なまいきΩと、あいされΩ。

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自分の心の中に言いようのない不快感が溢れ出る時、人というものは酷く違和感と恐怖を覚えるものらしい。
畏怖、とも言ったか…。今まさに暗がりの教室の中で、性的興奮に胸を打ち拉がられている少年の心に注がれた。

「………あれ…会長………は…?」

荒く息をついている口元から零れ落ちた信じがたい真実に、どこかで誰かがふふっと微笑する。


なまいきΩと、あいされΩ。


濱松凛音は、男性、第二の性別はΩ、17歳、都内の進学校に通う、生徒会長…そう、分類される少年期の男だ。
凛音という愛らしい響きに良く似た、これまた愛らしい容貌ははっきりと言って全てにおいて『Ωらしく』と言う形容詞を枕詞につけるほど相応しいものであった。
Ωらしく美しい栗毛色の髪
Ωらしく可愛らしい吸われるのを待ってるかのようなふっくらと尖った桃色の唇
Ωらしく何本もマッチ棒を乗せれるかのように長くカールされた睫毛
Ωらしく見るものを虜にする様な燦然と煌めくダークブラウンの瞳
Ωらしく愛らしく桜色に染められた頬とその頬が映えるような美しい肌
Ωらしく筋肉の張りが少なくスラッと流れるように薄い身体
Ωらしく……。
と言ったように、全てにおいて『Ωらしい』かったのだ。
だが、彼を知る人物は皆口を揃えて云うのである。

『生意気なΩ』

常に首席で有り続ける学力、学校運営に長け人々を魅了する智力、凛と張った見るものすべてを屈させるほど威厳の溢れた才力。
彼の持つ叡智は、群衆の目を嫉妬や羨望の渦中に陥れることなど朝飯前だった。
だからこそβの凡庸共は口を尖らせ、視線を鋭く目くじらを立てるのだ。
しかし、そのβの下卑た口ぶりにやはり異口を唱えるのことの出来ないαも少なからず居るようで、同じように愚かに蔑む者もいた。
才知溢れ全てにおいて天才的な才能を持つαを持ってしてまでもこう言わせてしまうのは、いやまたそれも凛音の才能であるのかも知れない。
『Ωらしく』愛らしいその見た目に反して気の強い凛音はそんなαを酷く嫌っていた。
“何の努力"さえもせず、いとも容易く才を身につけてしまうαを心底憎んでいたフシもあった。
彼の胸中にもまたあるものなのだ、嫉妬や羨望が。
もはや、人間らしいという言葉を表すには丁度よいのかも知れない。
なんと、愚かなり嘆き悲しけり。

さて、凛音には双子の弟が居る。
濱松海音。同じく17歳の少年期の男。そして等しくΩ。
凛音とソックリの『Ωらしく』愛らしい容貌をした少年である。
彼を知る者は口を揃える。

『なんと愛らしい』

海音は凛音とは違い愛される事に非常に長けていた。
見る者すべて無条件に彼を愛し彼を焦がれ彼を求める。
恐らくのところ凛音の愛らしさを台風一過のように掻っ攫って行ったのが海音なのであろう。
凛音は海音を羨み、海音は凛音を羨んだ。
自分に持っていないものを持っている双子の兄弟だ。
思わずに居られない、成し遂げなければ居られない。
そんなある種狂気的な興味が、破滅的に二人を貶めていく。

「そっか、オレたちって顔が似てるから、オレたちの人生入れ替わり立ち代わりって面白そうじゃね?」
「お前に勉強が務まるものか愚か者め」
「凛音だって!オレみたいにみんなから愛されてみんなから貢がれるなんて姫様稼業できる訳ないっしょ」
「……馬鹿が、顔は一緒なのだぞ!そんなもの、赤子の手をひねるよりも」
「じゃあ、村山君とエッチできる?」
「ひっ、えっ………エッチ?!性行しているのか?!」
「えーだってオレ愛されてるしぃ~」
「好いてもない男と性行など考えられん……。貴様こそ俺の様に冷静に振る舞うことなど出来まい、脳ミソの代わりに精液を注ぎ込まれている馬鹿に数式の一つも解けるものか!」
「なにおう!またそんな憎まれ口を……オ、オレにだってできるよ!」
「なら俺にだって容易いさ!」

「「じゃあやってみろ!!」」

そう躍起になって叫んだ日が懐かしい。
その日は確か中学生の終わり頃、進路に行き詰まった海音を鼓舞するため馬鹿にしていたのだが流石は双子。
釣られて二人共馬鹿になるなどよく似つかわしている。
結局元々決まっていた凛音の進学先に、凛音が入れ替わり海音の受験し一緒の学校に行くことになったのだ。
その馬鹿馬鹿しい『入れ替わり立ち代わり大作戦』は、今もなお続けられている。
中学生の頃は、お互いボロも出て周りに失笑される程度には酷かったものだが、高校に進学してからはと言うもの、お互いのコツを上手く掴めたのか完璧に、とまでは行かないが両親以外ならバレずに過ごす事が出来るほどになっていた。
そして高校生活も2年が経てば、産みの親さえも欺罔させる事が出来るほど上達させていたのだ。

「ん、じゃあ……今日は“俺"が凛音だな」
「あぁ…わかっ、た……んんっ、“オレ"が海音だね」
「今日は西館君と北郷君と放課後デートあるから、よくお尻ほぐしたほうがいいよ…ぷぷっ」

朝支度の際、今日はどちらがどちらになるかを決めることは彼等の日常になっていた。
笑いながら海音が凛音の尻を揉むと、不快指数を最高潮にその手を掴み上げ、思いきり払い除けた。

「笑うな気色悪い。何故Ωがαに媚びなきゃならない。絶対性行などさせるものか」
「なんでー?キモチーじゃん!あ、はいこれオレのスマホね!ちゃんと皆に愛想振りまいてよ」
「……やはり貴様を演じて見ても意味が分からないし、理解出来ない。何がしたいのだ?好いてもない男とせ、性行など…」
「オレだって凛音のこと分かんないよ!勉強しまくって頭良くなりまくったらちょっとは凛音のこと理解できると思ったけど……勉強たのしい?人に憎まれ口叩くのそんなに気持ちいいの?」
「勉強は楽しいとか、楽しくないとかの次元では無く………ああっ!母さんが来るから!ほら、海音!凛音になりきって!」
「えっ?あっ………ん、あぁ…」

“凛音"は、未だセックスをしたことがなかった。
それは凛音としての凛音も、海音としての凛音のときも同じだ。
元々凛音の根底にはαに媚びることを好ましく思わない思想があり、Ωだからといって誰彼構わずフェロモンを振りまく海音をひどく侮蔑していた。
小学生の頃からヤリまくっていた海音の考えを、成り行きとはいえ入れ替わり、経験することが出来れば到底理解し難い破滅思考を一寸程なら理解できるのではないかと思案していたところもある。
しかし、結果はご覧の通り。
凛音はさらに海音を軽視した。そんな愚かな弟をなんとか身の破滅を防ごうとも考えた事もあったが、周囲の目がすぐに気づき上手く行かなかった。
これが、中学時代に入れ替わりが上手く行かなかった事由だ。
凛音としての凛音も滅ぼしかねないので、その考えはすぐに払拭してしまった。
皆が海音に求めるのは『愛されるΩヤリマン』としての海音で、凛音の演じたその身を尊ぶ海音ではない。
その事を思うと、凛音は幾度となく心臓に冷たいものが流れたかのようにきゅう、と締め付ける胸に打ちひしがられ心や身体を震わす。
自分の愚弟ながら、憐れむのだ。

※※※

「海音ちゃん!会いたかったー!!」
「おえっ…気色悪………長門君!さっきラインしたばっかりじゃん!」
「えぇーっ、でも俺さぁ…あ、超いい匂い……やっぱ海音ちゃんの顔見なきゃ駄目なんだわ」
「もーっ、あっ、やん♡耳くんくんしないでぇ…ここ、教室だよ?」

朝の朝から抱きつかれ耳に舌を這わされ前戯紛いに弄ばれることに、吐き気と苛立ちを催してくる。
初夏に先立ち衣替えを致した半袖のカッターシャツの下は微かに粟立っているが、それを微塵も見せないのが海音になりきる凛音のコツであった。
不躾にも海音に扮した凛音に抱きついているのは、長門将晴と呼ばれるαの男だった。
まあ、イケメン高身長で家柄も当然に良い。学力も凛音には及ばないにしても上位5名の常連さん。バスケ部の元キャプテンで、スポーツ万能。特技は英語をはじめとした4ヶ国語の話者で、まさに絵に描いたような…いや、小説に出てくるようなαだった。
二人がβのクラスメイトに見せつけるように、これみよがしにイチャついていると他のクラスから続々とαが姿を現す。
雄っ気たっぷり、だけど面倒見の良いお兄さん系αの西館操馬。
外国人の血が色濃く出た金髪碧眼ハーフ系αの東村ジョシュア。
学年常に2位で冷静沈着、家は東京の大地主で華麗なる一族、クール系αの南高善紀。
ヤンキー気質だけど、アブない感じが堪らないオラオラ系αの北郷祥太朗。
……などなど、乙女ゲームかの如く綺羅びやかな好青年イケメンたちが揃えばそこはまるでαのランウェイだ。
イケメン博覧会とかしたこの光景は、3年1組のクラスではもはや日常茶飯事であり、今更βの誰も気に留める者など居なかった。
あるとすれば少しの羨望だが、それさえもβにとっては烏滸がましい。

「おいおい長門!テメェまた海音独り占めしてんのかよ!」
「同じクラスだからって調子乗るなよ?」
「あっ、ちょ…!北郷くんっ!もうっ」
北郷が長門から強引に海音を剥いだ。
すると、名残惜しそうに離れていく腕を再度掴んで自らのもとを離さないようにする。

「うるせー!だって海音ちゃん朝からいい匂いさせてんだもん、αの俺達じゃ我慢なんて出来ないだろ?」
そうやって海音(凛音)の手首を掴んで離さない長門に、見せつけるかのように北郷が海音(凛音)の唇を己が口で塞いだ。
「あ♡んっ、ふ、やらぁ…♡こんな、教室でちゅうなんて…ふっ♡んーっ♡(きっしょ!きっしょ!きっしょ!舌入れてくんなよこのホモ野郎!)」
キャーッと言う女子の黄色い悲鳴に、気をより良くしたのか尚も激しく攻め立ててくる。
だが、流石の北郷も他のαたちに集中砲火しばきたおされ、海音(凛音)を剥がされると、今度は南高の胸に吸い寄せられた。
「変態親父みたいなことしないでくれ、海音が明らかに困ってるじゃないか」
「……とか言いつつ自分のところに抱き寄せようとしてんじゃねーよ南高!」
やいのやいの言いながら、大人の輪郭も色濃く現れだした大の男5人で小柄な男を取り合う馬鹿らしさに、少しの頭痛を覚え凛音が頭を押さえれば、すぐさまに皆気づき「どうした?」とそれぞれに口をする。

「……ううん、大丈夫だよ!なんでもない!(馬鹿かこいつらは、毎朝毎朝似たようなことをし腐りやがって…あまつさえき、き、き…す…)」
とりあえず凛音は思いっきり叫びたくなった。
(こんな奴らにドキドキするなんて、俺どうかしてる…。)
αの匂いに囲まれて性的興奮を覚えるのも無理はない。αとΩが揃えばそれ即ち凹と凸なのだ。
だが、どくどくと心臓から身体全身に送られる熱い火照りを凛音はなんとしても赦したくは無かった。
赦してしまえば堕ちてしまう。なんて、有りもしないことを恐れて、はぁ、と息を吐く。
αの匂いが、ツンと鼻を突いた。

明らかに作者がキャラの多さに持て余していると、ガラリ!と一際大きな音を立てて一人の少年が入ってくる。
凛音(海音)だった。
凛音が現在進行形で行われている馬鹿騒ぎに愛想尽き「あー授業の予習してー…」と考えていると、それに応えるかのように海音は凛音の仕草を崩さず勉強に取り掛かった。
凛とした表情、海音は凛音の真似をするのが上手で凛音さえも自分がもう一人そこに居るのではないかと思えるほどだった。
教室に訪れたのは、一瞬だけの沈黙。
その空気を破るように、凛音(海音)が口を開く。

「君達さぁ、もう教室戻りなよ、あと15分後には1時間目の授業が始まるんだが」

その声は凛音そのものだ。甘ったるい海音の声色とは違う、ピンと糸の張った静かだけどよく通る声。
チッ、と海音(凛音)に手を伸ばしかけていた北郷が舌打ちをする。

「会長サマ、俺等に構うなんて今日はエラくご機嫌なこって」
「おはよう北郷くん。今日も君のニオイはキツいな、お風呂入ったのか?」
「…あぁ?なんだよ、俺の事口説いてんのか?顔だけはいいからなお前、一回ヤッてヤラなくも」
「お断りだ、気色の悪い。俺を抱くならまず不埒な貴様の行為をどうにかしろ」
「ちょ、凛音…!もう止めなよ!(そうだそうだ!もっと言え海音、こいつの不貞はいつか本当にシメてやらなくてはな)」
「……気が悪ぃ……じゃ、俺いくわ…!またな、海音!」
「あ、う…ん……(そうか、放課後こいつとデートなるものがあるのか…。うわぁ、今から怖気立つ)」

そう言って北郷が出ていくと東村がその顔に良く似合った仕草をする。
バードキスを2回、海音(凛音)の頬にそっと起こした。

「じゃあまた後でね!海音、明日は俺とデートだからね?忘れないでくれよ?今から念を押しとかなきゃね!」
「あ、うん!ばいばい、また」
(ジョシュアに関しては本当に絵本から飛び出した王子様みたいだ)
外国人のαの血が混じっているからか、ここにいるαの中でジョシュアの匂いは一番強く海音(凛音)の鼻をつく。
α嫌いの凛音でさえも頬を染め胸の高鳴りを覚える程なので、凛音はジョシュアが苦手だった。
「じゃあ」と言われて手の甲に唇を押し当てられると、さしずめ姫と騎士のよう。
(これはΩも女も百発百中だろうな……穢らわしい)
海音(凛音)はキスをされた手の甲を自分の口に押し当てる。
実に海音らしい仕草だ。だが、心の中で手が真っ赤になるほど拭き取りたかったであろう凛音。
ピクリと誰にも悟られぬよう片眉が一度だけ引くつく。
その後各々各自教室に戻り、結局最後まで海音を離さなかったのは長門だった。

(この男はいつもこういう奴だな、最後に美味しい所を全部持っていく。運がいいのか…)
そして、ホームルームを告げる鐘が学校中に響き渡り、凛音は長門からようやく解放された。

※※※

「あーぁ~ん、甘っっったる~い言葉しか吐けないからぁ、口が腐って溶けちゃいそうだなぁオレぇ」
「なんだよ海音、らしくないな」

自らの頬に両手を当て精一杯顔の皮膚を下に垂らしながら怨めしそうに凛音(海音)を見つめる海音(凛音)。
昼休憩は文字通り休憩時間。双子達の休息時間でもある。
生徒会室で午後からの作戦会議を開くのがいつからかの日課になっていた。
いわゆるハドルミーティングだ。

「おいおい海音はそんな顔……もーっ、いくら生徒会室だからって誰も来ないわけじゃないんだよ!気をつけてよ凛音!」

苛立ちを覚えるほど海音らしい甘い声で話す凛音に向かって、静かな生徒会室を見渡し細心の注意を払って小声でまくしたてる。

「はぁ、今日は最低最悪な厄日だな。俺」
「いいじゃん!北郷くんにちゅうされて~、ジョシュアくんにもちゅーされてたじゃ~ん、いいな~♡」
「はぁ?お前はいつもされてるだろ」

最早演技すること辞めた双子はもともとの魂の形に落ち着く、
怨めしそうに鋭い目線を海音に付き立てようとするが、ふにゃふにゃの海音の精神には微塵もかすらなかった。

「そうだけどー…っていうかオレより凛音のフェロモンのほうがキツいって分かってる?」
「キツくない」

ふざけるな、と言わんばかりに凛音は持っていた参考書を振り上げる
「もーっ、暴力反対なんだけどー」と、海音が声にすれば「馬鹿が」と呟いて凛音はまた参考書に目を落とす。

「いやキツいんだよ、皆ガツガツだもん!ジョシュアくんがあそこまで本気の眼してるの初めて見たかも……なんてね」
「ジョシュアの眼って青く透き通り過ぎてわっかりませ~ん」

(意外だな…)
とは思うものの眉毛をピクリとも動かさず声だけは甘く、依然目線は参考書の数式の上だ。
方程式の様に証明する事のできない恋愛事は、海音に扮してるからこそ表面上の触りだけは理解できるが、深層心理に呼びかけられるような非科学的な根拠の無い胸の高鳴りなど、凛音にとっては未知の領域だった。
ペラリ、と1頁を捲る。

「もう!オレの声真似するのやめっ……海音いい加減にしろ、お前の甘ったるい声は結構廊下の外まで聞こえるんだぞ?もう少しトーン抑えろ馬鹿が」
「……お前言ってて悲しくならないのか?」
「ぜんぜん♡」
「脳ミソ精液Ω」
「骨の髄まで“おベンキョー"って言葉が敷き詰められた凛音に言われても痛くも痒くもありま………おい、もう少しで授業始まるじゃないか馬鹿野郎」
「馬鹿はお前だ馬鹿野郎……んっ、ちぇ~せっかくぅ、お昼休みはぁ~南高くんとかぁ、北郷くぅんとお話したかったのにぃ…ざんね~ん、かなしー」
「……まじではっ倒すよ?」

『入れ替わり立ち代わり大作戦』以前はこんな風に軽口を連ねるような事はしなかった。
双子だが、性格の気質が魂より相反していたため、水と油のように溶け合うことなど考えられなかったのだ。
そんな経緯を考えれば、やはり今のこの状況は二人共ある程度は楽しんで過ごして居るのかもしれない。
二人は弁当袋をそそくさと縛り、生徒会室を後にする。
生徒会室の扉を締める海音(凛音)を見て、凛音(海音)の口からポロリと言葉が堕ちた。

「……まぁ、凛音って処女だもんね…」

目を丸くした凛音に持っていた生徒会室の鍵ではっ叩かれたのは言うまでもない。

※※※

先程までは気怠そうに顔を溶かしていた学生たちの顔が、シャッキリとまるで氷水をぶっかけられたかのように引き締まる。
そう、時間は放課後。
部活に精を出すものいれば、校外活動に熱を入れるものもいる。
ただ凛音達はもう高校生活3年目に差し掛かっているため、押し迫る『受験』という愚かしい日本の風習のために勉学に勤しまなければならない。
『勉強』と書いて『呼吸』と読む凛音はともかく、刻一刻と迫るその伝統に向かい撃とうと研鑽する者、諦めた振りをして馬鹿を演じる者、先輩風を吹かしてもう出なくても良い部活にその身を置く者など…多種多様だった。
ただ、この学校のαにとってなどは非常に他愛もない事であり、奴等はスラスラと適当に書き連ねれば簡単に希望校のA判定が貰えるのだ。
だからこそ、校外活動の精をだせるのである。

「海音、こっちこっち!」
「あ、西館くん!待ってよぅ~、北郷君はいいの?」
「ああ、あんな馬鹿ほっとけ、αの癖にΩをいたわりもしないバカは今日ぐらい痛い目見てもいいだろ」

そう言うのはお兄さん系αの西館操馬。よく引き締まった精悍な顔が、くくくっと言う笑い声と共に少しだけ崩れた。

「え?なんのこと?痛い目?」
「実はな……」
「えっ?!それ大丈夫なの?うわぁ、まあ……凛音なら…(大丈夫か海音……まあ凛音(おれ)だから大丈夫か…)」

そんな不確定な自信はやはりもろく、大きく吹いた一陣の風にふわりと浮かび上がる。

「ほら、だから今日は俺と海音だけの二人だけのデートだぞ……手、繋いでも宜しいでしょうか?海音様?」
「ふぇっ?…はっ…?……あ、はい!お願いします」

ニッコリと笑ったその笑顔は確かに海音のものだった。
だが、心まで海音になりきれて居ないのが仕草に出たのか、西館の心に少しだけ言いようのない違和感を覚えた。

「大丈夫?海音」
「うん!あのね~西館君今日オレさぁ見たいものあるんだよね!」

海音(凛音)の心からの笑顔に安堵したのか、一縷の違和感はすぐに払拭され愛しきΩに向かって破顔する。

「うん、何?」
「原宿に新しく出来た韓国コスメのお店なんだけどさぁ、あそこのジェルライナーマジですっごいんだよー!だから……」

傍から見たらお似合いカップルの二人は、手を繋いでお互いの体温を感じたまま、人混みの中にその身を紛れさせていった。

(いつも考えてならないのが、何故俺が海音アイツのお使いなどなんの実りもないくだらないことをしなければならないのか。参考書や問題集など俺が欲しい物のお使いなど海音アイツはした事無いのに…)
どこかの街中に一つの黒いため息が浮かび上がって溶けていく。

※※※

「……海音ちゃーん!お待たせ!」

北郷がその身に馴染みの無い教室の扉を開いたのだと気付いたのは、待ち人であろうその者の後ろ姿を見たからだった。
そして、驚いた顔をしている凛音(海音)を見たときその過ちに確証を打つ。

「………ぁん?なんだお前凛音じゃねえか…ってことはここは生徒会室か?」

教室の入り口に両手をかけたまま、廊下にヒョイと上半身を仰け反りだして教室の札を確認する。
もう一度教室の中に身体を戻すと、目の前の人物は目を丸くして口をあんぐりと開いていたままだからだ。
それもそのはず、海音が海音と呼ばれれば誰だってバレてしまったのでは?という畏怖が心臓に流れ込む筈だ。
未だ落ち着かず処理しきれない脳味噌に、海音自身ひどく困惑している。

「な、な、な…なんっで…!」
「あ?お前が海音を騙って呼び付けたんだろうが、さしずめ今朝のこったろーよ?なあ会長サマ?」
「あっ、あ、ああ!そうだ!北郷!貴様最近の行為は目に余るぞ!我が校の生徒なら我が校の…っ…!」

理由は考えてみればいくらでもある。
少しだけ身体が重かった目覚め、朝から妙に海音(凛音)に絡んでいた5人への胸の興奮、凛音ほど上手く行かない新生徒会への申し送り事項の編纂への苛立ち…等々、ほらいくらでも。
それこそ、今しがた起こった北郷に「海音」と呼ばれた事による焦り。
急な発情の理由など、今はどれだけ思い連ねてもなんの意味も成さない。
ただある事実は二人きりの生徒会室で、その二人がαとΩだと言うことだけ。

「…っ…ぉ、い…お前…!」
「い、いい!いい!寄るな!来るな痴れ者!ぅっ…はぁ、はぁ…」
「んな事言ったって……じゃあ、い、ますぐ…っ…てめえのその凶悪に…っ薫ってくるニオイを…くっ、どうにかしろよ…!」

ジリジリと寄ってくるαの影、海音はと言うものの既に発情の熱に浮かされ凛音であることを保つことが困難になっていた。
今迄だってこんな事が無かった訳ではない、一度だけあるにはあったが、その時は凛音の性格を知った上で彼に発情する者など一人も居らず事なきを得ていた。が、今は状況が悪い。
『入れ替わり立ち代わり大作戦』の最大の肝は、発情の管理にある。
今は発情の周期から完全に外れていたため、海音も凛音もなんの注意もしていなかったのだ。
だからこそ、海音の胸を焦がすこの冷めやまぬ熱情は瞬く間に全身を駆け巡り満たしていく。
挿れたいαに、挿れられたいΩ。まさに、そこに居るのは凹と凸の関係。

「だ、で、できるっ、わけっ……ないじゃ、んっ…!あぁ、だめぇっ!」

ジリジリと寄って来ていた影がようやく2つ重なり、北郷は海音の身体を抱き竦める。
そしてそのまま海音の項の自分の鼻を押し当てて匂いを嗅いだ。
堪らないほどに我心燃ゆる甘い香りは、自我を忘れさせるには丁度良い。
そのまま海音の耳に甘噛みをする。

「あっ、あ…んっ、だ、めぇ…!北郷くんっ、ひゃっ♡あっ」

煽情的な音をしたためて、ついに漏らした凛音らしからぬ声に驚いて北郷が顔を上げると、しまった、とばかりに海音は表情を引き攣らせる。

「んっ、おま……え…?はっ…」
肩が自然と持ち上がるほど、荒く呼吸を繰り返す二人の呼吸音が同時に止まった。


「海音」

全身を包むねっとりとした暑さに朧気ながら遠のいていた意識をすんでの所で手繰り寄せる。

「は、ぁ…?な、にいって…!!“俺"は、り、お…だ!み、海音なわけ…ないっ…だろ…?」
「ちがう、違う違う!」

それだけ言うと、更に力を強く抱き締め北郷は後頭部や耳の後ろや項など様々な場所の匂いを嗅いだ。

「……っ…やっぱり、お前は…み、」
「違うって…っ言ってる、だろ!しつこいぞ貴様!は、はなれ…あっ!やぁ♡」

黙ったまま、北郷が海音の性感帯である乳首をつねると、堪え切れずいつものあの甘い声が漏れた。
その嬌声にビクリと脳が震える、いつかした愛しきΩとの情事セックスを思い出し、興奮の熱が北郷の身体に吹きすさぶ。
なんども、なんども執拗に海音の乳首を指先で弄る。
爪を立てたり、指の腹で優しく撫でたり緩急をつけながら。

「ら、め……だ、だめぇ、ちく、び…いやぁ♡コリコリしないでぇ♡」
「ほら、乳首大好きなんてっ…やっぱり海音じゃねえか…っ…!」
「んっ、あんっ♡し、しょーたろぅくんっ♡あんっねえ!ちゅ、う!ちゅうしてぇ♡♡♡」

その言葉を聞き終えるか否や二人の唇が重なった。
混じり合った口の端から漏れ出る唾液に煽られ、もはや海音は凛音で有ることを忘れ、Ωとしてαを貪っている。
絡み合う舌は、口が開くたびにくちゅくちゅといやらしい音を立て二人を快楽の渦中へと誘う。

「ふっ♡んっー!、ふぅ、はっ…ん、やっ♡んふっ♡」
「…っ…ふっ、は、ぁっ……ふぅ…」

色情的な吐息と嬌声が交ざり、よもや凹としてその身を全うしようとする海音から、名残惜しそうに北郷の口が離れた。
その代わり、海音の頬を撫ぜていた右手が彼のカッターシャツのボタンに手をかける。

「あっ、だめっ…だめだよぅ…祥太、朗くんっ……ふっ…!」
「はぁ…っ…海音、どうして…どうして凛音の真似なんかっ…!」
「あ、ちがっ…オレは凛音だよぅ…っ…あっ♡」

シャツを脱がされ、着ていたTシャツの上から乳首を摘まれると、凛音としての海音なんて最早どこにいなかった。
海音として北郷を求め、縋る。
いつもの『愛されるΩヤリマン』の海音だった。

「海音っ…!!」

二人の意識は、発情期の熱の中に消えて―――――。
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