Cry Baby

犬丸まお

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朝日と溥

 それを始めるきっかけは他愛のない事だった。
 勘違いした男がオレに値段の交渉をしてきた事が始まり。
 売色なんかこの界隈じゃ別にめずらしくもない。ただ、自分がそういう商売をしている奴と勘違いされたのは驚きだった。オレはヘテロだし。
 一見して男は、真面目そうな感じのいいおじさん。きっと、会長とか社長とか、そんな風に呼ばれてるんじゃないだろうか。そういう余裕のある雰囲気があった。着ているスーツの仕立ての感じからも、金に不自由はしてはなさそうだ。だいたい、金を出してまでセックスの相手を買おうっていうんだから、随分いい身分だよなと思いながら、あまりにもしつこく言い寄る男に次第に腹が立ったので、追い払おうとしたときだ。男がはっきりと金額を掲示した。
 立てられた指は五本。思わず足を止めた。
 まさか、五千円なんてことはないよな。
 いくらオレに其の気が無くったって、そんな安く見られてたら流石に複雑な気分になる。

 「そ、それって、五……万ってコト?」

 男の顔をみると、笑みを浮かべ頷いた。その笑みについオレも頷いてしまった。
 交渉が成立すると、その男の行きつけらしいホテルに連れていかれた。部屋に入ってシャワーを浴びると、コトはすぐに始められた。
 オレは当然、男同士なんて初めてで、勝手がまるで分からない。
 そんなオレに男はやさしかった。バスローブを脱がされ、されるがままに愛撫を受けている間、不思議な気分で白い天井を見つめる。なんでこんなことしてるんだろうな、なんて思いながら。緊張していて、感じているのかいないのか、自分でもよく分からない状態。そして寒くもないのに、全身鳥肌が立った。
 そんなオレを他所に、男はしつこいくらいに脚に舌を這わせ、尻を撫で回す。オヤジに舐め回されていると思うと、確かに気持ち悪かったけれど、こんな程度の事でそこそこの大金を手に入れられるのなら、ちょろいと思っていた。
 だけどオレが現実を思い知ったのは男が挿入を始めた時だった。
 オレの脚を割り開いた男は、尻を撫で回していた手にローションを落とし、後の孔に触れた。恥部を曝された羞恥を感じる間も無く、指が体内に侵入してくる。ぬるぬると気色悪く出入りする指は、躯の中を散々かき回し、ローションの濡れた音を部屋に響かせた。躯に入り込んだ異物がオレの気分を悪くさせる。他人に躯の中を浸食される不快感。
 冷静に考えれば、こうなる事は簡単に予想がついたはずだ。想像力が欠如していた事を今更後悔しても遅い。承諾してしまった以上今更嫌とも言えず、この後に貰える金の事を思い歯を食い縛った。毎日朝から晩まで何日も働いてようやく手に入れる金額を、この男はたった数時間でくれるというんだから。
 やがて指に代わって、男の性器が侵入してきた。硬くて、熱くて、ヌルついている物が後ろの孔をぐいぐいと押し広げてくる。指よりもずっと太い物が腹に押し込まれる痛みを伴う圧迫感に、ただ喘ぐしかなかった。
 なんでもない、なんでもないと、頭の中で呪文のように繰り返す。オレは男だし、セックスのリスクは少ない。
 そう、これくらいなんでもない、この後に貰える金額を思えば。
 男はオレの体を揺さぶりながら、抱えた太腿を舐めまわす。余程脚が好きなんだろう。品が良さそうだった男は獣のように腰を振りたくり、オレの腹の中に全部出した。当然スキンなんて付けてない。男の精液はオレの直腸に吐き出されたわけだ。なんとも言いようのない感覚にオレは嘔吐するかと思った。流石に、それは失礼だろと思ってぐっと堪えたけれど。
 男はそれからもう一度腰を振りまくって腹の中で果てると、オレに恥ずかしい格好をさせ尻の穴から精液が垂れ出てくる様を散々観察した。
 コトが終わると、初めてだったオレに喜んだ男は、最初に掲示した金額に随分とイロを付けてくれた。
 けれど、行為後のオレはもう頭の中が真っ白になっていて、まさに放心状態。なんの感慨もなく、渡された札束をただただ見つめていた。
 それが始まりだ。





 明け方近くアパートに戻ると、東の空がうっすらと明るくなっていて、その辺で雀が囀っている。足取りの重いオレの脇を、スケボーに乗った少年がすり抜けていった。どこかで一晩中滑ってきたんだろう。

 「朝から元気だよな……」

 一寸脚を止めて、遠ざかる少年の背中を見送る。同じような場所に住んでるのに、オレと対照的でなんて健全なんだ。
 部屋に戻ると、煌が丸太のように転がって寝ていた。ほんとうに究極のブルーカラーを地で行く奴だと思う。馬車馬のように働き、泥のように眠る。
 足りないのは、家で待ってる心癒す彼女ってところか。

 「……いい気なもんだなぁ……全く……」

 熟睡中の煌は大抵の事じゃ起きないから、気なんか使わない。鞄をおろすと、どさりと座り込んだ。買ってきた缶コーヒーを開けて、とりあえず一休み。
 平和な寝顔の煌を眺めながら、コーヒーを飲む。
 こんな中途半端な時間に帰宅するのは月に数度。特別な仕事をした時だ。
 この仕事をした日が一番躯に堪える。だから、その日の昼は仕事をいれない。それくらいの甘えを許してやらなきゃ、自分が可哀想だ。もうすっかり慣れたとはいえ、時々酷い自己嫌悪に陥る事がある。
 ここまで落ちていながらも、まだつまらないプライドを抱えているからなんだろう。
 だけど、これを始めてから大分返済のペースはあがった。金を返すまでの辛抱だからと自分に言い聞かせ、しょうもない自己嫌悪はさっさと忘れてしまう。今更後悔だとか、罪悪感だとかそんな物を感じたところでどうしようもないから。余計な事を考えていたら、無駄に疲れるだけだ。
 そんな事を思いながら、熟睡している煌を見ているうちに何となく急に腹が立って、思わずケリを入れた。煌は僅かに眉間にしわを寄せ、寝返りを打つ。それでも、起きる気配は微塵も見せない。

 「アパートが潰れたって起きやしないんだろうな……」

 思わず呆れた笑いが浮かんだ。独りじゃないってのは、気がまぎれていい。
 煌を蹴り飛ばして気が済んだオレは、一気にコーヒーを飲み干すと、煌の横に布団を広げ横になった。疲れた躯は、目さえ閉じればすぐに何も考えないで済む処に落ちてゆく。
 眠っている間だけが唯一、心から安らげる時間。

 いっそ、このまま二度と目が覚めなければいいのにな……





 ノックの音で起こされた。どんな詐欺だってこんな所になんか来やしない。騙したところで、巻き上げられる金なんか鐚一文もないんだ。骨折り損のくたびれ儲けにしかなならない。
 当然尋ねてくる客だっているはずはない。オレに友人なんてものもいない。いったいなんなんだと思いながら、無視をするには些かドアが薄すぎた。

 「煩い……」

 煌に対応させようと、煌が寝ているはずの隣に脚を伸ばしたけれど、そこには何も無かった。
 ただ、ざらざらした畳の感触だけ。
 煌はとうにバイトに出ていて、この欝陶しいノックを止める人間はどうやら、オレしかいないらしい。

 「くそ~…………」

 無理矢理起こされた気分の悪さを隠さずに、乱暴にドアを開ける。
 そこには、こんな所に随分と不釣り合いにきっちりとスーツを着込んだ男が立っていた。羨ましいほどのいい男だけど、酷く不機嫌そうな顔はもしや新しい取り立てか? と、そう思って構えていたら、意外にも男は丁寧に頭を下げた。

 「突然の訪問申し訳ありません。実は人を探していまして……」

 表情と態度が比例していない男の顔をみながら、目の前の男にどこかで会っている気がしてならなかった。一体どこでだったかと、考えを巡らせていると、男は一枚の写真を差し出した。

 「この男を探しているんですが、見覚えはありませんか?」

 その写真をみて、目の前の男に覚えがある理由に合点がいった。そう、この顔は……

 「煌だ……」

 何処かで会った気がするはずだ。男は煌に似ているんだ。けれど、雰囲気は随分と違っている。
 いくらか線が細くて、煌をもっと鋭くした感じ。煌を陽とするなら、この男は陰といったところか。
 オレの反応に、仏頂面だった男の表情が変わった。

 「……煌をご存知なんですね?」

 「あー……あの?」

 「申し遅れました。私は煌の兄で、一宮溥いちのみやあまねと言います。実は一年ほど前に貴方が弟らしい男を助けたと聞きました。突然お伺いしては失礼かとも思ったのですが……どうしても、お話をお聞きしたいと思いまして」

 兄……だって?

 いきなりの兄貴登場に、流石にオレは面食らってしまった。
 本人が何も言わないから考えもしなかった。煌に探してくれるような家族がいるなんて。
 もしかして煌には家族から身を隠さなければならない理由があるんだろうか?
 こんなところにいるくらいだから、何か複雑な事情があっても不思議ではないけど。
 オレは煌がここにいる事を告げるべきか迷う。
 少し怖そうな男は、一体煌の敵なのか、味方なのか。判断を下すには情報が乏しすぎた。

 「……こんなトコで立ち話もなんなんで。中にどうぞ」

 と言いつつ、玄関先も中もたいして変わりはしないけど。少なくとも、文字通り腰を落ち着けて話す事は出来る。

 「見たまんまのトコなんで、適当にその辺に座っちゃってください」

 言いながら、さっきまで寝ていた煎餅布団を片付ける。

 「どうも」

 男は小さく頭を下げて擦り切れた畳に座った。客なんて来ないから、座布団なんてある訳がない。当然茶の一杯も出せるわけもない。急に尋ねてくるほうも悪いんだと開き直り、持て成すことは諦めてオレも男の前に座ると、灰皿代わりの空き缶を真ん中に出した。煌が喫煙者なので、兄もそうなのかと思って。

 「煙草、吸うならどうぞ、」

 起きたばかりの頭は、まだどこか寝ていて、この事態をどう考えるべきかなんて思っていながら、まるっきり考える方向に頭が切り替わらない。
 とにかく早急にこの兄と名乗る男が、煌の敵なのか味方なのか見極める必要がある。今や煌は友人というか、貧しい暮らしを分かち合ういわば戦友のような仲。その戦友を売り渡すわけには行かない。

 「あの、差し支えなければ事情を説明してもらえます?」

 オレがそう言うと、煌の兄と名乗る男は口を開いた。



 


 「申し訳ありませんが、もう暫らく煌をよろしくお願いします」

 煌の兄、溥さんはそういって頭をオレに下げ帰っていった。
 何かあったら連絡をくれと、携帯の番号を走り書いて渡された名刺には、俺でも聞いた事のある企業の名前が印刷されていた。オレの住んでいるオンボロアパートからでも見える、銀色に光る高層ビルがその会社だ。すごいところで働いてるんだな。オレなんかとは生きてる世界が全然違う。しかも、まだ若そうなのに立派な肩書きが付いている。そんな名刺を眺めながら、オレはどうすべきか悩んでいた。
 兄貴が訪ねてきた事を煌に伝えるべきなのか。
 溥さんからは自分が訪ねてきたことを言わないで欲しいと、そう言われた。
 自ら姿を消し、こうして連絡もせずに過ごしていると言う事は、きっとそっとしておいて欲しいからなのだろうと。
 確かにそうなんだろうけど。溥さんのあの様子じゃ、随分と長い間煌の事を探していたに違いないんだ。普通に考えれば、家族が何処でどうなっているのか判らなければ、心配でさぞ落ち着かない毎日を送っているはず。

 だけど。

 その当事者と言えば、昼間、兄貴が来た事も知らず、暢気に煙草を吹かして職場の誰かから貰ってきたのだろう雑誌を読んでる。其の姿だけ見てたらただの暢気モノ。苦悩とかそんなものからかけ離れてる。
 出会った頃は悲壮感漂っていたけど。
 オレが煌と一緒に暮らしている事を知った溥さんは、これまでに至る大体の事情を説明してくれた。
 目前にした夢を一瞬にして失った煌。信じていた人間に裏切られたのは、オレと一緒。煌の身の上は、オレと少し似ている。

 「なぁ、煌……」

 「んー?」

 雑誌を眺めながら生返事をする煌。こんな風に、なんにも考えてなさそうに見えても、心の傷はまだ癒えてないんだろう。
 だとしたら、やっぱり、言わないほうがいいのか。過去の出来事を含め、自分の事を本人が話さないのなら、それは知られたくない事で、言いたくない事。オレにだって、知られたくない事や言いたくない事は山ほどある。煌が黙っておきたい事をオレがいつの間にか知っていたら、きっといい気はしないだろう。

 「なんだよ?」

 呼び掛けていながらいつまでも話しださずにいたら、煌が雑誌から目を離してオレを見上げた。

 「……やっぱ、いいや……」

 「なんなんだよ? 変なヤツ……」

 オレの心中なんて知る由もない煌は、首を傾げて再び雑誌に視線を落とした。
 煌はこの先、一体どうしたいんだろう。
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