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第三章「都落ち侍のゆとりぐらし」

第十二話「夢野の決意」

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 鳥居耀蔵との面会を終え、町奉行所の外に出た夢野を待ち構えていたのは、見知った顔であった。遊び人の遠金である。以前、こうして町奉行所の外に出た時に知り合い、何となく気が合ったので何度か行動を共にしたのだ。

 遠金は喧嘩の腕が滅法立ち、夢野が危機に陥った時何度も助けてくれたものである。遊び人ではあるが、役人にも伝手があるようでそちらの方面でも助けられていた。

「よっ、夢野先生。今日も鳥居に捕まったんか? 一昨日捕まったばっかりだそうじゃないか。今度は何をしたんだ?」

「いや、ちょっとね」

 夢野は少し元気なさげに答えた。

「ふ~ん? いつもなら、門から出て来るなり町奉行所に向けて屁をぶっかけてやるじゃねえか。どうだい? 一発やったら元気になるんじゃねえのかな?」

 遠金は門の方を指さしてそんな益体も無い事を言う。これまで何度も夢野の屁を食らって悶絶した門番は、青い顔をしている。

「そんな気分じゃねえな。おい、お前さんも安心しな」

 夢野は門番に無体な所業には及ばない事を述べると、そのまま町奉行所から離れる様にして歩き出した。そして二人は、どちらが言うとでも無く行きつけの居酒屋に入る。そして座敷に入ると酒を黙って酒を酌み交わした。

 半刻ほど飲んだところで、夢野が口を開く。

「鳥居から、町奉行を題材にした読本を書けって言われたんだ」

「へえ? 中々上手い事を考えたもんだな」

「おい、俺はあいつに取り入った訳じゃないぜ」

「そんな勘違いなんかしてないさ。町奉行が人気取りには良い手段って意味だよ。まあ、嫌な意味で捉える奴もいるかもしれんな」

 戯作者として人気を博する夢野であるが、最近は町奉行から何度も摘発されて商売あがったりである。だが、町奉行の手先となって宣伝するような本を書けば、摘発される恐れは無い。保身を考えればそれは正しいかもしれない。だが、それは読者への裏切りとも言える。

「別に俺は、町奉行を題材にした話を書く事自体は嫌じゃないんだ。鳥居に話を持ち掛けられた瞬間、色んな話が頭に浮かんだよ。昔の名奉行大岡越前を主人公にした話、昼行灯の同心が裏で悪党を成敗する話、大身旗本の世間知らずな若君が同心になって周囲をあたふたさせる話、ほんとに色んな話だ。でも、そういうのは書きたいから書くんだ。誰かに言われて書くんじゃねえ」

「でもよ。版元からこんな話でお願いしますって、依頼を受けて書く事もあるんだろ? なら良いじゃねえか」

「理屈じゃそうかもしれねえ。だけど、そうじゃねえんだよな」

「言葉には出来ないが、分からなくもないな。うん、分かるぜ、そう言う気持ち」

 そこで二人は一旦言葉を区切り、双方一気に酒をあおった。そして、そこからは話を切り替えて雑談に入った。

 二人の話は、長屋の住人の話や昨日解決した取手藩の事件、学問の話など多岐に渡る。遊び人に過ぎないはずの遠金であるが、事件の話は耳にしていたらしく裏事情を聞いて驚いていたし、学問の話にもしきりに相槌を打った。

「夢野先生、本当よく知ってるなあ。流石は昌平坂学問所きっての秀才と言われただけの事はあるな。学問吟味でも受ければ、首席でもとれたんじゃないか?」

「……どこでそれを?」

 遠金の言葉に夢野の表情が硬くなる。それまで酔いで顔がほんのり朱かったのが、一瞬にして素面の様だ。学問吟味は数十年前に老中松平定信が改革の一環として導入した政策である。簡単に言ってしまえば、筆記試験により受験者を評価し、優秀な者はその身分によらず重要な役職に取り立てると言う事である。実際、学問吟味により取り立てられた者は多いのだが、それは狭き門であり、生半可な秀才では歯が立たないだろう。

「さてねえ?」

「ああ、そうか。あんたの親父さんの遠山景晋殿は学問吟味で首席だったんだっけ。」

「なんだ、そっちも俺の事を気付いていたのか」

「遠金ってさあ、もう少しまともな偽名を使ったらどうだい? 北町奉行、遠山金四郎様」

 遊び人の遠金の正体は、北町奉行を務める遠山景元であった。夢野は前々から怪しいと思っていたのだが、この前の事件で北町奉行の役人を隠密裏に呼び寄せた事で確信に変わったのだ。

 遠山金四郎の家柄は、本来町奉行職を務められるような家柄ではない。だが、金四郎の父遠山景晋が学問吟味に首席で合格した事により家運が上昇した。遠山景晋は長崎奉行や勘定奉行を歴任し、その息子である金四郎も要職に就く事が出来たのである。

「世間って広いようで狭いよな。剣の世界でもどこそこの道場のあいつは凄いっていうのが流派を超えて聞こえて来るんだぜ。学問の世界でも昌平坂学問所に神童が入って来たとかの噂は、隠居した親父にも伝わったんだ。おかげで、俺はそいつと比べられちまったぜ。夢野さん……いや、御家人の朝霞丹前だったな。ああ、別に恨んでいる訳じゃないから、そこは気にしなくていいぜ」

「古い話ですよ。もう御家人株を売ってしまったから武士の朝霞丹前じゃない」

 夢野は目をつむり、昔の事に想いを寄せた。

「何で武士を辞めちまったんだ? 学問吟味に合格すれば、言っちゃ悪いが小普請組の貧乏生活からは一気に脱出できたぜ? 皆不思議に思ってたぞ」

「そんな事より、あんたが町奉行にも関わらず遊び人の格好をして出歩いている事の方が、よっぽど不思議だと思うがな」

 それはそうである。

「いや、これはさ。民情を知るというか、なんというか」

「昔無頼の輩に混じって暴れてたって話は知ってるさ。まあそういう事もあるよな」

「おお、そうだぜ」

「まあ隠すつもりは無いさ。実は昌平坂学問所に通っている事から戯作者としてこっそり書いていたんだが、このまま学問を続けて学問吟味に合格なんかしたら、それが出来なくなるんじゃないかって思ったんだ」

 金四郎と同じ時期に学問吟味に合格した者として太田南畝という者がいるが、彼は文人として名が知られている。だが、学問吟味に合格して出世を果たした結果、創作活動を上司に咎められるようになってしまったのである。

「それで、御家人株を売って今に至るって訳だ」

「おいおい、武士を投げ出して好きな事をやってるやつが、藩主の後継者になる事を投げ出して逃げた奴に説教かましたってのか? そいつは悪人だねえ」

「違いない」

 二人は笑い合い、酒を進めていった。そして昌平坂学問所の最近の噂や、金四郎が彫り物をしているというのは本当かなどという話をした。

 夢野が語った武士を辞めた理由には、金四郎に語らなかったもう半分の理由がある。

 夢野が暮らしていた貧乏旗本が軒を連ねる地域の側に、一人の女が住んでいた。その女は売れない絵師の娘であり、夢野が通っていた柔術の道場や学問所に幼少時から共に通った仲であり、いわゆる幼馴染であった。

 父親の絵師が死んだ頃、何処からともなく莫大な借金の証文を持った高利貸しが現れ、金を返せと要求してきたのである。そして返せなければ、身売りして返せと言ってきたのである。もちろん女の家にそんな金は無い。助けたくとも夢野の家にもそんな金は無かった。

 悩んだ末、御家人株を売ってその借金を返済する事を決断したのである。

 夢野は高利貸しに借金を叩きつけにその店に行った。そして夢野が目にしたのは、幼馴染の女によって叩き伏せられた高利貸しとその用心棒達の無残な姿であった。しかも、借金の証文は偽造であった事が判明し、借金は当然ちゃらとなった。

 しかしながら、だからといって夢野が武士に戻る事は出来ない。結局、戯作者として生きる道を選択したのである。どういう訳か、幼馴染の女もついて来てくれて絵師として夢野の作品に挿絵を提供してくれている。

 幼馴染の女の名は、当然の事ながら綾女である。

 この様な色んなすれ違いがあった事から、今でも微妙な関係が続いているのだ。

「話を戻すけどさ。どうすんだ? 鳥居の要求を受けて書くのか?」

「う~む」

「言っておくがよ。鳥居は抜けている様に見えて油断がならん奴だぜ。多分お前の素性にも気付いている。学問の世界はあいつの生まれである林家が頂点だ。お前の話を知っていても何もおかしくはない。断ったら、何が起きるか分からんぞ」

「そうですか?」

「おおよ。実はあの野郎、老中の水野忠邦様の引きで出世しておきながら、水野様を裏切るつもりだぜ」

「本当ですか?」

「ああ、水野様が上知令っていう政策を打ち出したんだが、それに反発が強くてな。失脚しそうなんだ」

 上知令は、江戸や大坂の周囲の土地を、幕府の直轄にしようという政策である。この範囲内に領地を持つ大名や旗本は、別の土地に領地を移らなくてはならない。先祖伝来の土地を離れなくてはならない者もおり、大勢が反発している」

「ん? その上知令はもしかして取手藩も含まれてるのか?」

「話が早いな。江戸から十里が基準になってるから含まれるな」

「なるほど、だから取手藩に恩を売っておいて、反水野派に寝返る準備をしてたって訳か」

 ここまで恐るべき変わり身を見せられると、妖怪という世間での評判は当たっている様に思えて来る。

「更に言うと、俺はもうすぐ町奉行じゃなくなる。大目付になるんだ」

「それは出世のはずですが……」

「ま、面倒臭いやつを排除したって事だな。あいつとは色々対立したから面白くないんだろ」

 鳥居と同格の金四郎ですら、鳥居の策謀にはめられたのである。一介の戯作者である夢野には荷が勝ち過ぎる相手である事は分かった。

「分かりました。鳥居の依頼を受けるとしましょう」

「おう、そうかい。別にあいつの思い通りにするのは面白くないんだが、お前さんがこの先処罰されたら寝覚めが悪かったんだ。そう言ってくれると安心だ」

 そこで酒宴は打ち切りになり、二人はすっかり暗くなった江戸の町に出て行った。

 その時夢野の心には、とある決意が漲っていたのである。

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