誰が。

縁代まと

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誰が。

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 肌を焼かれていると錯覚するほどの刺激に目を細めると、額から流れ落ちた汗が瞼を越えて小さく唸るはめになった。
 自分への慰めにアイスでも買っていこうかと思いつき、足早にコンビニへ向かう。
 涼しい店内は汗をかいた体を一気に冷やしたが、悪くはない。どうせ外は灼熱地獄、ここで芯から冷えていこうなどと子供じみたことを思いながら、普段より時間をかけてアイスを選ぶ。
 そういえば……そうだ、今夜は上京していた兄が帰ってくるはず。そう思い出し、少ない小銭を掻き集めてアイスを二つ買った。


 じわじわと蝉の声が四方からする。
 バス停から先は広い田んぼが広がり、遠くに手のひらサイズの山や古い民家が見えるばかりだった。
 近代化が進みコンビニも出来るようになったが、こうして少し外れるとあっという間に時代が巻き戻ってしまう。それとも本当に巻き戻っているのだろうか。自分だけが過去に迷い込んだ異質な迷子かもしれない。
 暑くて思考がおかしいと自覚しながら、一抹の不安を覚えて振り返る。いくつかの真新しい建物の群れが見えた。ちゃんと見えた。
 安堵と共に眩暈を覚えながら雑草を踏みつけて道を進む。我が家に帰ればエアコンがあるのだ、そこまでの我慢だと自分に言い聞かせながら。

 いくらか歩いたところで小山の前まで差し掛かり、長々と続く石の階段を横目に通り過ぎる。この階段の先には寺があったはずだ。
 あったはず?
 いやいや、毎年そこで出店が並ぶ祭りがあるのだ。そこへ通うのが通例になっていた。寺があったはず、ではなくある、となぜ確信を持って思えないのか。
 足を止めてもう一度階段を見る。ざわつく濃い色の影は木々のもの。耳を侵す音は蝉の鳴き声。それは寺の中でも同じで、幼い頃から兄と虫捕りに出掛けていた。
 うん、たしかにこの上には寺がある。
 そう確信し、これはすべて暑さのせいだと結論づける。本格的に頭が沸騰してしまう前に帰ろう。アイスも溶けてしまう。
 縁側に共に並び、兄と一緒にアイスを食べる姿を想像して無理矢理口元に笑みを浮かべた。

 どうしてだろう。
 左手側に続く森から水と緑の濃い匂いがする。歩いても歩いても途切れることがない。周囲はいつの間にか橙色に包まれ、ヒグラシの鳴く声が耳に届いた。
 どうして家にたどりつけないのだろう。
 田んぼの水面をアメンボが波紋を残して滑っていく。
 アメンボは脂の付いた毛が脚に生えているため、表面張力を利用してああして移動することができるんだよ、と兄が言っていたのを思い出す。
 兄さんに会いたい。
 もう何年も会っていない気がする。
 いや、本当に何年も会っていないのではなかったか。自分が十二の頃に独り立ちした、年の離れた兄。それに憧れて、自分もいつか上京するのだと夢見ながら大学に通って、二十歳になった。その間兄に会うことはなかった。
 兄が帰ってくる理由はなんだっけ?
 思い出せない。暑い。暑くて考えが纏まらない。
 あまり遅いと両親にも心配をかけてしまう。子供の頃は放任主義だったが、近頃はすっかり過保護な親になってしまった。
 放任主義のままでいてくれたら楽だったのに。
 当時の両親は自分たちより子供っぽいところがあった。兄が「パンあげようか?」などと言い、頷くと「誰がただのパンって言った?」とげらげら笑いながら海パンを掴ませるいたずらをした時も一緒になって笑い転げていたくらいだ。
 あの笑い声を長い間聞いていない。
 そういえば兄はあれからそのいたずらがマイブームと化したのか、事あるごとに仕掛けてはバリエーションを増やしていた。自分も何度か犠牲になったことがある。
 兄が帰ってきたらまた食らわされるだろうか。
 それも楽しそうだ。早く帰りたい。
 暑い。
 蚊が飛んできてまとわりつく。
 小さな蛙が足元をぴょんと跳び、慌てて飛び退くと蚊取り線香の香りが鼻腔に届いた。
 家で使ってるやつだ。そう思ったと同時に森が途切れ、その向こうに我が家が見えた。なんだかとても嬉しくなって小走りに道を急ぎ、玄関の引き戸に手をかける。
 熱気で温められたのか引き手が生温かった。
 ただいま! と声をかけて靴を脱ぐも、返事はない。蒸れた足で床に足跡をつけながら台所に向かうと真っ暗だった。
 首を傾げながらテーブルに近づく。
 一枚の紙が載っており、紙には『8時には帰る。夕飯は冷蔵庫の中』と書いてあった。少し字が震えているが畳の上ででも書いたのだろうか。
 兄を迎えに行ったのかな、と思いながらアイスを冷凍室に放り込もうと冷蔵庫へ向かおうとして足を止める。
 まだ暑い。外は虫の声と蛙の声で溢れている。この中で異質なのは自分だけじゃないかと錯覚するほどに。
 今、何月だっけ?
 兄は夜に帰ってくるって、誰に聞いたっけ?
 この暑い季節。兄との思い出が一番詰まった季節。この季節はなんていったっけ?
 明瞭だが意味不明な疑問が湧いてくる。
 シンと静まり返った家は家鳴り一つしない。長い間両親の三人で暮らした家だ、静かで暗いからといってすぐ恐怖を感じることはないが、違和感があった。

 それを感じてしまったから、もうおしまいだ。

 ああ、おしまいだ。

 ふとそう思った。

 台所の壁にはカレンダーがかかっている。見開いたままで乾燥した眼球を瞼で緩く覆い、もう一度開くと同時にそれを見る。
 真後ろから兄の面影を感じる声がした。


「誰が夏だって言った?」

     ***

「なんでこの寒いなか半袖なんか着てんの!」
 母親の疑問をそのまま固めたような声音で我に帰る。
 台所に立ち尽くしていた、と理解するのに数秒かかった。カレンダーには十二月の文字。印を付けようとしてやめたようなインクを擦った跡があるが、それが今日だ。
 帰宅した両親はもこもこにコートを着込んでマフラーをしていた。ついさっきまで寒い屋外にいたとわかる格好だ。途端に寒気が襲ってきてぶるりと震える。
 母親は小さな箱を両手で抱えていた。
 兄だ。
「その格好で何か買いに行ってたの?」
 母親が手に提げたままだったコンビニの袋を見て言う。
 外は静かで何の音もしない。
 もう何の音もしない。
 ああ寒いなぁ、と思いながら頷き、アイスを取り出して笑う。
「一緒に食べようと思って。――おかえり、兄さん」
 そう言って、小さな容れ物に収まった兄に笑いかけた。
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