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第二章「当世妖怪捕物帳」

第十一話「勘違い」

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 長屋に帰った夢野と綾女を待ち構えていたのは、遊び人の遠金であった。夢野の家の前で、他の長屋の住人と立ち話をして暇を潰していた。

「よお、お二人さん。朝帰りかい?」

「何を言ってやがる。遠金さんが言う事を真に受けて調査に行ってたんじゃねえか。何があん……まあいいや、中に入って話そうぜ」

 まさか他人に聞こえる場所で暗殺教団などと言う訳にもいかない。夢野と綾女は遠金を連れて長屋に入った。近所の住人達は訝しんだが、強引に自分も部屋に入る様な事はせずにそれぞれの仕事に向かって行った。

「って訳でさ。教光院の連中は暗殺教団なんかじゃねえぜ。呪詛の儀式をする単なる淫祀邪教の類だ。放っておいていいんじゃないかな?」

「いやいや、邪教も御法度だろうに」

 三人は茶をすすりながら、昨晩の情報を共有した。茶請けは遠金が持参した菓子である。どこの店で買って来たのかは不明だが、煎餅もきんつばも絶品であった。粋な遊び人とは、土産まで粋らしい。

「兎に角、俺は七面倒くせえ事に関わるつもりは無いぜ。今回調べに行ったのは、あくまで人命にかかわると思っていたからだ」

 人死にに関わる事件こそまさに面倒臭いものなのだが、夢野の価値基準ではそうではないらしい。命に関わる事ならば、例え危険が待っていても関わるべきだと思っているのであった。

「殺しの事件に、教光院が関わっていたって証拠が無いのも無理はないな。なんてったって、本当に関わっていないんだから。多分、誰かが夜に通りかかった時にあの呪文を聞いて、勘違いして流した噂を耳にしたんじゃないのかな」

「そんなもんかねえ?」

「そんなもんさ。両替商殺しとかも、単なる偶然なんだろう。大体、暗殺とかそんな危ない橋を渡るかね。普通」

「ま、普通は呪詛なんかしないだろうけどね」

「綾女、混ぜっ返さないでくれないか」

「はいはい」

 何にしても、遠金が持ち込んだ噂である暗殺教団疑惑は無くなったのだ、これ以上首を突っ込むつもりは夢野達には無い。それに、これまで書いていた読本が絶版になってしまったので、次の作品を執筆せねばならないのだ。

「江戸の闇に潜み、依頼を受けて悪党を討つ仕事人とかを描いたらどうだろうね?」

 そんな構想を夢野は語ってみせた。明らかに、今回調査した噂を元にした内容である。

「いやいや、そんな話、絶対に絶版になっちまうぞ。それに絶版だけじゃ済まないだろうぜ。反社会的な作品を書いて人々を惑わせたとか言われてもおかしくないぞ」

「そうかな? うむ、そうかもしれないな。もっと健全な話を書くか」

 かなり好き勝手な作品を書く夢野であるが、流石に昨今の出版事情は理解している。暗殺者を主人公に据えた作品など書いたりしたら、不満分子としてしょっ引かれる事は想像に難くない。それに、夢野は既に二回も町奉行所に捕縛されている前科持ちである。今度はお叱り程度では済まないかもしれない。

「そういえば、お前さん達が聞いたっていう呪詛は、誰を呪ってたんだ?」

「あ、言って無かったっけ。老中の水野忠邦様よ」

「ほう、そいつは大物を狙ってるな」

「そうだろ? 仮に本当に暗殺教団だったとしても、とてもじゃないが老中なんて殺すのは無理だろう」

 老中は普段は警戒厳重な江戸城で勤務している。とてもではないが暗殺者を送り込むなど不可能だ。あちこちに警護の武士が目を配っているし、噂では忍びも潜んでいるという。もしも狙ったとして、とても老中の所までたどり着けるとは思えない。

 そして、老中が自宅に戻った所を狙うのも困難である。老中になる様な大名の屋敷は江戸城のすぐ近くに配置されているので、屋敷と城の行き帰りを襲撃するのは難しい。また、屋敷に入ってしまえば江戸詰めの藩士達が主君を二六時中護衛している。こちらも、まあ狙るのは無理な相談だ。

 可能性があるとしたら、江戸城内で勤務する者が城内で行き合った時に襲撃するとか、数を頼んで屋敷を強襲するとか、忠臣蔵的な事をする以外に無いだろう。そして、例えそれをしたとして成功率は限りなく低い事に変わりは無い。

「しかし誰が水野様を呪ったりしてるんだろうな?」

「誰って言ってもね。大層恨みを買ってるだろうし、皆心の中で呪ってるんじゃないの?」

「そういえば、朝方も教光院から出て来た侍がいたな。あいつらじゃないのか?」

「そんな連中がいたのか。特徴は分かるか?」

 どういう訳か、遠金が食いついて来た。少し奇妙に思った夢野と綾女だったが、無視するのも悪いので何とか特徴を思い出そうとする。

「身なりは良かったんで、それなりに地位が高そうな連中だったな。残念だけど、家紋は覚えてないな」

「かなり腕はたちそうだったわね。町道場に通っていたら、師範代を務めるくらいの実力はありそうだったわ。そう言えば……」

 綾女は絵師として夢野の作品の挿絵を書く事が多いのだが、それ以外にも人物画や風景画を描く事もある。そのため、見たものを記憶するのは得意な方だ。

「全員、刀の鞘から柄まで、見事な金細工がしてあったわね。倹約でうるさいこのご時世なのに珍しいと思ったの」

 二人から特徴を聞き出した遠金は、礼を言うと椀に残っていた茶を飲み干し、長屋から立ち去って行った。
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