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第三章「都落ち侍のゆとりぐらし」

第四話「わらびでも食ってろ」

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「それではこれでお暇指せていただきます」

 しばらくの間鳥居と雑談した夢野は、鳥居の執務室からの離脱にかかった。妖怪と陰口を叩かれているだけあって、鳥居は一筋縄ではいかない人物である。こんな人間と長い間差し向かいで話していると、神経がすり減ってしかたがない。妖怪を題材にした読本を書いていた夢野であるが、妖怪の様な人間を好んでいるわけではないのだ。

「待て」

「……はい?」

 暇乞いをした夢野を、鳥居が呼び止めた。鳥居は町奉行という要職にある人間だ。しかも今月は月番であり忙しいはずである。それがこんな一介の戯作者を呼び止めるとは、一体どうした事であろう。

「これから話すある事柄に対して、お前の考えを聞かせて欲しい。あまり気負わず、忌憚のない意見を聞かせてくれ」

「はい、出来る限りは」

 忌憚のない意見をなどと言っているが、その言葉の主は数々の政敵を追い落とし、民に苛烈な政策を強いる鳥居耀蔵である。本当に忌憚のない意見などを言ってしまっては命が幾つあっても足りやしない。夢野は警戒を強めた。

「これから話すのは、さる大名家の話である」

 鳥居が語ったのは、次の様な話である。

 とある大名家には跡継ぎに恵まれず、弟を後継者とする事になった。

 ここまではよくある話である。

 そして、弟を後継者として内定したのは良いものの、その後すぐに妾との間に子供が生まれてしまった。しかも男児である。後継者問題の火種である。

 ここまでもよくある話である。

 だが、この後が少々その大名家では違っていた。大名であった兄は生まれた子供を即座に他家に養子に出し、自らは隠居して弟に家督を譲ってしまったのである。普通なら文句の一つも言いそうな妾も尼となり、その処置を受けいれたのである。そして家臣達も、流石は我らが殿よとその仁を褒め称えたのである。

 登場人物の人間が出来過ぎていて怖い位である。普通ならここでお家騒動の一つや二つ起きてもおかしくはない。

 そして大名の地位を譲られた弟も、普通とは違っていた。時間が経ち、他家に養子になっていた甥に男児が生まれると、その子を養子として引き取ったのである。そして、甥を跡継ぎにすると宣言したのだ。その大名には、養子と同世代の男児がいるにも関わらずである。

 ここまで来ると、わざとお家騒動を起こそうとしているのかとすら思えて来る。

 だが、大名の実子と養子も只者ではなかった。幼少の頃からともに武芸や学問に励み、争いなどせず仲良く育ち、長じては互いに跡継ぎの座を譲り合ったのである。

 実子の言い分としては、本来大名となるべきは養子の血筋であり、父は偶然その地位を預かっただけであり、その息子である自分よりも前藩主の実子の方が相応しいとの事だ。

 養子の言い分としては、父が弟に藩主の座を譲ると約束した後に自分の父が生まれたのであるから、その子である自分が藩主になる正当性など無い。現藩主の実子が跡を継ぐべきだと言う事だ。

 双方の言い分が正しいようでもあり、間違っている様でもある。ただ、互いに大名の地位を譲り合うのは麗しい事であるが、いつまでもそんな事をしていては、藩政がまとまらず家臣も民も迷惑であろう。

 と夢野は思ったのだが、どうやら家臣は流石は仁に篤いお二方よと褒め称え、民も上に立つ殿様たちは名君であると喜んでいたのであった。まあ、実害が無ければそんなものかもしれない。そもそも大名の跡継ぎは江戸に住むものであるから、国元の民や家臣は直接顔を見た事も無いのである。この藩主一族は、学問に優れ欲望に負けないその性質から、大きな失政をしていないと言う事も好評を後押ししている。

 だが、そんな中で大変な事が起きた。

 跡を継ぐはずであった実子も養子も、出奔してしまったのである。互いに後継者の地位を譲り合った結果である。気の合う事に、同時期に書置きを残して姿を眩ました。書置きには、相手を後継者として盛り立ててくれと揃って書かれていたのである。

「どう思う?」

「わらびでも食って生きてるんじゃないですか?」

「それだとそのうち餓死してしまうではないか。しかしよく伯夷と叔斉の事を持ち出したものだな。やはりお主は学問をかなりやっていた様ではないか」

「はは、それ程でもありませんよ。伯夷と叔斉の話は有名ですからね。寺子屋に通う子供だって史記の内容を断片的に聞いて覚えているでしょう」

 夢野が「わらびでも食って生きているのでは」と答えたのは、史記の伯夷列伝の内容を踏まえての事だ。伯夷と叔斉は古代中国の王子である。伯夷は長男、叔斉は三男であったが、互いに王位を譲り合い、最終的に共に出奔してしまった。そして王位は次男が継いだ。

 流浪の身となった二人であったが、王家の暮らしから離れても清廉潔白な生き方を貫いた。だがその性質が災いし、とある事がきっかけで穀物を食べる事を止め、わらびなどの山菜のみを食べて暮らしていたが、ついには餓死してしまった。

 この事を夢野は言っているのである。まあ一種の皮肉ではある。

「伯夷と叔斉には他にも兄弟がいたのだから良かったのだがな。残念ながら他に兄弟はいない」

「他に養子をとれば良いではないですか。どこの大名家でもやっているでしょうし、昔縁組をして血縁のある家だってあるのでは?」

「それはもっともだし、幕府としてもその方向で話を進めようとしていた。だが、水戸様が介入してきてな。その感心な兄弟のどちらかに藩主の地位を継がせるべきだと強硬に主張してきたのだよ」

「なんで水戸様が……そういえば、水戸家でも似た様な事があったのでしたね。それに大の儒学好きのお家柄ですから、こういう話には目が無いのでしょうね」

 御三家の一つである水戸徳川家にも、鳥居が語った様な家督相続に絡む事件があった。かつて水戸藩主に徳川光圀という人物がいたのだが、彼は兄を差し置いて水戸藩主になった事を後悔していた。光圀の兄も、別の藩を立てる事が許されたのであるが、水戸藩とは格が相当に違う。そのため、光圀は兄の息子を養子として水戸藩を継がせてしまった。その一方兄は光圀の実子を養子に迎え、自分の藩の跡を継がせている。

 この様な事から、鳥居が話した大名家の件を他人事と思えなかったのだろう。

「水戸様がうるさいので町奉行所でも探しているのだが、流石に手が足りん。それに、犯罪人を探すのとは勝手が違うしな。だから、お前も何か分かったら情報を提供して欲しい。もしもそれが有力な情報であったが、今回のお前の書いた読本の件は不問にするとしよう」

 面倒くさい事になったと、夢野は心の中で嘆いた。


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