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第三章 消えない二つの過去
第6話 雪の涙
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【2006年1月27日(金)】
あの旅行から、10日が過ぎた。
ほうきを手に、美容室のエントランスへ出たチカのため息が、白く冬空に溶けていく。
薄曇りの空からは、粉雪が静かに舞い落ちていた。
それはどこか寂しげで、胸の奥のかすかな痛みに寄り添ってくるようだった。
あれ以来――チカの心は、ケンのことでいっぱいだった。
忘れようとしても、あの夜の言葉の“意味”が頭から離れない。
悲しそうな瞳、寂しげな背中。それらがまるで焼き付いたように、脳裏にこびりついている。
――“夢”と“現実”。
もしも自分の目の前に、どちらか一方しか選べないとしたら……私は、どちらを選ぶのだろう?
何度考えても、答えは出なかった。
そして、ふと浮かぶ。
ケンは、どちらを選んだのだろう?
そして、その選択は――正しかったの?
「ため息なんてついて、どうしたの?」
声に振り返ると、そこにはミサキが立っていた。
チカは少し迷ってから、ぽつりと尋ねる。
「ねぇ、ミサキはさ……もし“夢”と“現実”が目の前にあって、どちらか一つしか選べないとしたら……どっちを選ぶ?」
本当は誰にも言うつもりじゃなかった。
自分の中で答えを見つけるまでは、誰にも知られたくなかった。
けれど、気づけばその問いが口からこぼれていた。
「私は女だから、夢は選ばないかな」
ミサキはあっけらかんと言う。「結婚して子どもも欲しいし!」
その言葉を聞いて、なぜか少しだけ安心した自分がいた。
「チカは?」
「……まだ、選べてない」
そう答えた瞬間、ミサキが「あっ」と声を上げて手を打つ。
「そういえばさ、ジュンさんが言ってたケン君の“運命”って……あれ、気にならない?」
「うん……それも、すごく気になる」
「ま、悩みがあったら、いつでも聞くからさ!」
ミサキはそう言い残して、くるりと背を向け、店内へと戻っていった。
――“女だから夢は選ばない”。
ミサキの言葉が、頭の中で静かに反響する。
たしかに、いつかは結婚したい。
でも、美容師の仕事も、ずっと続けていたい。
どちらか一方を捨てるなんて、考えたくない。
ミサキにとっての“現実”は、結婚して家庭を持つこと。
じゃあ、彼女にとっての“夢”は? 美容師として働き続けること……?
だけど、子どもができたら――果たして今のように働き続けられるのだろうか?
“大切なものは、ひとつしか選べない”
――もし、それが本当なら。
私は、どちらを選ぶんだろう?
粉雪が静かに降り続くなか、チカはほうきを止めて立ち尽くした。
胸の奥に沈んだ問いの答えは、まだ遠く、見えないままだった。
「今日も一日、お疲れさまでした!」
スタッフ20名の声が店内に響き、終礼が締めくくられた。
チカはゆっくりとフロアを歩き、休憩室へ向かう。すでに中にいたミサキの正面に腰を下ろすと、辺りを見回し、タカユキの姿がないことを確かめたうえで、おずおずと口を開いた。
「ケン君って、どう思う?」
両手を机の上で組み、少し身を乗り出すように姿勢を整える。
「どうって?」
「だから……どんな人なのかなって」
言葉を繕ううちに、チカの頬はじわじわと熱を帯び、赤く染まっていく。
「わかりやすっ!」
ミサキがからかうように笑った。
「一言で言うなら“謎”かな。でも、あの旅行でひとつ思ったことがあるんだよね」
急に表情を引き締め、ミサキの目が鋭く光った。
「なに?」
チカは興味津々で、身を乗り出す。
「もしかしてさ……ケン君、女性に興味ないんじゃない?」
「えっ?」
思いも寄らない言葉に、チカは思わず息を呑んだ。
「メイクさんって多いって言うじゃん?」
「何が?」
「同性愛者ってやつ。ケン君、すっごく綺麗な顔してるしさ」
冗談なのか本気なのか――チカの胸に、不安の種が芽を出す。
「左手の小指にネイルもしてたでしょ? 普通の男ってあんまりやらないよ」
「ただのオシャレなんじゃないの?」
「どうかな。もしかして、ジュンさんと“そういう関係”だったりして」
さっきまで火照っていたチカの頬は、徐々に血の気を失っていった。
「俺が何だって?」
シザーを拭き終えたジュンが休憩室に入ってきた。
「なんでもないです! お客様の話をしてたんです!」
ミサキが裏返った声で取り繕う。
「そうそう! ジュンさんの最後のお客様、かっこよかったよねって!」
チカも必死に話を合わせた。
「そっか。でも、おかしいな」
ジュンはロッカーを開けながら、さりげなく言う。
「な、何がですか?」
チカとミサキが同時に息をのんだ。
「だって、俺の最後のお客様、女性だったけど?」
意地悪く笑ったジュンの一言に、ミサキはすぐさま席を立つ。
「さてっと! 練習しなきゃ!」
“後は任せた”と言わんばかりの視線をチカに投げながら近づき、「チカは気付かないフリしてるだけで、もう恋に落ちてるよ」と耳元で囁いたミサキは、そそくさと休憩室を出ていった。
――恋してる?
――気づかないふりしてるだけ?
――まだ何も知らない人に?
彼氏がいるのに、別の誰かに惹かれるなんて……そんなこと、あるはずがない。
そう思いながらも、出ていくタイミングを逃したチカは、ジュンと二人きりの休憩室に取り残された。
フロアではアシスタントたちが練習に励み、スタイリストたちがその様子を見守っている。だがこんなときに限って、誰一人として休憩室には入ってこない。
ミサキのあの一言――「ジュンさんと“そういう関係”だったりして」が頭を離れず、チカは変にジュンを意識してしまう。
耐えきれなくなり、チカが先に沈黙を破った。
「ひとつ、聞いてもいいですか?」
「なに?」
「夢と現実、もしどちらか一つしか選べないとしたら……どっちを選びますか?」
「……なんだ、それ?」
「ちょっと、聞いてみたくて」
「夢って言いたいところだけど、俺は現実かな」
「ジュンさんも、現実ですか」
「アシスタントの頃、“自分の店を持ちたい”って夢があった。でも、現実は甘くない。夢ばかり追いかけてると、足元の現実から目を逸らすことになる。現実があってこその夢だよ」
ジュンは足を組み替え、少し表情を緩めた。
「でも、多くの人がその現実を直視できずに生きてる。人間って、そんなに強くないからさ」
確かにそうかもしれない。
輝かしい“夢”を見せられたあとに、突きつけられる“現実”。
それを受け止める覚悟が、自分にあるだろうか――。
「それ、ケンに言われたんだろ?」
ジュンの問いで、チカは現実へ引き戻された。
「はい。過去に……何か、あったんですか?」
「本当に、知りたいか?」
その表情と声色から、ただならぬ過去があると察した。聞くには覚悟が必要なのだと、チカは瞬時に理解した。
「夢と現実の話とは別だけど――ケンに“表情”がなくなった理由なら」
チカの真剣なまなざしに促されるように、ジュンは言葉を選びながら口を開いた。
「俺も、ケンのばあちゃんから聞いた話だけどな。ケンから表情が消えたのは、たった4歳の時だったって」
チカはゆっくりと息を吸う。胸の鼓動が、次第に速くなる。
「ケンには……両親がいないんだ」
その言葉の重みが、チカの胸に深く刺さった。
まるで、何かが崩れ落ちるような衝撃だった。
* * *
ケン自身、この話を知ったのは、物心がついた頃だった。
祖母が語ってくれた――優しさと痛みが混ざり合う記憶。
ケンには、生まれたときから父親はいなかった。
いや、正確には、“いなかった”というより――ケンは、母親とその元恋人との間にできた子供だった。
父親の顔を見たこともなければ、見たいとも思わない。
母親の顔さえも、今ではもう思い出せない。
記憶も、思い出も、何ひとつとして残っていない。
……いや、正確には――たった一日だけを除いては。
17歳の母親は、元彼との別れの後に妊娠を知った。
真実を打ち明けたとき、返ってきた言葉は、たったひと言だった。
――「堕ろせ」。
悩みに悩んだ末、彼女はひとりで産み、育てる決意をしたらしい。
だが、若くして母になった彼女にとって、子育てはあまりに重すぎた。
まだ遊び足りない少女のままの母親。
ケンが2歳になった頃には、ほぼ毎晩、祖母に預けられるようになった。
そして当然のように、新しい男を作り――
帰らない夜が、日常になった。
たまに家に戻って来ても、ケンをまるで邪魔者のように扱う。
そのうち、顔を見ることすらしなくなっていった。
そんな母親に、祖母は何度も言葉を投げかけた。
泣きながら、叫ぶように問い続けた。
「ケンのこと、愛しているの?」
けれど、その問いに返ってきたのは――あまりに残酷な答えだった。
「愛せない。今は産んだことを後悔してる。あのとき、堕ろせばよかった」
それが、母親の“最期の言葉”だった。
その一言を残し、彼女は家から出ていった。
ケンは泣きながら、母親の背中を追いかけた。
ママ……
ボクをおいていかないで……
好きじゃなくてもいい。
愛してなくたっていいよ……
オモチャもいらない。
もう泣いたりしない……
いい子にするから……
だから、お願い……
ボクをひとりぼっちにしないで――。
それでも、母親は一度も振り返ることなく、冷たい雪の中へと、音もなく消えていった。
3歳半のケンを置き去りにして。
「ママ……」
凍える幼いケンの肩に、白い雪がしんしんと降り注ぐ。
その雪はまるで「泣かないで」と囁くように、ぽろぽろと零れ落ちた大粒の涙を、静かに消していった。
* * *
「その日から、ケンは笑顔も涙も、消したんだ」
チカは、視線をそっと伏せた。
涙が流れていることが、バレないように。
けれど、その涙は、止めようもなく頬を伝い続けた。
感情のままに、ただ流れる――理由もない、意味もない、だけど確かな涙。
何かを言いたくても、言葉が見つからない。
非現実的とも思えるその過去。
でも、彼の心から表情が消えた理由が、少しだけ、わかった気がした。
まだ幼かった彼には、あまりにも過酷な現実。
押し寄せる孤独。
容赦ない痛み。
きっと彼は、ずっと、心の中で見えない雪に打たれていた。
冷たい風に晒されながらも、ただ黙って耐えてきたのだろう。
泣くことも、笑うこともできずに――。
あの悲しい瞳も、寂しく切ない背中も、すべてはそのせいだったの?
だから、すべてを心の奥に閉じ込めてしまったの?
そうだとしたら、私は願わずにはいられない。
あなたから笑顔も涙も奪った、その過去を消すことはできない。
けれど――
そんなあなたが、これからもずっと一人ぼっちでいていいはずがない。
あなたが過去に流した、たくさんの悲しい涙。
そのすべてが、これからは幸せに変わって返ってきますように――。
なぜ、ジュンさんは私にこの話をしてくれたのだろう。
きっと、彼自身、自分の口から語るべきことではないと分かっていたはず。
それでも、話してくれた。
……まるで、何かを私に託したかのように。
そう思えてならなかった。
あの旅行から、10日が過ぎた。
ほうきを手に、美容室のエントランスへ出たチカのため息が、白く冬空に溶けていく。
薄曇りの空からは、粉雪が静かに舞い落ちていた。
それはどこか寂しげで、胸の奥のかすかな痛みに寄り添ってくるようだった。
あれ以来――チカの心は、ケンのことでいっぱいだった。
忘れようとしても、あの夜の言葉の“意味”が頭から離れない。
悲しそうな瞳、寂しげな背中。それらがまるで焼き付いたように、脳裏にこびりついている。
――“夢”と“現実”。
もしも自分の目の前に、どちらか一方しか選べないとしたら……私は、どちらを選ぶのだろう?
何度考えても、答えは出なかった。
そして、ふと浮かぶ。
ケンは、どちらを選んだのだろう?
そして、その選択は――正しかったの?
「ため息なんてついて、どうしたの?」
声に振り返ると、そこにはミサキが立っていた。
チカは少し迷ってから、ぽつりと尋ねる。
「ねぇ、ミサキはさ……もし“夢”と“現実”が目の前にあって、どちらか一つしか選べないとしたら……どっちを選ぶ?」
本当は誰にも言うつもりじゃなかった。
自分の中で答えを見つけるまでは、誰にも知られたくなかった。
けれど、気づけばその問いが口からこぼれていた。
「私は女だから、夢は選ばないかな」
ミサキはあっけらかんと言う。「結婚して子どもも欲しいし!」
その言葉を聞いて、なぜか少しだけ安心した自分がいた。
「チカは?」
「……まだ、選べてない」
そう答えた瞬間、ミサキが「あっ」と声を上げて手を打つ。
「そういえばさ、ジュンさんが言ってたケン君の“運命”って……あれ、気にならない?」
「うん……それも、すごく気になる」
「ま、悩みがあったら、いつでも聞くからさ!」
ミサキはそう言い残して、くるりと背を向け、店内へと戻っていった。
――“女だから夢は選ばない”。
ミサキの言葉が、頭の中で静かに反響する。
たしかに、いつかは結婚したい。
でも、美容師の仕事も、ずっと続けていたい。
どちらか一方を捨てるなんて、考えたくない。
ミサキにとっての“現実”は、結婚して家庭を持つこと。
じゃあ、彼女にとっての“夢”は? 美容師として働き続けること……?
だけど、子どもができたら――果たして今のように働き続けられるのだろうか?
“大切なものは、ひとつしか選べない”
――もし、それが本当なら。
私は、どちらを選ぶんだろう?
粉雪が静かに降り続くなか、チカはほうきを止めて立ち尽くした。
胸の奥に沈んだ問いの答えは、まだ遠く、見えないままだった。
「今日も一日、お疲れさまでした!」
スタッフ20名の声が店内に響き、終礼が締めくくられた。
チカはゆっくりとフロアを歩き、休憩室へ向かう。すでに中にいたミサキの正面に腰を下ろすと、辺りを見回し、タカユキの姿がないことを確かめたうえで、おずおずと口を開いた。
「ケン君って、どう思う?」
両手を机の上で組み、少し身を乗り出すように姿勢を整える。
「どうって?」
「だから……どんな人なのかなって」
言葉を繕ううちに、チカの頬はじわじわと熱を帯び、赤く染まっていく。
「わかりやすっ!」
ミサキがからかうように笑った。
「一言で言うなら“謎”かな。でも、あの旅行でひとつ思ったことがあるんだよね」
急に表情を引き締め、ミサキの目が鋭く光った。
「なに?」
チカは興味津々で、身を乗り出す。
「もしかしてさ……ケン君、女性に興味ないんじゃない?」
「えっ?」
思いも寄らない言葉に、チカは思わず息を呑んだ。
「メイクさんって多いって言うじゃん?」
「何が?」
「同性愛者ってやつ。ケン君、すっごく綺麗な顔してるしさ」
冗談なのか本気なのか――チカの胸に、不安の種が芽を出す。
「左手の小指にネイルもしてたでしょ? 普通の男ってあんまりやらないよ」
「ただのオシャレなんじゃないの?」
「どうかな。もしかして、ジュンさんと“そういう関係”だったりして」
さっきまで火照っていたチカの頬は、徐々に血の気を失っていった。
「俺が何だって?」
シザーを拭き終えたジュンが休憩室に入ってきた。
「なんでもないです! お客様の話をしてたんです!」
ミサキが裏返った声で取り繕う。
「そうそう! ジュンさんの最後のお客様、かっこよかったよねって!」
チカも必死に話を合わせた。
「そっか。でも、おかしいな」
ジュンはロッカーを開けながら、さりげなく言う。
「な、何がですか?」
チカとミサキが同時に息をのんだ。
「だって、俺の最後のお客様、女性だったけど?」
意地悪く笑ったジュンの一言に、ミサキはすぐさま席を立つ。
「さてっと! 練習しなきゃ!」
“後は任せた”と言わんばかりの視線をチカに投げながら近づき、「チカは気付かないフリしてるだけで、もう恋に落ちてるよ」と耳元で囁いたミサキは、そそくさと休憩室を出ていった。
――恋してる?
――気づかないふりしてるだけ?
――まだ何も知らない人に?
彼氏がいるのに、別の誰かに惹かれるなんて……そんなこと、あるはずがない。
そう思いながらも、出ていくタイミングを逃したチカは、ジュンと二人きりの休憩室に取り残された。
フロアではアシスタントたちが練習に励み、スタイリストたちがその様子を見守っている。だがこんなときに限って、誰一人として休憩室には入ってこない。
ミサキのあの一言――「ジュンさんと“そういう関係”だったりして」が頭を離れず、チカは変にジュンを意識してしまう。
耐えきれなくなり、チカが先に沈黙を破った。
「ひとつ、聞いてもいいですか?」
「なに?」
「夢と現実、もしどちらか一つしか選べないとしたら……どっちを選びますか?」
「……なんだ、それ?」
「ちょっと、聞いてみたくて」
「夢って言いたいところだけど、俺は現実かな」
「ジュンさんも、現実ですか」
「アシスタントの頃、“自分の店を持ちたい”って夢があった。でも、現実は甘くない。夢ばかり追いかけてると、足元の現実から目を逸らすことになる。現実があってこその夢だよ」
ジュンは足を組み替え、少し表情を緩めた。
「でも、多くの人がその現実を直視できずに生きてる。人間って、そんなに強くないからさ」
確かにそうかもしれない。
輝かしい“夢”を見せられたあとに、突きつけられる“現実”。
それを受け止める覚悟が、自分にあるだろうか――。
「それ、ケンに言われたんだろ?」
ジュンの問いで、チカは現実へ引き戻された。
「はい。過去に……何か、あったんですか?」
「本当に、知りたいか?」
その表情と声色から、ただならぬ過去があると察した。聞くには覚悟が必要なのだと、チカは瞬時に理解した。
「夢と現実の話とは別だけど――ケンに“表情”がなくなった理由なら」
チカの真剣なまなざしに促されるように、ジュンは言葉を選びながら口を開いた。
「俺も、ケンのばあちゃんから聞いた話だけどな。ケンから表情が消えたのは、たった4歳の時だったって」
チカはゆっくりと息を吸う。胸の鼓動が、次第に速くなる。
「ケンには……両親がいないんだ」
その言葉の重みが、チカの胸に深く刺さった。
まるで、何かが崩れ落ちるような衝撃だった。
* * *
ケン自身、この話を知ったのは、物心がついた頃だった。
祖母が語ってくれた――優しさと痛みが混ざり合う記憶。
ケンには、生まれたときから父親はいなかった。
いや、正確には、“いなかった”というより――ケンは、母親とその元恋人との間にできた子供だった。
父親の顔を見たこともなければ、見たいとも思わない。
母親の顔さえも、今ではもう思い出せない。
記憶も、思い出も、何ひとつとして残っていない。
……いや、正確には――たった一日だけを除いては。
17歳の母親は、元彼との別れの後に妊娠を知った。
真実を打ち明けたとき、返ってきた言葉は、たったひと言だった。
――「堕ろせ」。
悩みに悩んだ末、彼女はひとりで産み、育てる決意をしたらしい。
だが、若くして母になった彼女にとって、子育てはあまりに重すぎた。
まだ遊び足りない少女のままの母親。
ケンが2歳になった頃には、ほぼ毎晩、祖母に預けられるようになった。
そして当然のように、新しい男を作り――
帰らない夜が、日常になった。
たまに家に戻って来ても、ケンをまるで邪魔者のように扱う。
そのうち、顔を見ることすらしなくなっていった。
そんな母親に、祖母は何度も言葉を投げかけた。
泣きながら、叫ぶように問い続けた。
「ケンのこと、愛しているの?」
けれど、その問いに返ってきたのは――あまりに残酷な答えだった。
「愛せない。今は産んだことを後悔してる。あのとき、堕ろせばよかった」
それが、母親の“最期の言葉”だった。
その一言を残し、彼女は家から出ていった。
ケンは泣きながら、母親の背中を追いかけた。
ママ……
ボクをおいていかないで……
好きじゃなくてもいい。
愛してなくたっていいよ……
オモチャもいらない。
もう泣いたりしない……
いい子にするから……
だから、お願い……
ボクをひとりぼっちにしないで――。
それでも、母親は一度も振り返ることなく、冷たい雪の中へと、音もなく消えていった。
3歳半のケンを置き去りにして。
「ママ……」
凍える幼いケンの肩に、白い雪がしんしんと降り注ぐ。
その雪はまるで「泣かないで」と囁くように、ぽろぽろと零れ落ちた大粒の涙を、静かに消していった。
* * *
「その日から、ケンは笑顔も涙も、消したんだ」
チカは、視線をそっと伏せた。
涙が流れていることが、バレないように。
けれど、その涙は、止めようもなく頬を伝い続けた。
感情のままに、ただ流れる――理由もない、意味もない、だけど確かな涙。
何かを言いたくても、言葉が見つからない。
非現実的とも思えるその過去。
でも、彼の心から表情が消えた理由が、少しだけ、わかった気がした。
まだ幼かった彼には、あまりにも過酷な現実。
押し寄せる孤独。
容赦ない痛み。
きっと彼は、ずっと、心の中で見えない雪に打たれていた。
冷たい風に晒されながらも、ただ黙って耐えてきたのだろう。
泣くことも、笑うこともできずに――。
あの悲しい瞳も、寂しく切ない背中も、すべてはそのせいだったの?
だから、すべてを心の奥に閉じ込めてしまったの?
そうだとしたら、私は願わずにはいられない。
あなたから笑顔も涙も奪った、その過去を消すことはできない。
けれど――
そんなあなたが、これからもずっと一人ぼっちでいていいはずがない。
あなたが過去に流した、たくさんの悲しい涙。
そのすべてが、これからは幸せに変わって返ってきますように――。
なぜ、ジュンさんは私にこの話をしてくれたのだろう。
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