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影に生きる者達、或いは影そのもの
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俺の名前は宿木吐夢。木に宿って夢を吐く。どうだい、覚えやすいだろう?中肉中背で顔も普通。周りからは特徴がないって良く言われるけど、名前だけは覚えてくれる。
今俺は生まれて初めて安らぎを得たのかもしれない。
寂れたリゾート地に乱立したバブル期の遺物、高級ホテル。その最上階に俺は住んでいる。それも、一人で。周りは山に囲まれていて、人よりも自然の方が圧倒的に多い場所だ。
観光客はいなくても、かつてリゾート地だった事には変わりない。高層のダイレクトスカイビューから見る紅葉の景色は圧巻だった。
俺の一日はこの絶景から始まる。
静養には持ってこいの場所だよな。
自分がまさか三十二歳にして無職になるとは夢にも思わなかった。
とある企業(世間では大手の部類に入ると思う)で事務をしていたのだが、連日の残業に体が付いていかなくなった。
鬱病一歩手前の状態で、ストレスで胃潰瘍になったりもした。遂には疲労と寝不足から深夜帰宅途中に車で事故を起こし、生死の境を彷徨った。
目覚めた時に配線だらけの自分の体をチラリと見て、驚いたの何の。
奇跡的に後遺症もなく、必死のリハビリで何とか退院できたけど、脳を強く打ったとかで事故での記憶がすっぽり抜け落ちているんだよな。
医者からは休職するように言われた。総合病院だったお陰で、図らずも入院中に精神科医のカウンセリングを受けることが出来たのだ。
休職するか否か。俺が選んだのは退職だった。見舞いに来た上司は俺が居ない穴を周りが埋めているとネチネチ文句を言ってきたし、同僚達の見舞いやラインでも復帰の時期しか聞かれなかった。
大学を卒業してから新卒で10年間、じぶんなりに会社に尽くしてきたと思っていたが…。
「やばい、泣けてくるね」
俺は気分転換に外に出る事にした。
パジャマの上からくたびれたコートを羽織ると、寝癖もそのままに部屋を後にした。
中央のエレベーター目指して色褪せた絨毯の内廊下を進んでいく。廊下の蛍光灯は軒並み切れかけていて、不規則な明滅を繰り返している。
こんな豪華な高級ホテルも、バブルの崩壊とそれに伴うリゾート計画の頓挫から、その価値は大幅に下落した。
ここの家賃がいくらか知ってるかい?なんと水道高熱費込みで六万円!あ、管理費に三千円取られるけどね。あの景色がこの値段なら多少の不便さは安いものさ。
近頃は地方活性化とかで積極的にPRもしているらしい。
北海道の上の方にある夜染という村を聞いた事があるだろうか。
強引なリゾート計画を推し進めた挙句に頓挫した、政府からも住人からも見放された寂れた村だ。
俺みたいに訳ありやフリーのライターなんかが入れ替わり立ち替わりこのホテルに集まってくる。この場所には訳ありを惹きつける不思議な魅力があるのさ。
仕事をやめて長いリハビリの末にようやく退院して、俺はしばらくアパートで無為な時間を過ごした。
今後のことをあれこれ考えられるようになって、まず考えたのが引っ越しだった。
誰も知らない土地へ行きたい。そう思っていた矢先、スマホの広告に出てきたのがここ「ヘブンズロード夜染」だった。
大層な名前だが、当時はそれだけ期待されていたということだ。兼ねてから田舎での生活に憧れていた俺はすぐに電話かけ、とんとん拍子で入居して今に至るという訳だ。
なんたって部屋番号が106で32階なんて運命的だろ?
フロアの中央で俺はエレベーターのスイッチを押す。ここは32階で、エレベーターが来るまで少し時間がかかる。
仕事をしている時は高々3階のエレベーターですら待つのにイライラしていた。辞めてからは時間に縛られないお陰で、少し心に余裕が出来た気がする。
幸い未払いの残業代や僅かだが退職金も貰えた。勿論お金なんて使う暇もなかったし、貯金もそれなりにある。時間の許す限りここで生活していきたいと改めて思った。
チン、と無機質な音が響き、エレベーターのドアが開く。俺はゆっくりと乗り込むと、目を瞑って到着を待つ。
エレベーターの上にある蛍光灯も切れかけて点滅していた。1階を押す。このホテルは35階建てだ。一番上が一番豪華な部屋…らしい。
家賃は流石に10万円で、ワンフロア全てが部屋なのだとか。大家の話では今まで一人も住んだことがないそうだ。
何故かエレベーターには34階までしかなく、35階に行くための扉は施錠されている。余程豪華な作りなのだろう。
どの階も部屋番号が101から始まるのに対し、35階だけは301号室になっているのも、そこがどれだけ特別な部屋かを表している。
下に着くと、ロビーから話し声が聞こえてきた。ホテルとしては廃業しているため、勿論フロントには誰もいない。ここは住人達のちょっとした交流スペースなのだ。
「あ、こんにちはトムさん」
俺を見つけると、若い女性が小走りで近寄ってきた。
「やあ、こんにちは」
「これから鬼と戦うんですか?」
彼女は30階の108号室に住む山中鈴。俗に言うキラキラネームだけど、鈴の音色がそのまま名前なんて、素敵だなと思う。ショートカットに頭にはカチューシャ、フリルの着いたメイド服のような物を着ている。垂れ目で優しそうな顔つきで、まとう雰囲気は何処かのお嬢様を思わせた。
「えっと…うん、これから家来を連れて鬼ヶ島に」
「え、お一人でお椀に乗るのでは…?」
「ああ、そっちね!そうそう、針を持ってね」
鈴さんの主人公は毎日変わる。それに合わせて質問も変わるので、合わせるのも一苦労だ。彼女のお陰で昔話に詳しくなった気がする。
「よかった、お気をつけて。打ち出の小槌がもらえると良いですね」
鈴さんは笑顔でロビーの椅子に座ると、再び絵本を読み耽った。
古参の住人の話によると、彼女は精神疾患を抱えていて、自分は語り手、他人はお話の主人公に見えているらしい。俺も最初は戸惑ったけど、話してみると人懐っこくていい子だった。彼女の話には、出来るだけ答えてあげたいと思う。
職場で病気休暇が出たりすると、無責任だとか、鬱病なんかは心が弱いからだとか、忙しい時は少なからずそんな考えが自分にもあった。
でも今は、それがどれだけ愚かで誤った認識だったかわかる気がする。
「おい、トムう!」
初老のいかつい顔つきの男が大きな声でこちらを呼んだ。
「ゲンさん、まーた朝から飲んで。そろそろ本気で体壊すよ」
15階の102号室に住むゲンさんこと源波義政さんだ。いつも焼酎の缶を手に持って酔っ払っている所を見るに、多分アルコール中毒なんだと思う。自分のことはあまり話さないけど、酒臭いことを除けば気前の良いおっちゃんだ。身長180センチ程でガタイもよく、おまけに顔が怖いため、初めて声をかけられた時は正直めちゃくちゃ怖かったのを覚えている。高身長スキンヘッド強面男に大声で話しかけられるのを想像してみてほしい。我ながらよく逃げ出さなかったものだとあの時の自分を褒めてあげたい。ま、話してみるとすぐに慣れたけどね。
毎日作業着を来てるところをみると、以前は職人さんだったのかもしれない。
「何言ってんだ、俺にゃあこれしか楽しみがねんだからよ。酒で死ねるなら本望だぜ、わはははは!」
もう既に耳まで真っ赤に染めた顔で、源さんは豪快に笑う。ゲンさんの目元に出来る笑い皺、なんか好きなんだよなあ。
「ちょっと、うるさいよゲンさん。もっと静かに喋れないの」
ちょっと生意気なこの男の子は2階の107号室に住む角谷詠人だ。いつもむすっとした顔でロビーに座っていて、うんうんと唸りながら四六時中パソコンと睨めっこしている。
詠人は小説家志望らしく、両親の援助を受けながらひたすら小説を書いているらしい。
「相変わらずつめてえなあ詠人。人間もっと心に度量を持たねえと」
「朝から飲んだくれてるオヤジに何言われても響かないよ」
詠人は今時の中性的な顔立ちで、きりっとした鋭い目つきをまるい鈍色の眼鏡で隠してる節がある。放つ言葉に棘はあるけど、見た目ほど冷たくはない…と思う。
「かーっ、そいつはそうだ!こりゃあ一本取られたなあ!」
「だから声でかいんだって!」
二回り以上年下の子にどれだけ嫌味言われても受け流すんだから、ゲンさんは心が広いと思うけどな。
ホテルの住人はまだまだ居るが、交流がない者も少なくない。部屋に籠る人も多いし、いつの間にか居なくなっていたりもする。こうしてロビーに集まるのは大体同じ顔ぶれだった。
「トムさんはこれから仕事?」
「いや、今日はお休み。気分転換に散歩でも行こうかなってね」
寂れてるとはいえ、この村は廃村ではない。僅かだけど村民もいるし、ライフラインも通っている。このホテルだって最低限住める状態を保っているわけで、それらの仕事の斡旋なんかを役場でやっている訳だ。
民間業者より、訳ありをリハビリも兼ねて安く働かせる…。そんな思惑が見え隠れする気がするけど、素晴らしい住処を提供してもらってるし贅沢は言えない。実際体を慣らすのには丁度よかった。まあ、とある理由からあまり役場は好きではないんだけど…。
「よくあんな所行けるよね。あ、今日はこれから雨らしいからやめとけば?」
「お、そうなのかあ。どうしようかな」
言われてみれば昼間だというのに確かに空が暗い。部屋に戻って傘を持って来てまで外に出ようとは思わなかった。
「トムよお、雨ぐらいで男が悩むなよお。濡れてなんぼ!水も滴るいい男ってな、がはははは!」
「あーもう気が散る!」
詠人がイライラしながらお団子に結った髪を掻き毟る。
一人でいる方が絶対に創作が捗ると思うんだが…。口では邪魔だ邪魔だ言いながらも、詠人は賑やかな場所に身を置きたいんだろうな。ま、本人には言わないけどね。
「はは、相変わらず賑やかだなあ」
窓の外を見つめて行こうか止めようか逡巡していると、後ろからチン、という音がして、若い母子が降りてきた。母親の方は帽子をまぶかに被り、子ども…5歳くらいだろうかの手を強く引きながら歩いてくる。
ロビーにいる面々に見向きもせずにそそくさと外に出ようとする母子を私は呼び止めた。
「これから雨が降るそうですよ」
親子は最近来たばかりで、名前は確かササキと言っていたか。私が話しかけると、男の子が一瞬ビクッとなった気がした。
「…そうですか」
母親はこちらを見向きもしないで小さく呟くと、躊躇いもなく外へ出て行ってしまった。男の子は母親に強引に腕を引っ張られているせいで、綱引きで負けている時のような不自然な動きをしていた。男の子が俺の目の前を通り過ぎる瞬間、勢いよく引かれた腕がゴキゴキと鳴った。
「う…」
しまった、今の音が引き金になったのか?
頭が割れるように痛い。
事故後に何かがきっかけで偏頭痛が起きる体になってしまったのだ。
「むぐう…」
頭をハンマーで殴られたような激痛に耐えられず、俺はその場に仰向けで倒れ込んだ。
ロビーに居た住人たちが、俺の異変を察知して駆け寄ってくるのを感じる。
「かえんのかあ?」
「いつまでも幸せに暮らしましたとさ」
「どうかな今回も結局…」
彼らがお互いの顔を見合わせてヒソヒソと何かを話している。
意識が暗転する直前、俺は笑顔の彼らを見た…ような気がした。
カツンカツンと階段を登っている。視線は常に足元にある。一段一段…一階、二階と。
はあはあと荒い息遣いが聞こえる。これは誰のものだ?
俺だ。いや、視点が切り替わらない。そもそも俺とは一体誰だ?
蛍光灯がダメになっているせいか、足元はうす暗い。
どれくらい経っただろう。登れども登れども景色が変わらない。元は白かったであろう茶色く薄汚れた壁と階段をただひたすら眺めるだけ。この場所では時間すら曖昧になる。
それでも少しずつ登るペースが落ちている事に気づく。荒い息は相変わらずなのに、それでも足は止まらない。
何かから逃げている…のか?
今日日ここまで階段を登る事は中々ない。仮に運動不足だとしても。
とうとう壁に手をつきだしたが、登るのを止めようとはしなかった。
いっそ目を瞑ってしまおうか。
見たくないものを無理に見る必要なんてない。例えそれが自分のものだったとしても。
俺は…いや、こいつは…何処に向かっているのだろう。
息遣いと共に一段一段気合いを入れる声が漏れる。体を支える左手に力が入るのがわかる。
ここまでして向かうところの終点には少し興味が湧いた。
動かない体を持ち上げるように、ゆっくり、ゆっくりと…。
突如目の前に扉があらわれた。俺のような誰かが顔を上げたのだ。
古びて所々汚れている階段や、塗装の剥がれかけた壁とは違う両開きのドア。中央にはエメラルド色の硝子が嵌め込まれ、取手から模様や縁まで全て金色の豪華な意匠。
ああ、ここは301号室だ。
直感的にそう思った。誰が?
この場所だけ時間が止まったまま、過去に取り残されているようだ。
ドアの取っ手を掴む両手は、不自然な程に痩せていた。
こんな枯れ枝のような手でよく登ってこれたものだ。
感心する間も無くドアが勢いよく開け放たれ、目の前に大きなダンスホールが現れた。
回転しながらキラキラと光るミラーボールと、七色に輝く光源。腰にくる低音のビートの中、沢山の男女が弾けんばかりの笑顔で踊っている。
激しく腰を振り、頭を揺らし、誰もかれもが満員電車の中で自分自身を解放していた。
視点が不自然に上下している。まさか、枯れ枝の誰かも踊っているのか。一瞬視界の端に映った右腕は、さっきと打って変わって浅黒くがっしりとしている。
しばらく見ていると、少しずつ踊っている人が減っている事に気付いた。1人…また1人と影になって消えていく。踊っている者も消え行く者も、皆自分の事で精一杯で誰かが居なくなっても気にしちゃいない。勿論居なくなるのが自分だとしても、だ。
遂にダンスホールには枯れ枝の…いや浅黒の誰か一人になってしまった。それでも誰かは構わずに踊り続けている。
しばらく一人で前を向いて踊っていたが、途中視線が下に向けられ、少し疲れたのかな?と考えていたらいきなりぐんと体が引っ張り上げられた。
俺は今、少し高い位置から部屋の一部を見下ろしている。ここはもうディスコではなく、ただの無機質なホテルのワンフロアだった。視点は常に斜め下の方に向いており、蓑虫のように左右に揺れている事で辛うじて部屋の様子が見て取れた。コンクリートタイル張りの床以外に何の物も置かれていない。体が揺れるたびにぎしっぎしっと何かが軋む音がした。
もう少し振り幅が大きくなってくれないものか。下ばかり見つめているせいか、どうにも息苦しい。ここは夢にまで見たあの301号室だと言うのに。せっかくなら何処までも灰色のタイルよりも最上階からの景色を眺めてみたいものだ。
いつまでそうして揺られていただろう。ぶちぶちと音がしたかと思うと、体が急速に下に落下した。次いで衝撃。
「うっ」
硬い床に腰から激突し思わず声が漏れる。
「痛たたた」
ふと見上げると、天井には俺の他にも揺れている蓑虫人間が沢山いた。なんとなく見たことがあるなと思いながら揺れている彼らを眺めていたら、誰も彼もがダンスホールで一緒に踊っていた者だと気づく。
彼らの顔は一様に暗く、あの時踊っていた者とは全く別人に見えた。
彼らの紐も徐々に磨耗し、1人、また1人と床に落下してくる。フロアはうめき声の大合唱だ。残る最後の1人は…俺の真上でぶらぶらと揺れている。髪の長い女だ。いや、男か。顔がぱんぱんに膨れ上がってどちらか判別できない。服装から見るに女だろう。体が振られる度に、髪がばさっばさっと揺れる。時々俺の顔周辺によくわからない液体が垂れてくるので、身体をぐるぐる巻にされて動けない俺は避けるのも一苦労だった。だが、それよりも…。
ああ…頼む、落ちてこないでくれ。
そんなに大きなものは避けきれない。その高さからぶつかったら、ただでは済まないだろう。だが、悪い事に彼女の振り子はどう考えても俺の身体の範囲内だった。
ばさっ、ぶちぃ。ばさっ、ぶちぶち。
髪の音に紛れて紐が千切れていく音が聞こえる。
せめて、せめて少しでも身体の外側に揺られた時に。
ぶちぶちばさばさ。ばさっぶちんっ!
突如大きな音がして、紐が一気に千切れる。俺はこの時ほどニュートンを恨んだことはなかった。
頼む、引力に逆らってでも止まってくれ!
俺は動けない体で目を見開いて必死に彼女に念じる。
けれど、どんな願いも虚しく、世界の法則に従いリンゴは正しく落下した。
ああ、もう駄目だ…。
彼女が落ちてくる様を、俺はスローモーションで眺めていた。黒い影がどんどん大きくなっていき…。
彼女が俺の頭に落ちたとき、遠くでぐちゃりと嫌な音がしたかと思うと世界は暗転した。
「うげえっ」
気づいたら、ロビーのソファーに居た。
「おう、気い付いたかトムよぉ」
ゲンさんと詠人、それに鈴さんまで心配そうに俺を見つめていた。
「全く、急に倒れて迷惑だよホント」
詠人の目には少し涙が浮かんでいた。
「なんでえ、いの一番に心配して駆け寄ったクセに素直じゃねえな」
「いちいちうるさい!」
「はは、ありがとう、みんな…」
俺はまだ怠さの残る体を何とか持ち上げる。
「構いませんよ、主人公を不足の事態から守るために私がいるのですから」
俺の顔を覗き込むように少し首を傾げながら、鈴さんがそれを手伝ってくれた。彼女の顔を間近で見ると青い瞳は吸い込まれるほど大きく澄んでいて、虚しい気持ちが少し和らいだ気がした。
主人公、ね…。さっきの映像は俺じゃない誰かの記憶…なんだろうな。
「もう、大丈夫。心配かけたね」
鈴さんに助け起こされた俺は、手の平を曲げたり伸ばしたり、首を回してあたりを見回したりして体に異常がないかを確認した。
窓の外を見ると、雲の隙間から陽の光が除いていた。
「雨、もう降らなそうだよ」
パソコンに向かいながら詠人が言う。
「そうだね。気を取り直して散歩に行ってこようかな」
「道端で倒れるなんてこと面倒だからやめてよね」
「トムう、詠人が心配だってよ!」
「僕の感情を勝手に決めるな!」
まるでコントのようなやり取りに思わず俺は吹き出した。
「あはははは!俺ならこの通りもう大丈夫。ぶらぶらして帰ってくるよ」
「鬼退治は長い道のりですから、道中お気をつけて」
鈴さんが真剣な眼差しで俺の両手を掴む。
「大丈夫、必ず討ち滅ぼしてくれる」
俺は背筋をしゃんと伸ばすと、神妙な顔つきでホテルを後にしたのだった。
ホテルを出ると、目に入ってくるのは見渡す限りの山、山、山…。ふと、人よりも木の数の方が多いこの夜染の自然が、俺の宿る場所なのかもしれないと感じた。
ホテルは小高い山の上にあるため、ここから下までは緩やかな下り坂になっている。散歩道が整備されているが、歩いて下まで行くのは中々骨が折れるので、下まで降りることは滅多にない。特段用事もないため、基本的に近くを散策するのに留めていた。
もしリゾート計画が頓挫していなければ、このホテルにもひっきりなしに送迎バスが巡回していたことだろう。
下には雄大な自然を心ゆくまで楽しめるゴンドラ、アスレチックやプール、ゴルフ場やキャンプ上まで揃っている。ホテルと同じく最低限は整備されているため、お金さえ払えば今でも利用可能だ。といっても、俺を含めて利用している住人を見た事がないが。
こんなにも素晴らしい場所だ。今からでも募集すればいくらでも出資者が集まりそうなものだけどな。まあ、そのお陰で俺はこうしてこの村で生きていられるんだけどね。
俺の発作は突然やってくる。勿論事故の後からだ。頭部外傷に伴う後遺症。医者からはそう言われていた。突然の激しい頭痛の後に、およそ現実のものとは思えない映像が鮮明に映し出されるのだ。
病院のリハビリ中に初めて発症した時は受け入れるのに相当時間がかかった。頭がおかしくなったのかとも思った。
けれど、だんだん慣れてくると、浮かんでくる映像にも意味がある事に気づいた。
今回のもそうだ。何故か立ち入り禁止にされ、入居者も一向に現れない301号室。
俺が見たのはきっとあの部屋が輝いていた時代の光景だ。そしてそれが泡となって消えてしまった無念さ。
あの部屋は今もなお豪華な時代に取り残されていて、吊るされた人々も同様にその影に囚われている。
確証なんて何もないけれど、俺はそう感じている。
ヘブンズロード夜染の本当の存在価値は、訳ありの住人に安く間借りさせるマンションではなく、毎日毎日飽きるまで踊って踊って踊り狂う場所だった筈だ。そのために造られて、それに見合うだけの資金も注ぎ込まれたのだろう。
上手くいかない時は、ほんの少し歯車が狂うだけで、すべてがズレてしまうものだ。
規模は違うが俺もそうだ。会社のために寝る間も惜しんで頑張ってきたつもりが、いつのまにか自分を追い詰めて死ぬ寸前まで行った。
彼らの無念は想像を絶するものだろう。吊るされた人々が皆自殺したかどうかはわからないが、ホテルに戻った後、せめてもの手向けに花くらいは備えておこうと思う。
腐葉土の敷き詰められた道をゆっくりと歩いていると、体からいらないものが抜けていく気がする。
前職のあれこれや事故の衝撃、果ては自分という存在さえも…。
ーなあ、この起案の書き方さ、これじゃ通らないよ。やり直してね。
以前の俺は神経質だった。ただでさえ仕事量が多いのだ。ミスで仕事を増やされては困るからと、とにかく完璧を求めた。
ーあの起案で駄目だった?何なら通るんだよ潔癖が…
それが逆に他人を傷つけ、自分の首を絞めているとも知らずに。
澄んだ青空と湿った土の匂いが、不純物を取り除いて分解してくれている。この大自然を眺めていると、細かい事などどうでも良くなってくるのだ。時間はゆっくりと流れている。
今なら言える。あの時の俺、もっと楽にやれよと。
周囲の木々は衣替えの真っ最中で、赤や黄色が緑と混じり合い、美しい天然のグラデーションを作り出していた。
風が吹き、腐葉土の落ち葉がからからと音を立てる。
「きれいだなあ」
俺は今、家と仕事の往復しかしてこなかったことを猛烈に後悔していた。一歩外に出たら、世界はこんなにも感動で溢れているというのに。
もっと仕事以外の事に目を向ければ良かったのかな。知らず知らずのうちに自分で視野を狭めていたのかもしれないな。
ひょおおおと辺りに強い風が吹いた。もう季節は秋の終わりに近づいている。
「うう、パジャマの上にもう一枚羽織ってくれば良かったかな」
風邪をひくと後が大変だ。この村の病院は下に小さな診療所が一つあるだけで、勿論この道を歩いて降りなければならない。
元々リゾート地で最低限の設備しかないのだ。緊急時は本来ドクターヘリが飛ぶはずだったらしい。
夜染マートという総合スーパーに基本的に衣類から食品まで全てが揃っているが、勿論ホテルから離れた場所に立っている。
元々の村の住民は50人弱おり、リゾート計画時に全員が立ち退かされたらしい。
かなり強引な手法だったらしく、先祖代々の土地をいきなり奪われた村民たちの怒りは如何程か。役場で斡旋される仕事の内容や、役場職員の態度がなんとも言えないのも、少し理解できる気がした。
結局計画が頓挫してから少しずつ戻ってきて、今は30人くらい住んでいるようだ。
村役場を中心に放射状に家が建てられ、その周りにスーパーを作り、全て村民が運営している。ホテルはあくまで眠らせておくには勿体ないと再利用しているだけで、利便性は相当悪かった。みな、それを承知で入居するのだ。
ネット通販を使えば届かないこともないが、配送料が馬鹿高いので誰も使わない。そもそもそんな事する奴は、こんな所に住んだりはしないだろう。
ともかく、風邪を引くと酷くなった時に誰かの手を借りなければならなくなってしまうので、それは避けたいところだ。
帰ろうかと踵を返しかけた所で、ふと視界の端で何か動いたような気がした。振り返ると下に降りていく小さな男の子の後ろ姿が見えた…ような気がした。
「あの子は、確かさっきの…」
ササキという親子の子どもに似ている。俺の頭痛のきっかけになった子だ。脳裏にはあの時の後ろ姿がまだ残っていた。母親の姿は見えなかったが、一人で遊ばせているんだろうか。
俺は何となく気になってしまい、寒さも忘れて男の子の後を追った。
腐葉土の道もそれなりに整備されていて、村の中心地まで特に迷うことも足を取られることもなく歩くことが出来る。とはいえ、距離自体はかなりのものだ。大人でも大変なんだから、子どもの足では相当遠いだろう。
「まあ、アスレチックとかあるしなあ」
散歩がてら村の中心地まで。これが普通の親子なら何も問題はない。これから楽しい冒険の始まりだろう。ササキ親子が普通でないとまでは言わないが、あの時俺に声をかけられたあの子は怯えていた。
「違ってたらそれはそれだ」
むしろ俺の勘違いであって欲しい。
勤めていた頃は、こんな風に誰かの身を案じたり、他人のことを考える余裕なんてなかった。だからこそ、これからはできる限り助けたいんだ。
散歩道は道幅は広いが道の両端は木々が生い茂り、うっかり迷い込むと出られなくなる危険もある。特に左側は傾斜もあって危険だった。
俺はササキ親子の影を追って道の先へと急いだ…のだが。
「はあ…はあ…」
緩やかとはいえ山道の下り坂だ。最初は快調だっだ俺の足もすぐに止まってしまった。
「あー、もっと、運動、しておけば…ふう。良かったなあ…」
なんだか過去を振り返っては後悔ばっかりだな、俺。
道は左に大きく逸れていて、先を見通すことが出来ない。足音を聞こうにも、木々の騒めきが2人の痕跡を飲み込んでしまう。
誰かがいた事は間違いない。それも小さな子どもが。このままここで迷っていても仕方がない。後から自分の決断に後悔しないために、最後まで追い続けよう。一番下で楽しく走り回る子どもを確認してから帰ろうじゃないか。
俺はゆっくりとあたりを見回しながら、緩やかなカーブを進んでいく。子どもの声や足音を聞き逃さないように、ゆっくりと。
時々手前の藪が風もないのにガサガサと揺れる。男の子かと覗き込むと黒い小さな影がさっと逃げていく。きっと小動物だろう。狐や狸にリスや鹿、果ては熊までも。豊かな自然の残る山には、大小様々な動物が生息している…はずだ。時々ホテルの近くにも迷い込んできて、ちゃっかり餌を貰って帰っていくこともあるらしい。
「んー…いないな」
それらしい人影もない。曲がりくねった道が終わり、ここから先は道幅は狭くなるが直線で、それなりに見通しはいいはずだが、道の先にササキ親子は愚か人っ子1人見当たらない。
まだ後遺症の影響があったんだろうか。あの時見せられた過去の幻影たちが、俺の目に残像でも見せたのか。
「ふーっ。どちらにせよ、あと少し」
だるくなってきた足に力を込め直すと、腐葉土の坂を一気に下っていく。
風下の方だからか、腐葉土の上の落ち葉が増えている。歩くたびにがさっ、ざざっと葉擦れの音がして、それに気を取られて小動物らしき者の動きを見落として振り返ることが何度もあった。
「いいーっあ。ぎゅういいい!」
耳慣れない鳥の鳴き声がして振り返ると、木々の隙間からバサバサと黒い影が飛びたった所だった。
そういえば、この村に来てから鳥も動物もちゃんと見たことがないな。いつも見ようとしても間に合わない。ただ、視界の切れ端でちらちら蠢く影を感じるだけだ。
もしかしたら、本当は夜染に動物なんていないのかもしれない。俺の脳が創り出した錯覚か、はたまた過去に囚われた者の虚しき残滓か。
だとすれば、ササキ親子も過去の影に囚われているという事だろうか。答えを求めようにも、肝心のササキ親子は何処にもいない。
俺は再び下を目指して坂を下り始めた。時折両側の藪から何かの影を感じながら。俺はもう振り返ったりはしなかった。
とうとう散歩道が終わった。念のためアスレチック広場の方まで行ってみたけれど、結局ササキ親子はいなかった。
「まあ、勘違いで良かったよなあ」
俺は自分をそう納得させると、特に用もないのでホテルに戻ることにした。
図らずも良い運動になったことで、体はちょうど良い具合に温まっていた。おまけに気分転換もはかれて言うことなしだ。
「よし、帰り道も頑張るか」
とはいえ、今は達成感から少しハイになっているが、俺の体には相当な負荷がかかっているはずだ。無理をしすぎて道の途中で怪我をしては目も当てられない。
「確かこの近くにベンチがあったな」
俺は念のため近くにある東屋で休憩する事にした。
ほぼ完治したとはいえ、大事故で一時は生死の境を彷徨ったのだ。その後の長いリハビリ生活で、無理をしないことの大切さを身をもって学んだ。
アスレチック広場の手前には、焦茶色をした木造の東屋がある。今まで人がいる所を見た事がなかったのだが、今日は既に先客が居た。何処となく品の良い老夫婦だ。
東屋にはテーブルが二つ横並びに置いてあり、老夫婦は片方のテーブルに隣同士で座っていた。二人ともお揃いのベージュのコートを着ていて、男性の方は白いハットに茶色い革手袋、女性の方はつやつやとした茶色の杖を握っているのが印象的だった。
「すいません、こちらのテーブルに座っても良いですか?」
「ええ。もちろんよ」
「どうぞどうぞ」
二人がほぼ同時に答える。その優しそうな声色は聞いているものを安心させた。
「ありがとうございます」
にっこりと微笑むその姿に、俺はなんだか映画の世界に迷い込んだような心地だった。
一体どこのお偉いさんだろう。これだけ絵に描いたような品の良い老夫婦に出会ったのは初めてだった。
気軽に声をかけるのが躊躇われて、隣のテーブルに小さくなって座っていると、なんと向こうから話しかけてくれた。
「君はこの村に住んでるのかな?」
男はしっかりと俺の目を見ながらそう尋ねた。
「ええ、少し前に越してきまして。宿木吐夢といいます。今はあそこに住んでいます」
俺がホテルを指さすと、男は満足げに頷いた。
「あらあらご丁寧に。私は安樂博子と申します。主人は巌と言います。私たちも今日から越してきたんですよ」
博子さんが巌さんに代わって俺に挨拶してくれた。
「なんと、そうでしたか。私も住みだしたのが最近だから偉そうな事は言えませんが、夜染は良いところですよ」
巌さんは俺の言葉に大仰に頷いてみせた。
「ここはとても…そう、とても良い所だね」
「はい、私もすぐに好きになりまして。部屋から眺める景色がまた絶景なんです」
「この村はね、私と同じなんだ」
巌さんの声は低く、それでいてよく通った。ゆっくりとした話し方が、より言葉に重みを持たせている。この村と同じとはどういう意味だろう。
「ええと…」
俺がなんて答えて良いかわからずにいると、再度巌さんが口を開く。
「私はね、この村と…同じなんだ」
巌さんは遠くを見つめながら、噛み締めるようにそう繰り返した。
「主人は認知症なんです。まだ軽いんですけれどね。段々と新しい事が覚えられなくなって…。それで療養の為に、ここを選んだんです」
博子さんは相変わらず微笑んでくれていたが、その顔は何処か寂しそうだった。
「それは…。でも、私も体調を崩したのでここに来ましたが、住み始めてから具合が良くなりました。だから、旦那様も、きっと」
こう言う時、なんて声をかけるのが正解なんだろう。
「…そうね、ありがとう。夜染は空気も澄んでいて本当に良い所ね。建物も少ないから、あんなにも夕焼けが綺麗」
博子さんの笑顔が赤く染まっていく。
気がつけばいつの間にか雲が薄くなり、空がピンク色に変わっていた。燃えるような夕焼けがこの村全体を暖かく包み込んでいく。
「ああ…本当に綺麗だ」
巌さんは目に涙を浮かべていた。
「私の時間はもう、過去にしかない。後はゆっくりと巻き戻るだけだ。これほど美しい夕焼けを、妻と見たことさえも…」
ああ、確かに同じだ。過去が今になって、未来は砂となって消えていく。それを支える博子さんもそうだ。2人の時間はゆっくりと巻き戻り、若かりし時の中を再び歩き始めるのだ。
「これからは毎日見れますよ。心に残るような情景を」
「ああ…。出来るだけ長く見ていたいんだ。忘れてしまう前にね」
俺は2人に軽く会釈をすると、東屋を後にした。
途中振り返ってみると、2人は寄り添いながら夕焼けに染まる空を眺めていた。雲の切れ間から差し込む夕陽が、2人の影を長く伸ばしている。巨人の様なその影は、まるで2人に成り代わろうとしている様に見えた。
ホテルまでの復路はかなりしんどかった。安樂夫婦に出会ったことでササキ親子のことはすっかり忘れてしまっていたが、すでに体力が限界だった。何度も何度も休憩しながらようやく辿り着いた時には、もう外は真っ暗になっていた。
ロビーに着くなり、俺は1番近くの長椅子に倒れ込んだ。もう自分の部屋に戻る気力も残っていない。
これは…もう少し部屋から出て運動しないといけないな。
仰向けに寝転びながらぼうっと天井を見ていると、ふと何かがどさりと落ちてきそうな気がして、俺は慌てて顔を背けた。
「戻ってきたね」
「駄目だったのね」
奥の方から何やら話し声が聞こえる。棒のような体をやっとこさ持ち上げて声の主を探すと、何とササキ親子だった。
旧お土産屋スペースで2人で仲睦まじく遊んでいる。どうやら他に住人は誰もいないようだ。それもそうか、もうそろそろ夕飯の時間だ。
「こんばんは」
俺は少し躊躇ったが、思い切って声をかけた。
「こんばんはー!」
意外なことに、男の子は俺の声に怯えることもなく元気に挨拶を返してくれた。
「こんばんは。先程はありがとうございました。お陰で雨に濡れずに済みました」
距離があるとはいえ、母親の方もしっかりこちらを見てお礼を言った。
「いえいえ。同じホテルに住むもの同士、助け合っていきましょう」
俺がそう言うと、母親は少し笑顔になったように見えた。
「あ、ママ、あそこ!リスさんだ!リスさんがいるよ!!待て待てー」
「あ、こら、1人で行かないの!すみません、失礼します」
全速力で階段を駆け登る男の子を追いかけて、母親も猛スピードでそれに続く。どう見ても仲の良い元気な親子で、俺が昼間感じた危うさは何処にもなかった。
結局、過去に囚われていたのは俺だったんだな。このホテルには訳ありしかこない。その共通項に囚われて、ネグレクトとか無理心中とか本質を見ないで勝手に決めつけていた。
「リス、か…」
見たことないな、俺は。いや、見れないと言った方が良いか。どうせ俺が探す時には影しか見つからない。
俺ははなから諦めて、男の子が指さした方を見ることなく長椅子に横になった。
「え…」
何と目の前の壁の柱の上に件のリスがいるではないか!
「はは。ははははは。あーっはっは!」
俺はトコトン自分を悲劇の主人公に仕立て上げたいらしい。他人だけじゃない、自分に対しても…だな。
「じゃあな、リスちゃん」
俺は長椅子から飛び起きると、小躍りしながらエレベーターに乗り込んだ。エレベーターもそれに応えるように俺を招き入れる。
切れかけた蛍光灯の明滅に合わせて、俺はダンスした。枯れ枝の誰かを思い出しながら、静かに、それでいて情熱的に。俺の動きに蓑虫人間達が沸き立ち、ダンスホールが揺れる、揺れる。
チン、と胸躍る音がして、ダンスフロアは34階へ到達する。
俺はステップを踏みながら封鎖された35階の階段に向かう。勿論防火扉は閉じていて、豪華な意匠も何もないただの錆びれた鉄の扉だった。
「ありがとう」
彼らに心からの感謝を。このホテルがあることで、俺は今生きている。いや、俺だけじゃない。このホテルの住人は多かれ少なかれそう思っているはずだ。それくらい夜染の村とこのホテルの存在は救いだった。
でも、ここに来るのはこれが最後だ。ここにあるのは影、過去しかない。これからは前を向いて生きて行こう。
俺は32階まで一気に階段を駆け降りると、部屋へ戻るなりベッドに飛び込んだ。
「今日はよく眠れそうだ」
すぐに心地よい疲労感が体全体を包み込み、俺はゆっくりと眠りに落ちていった。
一匹のリスがロビーのエレベーターをじっと見つめている。トムが見つけたリスだ。いや、見つけさせたと言った方がいいかもしれない。
「ぴっ…ぴっ…ぴっ…」
リスはトムが居なくなるのを見計った様に、規則正しい音で鳴いた。
今俺は生まれて初めて安らぎを得たのかもしれない。
寂れたリゾート地に乱立したバブル期の遺物、高級ホテル。その最上階に俺は住んでいる。それも、一人で。周りは山に囲まれていて、人よりも自然の方が圧倒的に多い場所だ。
観光客はいなくても、かつてリゾート地だった事には変わりない。高層のダイレクトスカイビューから見る紅葉の景色は圧巻だった。
俺の一日はこの絶景から始まる。
静養には持ってこいの場所だよな。
自分がまさか三十二歳にして無職になるとは夢にも思わなかった。
とある企業(世間では大手の部類に入ると思う)で事務をしていたのだが、連日の残業に体が付いていかなくなった。
鬱病一歩手前の状態で、ストレスで胃潰瘍になったりもした。遂には疲労と寝不足から深夜帰宅途中に車で事故を起こし、生死の境を彷徨った。
目覚めた時に配線だらけの自分の体をチラリと見て、驚いたの何の。
奇跡的に後遺症もなく、必死のリハビリで何とか退院できたけど、脳を強く打ったとかで事故での記憶がすっぽり抜け落ちているんだよな。
医者からは休職するように言われた。総合病院だったお陰で、図らずも入院中に精神科医のカウンセリングを受けることが出来たのだ。
休職するか否か。俺が選んだのは退職だった。見舞いに来た上司は俺が居ない穴を周りが埋めているとネチネチ文句を言ってきたし、同僚達の見舞いやラインでも復帰の時期しか聞かれなかった。
大学を卒業してから新卒で10年間、じぶんなりに会社に尽くしてきたと思っていたが…。
「やばい、泣けてくるね」
俺は気分転換に外に出る事にした。
パジャマの上からくたびれたコートを羽織ると、寝癖もそのままに部屋を後にした。
中央のエレベーター目指して色褪せた絨毯の内廊下を進んでいく。廊下の蛍光灯は軒並み切れかけていて、不規則な明滅を繰り返している。
こんな豪華な高級ホテルも、バブルの崩壊とそれに伴うリゾート計画の頓挫から、その価値は大幅に下落した。
ここの家賃がいくらか知ってるかい?なんと水道高熱費込みで六万円!あ、管理費に三千円取られるけどね。あの景色がこの値段なら多少の不便さは安いものさ。
近頃は地方活性化とかで積極的にPRもしているらしい。
北海道の上の方にある夜染という村を聞いた事があるだろうか。
強引なリゾート計画を推し進めた挙句に頓挫した、政府からも住人からも見放された寂れた村だ。
俺みたいに訳ありやフリーのライターなんかが入れ替わり立ち替わりこのホテルに集まってくる。この場所には訳ありを惹きつける不思議な魅力があるのさ。
仕事をやめて長いリハビリの末にようやく退院して、俺はしばらくアパートで無為な時間を過ごした。
今後のことをあれこれ考えられるようになって、まず考えたのが引っ越しだった。
誰も知らない土地へ行きたい。そう思っていた矢先、スマホの広告に出てきたのがここ「ヘブンズロード夜染」だった。
大層な名前だが、当時はそれだけ期待されていたということだ。兼ねてから田舎での生活に憧れていた俺はすぐに電話かけ、とんとん拍子で入居して今に至るという訳だ。
なんたって部屋番号が106で32階なんて運命的だろ?
フロアの中央で俺はエレベーターのスイッチを押す。ここは32階で、エレベーターが来るまで少し時間がかかる。
仕事をしている時は高々3階のエレベーターですら待つのにイライラしていた。辞めてからは時間に縛られないお陰で、少し心に余裕が出来た気がする。
幸い未払いの残業代や僅かだが退職金も貰えた。勿論お金なんて使う暇もなかったし、貯金もそれなりにある。時間の許す限りここで生活していきたいと改めて思った。
チン、と無機質な音が響き、エレベーターのドアが開く。俺はゆっくりと乗り込むと、目を瞑って到着を待つ。
エレベーターの上にある蛍光灯も切れかけて点滅していた。1階を押す。このホテルは35階建てだ。一番上が一番豪華な部屋…らしい。
家賃は流石に10万円で、ワンフロア全てが部屋なのだとか。大家の話では今まで一人も住んだことがないそうだ。
何故かエレベーターには34階までしかなく、35階に行くための扉は施錠されている。余程豪華な作りなのだろう。
どの階も部屋番号が101から始まるのに対し、35階だけは301号室になっているのも、そこがどれだけ特別な部屋かを表している。
下に着くと、ロビーから話し声が聞こえてきた。ホテルとしては廃業しているため、勿論フロントには誰もいない。ここは住人達のちょっとした交流スペースなのだ。
「あ、こんにちはトムさん」
俺を見つけると、若い女性が小走りで近寄ってきた。
「やあ、こんにちは」
「これから鬼と戦うんですか?」
彼女は30階の108号室に住む山中鈴。俗に言うキラキラネームだけど、鈴の音色がそのまま名前なんて、素敵だなと思う。ショートカットに頭にはカチューシャ、フリルの着いたメイド服のような物を着ている。垂れ目で優しそうな顔つきで、まとう雰囲気は何処かのお嬢様を思わせた。
「えっと…うん、これから家来を連れて鬼ヶ島に」
「え、お一人でお椀に乗るのでは…?」
「ああ、そっちね!そうそう、針を持ってね」
鈴さんの主人公は毎日変わる。それに合わせて質問も変わるので、合わせるのも一苦労だ。彼女のお陰で昔話に詳しくなった気がする。
「よかった、お気をつけて。打ち出の小槌がもらえると良いですね」
鈴さんは笑顔でロビーの椅子に座ると、再び絵本を読み耽った。
古参の住人の話によると、彼女は精神疾患を抱えていて、自分は語り手、他人はお話の主人公に見えているらしい。俺も最初は戸惑ったけど、話してみると人懐っこくていい子だった。彼女の話には、出来るだけ答えてあげたいと思う。
職場で病気休暇が出たりすると、無責任だとか、鬱病なんかは心が弱いからだとか、忙しい時は少なからずそんな考えが自分にもあった。
でも今は、それがどれだけ愚かで誤った認識だったかわかる気がする。
「おい、トムう!」
初老のいかつい顔つきの男が大きな声でこちらを呼んだ。
「ゲンさん、まーた朝から飲んで。そろそろ本気で体壊すよ」
15階の102号室に住むゲンさんこと源波義政さんだ。いつも焼酎の缶を手に持って酔っ払っている所を見るに、多分アルコール中毒なんだと思う。自分のことはあまり話さないけど、酒臭いことを除けば気前の良いおっちゃんだ。身長180センチ程でガタイもよく、おまけに顔が怖いため、初めて声をかけられた時は正直めちゃくちゃ怖かったのを覚えている。高身長スキンヘッド強面男に大声で話しかけられるのを想像してみてほしい。我ながらよく逃げ出さなかったものだとあの時の自分を褒めてあげたい。ま、話してみるとすぐに慣れたけどね。
毎日作業着を来てるところをみると、以前は職人さんだったのかもしれない。
「何言ってんだ、俺にゃあこれしか楽しみがねんだからよ。酒で死ねるなら本望だぜ、わはははは!」
もう既に耳まで真っ赤に染めた顔で、源さんは豪快に笑う。ゲンさんの目元に出来る笑い皺、なんか好きなんだよなあ。
「ちょっと、うるさいよゲンさん。もっと静かに喋れないの」
ちょっと生意気なこの男の子は2階の107号室に住む角谷詠人だ。いつもむすっとした顔でロビーに座っていて、うんうんと唸りながら四六時中パソコンと睨めっこしている。
詠人は小説家志望らしく、両親の援助を受けながらひたすら小説を書いているらしい。
「相変わらずつめてえなあ詠人。人間もっと心に度量を持たねえと」
「朝から飲んだくれてるオヤジに何言われても響かないよ」
詠人は今時の中性的な顔立ちで、きりっとした鋭い目つきをまるい鈍色の眼鏡で隠してる節がある。放つ言葉に棘はあるけど、見た目ほど冷たくはない…と思う。
「かーっ、そいつはそうだ!こりゃあ一本取られたなあ!」
「だから声でかいんだって!」
二回り以上年下の子にどれだけ嫌味言われても受け流すんだから、ゲンさんは心が広いと思うけどな。
ホテルの住人はまだまだ居るが、交流がない者も少なくない。部屋に籠る人も多いし、いつの間にか居なくなっていたりもする。こうしてロビーに集まるのは大体同じ顔ぶれだった。
「トムさんはこれから仕事?」
「いや、今日はお休み。気分転換に散歩でも行こうかなってね」
寂れてるとはいえ、この村は廃村ではない。僅かだけど村民もいるし、ライフラインも通っている。このホテルだって最低限住める状態を保っているわけで、それらの仕事の斡旋なんかを役場でやっている訳だ。
民間業者より、訳ありをリハビリも兼ねて安く働かせる…。そんな思惑が見え隠れする気がするけど、素晴らしい住処を提供してもらってるし贅沢は言えない。実際体を慣らすのには丁度よかった。まあ、とある理由からあまり役場は好きではないんだけど…。
「よくあんな所行けるよね。あ、今日はこれから雨らしいからやめとけば?」
「お、そうなのかあ。どうしようかな」
言われてみれば昼間だというのに確かに空が暗い。部屋に戻って傘を持って来てまで外に出ようとは思わなかった。
「トムよお、雨ぐらいで男が悩むなよお。濡れてなんぼ!水も滴るいい男ってな、がはははは!」
「あーもう気が散る!」
詠人がイライラしながらお団子に結った髪を掻き毟る。
一人でいる方が絶対に創作が捗ると思うんだが…。口では邪魔だ邪魔だ言いながらも、詠人は賑やかな場所に身を置きたいんだろうな。ま、本人には言わないけどね。
「はは、相変わらず賑やかだなあ」
窓の外を見つめて行こうか止めようか逡巡していると、後ろからチン、という音がして、若い母子が降りてきた。母親の方は帽子をまぶかに被り、子ども…5歳くらいだろうかの手を強く引きながら歩いてくる。
ロビーにいる面々に見向きもせずにそそくさと外に出ようとする母子を私は呼び止めた。
「これから雨が降るそうですよ」
親子は最近来たばかりで、名前は確かササキと言っていたか。私が話しかけると、男の子が一瞬ビクッとなった気がした。
「…そうですか」
母親はこちらを見向きもしないで小さく呟くと、躊躇いもなく外へ出て行ってしまった。男の子は母親に強引に腕を引っ張られているせいで、綱引きで負けている時のような不自然な動きをしていた。男の子が俺の目の前を通り過ぎる瞬間、勢いよく引かれた腕がゴキゴキと鳴った。
「う…」
しまった、今の音が引き金になったのか?
頭が割れるように痛い。
事故後に何かがきっかけで偏頭痛が起きる体になってしまったのだ。
「むぐう…」
頭をハンマーで殴られたような激痛に耐えられず、俺はその場に仰向けで倒れ込んだ。
ロビーに居た住人たちが、俺の異変を察知して駆け寄ってくるのを感じる。
「かえんのかあ?」
「いつまでも幸せに暮らしましたとさ」
「どうかな今回も結局…」
彼らがお互いの顔を見合わせてヒソヒソと何かを話している。
意識が暗転する直前、俺は笑顔の彼らを見た…ような気がした。
カツンカツンと階段を登っている。視線は常に足元にある。一段一段…一階、二階と。
はあはあと荒い息遣いが聞こえる。これは誰のものだ?
俺だ。いや、視点が切り替わらない。そもそも俺とは一体誰だ?
蛍光灯がダメになっているせいか、足元はうす暗い。
どれくらい経っただろう。登れども登れども景色が変わらない。元は白かったであろう茶色く薄汚れた壁と階段をただひたすら眺めるだけ。この場所では時間すら曖昧になる。
それでも少しずつ登るペースが落ちている事に気づく。荒い息は相変わらずなのに、それでも足は止まらない。
何かから逃げている…のか?
今日日ここまで階段を登る事は中々ない。仮に運動不足だとしても。
とうとう壁に手をつきだしたが、登るのを止めようとはしなかった。
いっそ目を瞑ってしまおうか。
見たくないものを無理に見る必要なんてない。例えそれが自分のものだったとしても。
俺は…いや、こいつは…何処に向かっているのだろう。
息遣いと共に一段一段気合いを入れる声が漏れる。体を支える左手に力が入るのがわかる。
ここまでして向かうところの終点には少し興味が湧いた。
動かない体を持ち上げるように、ゆっくり、ゆっくりと…。
突如目の前に扉があらわれた。俺のような誰かが顔を上げたのだ。
古びて所々汚れている階段や、塗装の剥がれかけた壁とは違う両開きのドア。中央にはエメラルド色の硝子が嵌め込まれ、取手から模様や縁まで全て金色の豪華な意匠。
ああ、ここは301号室だ。
直感的にそう思った。誰が?
この場所だけ時間が止まったまま、過去に取り残されているようだ。
ドアの取っ手を掴む両手は、不自然な程に痩せていた。
こんな枯れ枝のような手でよく登ってこれたものだ。
感心する間も無くドアが勢いよく開け放たれ、目の前に大きなダンスホールが現れた。
回転しながらキラキラと光るミラーボールと、七色に輝く光源。腰にくる低音のビートの中、沢山の男女が弾けんばかりの笑顔で踊っている。
激しく腰を振り、頭を揺らし、誰もかれもが満員電車の中で自分自身を解放していた。
視点が不自然に上下している。まさか、枯れ枝の誰かも踊っているのか。一瞬視界の端に映った右腕は、さっきと打って変わって浅黒くがっしりとしている。
しばらく見ていると、少しずつ踊っている人が減っている事に気付いた。1人…また1人と影になって消えていく。踊っている者も消え行く者も、皆自分の事で精一杯で誰かが居なくなっても気にしちゃいない。勿論居なくなるのが自分だとしても、だ。
遂にダンスホールには枯れ枝の…いや浅黒の誰か一人になってしまった。それでも誰かは構わずに踊り続けている。
しばらく一人で前を向いて踊っていたが、途中視線が下に向けられ、少し疲れたのかな?と考えていたらいきなりぐんと体が引っ張り上げられた。
俺は今、少し高い位置から部屋の一部を見下ろしている。ここはもうディスコではなく、ただの無機質なホテルのワンフロアだった。視点は常に斜め下の方に向いており、蓑虫のように左右に揺れている事で辛うじて部屋の様子が見て取れた。コンクリートタイル張りの床以外に何の物も置かれていない。体が揺れるたびにぎしっぎしっと何かが軋む音がした。
もう少し振り幅が大きくなってくれないものか。下ばかり見つめているせいか、どうにも息苦しい。ここは夢にまで見たあの301号室だと言うのに。せっかくなら何処までも灰色のタイルよりも最上階からの景色を眺めてみたいものだ。
いつまでそうして揺られていただろう。ぶちぶちと音がしたかと思うと、体が急速に下に落下した。次いで衝撃。
「うっ」
硬い床に腰から激突し思わず声が漏れる。
「痛たたた」
ふと見上げると、天井には俺の他にも揺れている蓑虫人間が沢山いた。なんとなく見たことがあるなと思いながら揺れている彼らを眺めていたら、誰も彼もがダンスホールで一緒に踊っていた者だと気づく。
彼らの顔は一様に暗く、あの時踊っていた者とは全く別人に見えた。
彼らの紐も徐々に磨耗し、1人、また1人と床に落下してくる。フロアはうめき声の大合唱だ。残る最後の1人は…俺の真上でぶらぶらと揺れている。髪の長い女だ。いや、男か。顔がぱんぱんに膨れ上がってどちらか判別できない。服装から見るに女だろう。体が振られる度に、髪がばさっばさっと揺れる。時々俺の顔周辺によくわからない液体が垂れてくるので、身体をぐるぐる巻にされて動けない俺は避けるのも一苦労だった。だが、それよりも…。
ああ…頼む、落ちてこないでくれ。
そんなに大きなものは避けきれない。その高さからぶつかったら、ただでは済まないだろう。だが、悪い事に彼女の振り子はどう考えても俺の身体の範囲内だった。
ばさっ、ぶちぃ。ばさっ、ぶちぶち。
髪の音に紛れて紐が千切れていく音が聞こえる。
せめて、せめて少しでも身体の外側に揺られた時に。
ぶちぶちばさばさ。ばさっぶちんっ!
突如大きな音がして、紐が一気に千切れる。俺はこの時ほどニュートンを恨んだことはなかった。
頼む、引力に逆らってでも止まってくれ!
俺は動けない体で目を見開いて必死に彼女に念じる。
けれど、どんな願いも虚しく、世界の法則に従いリンゴは正しく落下した。
ああ、もう駄目だ…。
彼女が落ちてくる様を、俺はスローモーションで眺めていた。黒い影がどんどん大きくなっていき…。
彼女が俺の頭に落ちたとき、遠くでぐちゃりと嫌な音がしたかと思うと世界は暗転した。
「うげえっ」
気づいたら、ロビーのソファーに居た。
「おう、気い付いたかトムよぉ」
ゲンさんと詠人、それに鈴さんまで心配そうに俺を見つめていた。
「全く、急に倒れて迷惑だよホント」
詠人の目には少し涙が浮かんでいた。
「なんでえ、いの一番に心配して駆け寄ったクセに素直じゃねえな」
「いちいちうるさい!」
「はは、ありがとう、みんな…」
俺はまだ怠さの残る体を何とか持ち上げる。
「構いませんよ、主人公を不足の事態から守るために私がいるのですから」
俺の顔を覗き込むように少し首を傾げながら、鈴さんがそれを手伝ってくれた。彼女の顔を間近で見ると青い瞳は吸い込まれるほど大きく澄んでいて、虚しい気持ちが少し和らいだ気がした。
主人公、ね…。さっきの映像は俺じゃない誰かの記憶…なんだろうな。
「もう、大丈夫。心配かけたね」
鈴さんに助け起こされた俺は、手の平を曲げたり伸ばしたり、首を回してあたりを見回したりして体に異常がないかを確認した。
窓の外を見ると、雲の隙間から陽の光が除いていた。
「雨、もう降らなそうだよ」
パソコンに向かいながら詠人が言う。
「そうだね。気を取り直して散歩に行ってこようかな」
「道端で倒れるなんてこと面倒だからやめてよね」
「トムう、詠人が心配だってよ!」
「僕の感情を勝手に決めるな!」
まるでコントのようなやり取りに思わず俺は吹き出した。
「あはははは!俺ならこの通りもう大丈夫。ぶらぶらして帰ってくるよ」
「鬼退治は長い道のりですから、道中お気をつけて」
鈴さんが真剣な眼差しで俺の両手を掴む。
「大丈夫、必ず討ち滅ぼしてくれる」
俺は背筋をしゃんと伸ばすと、神妙な顔つきでホテルを後にしたのだった。
ホテルを出ると、目に入ってくるのは見渡す限りの山、山、山…。ふと、人よりも木の数の方が多いこの夜染の自然が、俺の宿る場所なのかもしれないと感じた。
ホテルは小高い山の上にあるため、ここから下までは緩やかな下り坂になっている。散歩道が整備されているが、歩いて下まで行くのは中々骨が折れるので、下まで降りることは滅多にない。特段用事もないため、基本的に近くを散策するのに留めていた。
もしリゾート計画が頓挫していなければ、このホテルにもひっきりなしに送迎バスが巡回していたことだろう。
下には雄大な自然を心ゆくまで楽しめるゴンドラ、アスレチックやプール、ゴルフ場やキャンプ上まで揃っている。ホテルと同じく最低限は整備されているため、お金さえ払えば今でも利用可能だ。といっても、俺を含めて利用している住人を見た事がないが。
こんなにも素晴らしい場所だ。今からでも募集すればいくらでも出資者が集まりそうなものだけどな。まあ、そのお陰で俺はこうしてこの村で生きていられるんだけどね。
俺の発作は突然やってくる。勿論事故の後からだ。頭部外傷に伴う後遺症。医者からはそう言われていた。突然の激しい頭痛の後に、およそ現実のものとは思えない映像が鮮明に映し出されるのだ。
病院のリハビリ中に初めて発症した時は受け入れるのに相当時間がかかった。頭がおかしくなったのかとも思った。
けれど、だんだん慣れてくると、浮かんでくる映像にも意味がある事に気づいた。
今回のもそうだ。何故か立ち入り禁止にされ、入居者も一向に現れない301号室。
俺が見たのはきっとあの部屋が輝いていた時代の光景だ。そしてそれが泡となって消えてしまった無念さ。
あの部屋は今もなお豪華な時代に取り残されていて、吊るされた人々も同様にその影に囚われている。
確証なんて何もないけれど、俺はそう感じている。
ヘブンズロード夜染の本当の存在価値は、訳ありの住人に安く間借りさせるマンションではなく、毎日毎日飽きるまで踊って踊って踊り狂う場所だった筈だ。そのために造られて、それに見合うだけの資金も注ぎ込まれたのだろう。
上手くいかない時は、ほんの少し歯車が狂うだけで、すべてがズレてしまうものだ。
規模は違うが俺もそうだ。会社のために寝る間も惜しんで頑張ってきたつもりが、いつのまにか自分を追い詰めて死ぬ寸前まで行った。
彼らの無念は想像を絶するものだろう。吊るされた人々が皆自殺したかどうかはわからないが、ホテルに戻った後、せめてもの手向けに花くらいは備えておこうと思う。
腐葉土の敷き詰められた道をゆっくりと歩いていると、体からいらないものが抜けていく気がする。
前職のあれこれや事故の衝撃、果ては自分という存在さえも…。
ーなあ、この起案の書き方さ、これじゃ通らないよ。やり直してね。
以前の俺は神経質だった。ただでさえ仕事量が多いのだ。ミスで仕事を増やされては困るからと、とにかく完璧を求めた。
ーあの起案で駄目だった?何なら通るんだよ潔癖が…
それが逆に他人を傷つけ、自分の首を絞めているとも知らずに。
澄んだ青空と湿った土の匂いが、不純物を取り除いて分解してくれている。この大自然を眺めていると、細かい事などどうでも良くなってくるのだ。時間はゆっくりと流れている。
今なら言える。あの時の俺、もっと楽にやれよと。
周囲の木々は衣替えの真っ最中で、赤や黄色が緑と混じり合い、美しい天然のグラデーションを作り出していた。
風が吹き、腐葉土の落ち葉がからからと音を立てる。
「きれいだなあ」
俺は今、家と仕事の往復しかしてこなかったことを猛烈に後悔していた。一歩外に出たら、世界はこんなにも感動で溢れているというのに。
もっと仕事以外の事に目を向ければ良かったのかな。知らず知らずのうちに自分で視野を狭めていたのかもしれないな。
ひょおおおと辺りに強い風が吹いた。もう季節は秋の終わりに近づいている。
「うう、パジャマの上にもう一枚羽織ってくれば良かったかな」
風邪をひくと後が大変だ。この村の病院は下に小さな診療所が一つあるだけで、勿論この道を歩いて降りなければならない。
元々リゾート地で最低限の設備しかないのだ。緊急時は本来ドクターヘリが飛ぶはずだったらしい。
夜染マートという総合スーパーに基本的に衣類から食品まで全てが揃っているが、勿論ホテルから離れた場所に立っている。
元々の村の住民は50人弱おり、リゾート計画時に全員が立ち退かされたらしい。
かなり強引な手法だったらしく、先祖代々の土地をいきなり奪われた村民たちの怒りは如何程か。役場で斡旋される仕事の内容や、役場職員の態度がなんとも言えないのも、少し理解できる気がした。
結局計画が頓挫してから少しずつ戻ってきて、今は30人くらい住んでいるようだ。
村役場を中心に放射状に家が建てられ、その周りにスーパーを作り、全て村民が運営している。ホテルはあくまで眠らせておくには勿体ないと再利用しているだけで、利便性は相当悪かった。みな、それを承知で入居するのだ。
ネット通販を使えば届かないこともないが、配送料が馬鹿高いので誰も使わない。そもそもそんな事する奴は、こんな所に住んだりはしないだろう。
ともかく、風邪を引くと酷くなった時に誰かの手を借りなければならなくなってしまうので、それは避けたいところだ。
帰ろうかと踵を返しかけた所で、ふと視界の端で何か動いたような気がした。振り返ると下に降りていく小さな男の子の後ろ姿が見えた…ような気がした。
「あの子は、確かさっきの…」
ササキという親子の子どもに似ている。俺の頭痛のきっかけになった子だ。脳裏にはあの時の後ろ姿がまだ残っていた。母親の姿は見えなかったが、一人で遊ばせているんだろうか。
俺は何となく気になってしまい、寒さも忘れて男の子の後を追った。
腐葉土の道もそれなりに整備されていて、村の中心地まで特に迷うことも足を取られることもなく歩くことが出来る。とはいえ、距離自体はかなりのものだ。大人でも大変なんだから、子どもの足では相当遠いだろう。
「まあ、アスレチックとかあるしなあ」
散歩がてら村の中心地まで。これが普通の親子なら何も問題はない。これから楽しい冒険の始まりだろう。ササキ親子が普通でないとまでは言わないが、あの時俺に声をかけられたあの子は怯えていた。
「違ってたらそれはそれだ」
むしろ俺の勘違いであって欲しい。
勤めていた頃は、こんな風に誰かの身を案じたり、他人のことを考える余裕なんてなかった。だからこそ、これからはできる限り助けたいんだ。
散歩道は道幅は広いが道の両端は木々が生い茂り、うっかり迷い込むと出られなくなる危険もある。特に左側は傾斜もあって危険だった。
俺はササキ親子の影を追って道の先へと急いだ…のだが。
「はあ…はあ…」
緩やかとはいえ山道の下り坂だ。最初は快調だっだ俺の足もすぐに止まってしまった。
「あー、もっと、運動、しておけば…ふう。良かったなあ…」
なんだか過去を振り返っては後悔ばっかりだな、俺。
道は左に大きく逸れていて、先を見通すことが出来ない。足音を聞こうにも、木々の騒めきが2人の痕跡を飲み込んでしまう。
誰かがいた事は間違いない。それも小さな子どもが。このままここで迷っていても仕方がない。後から自分の決断に後悔しないために、最後まで追い続けよう。一番下で楽しく走り回る子どもを確認してから帰ろうじゃないか。
俺はゆっくりとあたりを見回しながら、緩やかなカーブを進んでいく。子どもの声や足音を聞き逃さないように、ゆっくりと。
時々手前の藪が風もないのにガサガサと揺れる。男の子かと覗き込むと黒い小さな影がさっと逃げていく。きっと小動物だろう。狐や狸にリスや鹿、果ては熊までも。豊かな自然の残る山には、大小様々な動物が生息している…はずだ。時々ホテルの近くにも迷い込んできて、ちゃっかり餌を貰って帰っていくこともあるらしい。
「んー…いないな」
それらしい人影もない。曲がりくねった道が終わり、ここから先は道幅は狭くなるが直線で、それなりに見通しはいいはずだが、道の先にササキ親子は愚か人っ子1人見当たらない。
まだ後遺症の影響があったんだろうか。あの時見せられた過去の幻影たちが、俺の目に残像でも見せたのか。
「ふーっ。どちらにせよ、あと少し」
だるくなってきた足に力を込め直すと、腐葉土の坂を一気に下っていく。
風下の方だからか、腐葉土の上の落ち葉が増えている。歩くたびにがさっ、ざざっと葉擦れの音がして、それに気を取られて小動物らしき者の動きを見落として振り返ることが何度もあった。
「いいーっあ。ぎゅういいい!」
耳慣れない鳥の鳴き声がして振り返ると、木々の隙間からバサバサと黒い影が飛びたった所だった。
そういえば、この村に来てから鳥も動物もちゃんと見たことがないな。いつも見ようとしても間に合わない。ただ、視界の切れ端でちらちら蠢く影を感じるだけだ。
もしかしたら、本当は夜染に動物なんていないのかもしれない。俺の脳が創り出した錯覚か、はたまた過去に囚われた者の虚しき残滓か。
だとすれば、ササキ親子も過去の影に囚われているという事だろうか。答えを求めようにも、肝心のササキ親子は何処にもいない。
俺は再び下を目指して坂を下り始めた。時折両側の藪から何かの影を感じながら。俺はもう振り返ったりはしなかった。
とうとう散歩道が終わった。念のためアスレチック広場の方まで行ってみたけれど、結局ササキ親子はいなかった。
「まあ、勘違いで良かったよなあ」
俺は自分をそう納得させると、特に用もないのでホテルに戻ることにした。
図らずも良い運動になったことで、体はちょうど良い具合に温まっていた。おまけに気分転換もはかれて言うことなしだ。
「よし、帰り道も頑張るか」
とはいえ、今は達成感から少しハイになっているが、俺の体には相当な負荷がかかっているはずだ。無理をしすぎて道の途中で怪我をしては目も当てられない。
「確かこの近くにベンチがあったな」
俺は念のため近くにある東屋で休憩する事にした。
ほぼ完治したとはいえ、大事故で一時は生死の境を彷徨ったのだ。その後の長いリハビリ生活で、無理をしないことの大切さを身をもって学んだ。
アスレチック広場の手前には、焦茶色をした木造の東屋がある。今まで人がいる所を見た事がなかったのだが、今日は既に先客が居た。何処となく品の良い老夫婦だ。
東屋にはテーブルが二つ横並びに置いてあり、老夫婦は片方のテーブルに隣同士で座っていた。二人ともお揃いのベージュのコートを着ていて、男性の方は白いハットに茶色い革手袋、女性の方はつやつやとした茶色の杖を握っているのが印象的だった。
「すいません、こちらのテーブルに座っても良いですか?」
「ええ。もちろんよ」
「どうぞどうぞ」
二人がほぼ同時に答える。その優しそうな声色は聞いているものを安心させた。
「ありがとうございます」
にっこりと微笑むその姿に、俺はなんだか映画の世界に迷い込んだような心地だった。
一体どこのお偉いさんだろう。これだけ絵に描いたような品の良い老夫婦に出会ったのは初めてだった。
気軽に声をかけるのが躊躇われて、隣のテーブルに小さくなって座っていると、なんと向こうから話しかけてくれた。
「君はこの村に住んでるのかな?」
男はしっかりと俺の目を見ながらそう尋ねた。
「ええ、少し前に越してきまして。宿木吐夢といいます。今はあそこに住んでいます」
俺がホテルを指さすと、男は満足げに頷いた。
「あらあらご丁寧に。私は安樂博子と申します。主人は巌と言います。私たちも今日から越してきたんですよ」
博子さんが巌さんに代わって俺に挨拶してくれた。
「なんと、そうでしたか。私も住みだしたのが最近だから偉そうな事は言えませんが、夜染は良いところですよ」
巌さんは俺の言葉に大仰に頷いてみせた。
「ここはとても…そう、とても良い所だね」
「はい、私もすぐに好きになりまして。部屋から眺める景色がまた絶景なんです」
「この村はね、私と同じなんだ」
巌さんの声は低く、それでいてよく通った。ゆっくりとした話し方が、より言葉に重みを持たせている。この村と同じとはどういう意味だろう。
「ええと…」
俺がなんて答えて良いかわからずにいると、再度巌さんが口を開く。
「私はね、この村と…同じなんだ」
巌さんは遠くを見つめながら、噛み締めるようにそう繰り返した。
「主人は認知症なんです。まだ軽いんですけれどね。段々と新しい事が覚えられなくなって…。それで療養の為に、ここを選んだんです」
博子さんは相変わらず微笑んでくれていたが、その顔は何処か寂しそうだった。
「それは…。でも、私も体調を崩したのでここに来ましたが、住み始めてから具合が良くなりました。だから、旦那様も、きっと」
こう言う時、なんて声をかけるのが正解なんだろう。
「…そうね、ありがとう。夜染は空気も澄んでいて本当に良い所ね。建物も少ないから、あんなにも夕焼けが綺麗」
博子さんの笑顔が赤く染まっていく。
気がつけばいつの間にか雲が薄くなり、空がピンク色に変わっていた。燃えるような夕焼けがこの村全体を暖かく包み込んでいく。
「ああ…本当に綺麗だ」
巌さんは目に涙を浮かべていた。
「私の時間はもう、過去にしかない。後はゆっくりと巻き戻るだけだ。これほど美しい夕焼けを、妻と見たことさえも…」
ああ、確かに同じだ。過去が今になって、未来は砂となって消えていく。それを支える博子さんもそうだ。2人の時間はゆっくりと巻き戻り、若かりし時の中を再び歩き始めるのだ。
「これからは毎日見れますよ。心に残るような情景を」
「ああ…。出来るだけ長く見ていたいんだ。忘れてしまう前にね」
俺は2人に軽く会釈をすると、東屋を後にした。
途中振り返ってみると、2人は寄り添いながら夕焼けに染まる空を眺めていた。雲の切れ間から差し込む夕陽が、2人の影を長く伸ばしている。巨人の様なその影は、まるで2人に成り代わろうとしている様に見えた。
ホテルまでの復路はかなりしんどかった。安樂夫婦に出会ったことでササキ親子のことはすっかり忘れてしまっていたが、すでに体力が限界だった。何度も何度も休憩しながらようやく辿り着いた時には、もう外は真っ暗になっていた。
ロビーに着くなり、俺は1番近くの長椅子に倒れ込んだ。もう自分の部屋に戻る気力も残っていない。
これは…もう少し部屋から出て運動しないといけないな。
仰向けに寝転びながらぼうっと天井を見ていると、ふと何かがどさりと落ちてきそうな気がして、俺は慌てて顔を背けた。
「戻ってきたね」
「駄目だったのね」
奥の方から何やら話し声が聞こえる。棒のような体をやっとこさ持ち上げて声の主を探すと、何とササキ親子だった。
旧お土産屋スペースで2人で仲睦まじく遊んでいる。どうやら他に住人は誰もいないようだ。それもそうか、もうそろそろ夕飯の時間だ。
「こんばんは」
俺は少し躊躇ったが、思い切って声をかけた。
「こんばんはー!」
意外なことに、男の子は俺の声に怯えることもなく元気に挨拶を返してくれた。
「こんばんは。先程はありがとうございました。お陰で雨に濡れずに済みました」
距離があるとはいえ、母親の方もしっかりこちらを見てお礼を言った。
「いえいえ。同じホテルに住むもの同士、助け合っていきましょう」
俺がそう言うと、母親は少し笑顔になったように見えた。
「あ、ママ、あそこ!リスさんだ!リスさんがいるよ!!待て待てー」
「あ、こら、1人で行かないの!すみません、失礼します」
全速力で階段を駆け登る男の子を追いかけて、母親も猛スピードでそれに続く。どう見ても仲の良い元気な親子で、俺が昼間感じた危うさは何処にもなかった。
結局、過去に囚われていたのは俺だったんだな。このホテルには訳ありしかこない。その共通項に囚われて、ネグレクトとか無理心中とか本質を見ないで勝手に決めつけていた。
「リス、か…」
見たことないな、俺は。いや、見れないと言った方が良いか。どうせ俺が探す時には影しか見つからない。
俺ははなから諦めて、男の子が指さした方を見ることなく長椅子に横になった。
「え…」
何と目の前の壁の柱の上に件のリスがいるではないか!
「はは。ははははは。あーっはっは!」
俺はトコトン自分を悲劇の主人公に仕立て上げたいらしい。他人だけじゃない、自分に対しても…だな。
「じゃあな、リスちゃん」
俺は長椅子から飛び起きると、小躍りしながらエレベーターに乗り込んだ。エレベーターもそれに応えるように俺を招き入れる。
切れかけた蛍光灯の明滅に合わせて、俺はダンスした。枯れ枝の誰かを思い出しながら、静かに、それでいて情熱的に。俺の動きに蓑虫人間達が沸き立ち、ダンスホールが揺れる、揺れる。
チン、と胸躍る音がして、ダンスフロアは34階へ到達する。
俺はステップを踏みながら封鎖された35階の階段に向かう。勿論防火扉は閉じていて、豪華な意匠も何もないただの錆びれた鉄の扉だった。
「ありがとう」
彼らに心からの感謝を。このホテルがあることで、俺は今生きている。いや、俺だけじゃない。このホテルの住人は多かれ少なかれそう思っているはずだ。それくらい夜染の村とこのホテルの存在は救いだった。
でも、ここに来るのはこれが最後だ。ここにあるのは影、過去しかない。これからは前を向いて生きて行こう。
俺は32階まで一気に階段を駆け降りると、部屋へ戻るなりベッドに飛び込んだ。
「今日はよく眠れそうだ」
すぐに心地よい疲労感が体全体を包み込み、俺はゆっくりと眠りに落ちていった。
一匹のリスがロビーのエレベーターをじっと見つめている。トムが見つけたリスだ。いや、見つけさせたと言った方がいいかもしれない。
「ぴっ…ぴっ…ぴっ…」
リスはトムが居なくなるのを見計った様に、規則正しい音で鳴いた。
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