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37:悪魔
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それから一時間ほどをかけてふたたび山の中腹までもどり、そこから、今度は右回りで徐々に山頂へと向かう段取りをたてた。
いまだ気力の衰えていない女たちが歩き出すと、男たちはあからさまなため息をついて、そのあとに続いた。
「なあ、ハナコ、ひとついいか?」
マクブライトが言う。
「なに?」
「今さらながらに考えてみたんだが、山頂にないってことは、秘密研究施設とやらは、ここらの電柱みたいにカムフラージュされている可能性が高いな。例えば、洞窟とかよ」
「……確かに、その可能性は高いかもしれないね。そういう――」
――ガサリ、
と、背後から音がした。
振り返って視線を送ると、トキオがうなずいて、アサルトライフルを音のしたほうへ向けて構えた。その横に並び、ハナコも拳銃を取りだして安全装置を外す。
――ガサリ、
また、落ち葉を踏みしめる音が聞こえた。
「追っ手かな?」
訊くと、
「悪魔のほうかもしれませんよ」
と、トキオ。
先頭からやってきたマクブライトが、釘打ち機を改造した〈ネイルガン〉を構え、口の前で人差し指をたてた。
その間にも、足音がどんどんと近づいてくる。
すでに山へ入ってから六時間ちかくが経ち、ずっと暮れなずんでいた森にはようやく深い闇の帳が降りつつあった。
だがそんな中でも、向こうからフラリフラリと力なく揺れながら近づいてくる影が、異常に大きなモノだということが分かる。
そして荒い息づかいとともに全貌を明らかにしたそれは、右に四つ、左に四つの目を持つまさに悪魔としか言いようがない、熊だった。下あごから猪のごとく突き出した二本の牙は鋭く、その息づかいから平静な状態ではないことは明らかだった。
「ケガ……」
三人が作った壁のうしろに隠れているアリスが、呟いた。
「なんだって?」
訊くと、
「あの子、ケガしてます」
と、アリスは熊を指した。
言われてよく見てみると、雨も降っていないのにもかかわらず、なぜか体毛に湿り気をおびた熊は、確かにどこかを負傷しているらしく、口から幾筋もの血を滴り落としていた。
「こいつは、相当やっかいだぞ」
マクブライトが息を漏らす。
「手負いの獣ほど、手に負えないものはないからな」
「そもそも、出くわすことはないって言ってなかったっけ?」
「それこそ平常時の話だよ。ああなりゃ見境がつかなくなるぞ」
「交戦は必死ってことですね」
トキオが言う。
「ああ、だがおれの合図を待て」
それから、永遠とも思えるようなあいだ睨み合っていたが、熊は微塵も動き出す気配を見せず、膠着状態が続いた。
狂獣の眼に射竦められ、頬を冷や汗が伝うのを感じる。
空気が脅え、背筋に冷たいものが這い上がるのを感じる。
鼓膜を揺らす葉擦れまでもが、静かになってゆくのを感じる。
この感覚を、ハナコは知っていた。
いや、思い出していた。
あの血にまみれた八月のことを……
鎮まるどころかさらに荒くなる熊の息づかいが、ハナコの胸中に、あの日々と同じ恐怖を湧き上がらせていた。
そして――
――ゆっくりと、熊が立ち上がった。
大きい。
山の中にいながら、山よりも遙かに大きく感じた。
「今だ!」
マクブライトの声で我に返ったハナコは、不慣れな拳銃の引き金を、引いて、引いて、引き続けて、引き続けた。
間断なく続く破裂音とストロボのように辺りを照らす光の中、雄叫びを上げつづける熊。トキオのアサルトライフルから放たれる弾丸は、下手くそな射撃手のせいで辺りの木々に傷をつけてゆく。
さきほどとは打って変わり、瞬く間に、辺りはまるで何ごともなかったのように静まり返り、葉擦れの音がおもむろに蘇った。
鼓動が大きく鼓膜を揺らし、ハナコは思わず息を漏らしていた。
「やりましたかね?」
微動だにしない熊を見ながら、トキオが不安げに言う。
「……ヤツの足元を見てみろ、チキショウ」
マクブライトに言われるがまま熊の足元へ目を凝らすと、信じられないことに、弾丸や、ネイルガンから吐き出された釘が散らばり落ちていた。
「嘘でしょ……?」
「あいにくと今日は四月一日じゃねえ」
諦めにも似た苦笑いを浮かべるマクブライトの言葉に呼応するかのように、ひとつ大きく唸った熊が、ふたたび前肢を地面に落とした。
恐怖は、いつのまにか絶望に変わっていた。
「どうするの?」
「どうするもこうするもねえ、逃げるぞ!」
言うが早いか、踵を返したマクブライトはアリスを抱え上げ、ハナコたちを顧みることもなく脱兎のごとく駆け出した。
「くそ、あいつ!」
追おうとしたハナコの肩を、トキオが掴む。
「なんだよ!」
「これを使ってみましょう!」
トキオの手には、例の辛子入り特製煙玉があった。
熊はその間にも前肢をかがめ、完全に臨戦態勢へと入っている。
「やれ!」
トキオがうなずき、煙玉を熊めがけて投げつけた。
赤い煙があがり、熊が一瞬ひるんだのが、煙の奥に見えた。
しかし――
――そんな代物が効くはずもなく、トウガラシ色の煙幕を引き裂いて、熊はハナコたちを目がけて地響きとともに突進してきた。
万事休すか!
それでもハナコは警棒を引き抜き、脅えるトキオを庇うようにして熊に向けて構えた。
「ネエさん……」
トキオの声が、はるか遠くに聞こえる。
――死ぬのだけは、死んでもイヤだ。
「チチチ チチチ チチチチチ」
姿の見えないクニオフィンチの鳴き声がどこからか聞こえ、ハナコはそれを驚くほど冷静に聞いている自分に気がついていた……
いまだ気力の衰えていない女たちが歩き出すと、男たちはあからさまなため息をついて、そのあとに続いた。
「なあ、ハナコ、ひとついいか?」
マクブライトが言う。
「なに?」
「今さらながらに考えてみたんだが、山頂にないってことは、秘密研究施設とやらは、ここらの電柱みたいにカムフラージュされている可能性が高いな。例えば、洞窟とかよ」
「……確かに、その可能性は高いかもしれないね。そういう――」
――ガサリ、
と、背後から音がした。
振り返って視線を送ると、トキオがうなずいて、アサルトライフルを音のしたほうへ向けて構えた。その横に並び、ハナコも拳銃を取りだして安全装置を外す。
――ガサリ、
また、落ち葉を踏みしめる音が聞こえた。
「追っ手かな?」
訊くと、
「悪魔のほうかもしれませんよ」
と、トキオ。
先頭からやってきたマクブライトが、釘打ち機を改造した〈ネイルガン〉を構え、口の前で人差し指をたてた。
その間にも、足音がどんどんと近づいてくる。
すでに山へ入ってから六時間ちかくが経ち、ずっと暮れなずんでいた森にはようやく深い闇の帳が降りつつあった。
だがそんな中でも、向こうからフラリフラリと力なく揺れながら近づいてくる影が、異常に大きなモノだということが分かる。
そして荒い息づかいとともに全貌を明らかにしたそれは、右に四つ、左に四つの目を持つまさに悪魔としか言いようがない、熊だった。下あごから猪のごとく突き出した二本の牙は鋭く、その息づかいから平静な状態ではないことは明らかだった。
「ケガ……」
三人が作った壁のうしろに隠れているアリスが、呟いた。
「なんだって?」
訊くと、
「あの子、ケガしてます」
と、アリスは熊を指した。
言われてよく見てみると、雨も降っていないのにもかかわらず、なぜか体毛に湿り気をおびた熊は、確かにどこかを負傷しているらしく、口から幾筋もの血を滴り落としていた。
「こいつは、相当やっかいだぞ」
マクブライトが息を漏らす。
「手負いの獣ほど、手に負えないものはないからな」
「そもそも、出くわすことはないって言ってなかったっけ?」
「それこそ平常時の話だよ。ああなりゃ見境がつかなくなるぞ」
「交戦は必死ってことですね」
トキオが言う。
「ああ、だがおれの合図を待て」
それから、永遠とも思えるようなあいだ睨み合っていたが、熊は微塵も動き出す気配を見せず、膠着状態が続いた。
狂獣の眼に射竦められ、頬を冷や汗が伝うのを感じる。
空気が脅え、背筋に冷たいものが這い上がるのを感じる。
鼓膜を揺らす葉擦れまでもが、静かになってゆくのを感じる。
この感覚を、ハナコは知っていた。
いや、思い出していた。
あの血にまみれた八月のことを……
鎮まるどころかさらに荒くなる熊の息づかいが、ハナコの胸中に、あの日々と同じ恐怖を湧き上がらせていた。
そして――
――ゆっくりと、熊が立ち上がった。
大きい。
山の中にいながら、山よりも遙かに大きく感じた。
「今だ!」
マクブライトの声で我に返ったハナコは、不慣れな拳銃の引き金を、引いて、引いて、引き続けて、引き続けた。
間断なく続く破裂音とストロボのように辺りを照らす光の中、雄叫びを上げつづける熊。トキオのアサルトライフルから放たれる弾丸は、下手くそな射撃手のせいで辺りの木々に傷をつけてゆく。
さきほどとは打って変わり、瞬く間に、辺りはまるで何ごともなかったのように静まり返り、葉擦れの音がおもむろに蘇った。
鼓動が大きく鼓膜を揺らし、ハナコは思わず息を漏らしていた。
「やりましたかね?」
微動だにしない熊を見ながら、トキオが不安げに言う。
「……ヤツの足元を見てみろ、チキショウ」
マクブライトに言われるがまま熊の足元へ目を凝らすと、信じられないことに、弾丸や、ネイルガンから吐き出された釘が散らばり落ちていた。
「嘘でしょ……?」
「あいにくと今日は四月一日じゃねえ」
諦めにも似た苦笑いを浮かべるマクブライトの言葉に呼応するかのように、ひとつ大きく唸った熊が、ふたたび前肢を地面に落とした。
恐怖は、いつのまにか絶望に変わっていた。
「どうするの?」
「どうするもこうするもねえ、逃げるぞ!」
言うが早いか、踵を返したマクブライトはアリスを抱え上げ、ハナコたちを顧みることもなく脱兎のごとく駆け出した。
「くそ、あいつ!」
追おうとしたハナコの肩を、トキオが掴む。
「なんだよ!」
「これを使ってみましょう!」
トキオの手には、例の辛子入り特製煙玉があった。
熊はその間にも前肢をかがめ、完全に臨戦態勢へと入っている。
「やれ!」
トキオがうなずき、煙玉を熊めがけて投げつけた。
赤い煙があがり、熊が一瞬ひるんだのが、煙の奥に見えた。
しかし――
――そんな代物が効くはずもなく、トウガラシ色の煙幕を引き裂いて、熊はハナコたちを目がけて地響きとともに突進してきた。
万事休すか!
それでもハナコは警棒を引き抜き、脅えるトキオを庇うようにして熊に向けて構えた。
「ネエさん……」
トキオの声が、はるか遠くに聞こえる。
――死ぬのだけは、死んでもイヤだ。
「チチチ チチチ チチチチチ」
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