違っていると思うんですよ」
 そう言って、シトリンは顔を真っ赤にして俯いてしまった。
 ウエイトレスの給金は決して安くはないものの、マリンへ贈り物をする際は奮発したいシトリン。マリンが思うほどには、ハンター業への反発感はなかった。
「確かにねぇ……マリンはどう思う?」
「プ、プレゼントとかそんな……誕生日、まだ先じゃし。きっ、気持ちだけでいいけん……その……」
 ソラは吹き出すのを堪えていた。なぜならマリンもまた、顔を真っ赤にして必死に背けているからだ。
(シトリンがそういう思いで言ってくれちょったのに、私大人げない……)
 マリンとしては、もうシトリンに戦闘奴隷のような生活には戻ってほしくなかった。そりゃハンター業は戦闘奴隷とは違う、違うけれども命の危険と隣り合わせなのは同じだからだ。
 悶々としているマリンだが、さっきシトリンが言った言葉を思い出す。
『私も、マリンさんが嫌がることはしたくないです』
 これはマリンへの気遣いであって、シトリンの意思ではない。ではシトリン自身はどう思っているのだろうか?
「ねぇ、シトリンはどう」
 マリンがそこまで言いかけた時、ソラ・マリン・シトリンが同時に反応した。『膨大な魔力』が、この塔の居室に向けて近づいてきている。
「これは⁉」
 ガタッと立ち上がるマリンとシトリンだったが、
「あー、まさかとは思うけどあのポンコツ……」
 ソラは、ちょっと呆れたような表情で嘆息している。
「ソラ姉?」
 とマリンが口にしたときだった。
『バシュッ!』
 と何かが射出される音。この塔から、外に向けての。
「安心なさい。たまにここへ、『飛んでやってくる招かれざる客』がいるのね。何度断っても仕事を依頼したいしつこいのが。『そういうの』を捕獲する投網の罠が、仕組まれてるとも知らずに」
 ソラはそう言いながら落ち着いた雰囲気を見せているが、額に血管アオスジが浮いている。
「中には罠があると知ってても、それをド忘れして飛んでくるのもいるけど」
 そしてスタスタと窓際に歩みより……ネットに入れたみかんのようにブラブラと垂れ下がっているそれを、冷淡に見つめ下ろす。
「ソラ姉、賊ですか?」
「ううん。蛾だったわ」
 さっぱりわけがわからないマリンとシトリン、二人とも窓際に歩み寄り下方を覗くと……羽の生えた妖精とコユキの二人が抱き合ったまま、ネットでグルグル巻きにされてぶら下がっていた。
「???」
「コユキ⁉」
 ソラが窓を開きながら、
「ティア姉、この罠にかかるの二回目なのよね」
 心底呆れたような顔でそう言うと、
「引き上げなきゃ……」
 めんどくさそうに呟く。それを受けてメイドの数人が前に出たが、
「私がやります」
 とマリンが制した。
「そう? ありがと。じゃあ皆はマリンをサポートしてちょうだい」
「あ、私一人で大丈夫です」
 と言うが早いが、二人が絡まったネットを素早く引き上げるマリン。
 その怪力っぷりに、ソラやメイドたちは驚嘆の表情を浮かべる。そしてそれを見て、ドヤ顔を浮かべるのはシトリンだ。
 室内に『それ』を引き込み、メイドたちがネットを外す。
「あ、ありがとう」
 と羽の生えた妖精……ティアがお礼を言うのだけど、
「ティア姉、バカでしょ? バカなんでしょ⁉」
 ソラは、憤懣やるかたない様子だ。そしてコユキは、何故か失神していた。
「コユキ! コユキ、大丈夫⁉」
 シトリンが心配そうに、コユキを介抱する。
「あの、何が?」
 怪訝な表情を浮かべるマリンに、
「コユキを抱いて、音速で飛んできたんだと思う。そりゃ失神もするよね……」
 ソラが呆れたように応えた。
「はぁ……」
(なんだか思ったより、破天荒な方のようじゃね)
 そうマリンが思っていたところに、ティアと目が合う。
「マリンさんですか?」
 身長が一五〇センチほど、シトリンとほぼ同じくらいだろうか。毛先が少し赤みを帯びた白金プラチナブロンドで、緋色の瞳。背中には淡いマゼンタの蝶のような羽。
 マリンは妖精族を見るのは初めてじゃなかったが、ここまでとてつもない魔力を帯びた存在には出会ったことがなかった。
(これがかの六賢者の底力……)
 六賢者の偉大さはソラに親しい身ゆえに知ってはいたが、改めてその天賦に戦慄する。
「はい、ティア師マスター・ティア。お目にかかれて光栄です」
「まぁ二人とも、ソファで落ち着きましょう。シトリンちゃんは、コユキをお願いできる? あ、誰かコユキの部屋に案内してあげて」
「ハイ」
 ソラの指示を受けて、メイドの一人が先導してコユキをおんぶしたシトリンとともに部屋を出ていった。
 ソラとティアが並び、対面にマリンでソファに腰かけて。
「それでは改めて、ティア師。この度は」
 マリンが頭を下げてそう言いかけるのに対し、
「あぁいい、いい! そういうの」
 と遠慮しようとしたティアだったが、隣のソラに腿をギュッとつ捻りあげられてしまう。
「いぎっ⁉」
「マリンに最後まで言わせなさいよ、ティア姉」
 涙目で腿をさするティアだったが、
「ティアでいいですよ、マリンさん」
 マリンをリラックスさせるように、ティアが笑顔で口を開いた。
「そんなわけにも……」
 マリンは遠慮しきりだ。
 ティアと同じ賢者仲間であるソラには、幼いころから可愛がってもらっている。それゆえに気軽に接してはいるが、本来ならソラとて気軽に口を聞いていい存在ではないのだ。
「ティアでいいんですってば。そういえば、ソラには何て呼んでるんです?」
「あ、ソラ姉って呼んでます」
「じゃあティアさんで。いい?」
「あ、はい」
(フレンドリーな人じゃね)
 マリンは、ティアに好感を持った。過ぎた力を持ちながらそれを鼻にかけない、さすがは賢者と呼ばれるだけあるなと。
「お礼をと考えたのですが、とりあえずシトリンが戻……いや、邪魔するの悪いわね」
 本来は、シトリンを助けてくれたお礼に馳せ参じたのだ。シトリンと二人でお礼を言うべきだろうとは思ったが、シトリンはコユキと運命的な再会を果たしたばかり。
(それを邪魔するのは、さえんね……)
 どうしようかと思案に暮れていたら、ソラが助け舟を出してくれた。
「あぁ、シトリンちゃんとリトルスノウ、コユキがね。実は昔生き別れになった親友同士だったんだって」
「へぇ!」
 何かお礼をしなくてはいけないと思いあたったが、あいにく今日は手ぶらで。お土産の一つでも持参すべきだったとマリンは悔やむが、もはや後の祭りだ。
(あ!)
 さっきソラから聞いた話を思い出したマリン、ソラとティアが会話をかわしている流れが途切れたのを見計らって口を開く。
「それでティア……さんは、その羽を目立ちにくくしたいとお考えって聞きました。お礼と言ってはなんですが」
 マリンはそう言うがいなや、両手を前に出して手のひらを上に。
『構築』アセムブリィ
 そう呟くと、無数の光の粒がマリンの両手を覆う。そしてその光が引くと、マリンの両手には淡いマゼンタのハーフコートが顕現していた。
「うん、こんなものかな」
 そしてティアに向き直り、それを差し出すマリン。
「ちょっと着てみてくれます? 羽は畳んでいただいて」
「あ、はい」
 ソラが気を利かせて、メイドに何事かを命じる。それを受けて、メイドは部屋の隅に置いてあるキャスター付きの姿見を持ってきた。
 試着したティアに、
「どうでしょうか?」
 恐る恐るマリンが伺う。ティアは姿見の前に立ち、前横後ろと丹念にそれをチェックしてみせる。
「凄い、羽が目立たない!」
(喜んでもらえたかな?)
 どうやらそのようで、マリンは安堵した。
「凄い! 可愛い! ありがとう、マリンさんありがとう!」
「どういたしまして」
 肩の荷が降りた心地のマリンだったが、ティアが不意に浮かない表情を浮かべているのに気づく。
「これ、いただいていいんですか? あの、お代は……」
「いえいえ、お礼の品ですってば」
(律儀な人じゃね)
 とはいえ、これはお礼としての贈り物なのだ。断じてお金を受け取るわけにはいかない。
 幸いなことにティアもすぐに納得してくれたようで、『それでは、ありがたくいただきますね』と応じてくれたのでマリンはホッと胸をなでおろした。
「マリンさんてば、錬金術師アルケミスト?」
「ですね」
 とまぁそんな軽い会話をティアと交わし、シトリンのことも気になっていたマリン。
「あの、シトリンの様子を見てきたいのですが……」
 と恐る恐る伺いを立てる。お礼を言いにきた身としては、自分から先に去るなんて無礼じゃないかと考えていた。
 だけどそれは杞憂に終わり、
「あぁ、行ってらっしゃい。あ、誰かマリンを案内してあげて」
「ああそうだよね、気になるよね。行ってらっしゃい、マリンさん」
 そう言って、二人が心地よく後押ししてくれる。
 それで気が楽になったマリン、改めてソラもだがティアもいい人だなと感嘆だ。部屋を出る際に深くお辞儀をして、シトリンがいるコユキの部屋に向かうのだった。


「こちらになります」
「ありがとう」
「それでは」
 コユキの部屋まで案内してくれたメイドさんが、そう言い残して立ち去って。マリンは、扉の前で立ち尽くす。
(入ってええもんじゃろうか)
 一人扉の前で悶々としていると、不意にガチャリと扉が開いた。
「なんだ、マリンさんでしたか」
「あっ、えっと、シトリン⁉ その……邪魔、よね? お邪魔しまし」
 気まずそうにマリンが踵を返すが、その手を後ろからガシッとシトリンに掴まれてしまう。
「どうぞ、入ってください……ってコユキの部屋ですけど」
 そう言ってシトリンが、クスッと笑う。
「ええの? 久しぶりの再会じゃけん、私も水を指したくないんよね」
「じゃあなんで来たんですか? いいから入ってくださいよ!」
 シトリンに最もなツッコミをされては、マリンも二の句が告げない。
「そ、それじゃ……」
 遠慮がちに部屋に入ると、コユキがベッド上で上半身を起こして水を飲んでいた。顔がまだ、青白い。
「コユキちゃん、大丈夫なん?」
「あんまり大丈夫じゃ……あの妖精、ホンットーに‼」
 有無を言わさずホールドされ、そのまま音速で何百メートルもの高度を飛んだのだ。むしろ、失神だけで済んだのは僥倖だろう。
「それよりマリン様、びっくりしました‼ まさかヨン、ううんシトリンがマリン様の元で暮らしてたなんて!」
「じゃろうね。私もシトリンもびっくりしちょるよ」
 マリンはそう言いつつ、ポーチから香水の入った小瓶を取り出して。
「この香水、かけてみる? 気分がスッキリすると思うけん。ほうじゃ、ここはコユキちゃんのプライベート空間なんじゃから『様』はいらんけ」
「いいんですか? ありがとうございます。……ところでなんでシトリン、私を睨んでんの?」
 シトリン、マリンの香水瓶がコユキの手に渡ったのを見てちょっとモヤってしまった。
「マリンさんの匂いは、私だけのものなのに」
 言葉にしたつもりはシトリンには全然なかったが、ついついそう呟いてしまう。
「シトリン?」
「あ、えーと。ごめんね? すいません、マリンさん。これお返しします!」
 戸惑うマリン、慌てるコユキ。そこでハッと正気に返ったシトリン、
「え、違う違う‼ 違わないけど違う! 今のなし‼」
「どっちよ?」
 コユキは思わず苦笑いだ。自分もまたご主人様であるソラを敬愛しているゆえに、シトリンの気持ちがわかってしまったのだ。
「シトリンのマリンさんだもんね?」
「そっ……うだけど」
 否定しそうになって素直に肯定するシトリンに、思わずコユキは吹き出してしまう。
「ほうじゃね、シトリンのが先じゃったね」
「え?」
「シトリン、来んさい」
 そう言ってマリンは、シトリンを手招きする。わけがわからず、シトリンはマリンのそばへ。
「首すじがええかね」
 マリンは香水を自分の手のひらにプッシュすると、シトリンの首に手を回してうなじ部分に優しく塗布する 。
「シトリン、どう?」
「マリンさんの……香りです」
「うん」
 嬉しそうにシトリンを見つめるマリンと、ウットリとして目がハートマークのシトリン。
(私は何を見せられているのだろう?)
 コユキは、目が点になってしまう。
「そういうわけじゃけんシトリン、もうええよね?」
「はい!」
 シトリンのその返事を受け、マリンはコユキに向き直る。
「付けてみる?」
「あ、はい」
 シトリンの顔色を窺いながら香水の小瓶を受け取るコユキだけど、何故かシトリンがドヤ顔だ。
「なるほど」
 何に納得したのか自分でもわからないけれど、なんか納得してしまったコユキ。
(この子、めんどくさいなぁ)
 と少しだけ思ってしまった。コユキもご主人様であるソラを敬愛してはいるが、それはあくまで主従関係としてのものだ。
「あ、いい香りですね。乗り物酔いとかに効きそう」
 マリンの香水を手首にプッシュしてその香りを嗅ぐコユキ、少し顔色に赤みが差してきた。
 そしてお礼を言って小瓶を返すコユキだったが、マリンが複雑そうな表情で自分を見つめているのに気づく。
「マリンさん?」
「シトリンとコユキちゃん、二人の再会に水差したくないけん。あとは二人でごゆっくりどうぞ」
 そう言って立ち上がるマリンに、
「え、大丈夫ですよ‼ お気遣いはご無用です!」
「そうですよ、マリンさん。いてください!」
 二人はそう言って引き留めるのだけど、マリンは無言のまま笑顔だけを返して部屋を出た。
(復讐を望まない、か……)
 確かにブラッドがいなければ自分はシトリンに、モルガナに、パールに、ソラに……。これらの出会いはすべて、マリンの歴史には存在しなかったのかもしれない。
 だが、父・カーネリアンと母・ラピスラズリがこの世にもういないのもまた事実なのだ。
「私は割り切れんね」
 もし今、ブラッドの居場所がわかったら。やることは昔から一つ、それだけは揺るがない。ただ昔と違うのは……シトリンの存在。
(ブラッドに復讐をして……その先に待っちょるのは、何なんじゃろ)
 復讐したからといって、それが正当であっても犯罪は犯罪だ。じゃあ逮捕してもらうかっていうと、少なくともマリンやシトリンが被った被害を立証するのは不可能に近い。
 シトリンを一人ぼっちにはできない。
 復讐は諦めたくない。
 ――そんな二つの思いに揺れるが一つだけ、残された選択肢があった。
(シトリンと二人で復讐……)
 考えなかったわけじゃない、これまで何度も考えた。そして何より、シトリン本人が言ったのだ。
『そのときは、私が剣になります』
 正直、嬉しかった。同じ仇に対し、同じ心の痛みを共有する仲間。二人なら、二人ならば……何度も、何度も思った。
 だが、その先に待つのは破滅かもしれない。
 犯罪者として、自分もシトリンも逮捕される? 指名手配されて二人で逃げる? 読者を楽しませる架空の物語なら、それもアリなんだろう。だけど、現実には?
『ブラッドを……ブラッドを殺してくれっ‼ マリンの手でぶち殺してくれ‼ ラピスの、ラピスの仇を討ってくれえぇ……』
 父・カーネリアンが今際の際にマリンに遺した、呪詛にも等しい最期の言葉。それはマリンの精神こころに焼き印の如く焼き付いていて、それは終生癒えることはないだろう。
 だけどシトリンがモノクルを壊されたあの日、マリンは誓ったのだ。自分がシトリンの道筋を指さすのだと、道しるべになるのだと。
 その自分が指さすのは、決して修羅の道であってはならない。
「どうすればええん……」
 ガンッと拳で壁を叩き、力が抜けたように両膝をついてしまうマリン。眼鏡から一筋の涙が伝った。
 結局その後はソラの元へ戻り、ティアも交えてしばし歓談。シトリンとコユキが戻ってきたのを機に、今日のところはおいとますることにした。
 帰りの馬車はソラが自分の商会から手配してくれたので、シトリンが奴隷であってもそれは無関係だ。ふかふかの座席、揺れない機構が取り付けてある車輪のおかげで、帰路は快適だった。
「あの、マリンさん?」
「ん?」
「何か、ありましたか?」
 平静を装うマリンだったが、シトリンは敏感にその機微を察する。
「ううん、なんもないけん」
「でも……普段のマリンさんと、ちょっと違うような気がするんです」
(鋭い子じゃね……)
 マリン、ジッとシトリンを見つめる。シトリンは、何やら緊張の面持ちでマリンの次の言葉を待った。
「シトリンは、私が復讐を諦めるって言ったらどう思うん?」
「従うまでです」
 即答するシトリンだったが、
「従う、とかそんなんじゃなくてね? ご主人様とか奴隷とかそんなんじゃなくて、聞かせてほしいんよ」
「本音、って意味ですか?」
 無言で頷くマリン。
「それは、『命令』です?」
「……ううん、ほうじゃないよ」
 マリンがそう言うと、シトリンはホッとしたように胸をなでおろす。
「正直、混乱しています……」
「うん、じゃろうね。私こそごめん」
 コユキが言ったように、シトリンもまたマリンとの出会いに感謝をしている。そしてそれは、ブラッドという歪な歯車があってこそ叶ったのだ。くわえて、自分が殺めたと思ったコユキも生きていた。
(シトリンもつらいんじゃけ、私がひっかき回したらダメじゃね)
 とりあえず、この気持ちは一時的に蓋をしておこう。時間が解決するかもしれないし、しないかもしれない。ただ、今決めなければいけないことでもないのだ。
「ところでシトリン、それ何が入っちょるん?」
 行きはシトリンは手ぶらだったのが、今は何やら小さな袋を携えていた。
「あぁ、本です。コユキが貸してくれたんです。読み書きの練習に役立ちそうだと思ったので」
 そう言って、シトリンは袋から本を取り出してみせた。
「詩集?」
「はい。見てみますか?」
 そう言ってシトリンが軽く差し出すのを、マリンは受け取って。
「異国の詩集じゃね」
 表紙を見てそう感想をもらし、ページをめくる。

  『雷獣』
 焔硝えんせうくさいのはいい。
 空気をつんざく雷の太鼓にこをどりして、
 天からおちてそこら中をかけずり廻り、
 きりきりと旗竿はたざおをかきむしつて、
 いち早く黒雲に身をかくすのはいい。
 雷獣は何処に居る。
 雷獣は天に居る。風の生まれる処に居る。

 詩はまだ続いていたが、マリンは怪訝そうに顔を上げて。
「シトリンには、まだ難しいかもしれんね」
 そう言って詩集を閉じ……ようとして、
「私、今ひどいこと言っちょった。ごめんなさい」
 頭を深く下げながらシトリンに謝罪する。そのつもりは全然なかったが、シトリンを小馬鹿にしたような気がして。
「? 何を謝っているんです?」
 シトリンは意味がわからず、ポカンとしてしまう。マリンの言うとおり、難しい本だと思ったから借りたのだ。
「この詩、何か好きなんです。『雷獣』てなんだろう、雷様なのかな? そして風の生まれる処って、どんな場所なんだろうって」
 マリンは、耳が痛かった。今自分のポーチの中には、読みかけのBL小説が入っているのだ。
「シトリンは立派じゃねぇ」
「そっ、そんな⁉」
(雷獣、か)
 マリンにとっての雷獣は、間違いなくブラッドだ。ブラッドは今どこにいるのか……先ほど閉めた心の蓋が、再び開きかけていた。


 自宅に到着して、さっそくソファに座ってコユキから借りた詩集を読みふけるシトリン……の横に座って、シトリンの髪やら耳やらを手持ち無沙汰にいじるマリン。
(???)
 それが気になって気になって、読書どころじゃないシトリンだ。
「あの……」
「何?」
「何をなさっているんでしょう?」
 おずおずと、マリンに訊いてみる。
「シトリンのねぇ、髪と耳をいじっちょる」
 ですよね、と思うシトリンだけど。
「読書の邪魔じゃった?」
 普通に考えれば邪魔だし、マリンはそう気づいたらすぐにやめてくれる人だ。
(やっぱりマリンさん、おかしい……)
 とは思ったが口には出せないシトリン、一人悶々としながら読書を続ける。そしてマリンも、シトリンの髪&耳いじりを再開した。
 正直ちょっとこそばゆいけど、本の中身が頭に入ってこないけど……これはこれでと、少し愉しいシトリンである。マリンの長い指が、シトリンの髪を梳いていく。指を絡めてヘアカーラーのように丸めては、解く。
 耳の外側をカリカリ掻いてくれてたかと思うと、その根元を指で優しくマッサージしてくれたりなんかして。シトリンは、もう本に目が行っていなかった。
 そして何より、マリンのいい匂い。マリンからも、そして自分からもそれが漂ってくる。
(コユキのとこで香水かけてもらったからかな)
 もうこのころになると、シトリンは本を閉じて目をつぶりされるがままになっていた。
「んっ……」
 時折シトリンの口から声が漏れるが、マリンは気にしていなさそうでその指は休むことはない。シトリンは、すっかり甘美な心地に酔いしれていた。
 そしてマリンは、ボーッとしたままシトリンの髪をいじりながら――。
「キスしてええ?」
「⁉ どうぞ‼」
 ふと漏らしたマリンの言葉に、脊髄反射のシトリン。ドキドキしながらキスしてもらうのを待つが、マリンは相変わらずシトリンの髪いじりに夢中だ。
 マリンは、自分が何を言ったのかわかっていなかった。というよりは無意識に口に出たというか、呟いただけで……。
(キ、キス、まだかな?)
 そうとも知らずシトリン、目をぎゅっと瞑って待っているのだけど。なかなかキスしてこないな?と片目をソーッと開けて確認するも、マリンはやっぱりシトリンの髪いじりに夢中である。
(自分が言ったこと、わかってない⁉)
 さすがにシトリンもマリンの異変に気づくが、じゃあ何をどうすればいいのかもわからない。
(……慰めてあげるべきだろうか?)
 もちろん、これはあの日と同じように唇でという意味だ。ただ、あの日はイレギュラーなシチュエーションだっただけなので……ご主人様から唇を強奪するわけにもいかない。
 しばし悩んだあと、シトリンは自分の髪をいじるマリンの手首を掴みそれを自分の唇に誘導する。
『ペロ……ペロ……』
 とりあえず舐めてみて、チラとマリンの様子を伺う。最悪、何をするのかと怒られて殴られるのも覚悟はしていたのだが。
「うふふ、ザラザラしちょってくすぐったいねぇ」
 そう言ってシトリンに笑いかけるマリンである。
「やっぱりマリンさんおかしいです!」
「何が?」
「何か、私に相談できないことですか? 私に言えないことですか⁉」
 立ち上がっていつになく真剣なシトリンの剣幕に、マリンは気圧けおされてしまった。
「……なんも、ないけん」
 小さく呟くようにそう言うと、マリンは俯いてしまう。
 シトリンは立っていてマリンは座っているのだから、シトリンのほうが目線が高い。シトリンは、初めてマリンに出会ったあの日のことを思い出していた。
 奴隷契約が済んで、マリンの自宅へ向かう段になって。
『じゃあ、行きましょうか』
 そう言って左手を差し出してくれた。手をつないで帰ろうというマリンの意図だったのだけど、自分はそれを理解できなくて。
 奴隷環へご主人様である証の契約の血を塗り込むため、マリンの指には切った傷に血が滲んでいた。それを『汚らしいからシトリンが触りたがらない』と勘違いしたマリンに謝罪されたり、『あ、右手にしようか?』とも提案されたり。
 そしてシトリンもまた『長いこと風呂に入れてもらえてなくて臭う自分』なのに加え、『奴隷なんかの自分と手を繋ぎたがる人はいない』という思い込みもあって、マリンの差し出す手の意味がしばらく意味がわからなかったものだ。
 そこは懇切丁寧に説明したシトリンに、マリンがかけた言葉は。
『うちに帰ったら、まずお風呂入ろう。それともご飯が先がいい?』
 なんでこんな温かい言葉をかけてくれるのかわからなくて、手を差し出したマリンの前でシトリンは動けなくなってしまう。
『あまりその、なんというか奴隷とこういう風にするのはご主人様の品格が……下がってしまいます』
 と進言したシトリン、それは本当に心からの言葉であったのだけど。
『コレが私の品格です』
 そう言ってマリンは、自分の頭頂部にキスしてくれたのだ。
 長い長い不衛生な環境の中で暮らすうちに、手足の被毛部には無数の蚤が寄生していたし、頭髪には虱がわいていた。何日も風呂に入れてもらえていなかったから、自分でもわかるほど臭くて痒くて。
 そんな自分の頭頂部にキスして、これが自分の品格なのだと……マリンは言ってくれた。
 あの日からずっと、温かいご飯が食べれている。熱いお風呂に入って、ふかふかのお布団で寝ることができている。地獄のような檻の外は、まるでトンネルを抜け出たかの如くの天国だった。
 そして、自分の道しるべになると言ってくれた。惑ったり迷ったりしたら、一番キラキラした場所に自分はいるからと。そしてそこから進むべき道を指さすから、臆せず惑わず進めと。
(臆せず……惑わず……)
 怒られたっていい、殴られたっていい。これが私の、シトリンの『品格』なんだ。
 決意を固めたシトリン、マリンを優しく上から抱きしめる。そして眼下に見えるマリンの藍色の髪のすきまから見えるつむじに、あの日マリンがやってくれたように優しく唇で触れた。
 そして何度も何度も、つむじにキスの雨を降らせる。もしされていやなら突き飛ばされるだろうし、殴られるかもしれないけれど。だけど予想に反して、マリンはされるがままだった。
 ……と思っていたら、いきなりマリンに突き飛ばされてしまうシトリン。
「ちょっ、シトリンだめじゃけ! 私、まだ髪洗ってないけん、ばっちぃんよ!」
「……は?」
 拒絶される理由、それ?とでも言いたげなシトリン。思わずポカーンとしてしまう。
「いや、それを言ったらあの日の私のほうが、壊滅的に汚かったですよ?」
「あの日?」
「私がマリンさんの物になった日です」
 シトリンとしてはマリンの物になったというのが嬉しくて言っているのだが、マリンはそうは受け止めなかったみたいで。
「シトリンは物じゃないけん、そういう言い方したらいけんよ!」
「私はマリンさんの物になりたいんですけど……」
「な、何を言っちょるん⁉」
 何かとマリンは、シトリンの願いを叶えたがる。金庫の金を預けては好きな物を好きなときに好きなだけ買えと言ったり、奴隷であるにも関わらず仕事を見つける手伝いをしてくれたり。
 大事なモノクルもくれたりしたけど、それは自分のせいで壊してしまった。
「おねだり、いいですか?」
「おねだり??? うん、ええよ?」
 何がなんだかわからないマリン、とりあえず承諾してしまう。
「キスが、したいです」
 そう言ってシトリンが、じっとマリンを見つめている。
「……誰と、って……よね?」
 黙って頷くシトリンに対し、マリンは思いっきり困惑してしまうのだけど。
「あ、頭に、なん?」
 先ほどの続きがしたいということなのだろうか。でももしそうなら髪を洗うべくシャワーを浴びてこないととか、マリンはちょっと混乱していた。
 だけどそんなマリンに、意を決した表情のシトリンが毅然とした表情で言葉を紡ぐ。
「マリンさんを、抱きたいです」
「……」
 ゴクリ。マリンは生唾を飲み込む。
(抱きたいちゅーのは、つまり、そういうことじゃなくてそういうことなん?)
「具体的にどうしたいか、訊いてええ?」
 なんとか、それだけは言葉にするマリン。
「……」
「『ギュッと抱きしめる』て意味の抱くじゃないよね?」
「え? そうですけど?」
 そう言って、シトリンはニヤニヤ。
「え?」
「なんだと思ったんですか?」
「いっ、いやそのっ、え?」
「ふふふっ!」
「⁉ シトリン、からかったん‼」
 顔を真っ赤にしてマリン、本当にからかったのか自分が勘違いしたのかわからず、この後のリアクションに困り果てる。
「まぁマリンさんを抱きたいってのは本音です。できれば私がタチでお願いしたいんですけど、それはまぁ置いといてですね」
「何の話なん⁉」
「ショック療法です」
「ショック療法?」
 シトリン、コクンと頷いて。
「マリンさん、コユキの塔から帰ってきてずっと様子がおかしいですもん。そりゃ気になりますってば」
「コユキちゃんの塔違う……」
 ソラの塔である。
「ホントに、何もないんですか? いえ、何もないわけじゃないことは、マリンさんとは短い付き合いですけどわかってます。だけど何も説明してくれない、相談してくれないのは付き合いが短いからしょうがないんでしょうか……」
 シュンとしてうつむくシトリン。これは芝居じゃないってことは、さすがにマリンにもわかる。
「ほうじゃないんじゃけど……私がね、未熟者ゆえに悩んじょるんよ」
「マリンさんが未熟者なら、私は分別のないガキですよ」
「そんなこと……」
 シトリンはその場で片膝をつき、座っているマリンより低い姿勢になってマリンを見上げる。
「私が子どもだから、相談できないですか? 頼りにならないですか?」
「そんなことないけん!」
「じゃあなんで‼」
 ついつい、声を荒げてしまうシトリン。普段のシトリンならば絶対にしないことだ。
「シトリンじゃから、シトリンじゃけ言えんことなんよ……」
「……ずるいです、その言い方」
「それは……ごめんとしか言えんけん」
 シュンとするシトリンに、マリンも同じく気落ちしてしまう。シトリンだからこそ言えない悩みで、シトリンを悩ませている。
「困ったね……どうしたら納得してくれるん?」
 シトリン、不機嫌そうな顔を隠さずにマリンの顔を見上げる。
「キスしてくれたら、機嫌直しますけど?」
 シトリンとしては、嫌味というか自分は不機嫌であるというのをマリンにわかってもらうために言ったつもりだった。マリンの悩みが何かはわからないけど、自分が関係していると知って。
 そしてそれを、自分に言ってくれないのだと知って。シトリンは……初めてマリンに反抗の意思を見せたのだった。もっとも、シトリンにその自覚はないのだけど。
 だからシトリンは、本当にキスをしてほしくてそう言ったわけじゃないのだ(してくれるなら大歓迎だけど)。
 そんな『妹分』のシトリンの自分を心配する気持ちに応えることができなくて忸怩たる心痛を覚える反面、まるで姉妹喧嘩のようなこの空気にマリンの顔が綻ぶ。自分は一人っ子だったけど、妹がいたらこんな感じだったのかなぁと懸想して。
「甘えん坊さんじゃね」
 そう言ってマリンはシトリンの両頬を両手で優しく包み込むと、シトリンの唇に自分の唇を合わせた。シトリンがあの日してくれたような濃厚なキスじゃない、ただ単に唇と唇が軽く触れるだけのそれだったけど。
「これでええ?」
「え? え? え?」
 ドヤ顔ながら顔が真っ赤なマリンと、こちらも顔を真っ赤にして絶賛大パニック中のシトリン。マリンは照れをごまかすように、
「今日の夕食は、当番どっちじゃったかいね」
 そう言って真っ赤な顔を背けて、壁のシフト表に目をやる。
「あ、あ、今日はわ、私です、ハイ!」
 こちらも真っ赤なまま、手を挙げて応えるシトリン。少し呂律ろれつが回っていない。
 そして――。
「ギャーッ、これ砂糖だ‼」
 ガシャーン、バリーン!
 キッチンから聴こえてくる修羅場の音声に、マリンは思わず背をすくめる。
(やっぱ、冷静に料理するメンタルになれんよね)
 マリンは嘆息すると、キッチンに足を運んで。
「シトリン、今日は私が変わるけん。エプロン貸して?」
「は、はい……申し訳有りません」
 そしてマリンはシトリンにエプロンを借りて、代わりにシトリンがリビングで待つのだけど。
 しばらくして『不穏な香り』が僅かながらであったが、シトリンの鼻腔を刺激する。そして次の瞬間!
「シトリン、鼻と口を押さえて逃げんさい‼」
 と怒鳴りながらマリンが……鍋を片手に駆け入って来た。そして鍋を、閉じたままの窓ガラスに思いっきりぶん投げる。
 バリーンと窓が割れて、消えていく鍋。そしてマリンが入ってきたキッチンへの扉から……大陸最凶最悪の唐辛子『女郎鬼じょろうき』のパウダー&痛覚が十倍に膨れ上がるビンカンダケ(毒キノコ)の胞子でブレンドされた『毒ガス』が漂ってくる。
「うぎっ⁉」
 思わず後ずさるシトリン。鍋を投げた窓際で、マリンはすでに失神して倒れている。
 まさに『あの日』の夜の再現であった。マリンとシトリンが、初めてキスをした夜の。
 唯一違うのは、失神しているのがシトリンじゃなくてマリンではあったが。
 割れた窓から、涼しい夏の夜の風がビュウビュウと吹きすさぶ。
 ソファにマリンとシトリン、完全に脱力したというか魂が抜けたような表情で二人。呆然と宙を見つめながら並んで座って。
「今日は二人とも、ダメダメじゃね……」
「ですね……」
「晩ごはん、どうしようか」
「マリンさんを食べたいですねぇ」
 シトリン、意識が朦朧としているので思わず本音を漏らすのだけど。
「それは今度じゃねぇ」
 マリンも似たようなもので、無難な返事のつもりでそう返してしまう。もしこのときの会話を後日もシトリンが覚えていたら、二人の物語は変な方向に加速してしまったかもしれない。
 結局、あの日と同じステーキハウスで外食しようということになって。
「シトリン・ルベライト様、シトリン・ルベライト様!」
「あ、私たちです!」
 そう言って、シトリンが手を挙げる。
 あの日のように、自分の新しい名前に惑うシトリンはもういなかった。マリンと同じルベライト姓のシトリン、堂々と手を挙げている。
 二人で美味しいステーキに舌鼓を打ち、マリンはワインでほろ酔いでいい気分。その帰路は、夜空を見上げながらシトリンに星座を教えつつ、いつしか道は海の見える小高い丘の上。
 その斜面に群生する青い花が夜風に吹かれて、夜の海が奏でる波の調べに合わせてタクトを振るう。
「シトリン……」
「はい?」
「んー。シトリン?」
「はい」
 何度もシトリンを呼ぶマリンと、辛抱強く返事だけ返すシトリン。何十回繰り返したか二人は数えていなかったけれど、強く吹いた風でマリンが思わず髪を抑えたのを機にそれは終わった。
「シトリンじゃけ、言えん悩みあるんよ」
「はい」
 マリンのシリアスな表情に、シトリンも食い下がることはできないでいて。
「いつか絶対話す、話すけん」
「言いたくないなら、それでも結構ですよ?」
 シトリンとしては、マリンにそれを背負ってほしくはない。重荷に思わないでほしい……のだけど。
「いつかは、言わなきゃいけないことじゃけん」
「そう、ですか」
 二人、遠くの夜の海平線を無言で見つめる。
 そしてワインの酔いが、マリンを後押ししたのかもしれない。マリン、シトリンをグイッと片手で引き寄せると、その唇に自分の唇を軽く重ねて。
「そういうわけじゃけ、もうちょっと待ってほしいんよ」
 とだけ言って、少し乱暴にシトリンの頭をかいぐり回す。
「はぁ~い」
 少し頬を上気させながら、シトリンは諦めたように嘆息。それ以上マリンに、詰め寄ることはしないのだった。


※作中詩は、『雷獣』(高村光太郎)より引用しています。
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