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備中高松城、水攻めにて

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 備前・美作を支配していた宇喜多家が織田家に降伏した。
 その結果、荒木村重は城と家族を捨てて逃走。孤立した別所長治は自害し、黒田職隆は息子の孝高を羽柴家に仕えさせ表舞台から姿を消した。
 塗り替えられた勢力図は、二か国の支配権が動いただけの意味では終わらない。今まで織田家と毛利家の間で緩衝材の役割をしていた宇喜多家が織田家につけば、姫路城に足止めされていた羽柴秀吉が何の障害もなく備中へと進める。
 つまり、征夷大将軍の後ろ盾となった両家が槍を突き合わせ直接相対する事になったのだ。
 大名家同士の戦いでは、ただ一度の敗北で滅亡する事も珍しくはない。数人の兵士が起こした小競り合いから、数万の本隊を投入する大合戦に発展した例もある。
 広大な領地を持つ大大名の領地が接しているだけでどれほど危険な事か。
 不意に放たれた戦の火は、至る所へ燃え広がり、国中の民たちは逃げ場もなく焼かれる。
 火をつける前に、刈り取らねばならない。
 燃え広がらぬように、飛び散らぬように。

「秀吉様こちらへ」

 羽柴秀吉を小高い丘の上へ案内すると、西に沼地の中に突き出た亀の甲羅のような建物を指し示した。

「あれが、備中高松城でございます」

「ほう、小さな城ではないか。兵を並べて踏みつぶしてしまえばよい」

「お言葉ですが、城の周囲は至る所、足を取られれば抜け出せぬ沼になっており、騎馬を進める事は出来ませぬ。時間をかけて進めば、鉄砲の的にされ、沼を死体で埋めても足りないでしょう」

「道もないとは、何と言う不浄な土地だ」

 沼は肥沃な土地の証拠ともいえる。
 戦しか知らぬ成り上がり者らしい発言の羽柴秀吉に、不安を覚えないでもなかったが。

「先程も、先陣を切って攻めかかった、加藤、仙石の両隊が手ひどい敗北を受けたばかりです」

「分かっておる! だからこそ、お主に付き合ってこんなところまで登って来たのじゃ」

「ありがとうございます。……具申したき策は水攻めにございます。足守川から蛙が鼻まで堤防を築き、高松城を孤立無援にすれば、城を質に毛利家と交渉も可能です」

「堤防じゃと?……それは何時できる? 時間を無駄にしては、御館様に何と申し開きし出来よう……」

 どれだけの時間を播磨で無駄にしたのか覚えていないのか、今さら数日を気に病む必要などあるまい。しかし、この羽柴秀吉の野性的ともいえる直観力は、どんな理屈よりも的を射ていた。この男を説き伏せねばならない。

「備中には毛利家の前線とも言うべき城が後六つ。宮路山城、冠山城、加茂城、日幡城、庭瀬城、松島城、どれも松山城に匹敵する難攻不落の城です。それを一つづつ、力づくで攻め落とすつもりですか? それこそ、何万、何十万の兵を東より送り込んでも、京から人が消え、荒れ果てた廃墟の街となるまで、兵を集めても足りませぬ」

「だが、手柄を立てようと、兵を率いてきた武将たちは、水攻めの間待っていられるか……」

「手柄ならもう十分、負け戦で重ねた事でしょう。どうせ泳ぐなら沼よりは川の方がよろしいかと」

「ふはっはっは。良かろう、水攻めに取り掛かれ!」

 足守川から蛙ヶ鼻までの堤防が十日余りで築かれ、川から引き込んだ水を張るのに数日。
 それだけの日数で、備中高松城は湖に浮かぶ塀で囲まれた島、巨大な安宅船のような姿となった。
 船との違いは自在に動けぬところ。
 こうなってしまえば、気づかれずに城から出る事も入る事も不可能だったが、守将の清水宗治は何もなかったかのように動じず、近づけば鉄砲を撃ちかけ、離れれば静かに見守るという籠城を徹底し続けていた。

「どういう事だ? まったく、降伏する素振りも見せぬではないか!」

 備中高松城に向かって投げつけた盃が跳ね、水面に映る城の影をわずかに揺らした。

「毛利家きっての勇将・清水宗治が、降伏などするはずがありません。飢えても泥水をすすり、武器が無くても、その命果てるまで戦い続ける男です」

「それでは、水攻めなど何の意味がある!」

 怒りの矛先が直家に向いた。

「備中高松城には、意味がなくとも、他の城には意味があります。武勇で名をはせた清水宗治が動けず、人質となって居れば、他の城主たちはどう思うか、次は誰の番かと気が気でなく、さぞ良い夢が見れるでしょうな」

「ほう! 下天の夢か、それは楽しみだな」

 どうやって、その様な声を出したのかと不思議に思う、素っ頓狂な奇声に離れて見張る兵士たちが身を震わせた。
 子供のように分かりやすい感情を表に出す反面、突然まったく別の表情を見せる羽柴秀吉の腹の中はうかがい知れぬものがあった。計り知れぬ謀略を持つ者たちとは別の何かが。

「後は時間の問題でしょう。むしろ問題にすべきは、誰が交渉に出て来るか、ですが……」

「坊主や取るに足らぬ者なら、切り捨てればよい」

「使者を無下には出来ませぬ。しかし、毛利方が相応の者を用意せねばならなくする方法もございますが」

「ほぅほぅ、いうてみぃ」

「織田信長様に、備中までお越しいただくのです」

 羽柴秀吉の表情が変わった。変わったというより、なくなったと言うべきか。良く動いていた目じりや口周りの皺が、急に動きを止め古い木に刻まれた年輪のように見える。

「……何じゃと…………」

 それ以上、言葉が続かなかったのは、羽柴秀吉の中で、出世、報酬、叱咤、激高、欲と恐れが渦巻いた打算が目まぐるしく入れ替わっているからであろう。

「私が、京に赴き、水攻めの成果を報告し、戦見物に来ていただけるよう説き伏せてまいります! 前代未聞の水攻めなれば、羽柴様の功績を御気に入られるかと」

「……そうか?……そうじゃの?…………」

 沈黙の間も、人間の口が形作るには無理がある波打った薄月のような笑みを口元に浮かべていた。

「……よし、直ぐに行け! 今直ぐにじゃ!」
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