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中山信正の娘

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 酔いを醒まそうと縁側に出ると、頬を撫でる夜風の心地よさに夢心地となった。

(こんな事をしている場合じゃないのに……)

 ふらつく足取りで、ふらつく頭を支えようと、もたれ掛かる柱を探して頭を巡らすと、離れへと続く渡り廊下の柱の足元から鮮やかな薄紅色の着物の裾が見え隠れしていた。
 夜の闇の中に昼の日が差し込んでいるかのような鮮やかさで、そこのあるだけで優雅さを物語っていたが、当の本人は懸命に柱の陰に身を隠しているつもりのようであった。いくら細身でも柱の陰に隠れるには無理があるだろう。

(……この香りは?)

 夜風に微かに混じる香りに覚えがあった。
 それは、昨夜、額に当てられていた絹の端切れと同じ香りだった。

「これは、もしや貴方が?」

 懐から取り出した端切れを掌に載せて差し出す。

「…………」

「昨夜、酔った私を介抱してくれたのは貴方ですか? ありがとうございます」

「……あっ。……はい…………」

 本当に見つかっていない心算だったのか、声をかけられたのが自分であるとしばらく気が付かず、じっとしていたが、周りを見回して誰も居ないことに思い当たると、慌てて恥じ入るように答えた。

「……その…………この様な夜遅くに申しわけございません。私は中山信正の娘にございます」

「ここは貴方様のお屋敷、貴方を咎める者など居りません」

「いえ、違うんです! 直家様、お逃げください」

「どうしたんですか? 落ち着いて……」

「……はい、すみません。…………直家様、お逃げください」

 落ち着かせようと大きく息を吸わせたが、口調は違えど同じ言葉を繰り返しただけだった。

「私は何から逃げねばならないのですか?」

「何か……良くない物です」

 興奮しているのか、今ひとつ要領の悪い娘だ。

「まず……何があって、ここへ来たのですか?」

「それは、直家様が『また、明日の夜、会いましょう』と、おしゃったので……」

「そっそうでしたか……」

(酔って、そんな約束をしたのか?……)

 いや、それでは話がかみ合わない。

「あの……それで、今日の昼に、父が遠藤兄弟と話しているのを聞いたのです。

 それは、私が庭の片隅を歩いていた時でした。
 父の部屋へ人目を忍んで近づく人影を見たのです。驚いて、植木の陰に隠れて様子を見ていたのですが、そしたら人影は足音も立てずに部屋の中へと入っていったので、こっそりと庭から近づいてみたのです。
 すると、部屋の中から話し声が聞こえてきたのです。

「……今のところ、首尾は上々かと。しかし、感づかれてしまえば、厄介ですよ」

「気づくまい。目の前の敵の相手をするので精いっぱいで、直ぐに後ろまで首が回らなくなる」

「上手く釣り出せれば、戦場では何が起こるか分からないと言う事を思い知らせてやれますからね」

「うむ、まったくじゃ。どこの誰に討ち取られたかも分かるまい。しかし、備中の手はずは整って居るのじゃろうな?」

「はい、もちろんでございます。我らが開戦の狼煙を上げれば……」

 そこまで聞いたとき廊下を歩いてくる足音が聞こえてきたので、庭伝いに部屋に戻ったのです」

 彼女は思いのほか事細かく会話を再現してくれたが、肝心な部分がよく分からない。

「なるほど、中山信正殿と遠藤兄弟がそんな話を……」

(暗殺の目標が、この俺だと?……)

「お逃げください! 遠藤兄弟は、三村家から来た者たちだと、家中の者が申しておりました」

「備中衆を率いる三村家ですか……」

 遠藤兄弟が以前、三村家に身を寄せていたのは聞いている。
 問題は、中山信正が遠藤兄弟を雇い入れた目的だ。――暗殺。そう考えるのが妥当だろう。しかし、その相手となると、目算だけで決めつけるのは危険だった。
 三村家は毛利家の配下と言っても過言ではない。遠藤兄弟の標的に中山信正の意図だけでなく、毛利家の意図がからむならば、尼子の勢力に与する者も備前・美作の勢力の誰もが標的となる可能性がある。

(……誰が標的でもおかしくはないか)

「私は不安で、夜も眠れずにいるのです。直家様がお逃げにならないのであれば、私が遠藤兄弟を討ち果たします」

「まぁまぁ、落ち着いてください。何も私が暗殺されると決まったわけではありませんので」

「暗殺ですって? 何と恐ろしい。直家様、私はどうすればよいのですか?……」

「御心配なさらずとも……、今宵はもう遅い、部屋にお戻りください」

 中山信正の娘はそれからもしばらく、自分がどれだけ心配しているかのような話をしていたが、最後は側女に手を引かれて仕方なくといった様子で部屋に戻っていった。

「……これが睡眠時間を削るための策略じゃないとも言えんな」

 しかし、遠藤兄弟を道楽で囲っているわけではない。
 より警戒しなければならない事だけは確かだった。
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