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3 覚悟
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何かを成し遂げたい時、まずは簡単にクリアできる試練を自分に課してみるといいと、どこかで聞いたが、ありふれた言葉になったせいで今では擦り切れて聞こえる。
月曜日の午前。パソコンを立ち上げたオギーは、社員達が映る画面を見つめていた。気分を落ち着かせるためにいつものニット帽を被ると、表情を引き締めた。しかし会議が始まって数十分後、画面の真ん中に陣取っていたボスが怪訝な顔をした。
「なぁ、オギー。具合でも悪いのか?」
「いいえ、ボス。どうしてです?」
「顔が引き攣ってるぞ」
上司は相変わらずカメラとの距離が近すぎ、首回りのマフラーのような贅肉がよく見える。彼はグロテスクなものを見るかのような目でこちらを見ていた。ボスの言葉で、他の社員も視線もこちらに集まった――それぞれの視線は別の方向を見ていたが。
オギーは、無理矢理引き上げた口の両端が震え始めるのを感じた。
「いいえ、ボス。笑ってるんです」
「今すぐやめろ。気味が悪い」
「俺に笑顔が足りないとか言ったのはボスですよ」カメラの死角にある膝が揺れ始め、その上で固く握った拳が震え出す。顎にも徐々に力が入り、オギーは半ば歯を食いしばりながら話していた。「精一杯やっているんですが」
「なら新しい助言をやろう。職場の雰囲気を良好に保つためだ。その顔をやめろ」
「わかりました、ボス」
「大体お前はな――」
前科者のオギーは苦労して就職したが、そんな苦労も、社員達の経歴を把握している上司の前では無意味なものに思えた。彼は自分の威厳のためにも、保身のためにも、狂犬を飼い慣らしておきたかったらしい。圧力をかけ、細かい指摘をねちねちと繰り返す。もしその犬が刃向かって問題を起こしても、その後ろには再逮捕という深淵が待っているだけだからだ。
「ちょっと、エミリ! マイク! 二人とも勝手なことしないで!」
突然叫び声が耳をつんざき、オギーは驚いて笑顔を崩した。画面を見ると、女性社員が一人、慌ててマイクをオフにしていた。彼女は怒りに塗れた横顔をこちらに見せ、画面外のどこかに向かって怒鳴っていた。原因は子ども達だろう。四歳くらいの男の子と女の子が時折、画面の後ろにちらちら登場するのを見たことがある。
上司は彼女の叫びを無視し、オギーに新たな助言をのたまうことに夢中だった。
オギーはテンポの合わない頷きを繰り返しつつ、視線を動かして、画面端に表示された時刻を確認する。すでに午後十二時を過ぎていた。子ども達が騒ぐのも無理はない。
「教育係のジョシュに頼んで、もう一度笑顔の研修を受けてこい」
「別にその必要は――」
「あぁ、もうこんな時間だ。さぁ、皆、一旦休憩しよう。一時間後にまた」
最初に会議を退室したのは上司だったことに、オギーは心底ほっとした。強張った身体が爆発する前に画面端の「退室」のボタンをクリックし、溜息をつきながら手で顔を撫でて俯く。やがて顔を上げた時、暗くなった画面に映る自分の顔を見てぞっとする。
「あんたの言う通りだよ」
ひどい顔だった。この顔は笑顔を作るには適していない。笑顔を作るための筋肉が存在していないのかも、とオギーは思った。痛む口元を揉んでいると、ふいにスマホが鳴った。
「何だよ、ジョシュ」
『泣く子も黙る笑顔の持ち主に、事情を聞きたくてな。何があったんだ?』
「たいした理由はない」
オギーはジョシュの、歯磨き粉のコマーシャルに抜擢されそうな白い歯列を思い出す。こんな職場にはもったいない、完璧な存在だった。しかしジョシュがオギーの過去を知っているのと同様に、オギーもまた彼の内情を知っていた。
『何か話があるなら聞くぜ。なんなら前みたいに、一緒にごみ置き場で暴れてもいい』
「もうあそこにはしばらく行っていない。今後も行くつもりはない」
『何だって?』ジョシュは素っ頓狂な声を上げた。『ほんとにどうしちまったんだよ!』
仲間を失ったジョシュ、ルックスの良さから勝手に完璧な存在という座を押しつけられたジョシュ、そのストレスから、郊外にあるごみ置き場で大暴れすることを人生の喜びにしたジョシュ、彼の焦った息遣いが聞こえる。
『きっと限界が来るぞ』ジョシュは低い声で言った。『実の父親を半殺しにして逮捕されたお前じゃ、三日も持たないだろうね』
「……言ってろよ」
『会社でお前を見かけた時、俺はすぐにわかったぜ。どうしようもないもんを抱えてるってな。だからあのゴミ捨て場を紹介したんだ。真夜中に忍び込んで暴れてさ、あの時のお前は生き生きしてたぜ』
「黙れって」頭が熱く重たい。血が上ってきているのがわかる。
『そこで話してくれたよな。通報者は母親で、そのせいでお前は逮捕されてムショ暮らし。暴力を振るう父親から守ってやったのに、こんな仕打ちあんまりだよなぁ。その後で裁判所から、講習へ行くように命令されたんだ』
嘘や噂より、事実を言い当てられる方がよっぽど腹立たしい。もう意味を持つ言葉を発するのも辛くなってきたが、オギーは自身に言い聞かせる。俺は怒らない。上司やジョシュと違って、自分は怪物をコントロールできる。コントロールしなくてはならない。
貧乏揺すりを繰り返す足が、床の板をきりきりと小さく鳴らしていた。
『お前はまともにはなれないさ。だから、それなりに生きていくしかないんだよ』
「……もう切るぞ。せっかくの休憩時間だ。二度とかけてくるな」
スマホの電源を切り、沈黙したパソコンの隣に置く。長い溜息をつく。ふと一人の時間が訪れた途端、腹の底で煮える怒りが浮き彫りになる。他に何か考えることを探さなければと、オギーは焦る。取り敢えずデスクから離れた。新しいものを買う金はない。
キッチンへ移動して水を飲んだ時、ふと、部屋の隅の作りかけの椅子に目が行った。水は口から喉、食道を通って胃の中へと落ちたが、怒りの熱はもっと身体の奥深くにある。そもそも水道水で治まるほどの熱ではない。
「だめだ。だめだ。あいつの言いなりになるつもりか」
椅子から視線を逸らし、目をぎゅっと閉じたが、そのせいでより心の声が大きく聞こえる。壊しちまえ、壊れたらまた直せばいいじゃないか。修理は好きだし、怒りも発散できる。一石二鳥だろう。午前中まであんたはよくやったよ、さぁ、ぶっ壊せ、我慢は苦しいだろう? 元より、不格好な椅子だったんだ。
「あぁ、くそ!」
オギーは椅子に近づき、背もたれを掴むと床に思い切り叩きつけた。破裂音にも似た音が部屋中に響き渡り、脚の一部が吹っ飛んで床をからからと転がった。一度噴火した怒りはしばらく治まらず、今度は足を高く上げて壊れた椅子を踏みつける。ばきんと音がし、木片が飛び散って、割れた木の断面から独特な匂いが漂ってきた。
「おい、うっせぇぞ! 何してるんだ!」
突然、壁の向こうから中年男の怒号が飛び込んできた。オギーは一瞬はっとなったが、身体の中に住む怪物は、他人の怒りすら自らのエネルギーに変える。
オギーは無言で、壁に額を叩きつけた。
それが隣人への威嚇だったのか、自身の怪物を黙らせるためだったのかはわからない。ニット帽は脱げて床に落ち、オギーは痛みと眩暈で床に座り込んだ。目の前がちかちかし、フラッシュバックの兆候を見た。
「はぁ、はぁ、くそ、だめだ、しっかりしろ」
過去の亡霊を払うため、オギーは目を閉じた。何か考えなければ。怒りから最も遠いものを! ――そして、咄嗟にフィルのことを思い浮かべた。金魚を愛でる美しい笑顔の男。明るさの中に妖艶さも持ち合わせる男。オギーはその幻影にしがみつきつつ、震える手でズボンのポケットから煙草を取り出す。すぐさま咥え、目を開けて火をつけるとまた目を閉じる。煙を大きく吸って吐き出した。
すると、驚くほどに気分が楽になった。
恐る恐る目を開けて壁掛け時計を見ると、休憩時間は残り十分になっていた。
ぐらぐらと煮える鍋の前で、鼻唄を歌っていたフィルははっと我に返った。見ると鍋の中はパスタだらけで、白く濁っていたはずの湯が黄色っぽいパスタのせいで見えない。湯が鍋から噴き出して、ステンレスの側面を濡らしていた。
「あああ、やっちゃった!」
フィルは慌てて火を止め、溜息をついた。もう何十分も鍋の前にいたらしく、セーターの下はしっとりと汗をかいているし、鼻唄を歌い続けていた鼻はむずむずする。鍋の中のパスタは揺らめきながら底へと沈んでいき、重なり合って動かなくなった。
「張り切ると大量に作っちゃう癖、やっぱり抜けてなかったかぁ」
フィルは自嘲気味に笑った。
「彼との約束は土曜日のはずなのにさ」
呟いた時、唇からさっと笑みが消えた。自分は張り切っている? 誰のために? 彼のためにだ。ネッドのために作る時はこんなことはなかったのに。そもそもネッドは偏食で、自分が作った料理を全て食べることはなかった。目の前で捨てられたことだってある。
フィルは急に落ち着かなくなって、狭いキッチン内をぐるぐると歩き回り始めた。
「オギーはただのお向かいさんで、つい最近知り合ったばかりの友達」
年齢差は二十以上、ゲイかストレートかはまだ審議中。年齢の割に大人っぽく見えるし対応もそれっぽいけど、きっと若い故に不器用で一生懸命で……。
「ちょっと待って、ちょっと待って。ゲイかどうかは問題じゃないよ」
フィルは額に手をやって立ち止まった。妄想の快い余韻と、戸惑いの不快さが入り混じって目が回りそうになる。苦労して頭の中を整理し、やがて導き出された真実を思い切って口に出してみた。
「四十八のおじさんが、二十五の男性に恋してるってこと?」
または、彼に救いを見出しているのかも。
「そっちだよ、きっと」
フィルは急いでキッチンを離れ、スマホを置いている寝室へと歩いて行った。窓際の透明なボウルの中で、ドクターがゆったりと泳いでいた。ワイングラスよりは広い部屋をもらえて、ようやく機嫌を直したように見える。
ベッド横のテーブルからスマホを取り上げ、電話をかけた。数回のコールの後、こちらがまだ何も言っていないのに、すでに深刻そうな声が聞こえてきた。
『フィオナ? どうしたの? 何かあったの?』
「あった。大変なことになった」
フィルはサーシャに、オギーとの出会いについて簡潔に話した。ただ、自分が彼のことをどう思っているのかは伏せた。まだわからないし、期待のしすぎは良くない。
「彼とは友達でいたい。いい人そうだし、一緒にいると何だか楽しいし。だけど――」
『ネッドのことに巻き込みたくないってわけね』サーシャの口調は重々しかった。『オギーって子とあんたが一緒にいると知ったら、彼、何をしでかすかわからないわよ』
「わかってる。だから決めたよ……彼とは別れる」
そう言った時、その言葉を吐いたことを後悔するかのように唇が震えた。同時に胸の奥がざわついて冷たくなり、フィルはそれを抑えるため、一度深呼吸をしなければならなかった。唇を舌で舐めた後、改めてはっきりと口にする。
「ちゃんと別れる」
『あぁ、よかった! そう言ってくれる時を待ってたのよ! さっそく警察に――』
「彼は警官だから、下手なことはできない」
『そうだったわ……ちくしょう!』彼女がテーブルか壁かとにかく、どこかを叩く音が聞こえてきた。『何が警官よ! あんなの、毛皮の代わりに制服を着たケダモノじゃない! ショーパブの仕事だって、あいつが無理矢理やめさせたんでしょ。経済的な支配のために!』
「でも最初は単に、自分の恋人をそういう場所にいさせるのが嫌だったと思う」
フィルはそう言い、ほとんど無意識に、補聴器の詰まった耳を触った。「できれば話し合いで終わらせたい。別れて欲しいだけで、彼をこてんぱんにしたいとは思ってないから」
『あぁ、フィオナ! フィオナ!』
その甲高い声音から、彼女が目をぐるりと回している様子が想像できた。
『あんたの悪いところよ! 優しいのはいいけど、今回は相手を選びなさい!』
「彼だって普通の状態じゃないんだよ」DVという単語をネットで検索したのは、一度だけではない。様々な記事を読みあさったフィルは、加害者側もまた問題を抱えていることを知っていた。「納得させていないまま突き放したら、それこそ彼がどんな行動を取るか」
『じゃあ、こう考えなさい』サーシャは有無を言わさぬ口調で言った。『今回の件で彼に裁きを下すことは、彼に更正のチャンスを与えることと同じだって』
「でも――」
『フィル』
「わかった」
この関係が自然消滅してくれたらどんなにいいか……フィルは一旦、その希望を頭から閉め出した。今はとにかく現実的にならなくてはならない。
「じゃあ、これからどうすればいい?」
『リックって覚えてる? あたしの知り合いの弁護士。彼曰く、とにかく証拠が必要だそうよ。誰もが納得できるような証拠をね。一番いいのは、警察に相談した経歴があることなんだけど……』
「それはわかってる」
フィルはスマホを耳に当て、こめかみに手を当てた。心臓がどきどきして落ち着かない。今度は寝室をぐるぐると歩き回った。決死の覚悟、痛みは承知の上。秘密裏にことを終わらせる――何だかかなり非日常で、自分の手に負えるような問題に思えなくなってきた。
『録音とか、録画も証拠の一つとして使えると思うの』
「え? 何?」ただでさえ不調な耳がさらに機能しなくなっている。
『だから録音とか、録画だって……あんた、小型のカメラなんか持ってる?』
サーシャは躊躇うような声で計画を話した。この部屋のどこかにカメラや録音機を仕掛け、そこにネッドの暴行している姿や音声を記録するというもの。
彼女の声音とは裏腹に、フィルは目の前の霧が晴れたような気分になった。
「それは名案だ! でもカメラはスマホ一台だけだから、これから買い足さないと――」
『フィオナ、あんた馬鹿?』サーシャは声を荒げた。『これ、あんたがもう一度ネッドから暴力を受けなきゃならないってことなのよ! しかもカメラの前で!』
「カメラ前でのパフォーマンスなら慣れてる。それがフェイクでも、リアルでも」
『ねぇ、ショーパブじゃないのよ……』サーシャの深い溜息が聞こえてくる。しかしややあって、彼女は真剣な口調に戻って尋ねてきた。『覚悟はあるようね』
「やらないといけない」
フィルは寝室を横切り、窓辺に立って向かいのアパートを眺めた。彼を巻き込むわけにはいかない。彼の理想を壊さないためにも、嫌われないためにも。
『ところで、とうとうあんたに決断をさせるなんて、オギーって子はそんなに素敵なの?』
「感じのいい人だよ。土曜日、彼とこっちでディナーの約束をしてる」
『あらあら。あんたは張り切ると作り過ぎちゃうんだから、それだけ気をつけなさいよね』
フィルはさっきのことを思い出し、ぷっと吹き出した。発作のような笑いの合間にそのことを告白し、やがてサーシャと二人で笑い合った。少ししてからサーシャは言う。
『とにかく、あんたが良い方向へ向かってくれて嬉しいわ。何かあったら、絶対に連絡を寄越してちょうだい。きっと力になるから』
「ありがとう、サーシャ」
『ふふ、オギーと出会ってから、日常が一変したんじゃないかしら?』
「映画やドラマみたいな変化はないよ」
オギーの部屋の窓を見ると、仕事中だろうか、窓もブラインドも閉まっていた。フィルはリビングに戻ると、パソコンを置いたデスクに着く。
「ただ、いつもと違う一日があっただけ。それだけだよ」
一週間が経ち、とうとうこの日が来た。時刻は午後七時に差しかかろうとしている。
四〇二号室の扉の前に立つオギーは、今さらながら、己の異様な姿に不安になっていた。
片手にワインボトル、もう片手にはスケッチブック。しばらく着ていなかったせいで固くなったスーツの生地は胸を圧迫し、緊張をほぐすための深呼吸を邪魔している。頑張って笑顔を作ってみたが、両頬が引き攣り、痛みに耐えているような顔が出来上がるだけだった。
今夜は何百年振りとも思われるまともな邂逅だ。相手は気のいい向かいの住人、人畜無害な一般人、笑顔の素敵な男――彼に悪い印象を与えたくない。失敗は許されない。
「あぁ、くそ……誰かと会うためにスーツなんて着ないのに……」
腕時計がいよいよ午後七時を指した。オギーは覚悟を決め、スケッチブックを脇に挟むと、扉をこつこつとノックした。すると、まるでずっと扉の前で待機していたかのように、間髪入れずに扉が開かれた。
「やぁ、オギー! よく来たね――」
ベージュのセーターに、くすんだピンクのエプロンを着けたフィルが現れた。彼は満面の笑みでオギーを出迎えたが、その目は次第に大きく見開かれ、たちまち驚きの表情へと変わっていく。
途端にオギーは顔がぼっと熱くなり、今すぐ回れ右をして帰りたくなった取り敢えず、事前に準備していたスピーチ――もとい言い訳――を披露することにした。
「ええと、すいません。よく考えたら俺、今まで誰かにディナーに誘われたことなくって……だから、その、何を着て行ったらいいかもわからなくて。取り敢えず、あの、スーツできたんですけど……」
そう言うと降参のポーズのように両腕を上げ、その場でぎこちなく回って見せる。怪しい物品、武器は所持していませんよとアピールしているようだった。恥ずかしさと気まずさに耐えて一周回り、次にフィルと目が合った瞬間、彼が突然ぶはっと吹き出した。
「オギーったら! そんなに緊張しなくったっていいのに!」
フィルは声を上げて笑い、眼鏡越しに優しい青の瞳を向けてきた。彼の弾けるような笑いにつられて、オギーも「へへへ……」と苦笑した。身体の力が抜けていく。
やがて笑いがさざ波ほどに治まると、フィルは自分の口元にそっと手をやった。そしてわずかに背伸びをすると、内緒話をするように顔を寄せてきた。
「ここだけの話、シェフは今夜、何を作ろうかと何時間も迷ったあげく、時間がなくなっちゃって、今日はパスタとサラダしかないんだって。だからカジュアルな服装でいいんだって」
「なら、どこのブランドかわからない、スクリューキャップのワインでも大丈夫ですかね?」
「シェフはどんなワインでも大好きだって言ってたから、大丈夫!」
戯けたフィルの口調に、オギーは微笑んでいた。この一週間、ずっと笑顔の練習していた自分が馬鹿に思えるくらい自然な笑みだったと思う。
フィルが扉を大きく開け、招き入れてくれた。廊下に足を踏み入れた瞬間、トマトソースのようないい匂いが鼻腔をくすぐった。キッチンの方から香ってきている。匂いがする方向をぼんやりと見ていると、ふいにフィルがネクタイの先を指先で摘まみ上げてきた。
「ねぇ、君のスーツは素敵だし、ネクタイを締めるのにもきっと苦労したんだろうけど、きっと三〇秒後には脱いじゃってるよ。ネクタイは外してズボンのポケットに突っ込む。それとシャツは胸元まで開けちゃうね」
「それってどういう……」オギーはどぎまぎして、フィルの目を見ていられなかった。
「もっとリラックスしなきゃ。僕の料理のチープさが浮き彫りになっちゃうから」
「そんなこと……でも本当にそうしたら、俺を行儀が悪い若者だって思ったりしません?」
「君を試したりなんかしてないよ」
フィルは笑った後、ややあって、オギーからワインボトルを受け取ると、それを掲げた。
「今日は嬉しい日だよ。無礼講だ。だけど僕がこれをしこたま飲んで、べろべろに酔っ払ったら、君は僕を面倒なゲイの四十路だなって思う?」
オギーは首を横に振った。むしろ酔っ払うところを見てみたい――とは言わなかったが。
「じゃあ、そのスーツを寄越しなさい。ほらほら……あ! スケッチブックも持ってきてくれたんだ! それも預かってもいい? それとバスルームで手を洗っておいで」
スーツから解放されたオギーは、彼の予想通りネクタイを外し、シャツのボタンを二つ三つ外していた。フィルに案内されたバスルームで手洗いとうがいを済ませた時、オギーはふと、目の前の鏡に視線を向ける。額に大きな痣がある。前髪を手で引っ張ってきて隠した。それでほっとしたのも束の間、今度は顎髭を剃り忘れていることに気づいた。はっとなったが、先程のフィルの様子を思い出して我に返る。
芳しい匂いを頼りにキッチンへと向かう。そこには赤と白のギンガムチェック柄のクロスが敷かれたテーブルがあり、フィルがオギーの席へ瓶入りコーラを置いていた。向かいにあるフィルの席には、包みから解放されたワインボトルが鎮座している。その近くに、先程渡したスケッチブックも置いてあった。
フィルは部屋に入ってきたオギーに気づくと、うんうんと頷きながら微笑んだ。
「やっぱりそっちの方がいいね。さぁどうぞ、座って」
「失礼します」
オギーが席に着くと、フィルはキッチンへ移動し、やがてパスタを盛った皿を持って戻ってきた。湯気を立てる赤いソースがつやつやと輝き、大ぶりのミートボールもいくつか入っている。昼食を食べていなかったオギーは腹の底が唸るのを感じたが、いざ皿が目の前に置かれた時、そこに盛られたパスタの量を見てぎょっと目を見開く。まるで小山だ。
「今日君が来るってわかってたから、すごくわくわくしちゃってね」
フィルはテーブルの中央にサラダボウルを置くと、エプロンを外し、向かいの席に座った。
「すっかり浮かれちゃって。張り切ると料理をたくさん作り過ぎちゃうんだ」
「ここしばらく昼食を食べ損ねていたから、ちょうどよかったです」
「そうなの? 仕事が忙しいとか?」ワインの蓋を開けながらフィルが問う。
「えぇ。自宅でテレワーク中です。会社に行く労力が省けていいですよ」
「そう……でも気が休まらないんじゃない? ご飯もそれで食べられないとか?」
「まぁ、そんなところです」まさか、同僚からの挑発に耐えていたからだとは言えない。
「駄目だよ、ちゃんと食べなきゃ」
「えぇ、すいません」
オギーはテーブルに置かれた栓抜きを持って、コーラ瓶の蓋を開けにかかった。テレワークのおかげで外に出なくてよくなったが、そのぶん、部屋のものをぶち壊してしまう機会が倍増している気がする。修理代の方が高くつくし、修理に必要な材料も、中々店まで買いに出かけられない。コーラなんていつぶりだろうか……そう考えていると、ぽんと音がして蓋が開いた。
「瓶から直接飲んでも?」オギーは尋ねた。
「いいよ」
フィルは頷きつつ、自分のグラスにワインを注いでいた。
それを見たオギーは先日のことを思い出し、口に運びかけていた瓶を下ろす。
「ドクターはどうなったんです? 水槽は? まさかまだワイングラスの中?」
「まさか!」フィルは首を横に振った。「あの子は無事だよ。今の住居は透明なサラダボウル。今は夜だから寝室の窓辺にいるんだ。新しい水槽は通販で注文中だし、他にも買うものがあったからちょうどよかったよ」
「あぁ、それならよかった」オギーはほっとして椅子の背にもたれた。
するとフィルは少し驚いたような、不思議そうな表情でこちらを見つめてきた。
「そんなに彼のことを心配してくれてたの?」
「それもありますけど、何より、彼を失った時のあなたが心配だったんです」初めて彼の部屋を訪れた理由もそれだった。「ひどく傷ついてしまいそうだったから」
「そうだね。もし彼が死んだら、僕は有り金を全部使って葬式を挙げるかも」
フィルは戯けたように笑っているが、オギーはそれが冗談に聞こえなかった。
「君のおかげだよ。ドクターが助かったのも、僕が正気を保っていられるのも」
やがてフィルはグラス半分までワインを入れると、それを持ち上げて高らかに言った。
「じゃあ、ドクター・ライト二世の無事と、僕達の邂逅に!」
「えぇ」オギーもコーラ瓶を掲げる。
二つのガラスが触れ合ってかちんと鳴った。
オギーは瓶を口に咥えてあおると、口の中で甘みが弾け、炭酸の刺激と甘い匂いが鼻を駆け抜けていくのを感じた。炭酸のせいか目がじんわりと痺れる。
ふと、フィルがワイングラスを片手にこちらを眺めているのに気づいた。
「何です?」
「ううん、いい飲みっぷりだなぁと思って」彼はそう言って微笑んだ。
「どうも甘いものは久し振りで。生き返った気分です」
「ははは、大袈裟だね! ただの市販のコーラなのに」
「あなたと飲んでいるから」とは言わなかった。彼の笑顔がすぐ目の前にある。その気になれば手を伸ばして触れることもできる。いつも道路を一本挟んだ距離にいて、こちらはその輝きを紙に描き留めることしかできなかったというのに。
そこでオギーは、テーブル横に置かれたスケッチブックを指差した。
「それ、見てみますか?」
「うん、楽しみだったんだ」
フィルは口に含んでいたワインを素早く飲み込み、グラスをテーブルの端に追いやってから表紙を捲った。中を見ている彼の目が、眼鏡の奥で大きく見開かれる。オギーの胃の辺りにはずっしりとした重みの不安がやってくる。しばらくダイニングで静かに響く、紙が捲れて擦れるしゃっしゃという音だけを聞いていた。
「そうか……君には、僕がこんな風に見えてるんだね……」
「え?」
囁くような声のせいで上手く聞き取れなかったが、聞き返すとフィルは首を横に振った。
「ううん。嬉しいよ、オギー」
フィルはスケッチブックから顔を上げ、弾けるような笑顔を浮かべた。
「ドクターもちゃんと描いてくれてるし、僕もこんなに綺麗に描いてくれてる! あぁ、もっと早くに君とちゃんと出会っておきたかったなぁ。そうしたら君は画家で、僕は君の専属モデルになってたかも、なんてね!」
「そんなに……よかったんですか?」
予想外の反応に、オギーはただ当惑していた。本気で描いていたのではなく、乱れる自分の気持ちを落ち着けるため――そして彼の笑顔に惹かれていたが故――に描いていたものだったからだ。するとフィルはにっこりと笑って、スケッチブックを差し出してきた。
「モデルがこんなに喜んでるんだから。自信持っていいよ」
「ありがとう、ございます……」
オギーの喉が詰まる。照れくさいような、泣きたくなるような、何とも言えない複雑な気分だったが、悪いものでは決してない。
するとフィルがくすくす笑い出し、彼はまた口元に手を当てて顔を近づけてきた。
「最初に君を見つけた時、僕をオカズにマスを掻いてたんじゃないかって思ってたんだ」
「まさか!」
オギーが叫び、直後、ダイニングルームでは笑いの渦が巻き起こった。
気づけば、ボトルの中身は半分以下になっていた。
フィルはワインをあおりながら、パスタの出来は上々だと内心呟いた。数日前、パスタの茹ですぎ事件を起こしてからは、ぼんやりせずに料理へ取り組むようになった。トマトソースの酸味も塩加減もよかったし、ミートボールも形が崩れたりしなかった。なにより、それを目の前でもりもり食べるオギーを眺めていると、何もかもが上手くいっているように感じられた。膨らんだ彼の両頬が愛おしい。嚥下の音すら聞き惚れてしまう。
湯気を立てていたパスタの小山は、今や全てオギーの胃の中だ。皿は空っぽ。その隣には空になったコーラの瓶が一つあり、二本目もほとんど残っていなかった。
「美味しかった?」
「最高でした。誰かが作ってくれた料理を食べるなんて、いったい何年ぶりか……」
オギーはふぅと息を吐くと、コーラの壜を持ち上げ、ソースで赤く濡れた唇に押しつけた。上下する彼の喉仏を見つめていたフィルは、ワインの熱が体内を駆け巡っているのを感じ、酔いかけていることを悟る。それでもまた一口、ワインを流し込んだ。
「僕もさ、自分以外のために料理を作るなんて」
その上、それを最高だなんて言ってもらえるなんて。
「一体、何年ぶりになるかな?」
オギーは不思議そうにこちらを見ていたが、ふいにげっぷが込み上げてきたのか、慌てて口元に拳を押しつける。しかし押し殺しきれず、彼は咳払いをして誤魔化そうとする。
フィルはにやりと笑い、グラスに残っていたワインを一気に飲み干すと、これ見よがしにげっぷをしてやる。それを見たオギーは口の端を吊り上げて笑った。
「ところで、酒は強いんですか?」
「楽しむ程度から記憶がぶっ飛ぶまで。どのレベルでも楽しめちゃうよ、僕は」
「すごいペースで飲んでいる気がしますよ」
「そう?」フィルは瞬きをし、少しでも頭からワインの熱を遠ざけようと努めた。しかし、それすら億劫に感じてしまう。「確かに、いつもよりは多く飲んじゃったかも。今何時?」
「午後八時二十分です」オギーは腕時計を見下ろして言った。
「そっか。なら今、テレビであの番組やってるよ……ほら、ええと、何だっけ……」
椅子から立ち上がった時、驚くほど足に力が入らないことに気づいた。アルコールで元気になれたのは午後七時四〇分頃までで、あとはただひたすら下っていくだけのようだった。
「しっかりしてください。危ないですよ」
気づくとオギーがすぐそばにいて、傾いた身体を支えてくれていた。
「ごめんごめん、大丈夫だから」笑顔で説得させた後、自らの足で立ち上がり、リビングの方を向いた。「じゃあソファへ行こうかな……君もよければ」
「いいですよ。明日は休みですし」
オギーの声が少し上ずって聞こえたが、きっと気のせいだ。フィルはオギーに煙草を勧め、彼が受け取ったのを見届けると、自分はグラスにワインを注いだ。なみなみと注いだそれを片手に持って、リビングのソファへと移動する。オギーも後ろからついてきた。
二人用のソファだが、フィルはいつもそこに一人で座っているし、それ以外では、時々ドクターの金魚鉢を置いているか、ネッドがどっかと座っているかだ。ソファ前に据えられている壁際のテレビも、大抵は一人で観ている。
今夜はここに、二人が並んで座っていた。
自分の左側がやや傾いていることに、フィルは心地良い違和感を覚える。リモコンでテレビの電源を入れ、適当にチャンネルを変えていく。すると煌びやかな舞台の真ん中に、白いドレスを着た女性と、その背後にバンドマン達が控えているのが見えた。
画面外で司会者が声を上げる。
『続いての登場は、今話題の天才歌手! 元孤児の彼女が今夜、新たな家族と育んだその愛と歌声で、あなたの心をも溶かすでしょう! ニューシングルで「F&F」!』
会場の歓声が膨らみ、やがて縮んでいく頃に、バンドマン達がイントロを流し始める。天井からのスポットライトが女性のスリムな影を映し出し、彼女はドレスの裾を揺らした。
「フレンズ、とファミリーでF&Fか……」
オギーは煙草に火をつけて咥えると、一吸いし、遠慮がちに煙を吐き出てから聞いてきた。「フィルのF&Fはどうです?」
「僕の?」
フィルは持ち上げかけていたグラスを下ろす。楽しさの余韻が消えぬうちに――酔いで脳がぐずぐずにならないうちに――それらの良い記憶だけを掻き集めて模範解答を作る。
「そうだね……前のボスは連絡をよくくれるし、この間も、店の十周年記念パーティに来ないかって言われたよ。でも、友達は少ないかな」
そこまで言って、渋い味のする唾液をごくんと飲み込む。ネッドの独占欲とそれに起因する暗躍により、自分から友人が消えていったことは知っていた。
「家族とはもう何年も疎遠なんだ。まぁ、あの時代と当時の僕のことを考えると、自然なことなのかもね。カミングアウトするまでは仲良しだったんだけど。僕はテキサス州の家追い出された……ううん、僕が飛び出していったんだっけ?」
ニューヨークへ亡命。ショーパブで働き始めたが、まだ周りを信頼できるほどの余裕がなかった当時、ネッドの存在はまさに絶対的だった。地味だった自分に目を留めた彼。彼がいればなんでも上手くいくと信じていた――若さを言い訳にできないほどの愚かな行為だ、と今は思う。フィルは額を押さえた。何を思い出すにもネッドの影がつきまとってくる。
ふと、オギーが黙り込んでいることに気づいた。慌てて額から手を離した。
「ええと、オギーはどうなの? 友達とか、家族とかは!」
「友達を数えるなら片手で事足ります。それと家族は……」
オギーはしばし視線を泳がせていたが、咥えていた煙草を指に挟むと、肩をすくめた。
「親父にちょっとした問題があって……今は、州の北部にある介護施設にいます」
フィルは黙っていた。彼の視線は自分でもなくテレビでもなく、爪先に向けられている。指先が忙しなく、火のついていない煙草をいじくり回していた。
「一人になると時々、考えるんです。俺もいつか、親父みたいになるんじゃないかって」
「でも今夜は一人じゃないよ」
そう言うと、オギーは驚いたようにこちらを見た。フィルはふっと微笑んで続けた。
「だってさ、そんな人がわざわざ金魚一匹救うために、向かいのアパートまで駆けつける?」
オギーはぽかんとしていたが、やがてぷっと吹き出した。
それにつられてフィルも笑ったが、彼の笑みが喜びというよりも、自嘲や自虐に近いものに見えて仕方なかった。彼を実年齢以上に見せている原因はこれだろう。
その時、テレビから流れてくる音楽が変わった。女性が歌い終わったのだろう。我に返ったフィルとオギーは、揃ってテレビの方へ視線を戻す。そして間髪入れず流れてきた曲に、フィルは「あっ」と声を上げて立ち上がった。
「どうしました?」
「この曲、すごく好きなんだよね。昔、仕事で歌ったこともあって」
元々はミュージカル用に作られた、ポップジャズの一曲。重々しく、物悲しさすら感じる曲調とは裏腹に、その希望と期待に満ちあふれた歌詞がフィルは好きだった。フィルはワイングラスをサイドテーブルに置くと、オギーの腕を引っ張って立たせた。
「来て」
オギーの手を取ると、片手は自分と繋いで、もう片手は腰へと回し、スローダンスの時の構えを取らせる。彼は驚いたような表情は見せたものの、拒否はしなかった。
フィルはオギーが吐く煙を吸い込み、久し振りの煙草の味に酔いしれた。
「ショーパブで働いていた時の血が騒ぐの」
「ちょっと。酔ってるって認めてくださいよ」
「やだね、認めない。証明してあげるよ、僕は完璧に君をリードできるから」
するとオギーは煙草を咥えたまま、にやりと笑みで応えてきた。彼はフィルのリードに合わせて、少し広い場所へと移動してきた。しばらくはゆらゆらと身体を揺らすだけの動きをしていたが、フィルは、オギーがダンスも、ディナーに呼ばれるのと同じくらい経験がないことだと気づいた。足がもつれる度に、誤魔化そうとして笑っている。
「いつもワインで酔っ払ってこんな感じに?」
「そんなことないよ。あ、もしかして君がダンスできない理由を、僕が酔っ払っているせいにするつもり?」
「今、酔ってるって認めましたね。あなただってふらふらだ」
「違うってば」フィルは笑いながら首を横に振った。「これはそう……今楽しいせいだから」
「わかります。俺もこんなに――楽しいですっ!」
突然オギーがフィルの腰へ手を回してきた。フィルは彼の方へぐいと引き寄せられ、一方オギーは自分の身体をぐっと前へ乗り出す。その動きに比例して、フィルの身体は大きく仰け反る。補聴器のビーズストラップが肩から滑り落ちていく。
「うわっはは! オギー! 君も酔ってるんだ!」
「酔ってないですよ。だからあなたを落とさないでいられる」
煙が細くたなびくのが見える。オギーは、フィルの腰を支えて元の体勢に戻そうとした。
しかし、彼の思い通りにはさせてやるものかと、フィルはにやりと笑った。腹筋と背中の筋肉で自ら身を起こし、今度はオギーの腰へと手を回す。勢いよく身体を前へ倒し、彼をさっきの自分と同じ体勢にさせた。ただ、彼の身体は思ったほど仰け反らなかった。背中も腰も凝り固まっている。
「うおお!」オギーは悲鳴を上げたが、煙草だけは上手く歯で挟んでいた。
「この僕をリードするなんて百年早いんだから!」
「わかった、わかりましたから! 降参です!」
フィルはオギーを解放し、ソファへと突き飛ばした。背中からそこへ倒れた彼は、額を手で押さえながらくつくつと笑う。フィルも笑い、テーブルのグラスを取り上げると、オギーの隣へと腰を下ろした。傾いた眼鏡を元の位置に戻してテレビに視線を向けた時、曲が最後のサビに入り、終わりに向かい始めていることに気づいた。
フィルははっとした。
これでディナーは終わり、ダンスも終わり、そして今夜が終わる。身体を駆け巡る焦燥感が喉元に様々な言葉を運んできたが、それを口にするかは迷った。
(焦っちゃだめだ。こんなこと言ったって、この時間が永遠になるわけじゃないし、下手をすれば最悪の時間に変わってそのまま終わる。だって彼はまだ友達。まだ最高の友達。まだこれ以上の関係は望まない方がいい。だって……)
夕食はまだ全部片付けられてない……だけど、デザートの誘惑はあまりに強すぎる。あぁ、でもこれは生易しいご褒美なんかじゃない。暗闇の中に差した希望の光みたいだった。
フィルは残っていたワインをぐいと飲み干し、空になったそれをお守りのように抱く。
「ねぇ、オギー」
「はい?」
「やっぱり、僕、めちゃくちゃ酔ってるみたい」
「そうですよ。ようやく認めました?」
隣でオギーがむくりと起き上がる。彼がすぐ近くに腰を落ち着けたのがわかる。しかしフィルは彼の方は見ず、瞬きもせず、じっとテレビだけを見ていた。
「そう、今の僕はどうしようもない酔っ払いだよ。だからさ、これから僕が言うことは全部、酔っ払い四十路ゲイの戯れ言だと思って聞いて欲しいんだ」
「はは、いいですよ、何です?」
オギーがさらにこちらへ身を寄せてくる。
フィルはグラスを握り締めた。そしてすっかり乾いてしまった喉で声を絞り出す。
「……僕、君のことが好きかもしんない……」
とうとう曲が終わり、テレビからは割れんばかりの拍手と歓声が聞こえてきた。
月曜日の午前。パソコンを立ち上げたオギーは、社員達が映る画面を見つめていた。気分を落ち着かせるためにいつものニット帽を被ると、表情を引き締めた。しかし会議が始まって数十分後、画面の真ん中に陣取っていたボスが怪訝な顔をした。
「なぁ、オギー。具合でも悪いのか?」
「いいえ、ボス。どうしてです?」
「顔が引き攣ってるぞ」
上司は相変わらずカメラとの距離が近すぎ、首回りのマフラーのような贅肉がよく見える。彼はグロテスクなものを見るかのような目でこちらを見ていた。ボスの言葉で、他の社員も視線もこちらに集まった――それぞれの視線は別の方向を見ていたが。
オギーは、無理矢理引き上げた口の両端が震え始めるのを感じた。
「いいえ、ボス。笑ってるんです」
「今すぐやめろ。気味が悪い」
「俺に笑顔が足りないとか言ったのはボスですよ」カメラの死角にある膝が揺れ始め、その上で固く握った拳が震え出す。顎にも徐々に力が入り、オギーは半ば歯を食いしばりながら話していた。「精一杯やっているんですが」
「なら新しい助言をやろう。職場の雰囲気を良好に保つためだ。その顔をやめろ」
「わかりました、ボス」
「大体お前はな――」
前科者のオギーは苦労して就職したが、そんな苦労も、社員達の経歴を把握している上司の前では無意味なものに思えた。彼は自分の威厳のためにも、保身のためにも、狂犬を飼い慣らしておきたかったらしい。圧力をかけ、細かい指摘をねちねちと繰り返す。もしその犬が刃向かって問題を起こしても、その後ろには再逮捕という深淵が待っているだけだからだ。
「ちょっと、エミリ! マイク! 二人とも勝手なことしないで!」
突然叫び声が耳をつんざき、オギーは驚いて笑顔を崩した。画面を見ると、女性社員が一人、慌ててマイクをオフにしていた。彼女は怒りに塗れた横顔をこちらに見せ、画面外のどこかに向かって怒鳴っていた。原因は子ども達だろう。四歳くらいの男の子と女の子が時折、画面の後ろにちらちら登場するのを見たことがある。
上司は彼女の叫びを無視し、オギーに新たな助言をのたまうことに夢中だった。
オギーはテンポの合わない頷きを繰り返しつつ、視線を動かして、画面端に表示された時刻を確認する。すでに午後十二時を過ぎていた。子ども達が騒ぐのも無理はない。
「教育係のジョシュに頼んで、もう一度笑顔の研修を受けてこい」
「別にその必要は――」
「あぁ、もうこんな時間だ。さぁ、皆、一旦休憩しよう。一時間後にまた」
最初に会議を退室したのは上司だったことに、オギーは心底ほっとした。強張った身体が爆発する前に画面端の「退室」のボタンをクリックし、溜息をつきながら手で顔を撫でて俯く。やがて顔を上げた時、暗くなった画面に映る自分の顔を見てぞっとする。
「あんたの言う通りだよ」
ひどい顔だった。この顔は笑顔を作るには適していない。笑顔を作るための筋肉が存在していないのかも、とオギーは思った。痛む口元を揉んでいると、ふいにスマホが鳴った。
「何だよ、ジョシュ」
『泣く子も黙る笑顔の持ち主に、事情を聞きたくてな。何があったんだ?』
「たいした理由はない」
オギーはジョシュの、歯磨き粉のコマーシャルに抜擢されそうな白い歯列を思い出す。こんな職場にはもったいない、完璧な存在だった。しかしジョシュがオギーの過去を知っているのと同様に、オギーもまた彼の内情を知っていた。
『何か話があるなら聞くぜ。なんなら前みたいに、一緒にごみ置き場で暴れてもいい』
「もうあそこにはしばらく行っていない。今後も行くつもりはない」
『何だって?』ジョシュは素っ頓狂な声を上げた。『ほんとにどうしちまったんだよ!』
仲間を失ったジョシュ、ルックスの良さから勝手に完璧な存在という座を押しつけられたジョシュ、そのストレスから、郊外にあるごみ置き場で大暴れすることを人生の喜びにしたジョシュ、彼の焦った息遣いが聞こえる。
『きっと限界が来るぞ』ジョシュは低い声で言った。『実の父親を半殺しにして逮捕されたお前じゃ、三日も持たないだろうね』
「……言ってろよ」
『会社でお前を見かけた時、俺はすぐにわかったぜ。どうしようもないもんを抱えてるってな。だからあのゴミ捨て場を紹介したんだ。真夜中に忍び込んで暴れてさ、あの時のお前は生き生きしてたぜ』
「黙れって」頭が熱く重たい。血が上ってきているのがわかる。
『そこで話してくれたよな。通報者は母親で、そのせいでお前は逮捕されてムショ暮らし。暴力を振るう父親から守ってやったのに、こんな仕打ちあんまりだよなぁ。その後で裁判所から、講習へ行くように命令されたんだ』
嘘や噂より、事実を言い当てられる方がよっぽど腹立たしい。もう意味を持つ言葉を発するのも辛くなってきたが、オギーは自身に言い聞かせる。俺は怒らない。上司やジョシュと違って、自分は怪物をコントロールできる。コントロールしなくてはならない。
貧乏揺すりを繰り返す足が、床の板をきりきりと小さく鳴らしていた。
『お前はまともにはなれないさ。だから、それなりに生きていくしかないんだよ』
「……もう切るぞ。せっかくの休憩時間だ。二度とかけてくるな」
スマホの電源を切り、沈黙したパソコンの隣に置く。長い溜息をつく。ふと一人の時間が訪れた途端、腹の底で煮える怒りが浮き彫りになる。他に何か考えることを探さなければと、オギーは焦る。取り敢えずデスクから離れた。新しいものを買う金はない。
キッチンへ移動して水を飲んだ時、ふと、部屋の隅の作りかけの椅子に目が行った。水は口から喉、食道を通って胃の中へと落ちたが、怒りの熱はもっと身体の奥深くにある。そもそも水道水で治まるほどの熱ではない。
「だめだ。だめだ。あいつの言いなりになるつもりか」
椅子から視線を逸らし、目をぎゅっと閉じたが、そのせいでより心の声が大きく聞こえる。壊しちまえ、壊れたらまた直せばいいじゃないか。修理は好きだし、怒りも発散できる。一石二鳥だろう。午前中まであんたはよくやったよ、さぁ、ぶっ壊せ、我慢は苦しいだろう? 元より、不格好な椅子だったんだ。
「あぁ、くそ!」
オギーは椅子に近づき、背もたれを掴むと床に思い切り叩きつけた。破裂音にも似た音が部屋中に響き渡り、脚の一部が吹っ飛んで床をからからと転がった。一度噴火した怒りはしばらく治まらず、今度は足を高く上げて壊れた椅子を踏みつける。ばきんと音がし、木片が飛び散って、割れた木の断面から独特な匂いが漂ってきた。
「おい、うっせぇぞ! 何してるんだ!」
突然、壁の向こうから中年男の怒号が飛び込んできた。オギーは一瞬はっとなったが、身体の中に住む怪物は、他人の怒りすら自らのエネルギーに変える。
オギーは無言で、壁に額を叩きつけた。
それが隣人への威嚇だったのか、自身の怪物を黙らせるためだったのかはわからない。ニット帽は脱げて床に落ち、オギーは痛みと眩暈で床に座り込んだ。目の前がちかちかし、フラッシュバックの兆候を見た。
「はぁ、はぁ、くそ、だめだ、しっかりしろ」
過去の亡霊を払うため、オギーは目を閉じた。何か考えなければ。怒りから最も遠いものを! ――そして、咄嗟にフィルのことを思い浮かべた。金魚を愛でる美しい笑顔の男。明るさの中に妖艶さも持ち合わせる男。オギーはその幻影にしがみつきつつ、震える手でズボンのポケットから煙草を取り出す。すぐさま咥え、目を開けて火をつけるとまた目を閉じる。煙を大きく吸って吐き出した。
すると、驚くほどに気分が楽になった。
恐る恐る目を開けて壁掛け時計を見ると、休憩時間は残り十分になっていた。
ぐらぐらと煮える鍋の前で、鼻唄を歌っていたフィルははっと我に返った。見ると鍋の中はパスタだらけで、白く濁っていたはずの湯が黄色っぽいパスタのせいで見えない。湯が鍋から噴き出して、ステンレスの側面を濡らしていた。
「あああ、やっちゃった!」
フィルは慌てて火を止め、溜息をついた。もう何十分も鍋の前にいたらしく、セーターの下はしっとりと汗をかいているし、鼻唄を歌い続けていた鼻はむずむずする。鍋の中のパスタは揺らめきながら底へと沈んでいき、重なり合って動かなくなった。
「張り切ると大量に作っちゃう癖、やっぱり抜けてなかったかぁ」
フィルは自嘲気味に笑った。
「彼との約束は土曜日のはずなのにさ」
呟いた時、唇からさっと笑みが消えた。自分は張り切っている? 誰のために? 彼のためにだ。ネッドのために作る時はこんなことはなかったのに。そもそもネッドは偏食で、自分が作った料理を全て食べることはなかった。目の前で捨てられたことだってある。
フィルは急に落ち着かなくなって、狭いキッチン内をぐるぐると歩き回り始めた。
「オギーはただのお向かいさんで、つい最近知り合ったばかりの友達」
年齢差は二十以上、ゲイかストレートかはまだ審議中。年齢の割に大人っぽく見えるし対応もそれっぽいけど、きっと若い故に不器用で一生懸命で……。
「ちょっと待って、ちょっと待って。ゲイかどうかは問題じゃないよ」
フィルは額に手をやって立ち止まった。妄想の快い余韻と、戸惑いの不快さが入り混じって目が回りそうになる。苦労して頭の中を整理し、やがて導き出された真実を思い切って口に出してみた。
「四十八のおじさんが、二十五の男性に恋してるってこと?」
または、彼に救いを見出しているのかも。
「そっちだよ、きっと」
フィルは急いでキッチンを離れ、スマホを置いている寝室へと歩いて行った。窓際の透明なボウルの中で、ドクターがゆったりと泳いでいた。ワイングラスよりは広い部屋をもらえて、ようやく機嫌を直したように見える。
ベッド横のテーブルからスマホを取り上げ、電話をかけた。数回のコールの後、こちらがまだ何も言っていないのに、すでに深刻そうな声が聞こえてきた。
『フィオナ? どうしたの? 何かあったの?』
「あった。大変なことになった」
フィルはサーシャに、オギーとの出会いについて簡潔に話した。ただ、自分が彼のことをどう思っているのかは伏せた。まだわからないし、期待のしすぎは良くない。
「彼とは友達でいたい。いい人そうだし、一緒にいると何だか楽しいし。だけど――」
『ネッドのことに巻き込みたくないってわけね』サーシャの口調は重々しかった。『オギーって子とあんたが一緒にいると知ったら、彼、何をしでかすかわからないわよ』
「わかってる。だから決めたよ……彼とは別れる」
そう言った時、その言葉を吐いたことを後悔するかのように唇が震えた。同時に胸の奥がざわついて冷たくなり、フィルはそれを抑えるため、一度深呼吸をしなければならなかった。唇を舌で舐めた後、改めてはっきりと口にする。
「ちゃんと別れる」
『あぁ、よかった! そう言ってくれる時を待ってたのよ! さっそく警察に――』
「彼は警官だから、下手なことはできない」
『そうだったわ……ちくしょう!』彼女がテーブルか壁かとにかく、どこかを叩く音が聞こえてきた。『何が警官よ! あんなの、毛皮の代わりに制服を着たケダモノじゃない! ショーパブの仕事だって、あいつが無理矢理やめさせたんでしょ。経済的な支配のために!』
「でも最初は単に、自分の恋人をそういう場所にいさせるのが嫌だったと思う」
フィルはそう言い、ほとんど無意識に、補聴器の詰まった耳を触った。「できれば話し合いで終わらせたい。別れて欲しいだけで、彼をこてんぱんにしたいとは思ってないから」
『あぁ、フィオナ! フィオナ!』
その甲高い声音から、彼女が目をぐるりと回している様子が想像できた。
『あんたの悪いところよ! 優しいのはいいけど、今回は相手を選びなさい!』
「彼だって普通の状態じゃないんだよ」DVという単語をネットで検索したのは、一度だけではない。様々な記事を読みあさったフィルは、加害者側もまた問題を抱えていることを知っていた。「納得させていないまま突き放したら、それこそ彼がどんな行動を取るか」
『じゃあ、こう考えなさい』サーシャは有無を言わさぬ口調で言った。『今回の件で彼に裁きを下すことは、彼に更正のチャンスを与えることと同じだって』
「でも――」
『フィル』
「わかった」
この関係が自然消滅してくれたらどんなにいいか……フィルは一旦、その希望を頭から閉め出した。今はとにかく現実的にならなくてはならない。
「じゃあ、これからどうすればいい?」
『リックって覚えてる? あたしの知り合いの弁護士。彼曰く、とにかく証拠が必要だそうよ。誰もが納得できるような証拠をね。一番いいのは、警察に相談した経歴があることなんだけど……』
「それはわかってる」
フィルはスマホを耳に当て、こめかみに手を当てた。心臓がどきどきして落ち着かない。今度は寝室をぐるぐると歩き回った。決死の覚悟、痛みは承知の上。秘密裏にことを終わらせる――何だかかなり非日常で、自分の手に負えるような問題に思えなくなってきた。
『録音とか、録画も証拠の一つとして使えると思うの』
「え? 何?」ただでさえ不調な耳がさらに機能しなくなっている。
『だから録音とか、録画だって……あんた、小型のカメラなんか持ってる?』
サーシャは躊躇うような声で計画を話した。この部屋のどこかにカメラや録音機を仕掛け、そこにネッドの暴行している姿や音声を記録するというもの。
彼女の声音とは裏腹に、フィルは目の前の霧が晴れたような気分になった。
「それは名案だ! でもカメラはスマホ一台だけだから、これから買い足さないと――」
『フィオナ、あんた馬鹿?』サーシャは声を荒げた。『これ、あんたがもう一度ネッドから暴力を受けなきゃならないってことなのよ! しかもカメラの前で!』
「カメラ前でのパフォーマンスなら慣れてる。それがフェイクでも、リアルでも」
『ねぇ、ショーパブじゃないのよ……』サーシャの深い溜息が聞こえてくる。しかしややあって、彼女は真剣な口調に戻って尋ねてきた。『覚悟はあるようね』
「やらないといけない」
フィルは寝室を横切り、窓辺に立って向かいのアパートを眺めた。彼を巻き込むわけにはいかない。彼の理想を壊さないためにも、嫌われないためにも。
『ところで、とうとうあんたに決断をさせるなんて、オギーって子はそんなに素敵なの?』
「感じのいい人だよ。土曜日、彼とこっちでディナーの約束をしてる」
『あらあら。あんたは張り切ると作り過ぎちゃうんだから、それだけ気をつけなさいよね』
フィルはさっきのことを思い出し、ぷっと吹き出した。発作のような笑いの合間にそのことを告白し、やがてサーシャと二人で笑い合った。少ししてからサーシャは言う。
『とにかく、あんたが良い方向へ向かってくれて嬉しいわ。何かあったら、絶対に連絡を寄越してちょうだい。きっと力になるから』
「ありがとう、サーシャ」
『ふふ、オギーと出会ってから、日常が一変したんじゃないかしら?』
「映画やドラマみたいな変化はないよ」
オギーの部屋の窓を見ると、仕事中だろうか、窓もブラインドも閉まっていた。フィルはリビングに戻ると、パソコンを置いたデスクに着く。
「ただ、いつもと違う一日があっただけ。それだけだよ」
一週間が経ち、とうとうこの日が来た。時刻は午後七時に差しかかろうとしている。
四〇二号室の扉の前に立つオギーは、今さらながら、己の異様な姿に不安になっていた。
片手にワインボトル、もう片手にはスケッチブック。しばらく着ていなかったせいで固くなったスーツの生地は胸を圧迫し、緊張をほぐすための深呼吸を邪魔している。頑張って笑顔を作ってみたが、両頬が引き攣り、痛みに耐えているような顔が出来上がるだけだった。
今夜は何百年振りとも思われるまともな邂逅だ。相手は気のいい向かいの住人、人畜無害な一般人、笑顔の素敵な男――彼に悪い印象を与えたくない。失敗は許されない。
「あぁ、くそ……誰かと会うためにスーツなんて着ないのに……」
腕時計がいよいよ午後七時を指した。オギーは覚悟を決め、スケッチブックを脇に挟むと、扉をこつこつとノックした。すると、まるでずっと扉の前で待機していたかのように、間髪入れずに扉が開かれた。
「やぁ、オギー! よく来たね――」
ベージュのセーターに、くすんだピンクのエプロンを着けたフィルが現れた。彼は満面の笑みでオギーを出迎えたが、その目は次第に大きく見開かれ、たちまち驚きの表情へと変わっていく。
途端にオギーは顔がぼっと熱くなり、今すぐ回れ右をして帰りたくなった取り敢えず、事前に準備していたスピーチ――もとい言い訳――を披露することにした。
「ええと、すいません。よく考えたら俺、今まで誰かにディナーに誘われたことなくって……だから、その、何を着て行ったらいいかもわからなくて。取り敢えず、あの、スーツできたんですけど……」
そう言うと降参のポーズのように両腕を上げ、その場でぎこちなく回って見せる。怪しい物品、武器は所持していませんよとアピールしているようだった。恥ずかしさと気まずさに耐えて一周回り、次にフィルと目が合った瞬間、彼が突然ぶはっと吹き出した。
「オギーったら! そんなに緊張しなくったっていいのに!」
フィルは声を上げて笑い、眼鏡越しに優しい青の瞳を向けてきた。彼の弾けるような笑いにつられて、オギーも「へへへ……」と苦笑した。身体の力が抜けていく。
やがて笑いがさざ波ほどに治まると、フィルは自分の口元にそっと手をやった。そしてわずかに背伸びをすると、内緒話をするように顔を寄せてきた。
「ここだけの話、シェフは今夜、何を作ろうかと何時間も迷ったあげく、時間がなくなっちゃって、今日はパスタとサラダしかないんだって。だからカジュアルな服装でいいんだって」
「なら、どこのブランドかわからない、スクリューキャップのワインでも大丈夫ですかね?」
「シェフはどんなワインでも大好きだって言ってたから、大丈夫!」
戯けたフィルの口調に、オギーは微笑んでいた。この一週間、ずっと笑顔の練習していた自分が馬鹿に思えるくらい自然な笑みだったと思う。
フィルが扉を大きく開け、招き入れてくれた。廊下に足を踏み入れた瞬間、トマトソースのようないい匂いが鼻腔をくすぐった。キッチンの方から香ってきている。匂いがする方向をぼんやりと見ていると、ふいにフィルがネクタイの先を指先で摘まみ上げてきた。
「ねぇ、君のスーツは素敵だし、ネクタイを締めるのにもきっと苦労したんだろうけど、きっと三〇秒後には脱いじゃってるよ。ネクタイは外してズボンのポケットに突っ込む。それとシャツは胸元まで開けちゃうね」
「それってどういう……」オギーはどぎまぎして、フィルの目を見ていられなかった。
「もっとリラックスしなきゃ。僕の料理のチープさが浮き彫りになっちゃうから」
「そんなこと……でも本当にそうしたら、俺を行儀が悪い若者だって思ったりしません?」
「君を試したりなんかしてないよ」
フィルは笑った後、ややあって、オギーからワインボトルを受け取ると、それを掲げた。
「今日は嬉しい日だよ。無礼講だ。だけど僕がこれをしこたま飲んで、べろべろに酔っ払ったら、君は僕を面倒なゲイの四十路だなって思う?」
オギーは首を横に振った。むしろ酔っ払うところを見てみたい――とは言わなかったが。
「じゃあ、そのスーツを寄越しなさい。ほらほら……あ! スケッチブックも持ってきてくれたんだ! それも預かってもいい? それとバスルームで手を洗っておいで」
スーツから解放されたオギーは、彼の予想通りネクタイを外し、シャツのボタンを二つ三つ外していた。フィルに案内されたバスルームで手洗いとうがいを済ませた時、オギーはふと、目の前の鏡に視線を向ける。額に大きな痣がある。前髪を手で引っ張ってきて隠した。それでほっとしたのも束の間、今度は顎髭を剃り忘れていることに気づいた。はっとなったが、先程のフィルの様子を思い出して我に返る。
芳しい匂いを頼りにキッチンへと向かう。そこには赤と白のギンガムチェック柄のクロスが敷かれたテーブルがあり、フィルがオギーの席へ瓶入りコーラを置いていた。向かいにあるフィルの席には、包みから解放されたワインボトルが鎮座している。その近くに、先程渡したスケッチブックも置いてあった。
フィルは部屋に入ってきたオギーに気づくと、うんうんと頷きながら微笑んだ。
「やっぱりそっちの方がいいね。さぁどうぞ、座って」
「失礼します」
オギーが席に着くと、フィルはキッチンへ移動し、やがてパスタを盛った皿を持って戻ってきた。湯気を立てる赤いソースがつやつやと輝き、大ぶりのミートボールもいくつか入っている。昼食を食べていなかったオギーは腹の底が唸るのを感じたが、いざ皿が目の前に置かれた時、そこに盛られたパスタの量を見てぎょっと目を見開く。まるで小山だ。
「今日君が来るってわかってたから、すごくわくわくしちゃってね」
フィルはテーブルの中央にサラダボウルを置くと、エプロンを外し、向かいの席に座った。
「すっかり浮かれちゃって。張り切ると料理をたくさん作り過ぎちゃうんだ」
「ここしばらく昼食を食べ損ねていたから、ちょうどよかったです」
「そうなの? 仕事が忙しいとか?」ワインの蓋を開けながらフィルが問う。
「えぇ。自宅でテレワーク中です。会社に行く労力が省けていいですよ」
「そう……でも気が休まらないんじゃない? ご飯もそれで食べられないとか?」
「まぁ、そんなところです」まさか、同僚からの挑発に耐えていたからだとは言えない。
「駄目だよ、ちゃんと食べなきゃ」
「えぇ、すいません」
オギーはテーブルに置かれた栓抜きを持って、コーラ瓶の蓋を開けにかかった。テレワークのおかげで外に出なくてよくなったが、そのぶん、部屋のものをぶち壊してしまう機会が倍増している気がする。修理代の方が高くつくし、修理に必要な材料も、中々店まで買いに出かけられない。コーラなんていつぶりだろうか……そう考えていると、ぽんと音がして蓋が開いた。
「瓶から直接飲んでも?」オギーは尋ねた。
「いいよ」
フィルは頷きつつ、自分のグラスにワインを注いでいた。
それを見たオギーは先日のことを思い出し、口に運びかけていた瓶を下ろす。
「ドクターはどうなったんです? 水槽は? まさかまだワイングラスの中?」
「まさか!」フィルは首を横に振った。「あの子は無事だよ。今の住居は透明なサラダボウル。今は夜だから寝室の窓辺にいるんだ。新しい水槽は通販で注文中だし、他にも買うものがあったからちょうどよかったよ」
「あぁ、それならよかった」オギーはほっとして椅子の背にもたれた。
するとフィルは少し驚いたような、不思議そうな表情でこちらを見つめてきた。
「そんなに彼のことを心配してくれてたの?」
「それもありますけど、何より、彼を失った時のあなたが心配だったんです」初めて彼の部屋を訪れた理由もそれだった。「ひどく傷ついてしまいそうだったから」
「そうだね。もし彼が死んだら、僕は有り金を全部使って葬式を挙げるかも」
フィルは戯けたように笑っているが、オギーはそれが冗談に聞こえなかった。
「君のおかげだよ。ドクターが助かったのも、僕が正気を保っていられるのも」
やがてフィルはグラス半分までワインを入れると、それを持ち上げて高らかに言った。
「じゃあ、ドクター・ライト二世の無事と、僕達の邂逅に!」
「えぇ」オギーもコーラ瓶を掲げる。
二つのガラスが触れ合ってかちんと鳴った。
オギーは瓶を口に咥えてあおると、口の中で甘みが弾け、炭酸の刺激と甘い匂いが鼻を駆け抜けていくのを感じた。炭酸のせいか目がじんわりと痺れる。
ふと、フィルがワイングラスを片手にこちらを眺めているのに気づいた。
「何です?」
「ううん、いい飲みっぷりだなぁと思って」彼はそう言って微笑んだ。
「どうも甘いものは久し振りで。生き返った気分です」
「ははは、大袈裟だね! ただの市販のコーラなのに」
「あなたと飲んでいるから」とは言わなかった。彼の笑顔がすぐ目の前にある。その気になれば手を伸ばして触れることもできる。いつも道路を一本挟んだ距離にいて、こちらはその輝きを紙に描き留めることしかできなかったというのに。
そこでオギーは、テーブル横に置かれたスケッチブックを指差した。
「それ、見てみますか?」
「うん、楽しみだったんだ」
フィルは口に含んでいたワインを素早く飲み込み、グラスをテーブルの端に追いやってから表紙を捲った。中を見ている彼の目が、眼鏡の奥で大きく見開かれる。オギーの胃の辺りにはずっしりとした重みの不安がやってくる。しばらくダイニングで静かに響く、紙が捲れて擦れるしゃっしゃという音だけを聞いていた。
「そうか……君には、僕がこんな風に見えてるんだね……」
「え?」
囁くような声のせいで上手く聞き取れなかったが、聞き返すとフィルは首を横に振った。
「ううん。嬉しいよ、オギー」
フィルはスケッチブックから顔を上げ、弾けるような笑顔を浮かべた。
「ドクターもちゃんと描いてくれてるし、僕もこんなに綺麗に描いてくれてる! あぁ、もっと早くに君とちゃんと出会っておきたかったなぁ。そうしたら君は画家で、僕は君の専属モデルになってたかも、なんてね!」
「そんなに……よかったんですか?」
予想外の反応に、オギーはただ当惑していた。本気で描いていたのではなく、乱れる自分の気持ちを落ち着けるため――そして彼の笑顔に惹かれていたが故――に描いていたものだったからだ。するとフィルはにっこりと笑って、スケッチブックを差し出してきた。
「モデルがこんなに喜んでるんだから。自信持っていいよ」
「ありがとう、ございます……」
オギーの喉が詰まる。照れくさいような、泣きたくなるような、何とも言えない複雑な気分だったが、悪いものでは決してない。
するとフィルがくすくす笑い出し、彼はまた口元に手を当てて顔を近づけてきた。
「最初に君を見つけた時、僕をオカズにマスを掻いてたんじゃないかって思ってたんだ」
「まさか!」
オギーが叫び、直後、ダイニングルームでは笑いの渦が巻き起こった。
気づけば、ボトルの中身は半分以下になっていた。
フィルはワインをあおりながら、パスタの出来は上々だと内心呟いた。数日前、パスタの茹ですぎ事件を起こしてからは、ぼんやりせずに料理へ取り組むようになった。トマトソースの酸味も塩加減もよかったし、ミートボールも形が崩れたりしなかった。なにより、それを目の前でもりもり食べるオギーを眺めていると、何もかもが上手くいっているように感じられた。膨らんだ彼の両頬が愛おしい。嚥下の音すら聞き惚れてしまう。
湯気を立てていたパスタの小山は、今や全てオギーの胃の中だ。皿は空っぽ。その隣には空になったコーラの瓶が一つあり、二本目もほとんど残っていなかった。
「美味しかった?」
「最高でした。誰かが作ってくれた料理を食べるなんて、いったい何年ぶりか……」
オギーはふぅと息を吐くと、コーラの壜を持ち上げ、ソースで赤く濡れた唇に押しつけた。上下する彼の喉仏を見つめていたフィルは、ワインの熱が体内を駆け巡っているのを感じ、酔いかけていることを悟る。それでもまた一口、ワインを流し込んだ。
「僕もさ、自分以外のために料理を作るなんて」
その上、それを最高だなんて言ってもらえるなんて。
「一体、何年ぶりになるかな?」
オギーは不思議そうにこちらを見ていたが、ふいにげっぷが込み上げてきたのか、慌てて口元に拳を押しつける。しかし押し殺しきれず、彼は咳払いをして誤魔化そうとする。
フィルはにやりと笑い、グラスに残っていたワインを一気に飲み干すと、これ見よがしにげっぷをしてやる。それを見たオギーは口の端を吊り上げて笑った。
「ところで、酒は強いんですか?」
「楽しむ程度から記憶がぶっ飛ぶまで。どのレベルでも楽しめちゃうよ、僕は」
「すごいペースで飲んでいる気がしますよ」
「そう?」フィルは瞬きをし、少しでも頭からワインの熱を遠ざけようと努めた。しかし、それすら億劫に感じてしまう。「確かに、いつもよりは多く飲んじゃったかも。今何時?」
「午後八時二十分です」オギーは腕時計を見下ろして言った。
「そっか。なら今、テレビであの番組やってるよ……ほら、ええと、何だっけ……」
椅子から立ち上がった時、驚くほど足に力が入らないことに気づいた。アルコールで元気になれたのは午後七時四〇分頃までで、あとはただひたすら下っていくだけのようだった。
「しっかりしてください。危ないですよ」
気づくとオギーがすぐそばにいて、傾いた身体を支えてくれていた。
「ごめんごめん、大丈夫だから」笑顔で説得させた後、自らの足で立ち上がり、リビングの方を向いた。「じゃあソファへ行こうかな……君もよければ」
「いいですよ。明日は休みですし」
オギーの声が少し上ずって聞こえたが、きっと気のせいだ。フィルはオギーに煙草を勧め、彼が受け取ったのを見届けると、自分はグラスにワインを注いだ。なみなみと注いだそれを片手に持って、リビングのソファへと移動する。オギーも後ろからついてきた。
二人用のソファだが、フィルはいつもそこに一人で座っているし、それ以外では、時々ドクターの金魚鉢を置いているか、ネッドがどっかと座っているかだ。ソファ前に据えられている壁際のテレビも、大抵は一人で観ている。
今夜はここに、二人が並んで座っていた。
自分の左側がやや傾いていることに、フィルは心地良い違和感を覚える。リモコンでテレビの電源を入れ、適当にチャンネルを変えていく。すると煌びやかな舞台の真ん中に、白いドレスを着た女性と、その背後にバンドマン達が控えているのが見えた。
画面外で司会者が声を上げる。
『続いての登場は、今話題の天才歌手! 元孤児の彼女が今夜、新たな家族と育んだその愛と歌声で、あなたの心をも溶かすでしょう! ニューシングルで「F&F」!』
会場の歓声が膨らみ、やがて縮んでいく頃に、バンドマン達がイントロを流し始める。天井からのスポットライトが女性のスリムな影を映し出し、彼女はドレスの裾を揺らした。
「フレンズ、とファミリーでF&Fか……」
オギーは煙草に火をつけて咥えると、一吸いし、遠慮がちに煙を吐き出てから聞いてきた。「フィルのF&Fはどうです?」
「僕の?」
フィルは持ち上げかけていたグラスを下ろす。楽しさの余韻が消えぬうちに――酔いで脳がぐずぐずにならないうちに――それらの良い記憶だけを掻き集めて模範解答を作る。
「そうだね……前のボスは連絡をよくくれるし、この間も、店の十周年記念パーティに来ないかって言われたよ。でも、友達は少ないかな」
そこまで言って、渋い味のする唾液をごくんと飲み込む。ネッドの独占欲とそれに起因する暗躍により、自分から友人が消えていったことは知っていた。
「家族とはもう何年も疎遠なんだ。まぁ、あの時代と当時の僕のことを考えると、自然なことなのかもね。カミングアウトするまでは仲良しだったんだけど。僕はテキサス州の家追い出された……ううん、僕が飛び出していったんだっけ?」
ニューヨークへ亡命。ショーパブで働き始めたが、まだ周りを信頼できるほどの余裕がなかった当時、ネッドの存在はまさに絶対的だった。地味だった自分に目を留めた彼。彼がいればなんでも上手くいくと信じていた――若さを言い訳にできないほどの愚かな行為だ、と今は思う。フィルは額を押さえた。何を思い出すにもネッドの影がつきまとってくる。
ふと、オギーが黙り込んでいることに気づいた。慌てて額から手を離した。
「ええと、オギーはどうなの? 友達とか、家族とかは!」
「友達を数えるなら片手で事足ります。それと家族は……」
オギーはしばし視線を泳がせていたが、咥えていた煙草を指に挟むと、肩をすくめた。
「親父にちょっとした問題があって……今は、州の北部にある介護施設にいます」
フィルは黙っていた。彼の視線は自分でもなくテレビでもなく、爪先に向けられている。指先が忙しなく、火のついていない煙草をいじくり回していた。
「一人になると時々、考えるんです。俺もいつか、親父みたいになるんじゃないかって」
「でも今夜は一人じゃないよ」
そう言うと、オギーは驚いたようにこちらを見た。フィルはふっと微笑んで続けた。
「だってさ、そんな人がわざわざ金魚一匹救うために、向かいのアパートまで駆けつける?」
オギーはぽかんとしていたが、やがてぷっと吹き出した。
それにつられてフィルも笑ったが、彼の笑みが喜びというよりも、自嘲や自虐に近いものに見えて仕方なかった。彼を実年齢以上に見せている原因はこれだろう。
その時、テレビから流れてくる音楽が変わった。女性が歌い終わったのだろう。我に返ったフィルとオギーは、揃ってテレビの方へ視線を戻す。そして間髪入れず流れてきた曲に、フィルは「あっ」と声を上げて立ち上がった。
「どうしました?」
「この曲、すごく好きなんだよね。昔、仕事で歌ったこともあって」
元々はミュージカル用に作られた、ポップジャズの一曲。重々しく、物悲しさすら感じる曲調とは裏腹に、その希望と期待に満ちあふれた歌詞がフィルは好きだった。フィルはワイングラスをサイドテーブルに置くと、オギーの腕を引っ張って立たせた。
「来て」
オギーの手を取ると、片手は自分と繋いで、もう片手は腰へと回し、スローダンスの時の構えを取らせる。彼は驚いたような表情は見せたものの、拒否はしなかった。
フィルはオギーが吐く煙を吸い込み、久し振りの煙草の味に酔いしれた。
「ショーパブで働いていた時の血が騒ぐの」
「ちょっと。酔ってるって認めてくださいよ」
「やだね、認めない。証明してあげるよ、僕は完璧に君をリードできるから」
するとオギーは煙草を咥えたまま、にやりと笑みで応えてきた。彼はフィルのリードに合わせて、少し広い場所へと移動してきた。しばらくはゆらゆらと身体を揺らすだけの動きをしていたが、フィルは、オギーがダンスも、ディナーに呼ばれるのと同じくらい経験がないことだと気づいた。足がもつれる度に、誤魔化そうとして笑っている。
「いつもワインで酔っ払ってこんな感じに?」
「そんなことないよ。あ、もしかして君がダンスできない理由を、僕が酔っ払っているせいにするつもり?」
「今、酔ってるって認めましたね。あなただってふらふらだ」
「違うってば」フィルは笑いながら首を横に振った。「これはそう……今楽しいせいだから」
「わかります。俺もこんなに――楽しいですっ!」
突然オギーがフィルの腰へ手を回してきた。フィルは彼の方へぐいと引き寄せられ、一方オギーは自分の身体をぐっと前へ乗り出す。その動きに比例して、フィルの身体は大きく仰け反る。補聴器のビーズストラップが肩から滑り落ちていく。
「うわっはは! オギー! 君も酔ってるんだ!」
「酔ってないですよ。だからあなたを落とさないでいられる」
煙が細くたなびくのが見える。オギーは、フィルの腰を支えて元の体勢に戻そうとした。
しかし、彼の思い通りにはさせてやるものかと、フィルはにやりと笑った。腹筋と背中の筋肉で自ら身を起こし、今度はオギーの腰へと手を回す。勢いよく身体を前へ倒し、彼をさっきの自分と同じ体勢にさせた。ただ、彼の身体は思ったほど仰け反らなかった。背中も腰も凝り固まっている。
「うおお!」オギーは悲鳴を上げたが、煙草だけは上手く歯で挟んでいた。
「この僕をリードするなんて百年早いんだから!」
「わかった、わかりましたから! 降参です!」
フィルはオギーを解放し、ソファへと突き飛ばした。背中からそこへ倒れた彼は、額を手で押さえながらくつくつと笑う。フィルも笑い、テーブルのグラスを取り上げると、オギーの隣へと腰を下ろした。傾いた眼鏡を元の位置に戻してテレビに視線を向けた時、曲が最後のサビに入り、終わりに向かい始めていることに気づいた。
フィルははっとした。
これでディナーは終わり、ダンスも終わり、そして今夜が終わる。身体を駆け巡る焦燥感が喉元に様々な言葉を運んできたが、それを口にするかは迷った。
(焦っちゃだめだ。こんなこと言ったって、この時間が永遠になるわけじゃないし、下手をすれば最悪の時間に変わってそのまま終わる。だって彼はまだ友達。まだ最高の友達。まだこれ以上の関係は望まない方がいい。だって……)
夕食はまだ全部片付けられてない……だけど、デザートの誘惑はあまりに強すぎる。あぁ、でもこれは生易しいご褒美なんかじゃない。暗闇の中に差した希望の光みたいだった。
フィルは残っていたワインをぐいと飲み干し、空になったそれをお守りのように抱く。
「ねぇ、オギー」
「はい?」
「やっぱり、僕、めちゃくちゃ酔ってるみたい」
「そうですよ。ようやく認めました?」
隣でオギーがむくりと起き上がる。彼がすぐ近くに腰を落ち着けたのがわかる。しかしフィルは彼の方は見ず、瞬きもせず、じっとテレビだけを見ていた。
「そう、今の僕はどうしようもない酔っ払いだよ。だからさ、これから僕が言うことは全部、酔っ払い四十路ゲイの戯れ言だと思って聞いて欲しいんだ」
「はは、いいですよ、何です?」
オギーがさらにこちらへ身を寄せてくる。
フィルはグラスを握り締めた。そしてすっかり乾いてしまった喉で声を絞り出す。
「……僕、君のことが好きかもしんない……」
とうとう曲が終わり、テレビからは割れんばかりの拍手と歓声が聞こえてきた。
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