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第2話:さざなみの玉椿⑨

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 頭中将とうのちゅうじょうが見込んだ通り、紫苑は有益な情報を二つばかり仕入れて戻ってきた。
「僕、鳥辺野とりべのまで行ったんですからね!」
 庭に控えるやいなや、真っ先に台盤所だいばんどころの管理を任せている者に塩をまいてもらったのだと頬を膨らませた家礼けらいを、「よくやってくれた」と殊更大仰おおぎょうに労ってやると、誇らしげに薄い胸板を張る。可愛らしいものだと心中で笑いを噛み殺しながら、頭中将は報告を促した。
 紫苑は姿勢を正し、主に向き直る。
 頭中将から、事件現場に遺された手足の出所を探るよう命を受けた紫苑は、まず考えた。屋敷に出入りする商売人や、実家近辺での世間話にも、遺体が盗まれたとかその手足が切り取られた、或いは墓地が掘り返されたなどといった、薄気味悪い噂は出回っていない。幸いにも疫病が蔓延している時期ではなし、野犬が行き倒れた人の腕を咥えて走り回っているような、悲惨な光景を目にすることもない折だ。人目に付かず、死んだ人間の手足を入手できるような場所は一つしかない。
 紫苑は渋々、みやこから程近い葬送地である鳥辺野へ出向いてみた。身分の高い人々が荼毘だびに付される墓所であると同時に、庶民は土へと還るだけの風葬の地でもある。そこで紫苑は、葬地を管理する観音寺の下男と知己ちきを得た。見事「ここ最近、不自然に手足の切り取られたような遺体が増えたらしい」との情報を引き出せたのは、持ち前の人懐っこさの賜物である。もちろん、主の指導を容れて、上等な絹の着物をちらつかせながら「さる御方がお調べになっているので」と耳打ちしたことも、無縁ではあるまい。
 当然のことながら、手足を切り取られたのは、野晒しの庶民の遺体だ。鳥につつかれ、風雨に晒されながら、ゆっくりと腐敗していくはずの身体から、突然腕や足のみがきれいさっぱり消えてなくなっていれば、普通ならば人目に付く。しかし葬送地であれば、場所柄一般人が頻繁に出入りすることはないし、寺の関係者が気付かなければ、それで終わりだ――生きている間に失ったものだろうということで片が付いてしまう。頭中将ら京の貴族や上位の役人の耳に入っていないのも仕方のないことであり、もしもこれが一連の事件の犯人達の仕業なら、なかなかうまい手を考えたものだと言わざるを得ない。
 とはいえ、下男が遺体損壊についての情報を得ているくらいなのだから、このまま犯行を続けていれば、観音寺の方から然るべき報告が上がるのも時間の問題だろう。手口は似通っているのだし、人によっては河原院かわらいんどころかえんの松原事件と結び付ける者が現れてもおかしくはない。
 というのも、どうやら遺体損壊とみられる事件は、一年ほど前にも行われたような形跡があったらしい。寺の者がおかしいと思い始めた頃にぷつりと途絶え、以来しばらくは収まっていたのだが、一年前と言えば、ちょうど宴の松原事件の頃のことだ。事件そのものは一回きりとはいえ、一人の遺体から四肢のすべてを持ち去れば、当然寺の者に見付かる確率も高くなる。日をおいて、人目に付きにくい場所に置かれた遺体から部分ごとにいただいたというのも、考えられない話ではない。当時の検非違使けびいしの「女の手足にしては筋肉質すぎる」という証言も、犯人の側に死人とはいえ人体を損壊することに抵抗があり、切り落としやすそうに見えれば性別までは構っていられなかったために起こった混在である、との推測も成り立ちそうだ。
 そして、一時は終息したかに思われた遺体の欠損は、このふた月前後で再び頻発し始めた。基本的に標的は女性だというから、一年の時を経て、犯人は冷静に、目立ちにくい場所に置かれた女性の遺体のみを選別できるだけの余裕を身に着けたのかもしれない。
 下男の話は、どれも主の推測を裏付けるものばかりで興味深かったが、紫苑が何より重視したのは、着物を受け取り、一層口の滑りの良くなった男が日々の愚痴混じりに語った、ある遺体についての話だ。
 風葬地には、ごく稀に、腐乱せず木乃伊ミイラ化する遺体もあるという。どういった作用が働くものかはわからないが、これが数か月前に置かれた女性の遺体にたまたま起こり、そしてその後忽然と消えた。日々打ち捨てられていく庶民の遺体まで僧侶達は関知しておらず、恐らくは自分以外に気付いた者はいないだろう、と。
「正確な日時はわからなくても、ちょうど子供が生まれた頃のことなので、時期ははっきり覚えてるそうです――秋の入りぐらいといえば、河原院で最初の事件が起こる直前ですよね!」
「でかした」
 褒めてくださいと言わんばかりに大きな瞳を輝かせる紫苑に、頭中将もまた率直に賛辞を述べた。これはまた、想像以上の働きだ。鳥辺野で遺体の手足を切り取る遺体損壊が頻発している。これを河原院と結び付けるまでは推測通りだったが、肝心の事件自体、現場に遺されるものにバラつきがあった。薔薇そうびの花は置いておくとしても、第一の事件では「血を吸い尽くされた遺体」が丸ごと鴨居に吊るされていたのに対して、第二の事件以降は「切り取られた手足のみ」になっている。これはどちらかというと、宴の松原事件の手口に近い。その宴の松原事件は、およそ一年前のことになる。その頃に一度遺体損壊が続き、しばらく止んでいたところへ木乃伊化遺体の消失、そして再びの遺体損壊――二つの事件の時系列にぴたりと寄り添う流れは、そのまま同一犯の犯行であるとの、しっかりとした裏付けになるだろう。
 ああ、そうだ。木乃伊化した遺体など、風葬地であっても容易く見付かるものではない。
 おそらく犯人は、宴の松原事件との差別化を図る目的で、河原院事件では「全身の血を吸い尽くされた遺体」を用意した。それが捜査の目を眩ませるためなのかはわからない。だが、二度目からは入手が叶わず、やむなく宴の松原と同様の手段を取らざるを得なかったのだろう。運搬上の労苦という問題も考えられる。
 いずれにせよ、紫苑は頭中将の期待に見事応えてみせた。
「やはりお前は、私が見込んだ通りの男だ」
 捜査の成果と、己の見る目の確かさの両方に、頭中将はいたく満足した。「褒美を取らせねばなるまいな」とあどけなさを残す顔を覗き込むと、紫苑は無邪気に照れて見せる。功績が認められ、褒められたのが嬉しいのと、もしかしたら、一人前の男扱いして貰えたことも、喜びに拍車をかけているのかもしれない。
 彼が抱えた家族も含め、あれやこれやと甘やかす算段を頭中将が付け始めたところで、紫苑が思い出したように、ハッと瞳を見開いた。
「そ、それと、あのぅ……」
 珍しい歯切れの悪さに、頭中将も長い睫毛を瞬かせる。他にも何か情報を入手したのなら、何を言い澱むことがあろう。「お前らしくもない」と僅かに眉を顰めて、頭中将は諭した。
「いつも通り、言いたいように言えばよいではないか」
 紫苑はこれに、「僕って普段そんな感じなんですか」と表情を強張らせたが、主に叱責の意図のなさそうなことも理解できたらしく、やや複雑そうな表情を浮かべたまま、「これは、本当にただの噂話って感じなんですけど……」と続ける。
椿つばきさんの所の田楽でんがく一座に、幽霊話が持ち上がっているみたいです」
「――幽霊だと?」
 繰り返したのはほとんど無意識だった。思いも掛けないところでもたらされた愛人の名に、妙な胸騒ぎを覚える。
 紫苑の話によれば、夜半に精気のない様子の女が、一座の小屋の付近でスッと姿を消すのを見たという証言が、複数人から上がっているらしい。まだ騒ぎになるというほどではなく、紫苑もたまたま妹が近所の噂話として仕入れてきたものを聞かされただけなのだが、敢えて「女」と断定されていることが気に掛かり、念のためと現地へ赴いた。話を聞けた近隣住民のうち、大半はこの幽霊話を知らなかったが、「確かにこの目で見た」と豪語する一人の曰く、「勇気を出して声を掛けてみたが反応はなく、そのうちスウッと暗闇に掻き消えてしまった」とのことだ。これが時期的に、河原院で母と娘の二人がいちどきに浚われた、第三の事件の起こる前後であったらしい。
 紫苑が命じられた以上の調査をする気になったのは、主の頭中将が執心しているらしい椿の属する一座の話であったためだが、この場で彼女の名前を挙げてこれ以上の興味を煽ることと、ただもう単純に幽霊騒ぎの調査を新たに任じられることが嫌で、言い出しづらかったのだという。
「なんと……」
 椿との関係という点では、残念ながら既に徒労に終わっている紫苑の懸念には触れず、頭中将は重たい息を吐き出した。いくら聡明で先進的な思考力を備えているとはいっても、頭中将もこの時代の人間であり、超自然的存在を否定できるだけの根拠までは持っていない。椿がおかしな事態に巻き込まれているなら助けてやりたいし、万が一にも河原院事件と関わりがあるようなら、これもまた解明しなければならない問題ということになってくる。頭中将の失脚は、そのまま藤原家そのものの没落をも意味するのだから。
「紫苑、お前は一座を見張れ」
「ええっ、幽霊かもしれないのに!」
 改めて命を下した頭中将に、紫苑は肩を揺らして悲鳴を上げた。歪められた表情には、思わず憐れを催さずにはいられないほどの絶望が貼り付いている。
 幽霊話に怯えるとは、歳相応に子供らしいところもあるものだと微笑ましく感じながらも、頭中将は主として諭した。「おかしな固定観念を自分に植え付けるな」と。
「時期や女性の行方不明という点から、一連の事件に関係があるならば、これは人為的なもの。魑魅魍魎の類いであるはずがない」
 幽霊の正体はともかく、紫苑もこの目撃情報がこれまでの事件と関わりがあるのではないかという点においては、主と同意見であったらしい。少しだけ前向きになったのか、恐々といった様子で、上目遣いに頭中将を見上げてくる。
「関係がなかったら……?」
「……坊主でも陰陽師でも、好きな者を呼んでやる」
 言い切った頭中将に、紫苑は両目を硬く閉じて天を仰いだ。どんな葛藤があったものか、ややあって、観念したように息を吐き出す。
 わかりましたと応える声は、諦観に彩られていた。
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