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江口の戦い 2
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足利義藤(後の足利義輝)は、十一歳で父・足利義晴から征夷大将軍の位を受け継いだ。それも細川家の勢力争いが元で、細川氏綱を追い出そうとする細川晴元の策謀だった。それに反対し、細川氏綱側に付いた三好長慶を討伐するため摂津へと兵を進める事になった。後ろ盾となった細川晴元の用意した兵は三万。一万ほどの三好長慶の兵を蹴散らして、威勢を見せつける狙いがあったため、甲冑を着て馬に乗るのも初めてである義藤が総大将に据えられていたのだ。
雷光となって雲をかき分けて天に上る龍を模した兜飾りに、赤や黄色の見た目の派手な鎧を着込んだ近侍を引き連れての行列は見事ではあったが、お飾りである事は言うまでもない。
それでも、当の本人は、初陣の緊張感に苛まれ、神崎川と淀川に囲まれた江口城へ入った頃には疲れ果てていた。城と言っても簡単な柵と土塁で囲まれただけで、野営しているのと変わらない。むしろ戦場の雰囲気を感じさせて、へとへとに疲れているのに気持ちが高ぶって眠気を感じられない。それに川を挟んでいるとはいえ、僅かな距離しか離れていない別府村に敵が布陣している。いつ夜襲が来るか気が気ではなく、陣幕の内側をそわそわと歩き回っていた。
「眠れませんか?」
陣幕の内側を覗き込むようにして声をかけた男は、鎧は付けているが兜は被らずに、布に金属の板を縫い付けた額当てをしていた。義藤の補佐として同行している伊勢貞孝だった。年は二十三と、まだ若いが前の将軍・足利義晴に才能を買われ義藤の教育係に抜擢されるほどの人物。戦の経験もあり兵法にも明るく、この様な場所でも堂々としている。
「兵が戦の準備をしているのに、自分だけ休んいる訳には……」
「見張りの兵も交代で休んでいますよ。まぁ、初陣で気が高ぶるのも仕方ありませんが……、もうじき夜も明ける事ですし、少しばかり見回りに出ますか? 体を動かせば緊張もほぐれますから」
「城から出るのか?」
義藤は目を丸くして答えた。暗い中敵がいるかもしれぬ場所へ出て行くなど、考えもしていなかったのだ。
「大した事ではございませんよ。敵陣は川の向こう。それに、この辺りは見通しが効く割に足場が悪く、そうそう奇襲を掛けられる場所ではありませんからね」
貞孝の言葉の意味はよく分からなかったが、普段と変わらぬような話し方に気が楽になる。それに戦場となる場所を見て回れば、いざ合戦が始まっても緊張せずに済むかもしれないと思い、その言葉にうなずいた。
甲冑を着て兜をかぶり馬の背に乗る。隠密に出かける筈が、供回りの者にさらに護衛が付き、数十名の行列となっていた。城の柵から外へ出ると、周辺は真っ暗で何も見えなかったが、これだけの人数に囲まれていれば心強かった。静かに馬を進ませるうちに闇に眼も慣れてくる。ぴちゃぴちゃと蹄が水を跳ねる音が聞こえてくると、暗い影でしかなかった周囲の地面が、空に輝く星を映し出し眩く光り始める。地面と空の境い目がなくなり、夜空の中を上って行くようにさえ感じられた。
「お気を付けください。この辺りには、川から溢れた水が溜まって底の無い沼になっている場所もありますので」
伊勢貞孝の声に現実に引き戻された。星空を映し出しているのは、そこかしこにある底なしの沼の水面だった。美しさとは裏腹に恐るべき姿を秘めているのだ。気を引き締め直し、足元に注意していると、水面に映った星が一つ、また一つと、消え始める。代わりに頭の上が、ぼんやりと灰色に変わり始める。夜が明け始めたのだ。まだ暗い東の山々へ顔を向けると、空との境界線に白い光の筋が入った。星々に代わって、降り注ぐ日の光は眩く、輝きを増す空と相まって、足元の水面に長く伸びる山の影は、墨のように黒く水面を染め上げていた。
その影の中に、葦の穂のように並んだ槍の穂先が揺れていた。
――敵兵だ!
その言葉が頭をよぎった瞬間、目の前が真っ白になった。
気が動転して、周囲が見えなくなった訳ではない。文字通り、手を伸ばした先でさえ見えないほどの霧に包まれたのだ。湖面から湯気のように立ち上る霧を見た事があるだろうか。白い筋が沸き上がったと思うと、見る間に谷を埋め尽くすほど広がる。冷えた空気が日の光で温められた瞬間、飽和していた水蒸気がぶつかり合い湿気のはらんだ霧が湧き上がるのだ。湿気の溜まりやすい低地では、よくある事とも言えたが、それが川の水面より低い場所となればなおさらだ。湧きあがった霧は、逃げ場もなく更に温められるまでその場に留まる。その様な地に住み慣れた者たちでさえ、霧が晴れるまで家の中でじっと耐える。初めて目のあたりにした者にとっては、それが触れてはならない物であるかのように感じられた。
「どこからこんな霧が?」
近くにいる者は義藤を中心に円陣を組み始めたが、騎馬が見えないほど離れてしまった者たちはどこに集まってよいのかも分からず。足元の泥水を避けながら霧の中を槍で探りながら進んでいた。
「敵襲だ!」
不意に上がった叫び声に、恐る恐る霧の中を探って居た者たちも一斉に走り出した。水の跳ねる足音。叫び声。視界を遮られた恐怖に耐えかねた者が悲鳴を上げて槍を振り回す。それが悪い事に、馬の尻を打った。
突然、尻を叩かれた馬は棹立ちになった。
馬は空を飛ぶように走り、振り落とされぬよう力一杯しがみ付いていたが、走り出した時と同じく、突然立ち止まった。パラパラと周囲に落ちる重たい雨音、馬の背に跨っているのに腿に浸み込んでくる冷たい湿気。泥の沼にはまったのだ。
馬は背まで泥に浸かっていた。這い上がろうと泥の中で足を掻くたびに少しずつ沈んでいくのを感じる。底がどれ位の深さなのか分からないが、このままでは馬と一緒に沈んでしまう。沈まないためには、鞍に両手を置いて体重を支え両足を引き抜く。体重を駆けられた馬が抗議するように嘶いたが、馬の様子を気に掛ける余裕もなく、両手を広げて泥の上に寝そべった。泥の表面を撫でるように大きく腕を回しながら、足で泥を蹴って少しずつ前に進むと、指先に短い草が触れた。
地面だ。
草の生えた地面に爪を立て体を引き寄せ、堅い地面に尻を乗せると、ようやく体から力が抜けため息が漏れた。足を泥の上に投げ出したまま手で支えて体を起こすと、いくらも離れていないところに泥から突き出た馬の頭があったが、もう、引き上げられはしないだろう。その運命を知ってか知らずか、馬は悲しげに鼻を鳴らし、答えるように狼の遠吠えが聞こえた。
雷光となって雲をかき分けて天に上る龍を模した兜飾りに、赤や黄色の見た目の派手な鎧を着込んだ近侍を引き連れての行列は見事ではあったが、お飾りである事は言うまでもない。
それでも、当の本人は、初陣の緊張感に苛まれ、神崎川と淀川に囲まれた江口城へ入った頃には疲れ果てていた。城と言っても簡単な柵と土塁で囲まれただけで、野営しているのと変わらない。むしろ戦場の雰囲気を感じさせて、へとへとに疲れているのに気持ちが高ぶって眠気を感じられない。それに川を挟んでいるとはいえ、僅かな距離しか離れていない別府村に敵が布陣している。いつ夜襲が来るか気が気ではなく、陣幕の内側をそわそわと歩き回っていた。
「眠れませんか?」
陣幕の内側を覗き込むようにして声をかけた男は、鎧は付けているが兜は被らずに、布に金属の板を縫い付けた額当てをしていた。義藤の補佐として同行している伊勢貞孝だった。年は二十三と、まだ若いが前の将軍・足利義晴に才能を買われ義藤の教育係に抜擢されるほどの人物。戦の経験もあり兵法にも明るく、この様な場所でも堂々としている。
「兵が戦の準備をしているのに、自分だけ休んいる訳には……」
「見張りの兵も交代で休んでいますよ。まぁ、初陣で気が高ぶるのも仕方ありませんが……、もうじき夜も明ける事ですし、少しばかり見回りに出ますか? 体を動かせば緊張もほぐれますから」
「城から出るのか?」
義藤は目を丸くして答えた。暗い中敵がいるかもしれぬ場所へ出て行くなど、考えもしていなかったのだ。
「大した事ではございませんよ。敵陣は川の向こう。それに、この辺りは見通しが効く割に足場が悪く、そうそう奇襲を掛けられる場所ではありませんからね」
貞孝の言葉の意味はよく分からなかったが、普段と変わらぬような話し方に気が楽になる。それに戦場となる場所を見て回れば、いざ合戦が始まっても緊張せずに済むかもしれないと思い、その言葉にうなずいた。
甲冑を着て兜をかぶり馬の背に乗る。隠密に出かける筈が、供回りの者にさらに護衛が付き、数十名の行列となっていた。城の柵から外へ出ると、周辺は真っ暗で何も見えなかったが、これだけの人数に囲まれていれば心強かった。静かに馬を進ませるうちに闇に眼も慣れてくる。ぴちゃぴちゃと蹄が水を跳ねる音が聞こえてくると、暗い影でしかなかった周囲の地面が、空に輝く星を映し出し眩く光り始める。地面と空の境い目がなくなり、夜空の中を上って行くようにさえ感じられた。
「お気を付けください。この辺りには、川から溢れた水が溜まって底の無い沼になっている場所もありますので」
伊勢貞孝の声に現実に引き戻された。星空を映し出しているのは、そこかしこにある底なしの沼の水面だった。美しさとは裏腹に恐るべき姿を秘めているのだ。気を引き締め直し、足元に注意していると、水面に映った星が一つ、また一つと、消え始める。代わりに頭の上が、ぼんやりと灰色に変わり始める。夜が明け始めたのだ。まだ暗い東の山々へ顔を向けると、空との境界線に白い光の筋が入った。星々に代わって、降り注ぐ日の光は眩く、輝きを増す空と相まって、足元の水面に長く伸びる山の影は、墨のように黒く水面を染め上げていた。
その影の中に、葦の穂のように並んだ槍の穂先が揺れていた。
――敵兵だ!
その言葉が頭をよぎった瞬間、目の前が真っ白になった。
気が動転して、周囲が見えなくなった訳ではない。文字通り、手を伸ばした先でさえ見えないほどの霧に包まれたのだ。湖面から湯気のように立ち上る霧を見た事があるだろうか。白い筋が沸き上がったと思うと、見る間に谷を埋め尽くすほど広がる。冷えた空気が日の光で温められた瞬間、飽和していた水蒸気がぶつかり合い湿気のはらんだ霧が湧き上がるのだ。湿気の溜まりやすい低地では、よくある事とも言えたが、それが川の水面より低い場所となればなおさらだ。湧きあがった霧は、逃げ場もなく更に温められるまでその場に留まる。その様な地に住み慣れた者たちでさえ、霧が晴れるまで家の中でじっと耐える。初めて目のあたりにした者にとっては、それが触れてはならない物であるかのように感じられた。
「どこからこんな霧が?」
近くにいる者は義藤を中心に円陣を組み始めたが、騎馬が見えないほど離れてしまった者たちはどこに集まってよいのかも分からず。足元の泥水を避けながら霧の中を槍で探りながら進んでいた。
「敵襲だ!」
不意に上がった叫び声に、恐る恐る霧の中を探って居た者たちも一斉に走り出した。水の跳ねる足音。叫び声。視界を遮られた恐怖に耐えかねた者が悲鳴を上げて槍を振り回す。それが悪い事に、馬の尻を打った。
突然、尻を叩かれた馬は棹立ちになった。
馬は空を飛ぶように走り、振り落とされぬよう力一杯しがみ付いていたが、走り出した時と同じく、突然立ち止まった。パラパラと周囲に落ちる重たい雨音、馬の背に跨っているのに腿に浸み込んでくる冷たい湿気。泥の沼にはまったのだ。
馬は背まで泥に浸かっていた。這い上がろうと泥の中で足を掻くたびに少しずつ沈んでいくのを感じる。底がどれ位の深さなのか分からないが、このままでは馬と一緒に沈んでしまう。沈まないためには、鞍に両手を置いて体重を支え両足を引き抜く。体重を駆けられた馬が抗議するように嘶いたが、馬の様子を気に掛ける余裕もなく、両手を広げて泥の上に寝そべった。泥の表面を撫でるように大きく腕を回しながら、足で泥を蹴って少しずつ前に進むと、指先に短い草が触れた。
地面だ。
草の生えた地面に爪を立て体を引き寄せ、堅い地面に尻を乗せると、ようやく体から力が抜けため息が漏れた。足を泥の上に投げ出したまま手で支えて体を起こすと、いくらも離れていないところに泥から突き出た馬の頭があったが、もう、引き上げられはしないだろう。その運命を知ってか知らずか、馬は悲しげに鼻を鳴らし、答えるように狼の遠吠えが聞こえた。
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