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朝日と溥 2
フリーで客を取っていると、時々とんでもない客に当たってしまうことがある。商売男だと思ってかなり無茶を強いる客がいるのだ。ボンデージとかスパンキングとか。運悪く変わった性癖の客に当たってしまっても、こっちも金を貰うからと、おとなしくされるがままでいるから、相手もやりたい放題だ。いくら商売だからって、相手は生身の人間なんだから少しは気を使って欲しい。
今日の客は、大して慣らしもしないでとんでもない玩具を散々突っ込んできた。腹の奥の奥を容赦なく突かれて、何度か嘔吐して、失禁までやらかした挙句、すっかり足腰が立たなくなってしまった。
矜持も気力もごっそりと削ぎとられて、オレはまるでボロ雑巾のようだ。
だけど、退出時間もあるしいい加減ホテルを出なければならない。悲鳴をあげそうな躯をなんとか起こして、強めのシャワーを浴びる。
あの客には二度と顔を合わせないようにしないと、もうこんなプレイは御免だ。体がもたない。
「っつ……最低だな……」
痛みと吐き気。そんなもんにうんざりしながら、こんな時はさすがに泣きたくなる。こんな目にあってまで、何でお金を稼がなきゃならないんだろう? オレの借金じゃないのに。借金から解放されたあいつは、オレのことなんて思い出しもしないんだろうな。
もう、やめたいなぁ……
そんな事を思ったところで何も変えられないから、結局どんなにへろへろになっても借金を返し切るか、オレが死ぬまでこの生活が変わることなんてない。
躯に張り付いた汚れを洗い流してホテルを出る。ふらふらと歩きながら、頭の中は早く帰って横になることでいっぱいだ。ペラッペラの薄い布団だって、今のオレにとっては唯一安らげる場所。
重い躯を引きずって家路を辿っていたけれど、ついに耐えきれなくなって道端で蹲った。膝に全く力が入らなくなって震えが来る。
オレの体、なんかまずい事になってるのかな……?
まるで他人事のように、自分の躯を思った。ある種の現実逃避かもしれない。
すれ違う人がオレに奇異の目を向けてるけど、見て見ぬ振りで通り過ぎて行く。誰だって面倒には巻き込まれたくない。当然と言えば当然の事だろう。どう見たって、今のオレは怪しく見える。
せめて人目のつかないところに移動したほうがいいだろう。
「おい? 大丈夫か? 気分でも悪いのか?」
うずくまるオレに掛けられた声。随分奇特な奴が居るなと思ったけれど、その声には覚えがあった。
「……溥さん?」
顔を上げれば、そこに立っていたのはやっぱり煌の兄貴だった。
そういえば、前に会った時もこの特別な仕事の日だった。そんな事を考えながら、なんとか笑顔を作って顔を上げた。
「ええ……ちょっと……」
下手に詮索されるのは都合が悪い。このまま放っておいてくれやしないかな。
無理に作った笑顔を顔に貼付けたまま答えに窮していると、溥さんは少し考えるような顔をした。まってろと言い残して通りに出てゆくと、手を挙げてタクシーを止めた。一体何をしているのかと其の後ろ姿をぼんやりと眺めていれば、止めたタクシーのドライバーに何かを話しかけてまたオレの処に戻ってきた。
「立てるか?」
「あ、いや、あの」
タクシーは困る。オレにそんな贅沢をする余裕はない。
「とりあえず、俺のうちにこい。」
「え?」
「このままうちまで運んでやってもいいんだが。うっかり煌と鉢合わせしても気まずい」
「いえ、そんな面倒掛けられないです。オレ、大丈夫なんで、ほっといてくれて結構ですから……」
「何処をどう見ても大丈夫そうには見えない。酷い顔色だ」
溥さんは深刻そうな顔つきでオレを見ていた。
確かに正直大丈夫じゃないし、オレ自身も煌にこんな姿をみられて余計な心配なんかされたくない。色々考えて諦めたオレは、これ以上何も言わず溥さんに従う事にした。手を貸してもらい二人でタクシーに乗り込む。
やがて着いた溥さんのマンションは、オレの住んでるボロアパートなんかとは比べ様もなかった。
ただ口をぽかんと開けて見上げる。ぴっかぴかに豪華な、まるでホテルみたいなエントランス。24時間常駐の管理人。一体家賃はひと月いくらなんだろう。
こんな立派な処に、こんなオレがいたらなんだか場違いというか、おかしな様子のオレを連れた溥さんを見た他の住人が怪しがるんじゃないか?
「……あの、オレやっぱり……」
「こいよ」
溥さんはエントランスを前に脚を止めたオレの背を気遣うように押した。促されるまま、オレは溥さんの部屋に向かう。居心地の悪い気分を味わいながら、それでも黙って彼に従った。チラリと盗み見た溥さんは、難しい顔をしてただ前を見ているだけ。今イチ掴めない人だ。煌ならもっと判りやすい。単純に考えている事がみんな顔に出る。見た目だけじゃなくて、中身まで陰と陽な兄弟らしい。
案内された溥さんの部屋も、広くて小綺麗に片付いていた。こんなところに一人で住んでるのか。
狭い部屋に慣れきったオレじゃ、こんなに広い部屋で何処に居たらいいのか判らなくなるに違いない。
何から何までオレには縁遠い物ばかりで落ち着かない気分。
「そこのソファで横になってろ」
少しばかり乱暴な口調。これが普段の溥さんなんだろう。煌のお兄さんなら当然オレよりも年上だ。
言われた通りソファに座ると、引力に逆らえずそのまま躯を横たえた。改めて自覚するずっしりと鈍く重い下半身。思った以上にダメージを受けてる。
目を閉じると意識がすっと落ちて行く感覚に襲われた。
これは当分この体で稼ぐ事はできなそうだ。今日の予定では、後一人客を取るはずだった。今日だけじゃなくて、今後の予定も随分狂ってしまった。何処かでこの分の帳尻を合わせなきゃならない。
うつらうつらしながらそんな事を考えていると、何か軽い物が躯を覆う感触があった。
薄ら目を開けると、スーツを脱ぎながら部屋から出てゆく溥さんの姿が見えた。頬に当たる柔らかい感触に、毛布を掛けてくれたのだと知れた。柔らかく触れる感触にとても気持ちが落ち着く。
暖かくて柔らかい……
いつの間にか眠ってしまったのか。
目の前では、溥さんがローテーブルにノートPCを置いて座っていた。仕事でもしてるんだろうか?
暫くその様子をぼんやりと眺める。
そのうちに、オレの視線に気がついたのか、溥さんが顔を上げた。
「……目が覚めたか? どうだ、気分は?」
「はい、だいぶいい……かと」
下半身の鈍いだるさは残っているけれど、さっきよりは気分が良くなってる。
オレはどれくらい眠っていたんだろう? 躯の様子を伺いながらゆっくりと上半身を起こす。
「オレ、どれくらい眠ってました?」
「一時間くらいか? 大して寝てない……それより、腹減ってないか? 喰えそうなら、それ食っとけよ」
溥さんが顎をしゃくる。其の先を追うと、丁度オレの前にはコンビニの袋。中を覗くと、サンドウィッチと缶コーヒーが入っている。
「……いいんですか?」
「ああ、」
なんとなく腹は減っているような気がする。此処まで来て今更あれこれ遠慮するのも面倒で、ありがたく頂く事にした。
溥さんは相変わらずPCの液晶を見つめている。なんだか難しそうな仕事してるんだな。オレとは偉い違い。そんな姿を眺めながら、サンドウィッチを口にする。そういや、煌はちゃんと食べたかな?
「……普段ちゃんと食ってるのか?」
液晶から目を離す事無く、溥さんがそういった。なんとも絶妙なタイミング。
「え? まぁ、それなりに。スーパーのバイトもしてるから、消費期限切れ間近の弁当とか安く買えるし……あ、もちろん煌の分もありますよ。特に煌は肉体労働専門だから、ちゃんと食わせないと躯持たないし。その辺、心配しないでください」
「煌の心配はしていない。朝日のほうだ。痩せ過ぎだろう」
今、初めて名前を呼ばれた。さらっと自然に呼ばれたのでうっかり聞き流しそうになったけれど、煌のお兄さんから名前を呼ばれのは少しくすぐったい。
「あぁー。でも多分、これって体質だと……オレ、昔から痩せてたから」
「……そうか? とりあえず、そこでよければ、朝まで寝て行けばいい」
「え? いや、これ以上は悪いです。コレ頂いたら帰ります」
「そんな顔色して、つまらない事を気にするな。無理をしても良い事はないぞ」
其の言葉に、思わず心が揺らぐ。何しろここは温かいし、ソファとはいえボロ布団なんか比べ物にならないほど寝心地が良い。元気な時ならともかく、今は躯がボロボロで気持ちも萎えてる。
あんまりこの心地よさに甘えてしまうと、現実に立ち返ったとき憂鬱になるんだろうな。
そう思いながらも、結局オレは溥さんに甘えてしまった。こんな風に誰かに心配されるってなんだか心地がいい。少しぐらい人の優しさに甘えても、いいよね。
だってオレは本当に疲れてるんだ。
あの夜をきっかけに、オレは度々溥さんと会うようになった。
名目上は煌の近況報告。
でも実際は、溥さんと会って煌の話は殆どしない。最初に「煌は相変わらずで、元気です」と、そう告げて終わる。溥さんもそれ以上の事は聞かない。
だから、こうしてわざわざ時間を作ってまで会う必要は無いんだけれど。
小さなコーヒースタンドの、外を眺めるカウンター席に二人並んで座る。
「相変わらず働き詰めだな。躯壊すなよ」
「大丈夫。オレってこう見えても結構鍛えられてるから。それより、そう言う溥さんこそ毎日残業してるんじゃないの?」
「俺は仕事してない方が疲れるからいいんだ」
「それワーカホリックっていうやつじゃない?」
いつの間にか、溥さんとは気安く話せるようになっていた。交わされる他愛無ない会話。
オレは溥さんと話している時間が結構気に入っている。どういう訳か、不思議と気持ちが緩む。溥さんが兄貴っていう性質をもってるからなんだろうか。
だけど、煌の事を思うとこうして溥さんと会っている事が少し後ろめたい。
溥さんは煌の兄貴。当然オレの兄貴じゃないし、友人なんて関係でもない。それなのに、煌の知らない処で、こうやって会って親しく会話なんてしちゃってさ。だけど煌だって、本当に溥さんに会いたければさっさと戻ってるはずだ。だから、オレがそんな事、気にする必要……ないよね……
大体これは、煌の近況報告。
だなんて、取って付けたような大義名分を改めて自分に言い聞かせる。
「……あの、」
「うん?」
「諄いようだけど。溥さんの事、本当に煌に伝えなくてもいいの?」
「ああ、こんなに近くに居るのに戻ってこないんだ。煌は俺には会いたくないという事だろう。朝陽の処に居る事は判ってるんだし、別にわざわざ言う必要はない」
自嘲気味な表情を浮かべて、溥さんはそう言った。其の言葉の半分は本心。だけど半分は違う事を思っているんだろうな。
「だけど、煌だってほんとに溥さんに会いたくなければ、もっと遠くに隠れると思う」
「……さあ、どうだろうな……」
溥さんはそれっきり黙ってしまった。どうやら、些かおせっかいが過ぎたらしい。オレもどう話を続けてゆけば良いのか判らなくなって、黙っていた。沈黙をやり過ごすように、目の前を行き過ぎる人をただぼんやりと眺める。
オレは二人にどうなって欲しいと思ってるんだろう。早く、煌を溥さんの処に戻してやりたいのか。それとも、溥さんが良いと言っているんだから、このままでいいとおもっているのか。
いずれにせよ、いくらオレが気を揉んだ処でこの問題に積極的に関われはしないけど。
黙っているうちに、仕事の時間が来たのでオレは席を立った。
「じゃぁオレ、そろそろ行きます。また来週、」
「あぁ、またな」
溥さんが軽く手を挙げ、オレもそれに応えて店を出た。
なんだかオレには二人がとても不器用に思えて仕方なかった。きっと、凄く仲がいい兄弟なんだろう。それ故に、お互い何処か遠慮してしまっているんだ。第三者だから、余計にそう見えるのかもしれないけど。
大人になると素直になれなくなるから、面倒くさい。わざわざ難しい事考えて、単純な事を複雑にしてる。なんてバカバカしいんだろう。
煌も溥さんもオレから見たら、ホントにバカバカしい。
今日の客は、大して慣らしもしないでとんでもない玩具を散々突っ込んできた。腹の奥の奥を容赦なく突かれて、何度か嘔吐して、失禁までやらかした挙句、すっかり足腰が立たなくなってしまった。
矜持も気力もごっそりと削ぎとられて、オレはまるでボロ雑巾のようだ。
だけど、退出時間もあるしいい加減ホテルを出なければならない。悲鳴をあげそうな躯をなんとか起こして、強めのシャワーを浴びる。
あの客には二度と顔を合わせないようにしないと、もうこんなプレイは御免だ。体がもたない。
「っつ……最低だな……」
痛みと吐き気。そんなもんにうんざりしながら、こんな時はさすがに泣きたくなる。こんな目にあってまで、何でお金を稼がなきゃならないんだろう? オレの借金じゃないのに。借金から解放されたあいつは、オレのことなんて思い出しもしないんだろうな。
もう、やめたいなぁ……
そんな事を思ったところで何も変えられないから、結局どんなにへろへろになっても借金を返し切るか、オレが死ぬまでこの生活が変わることなんてない。
躯に張り付いた汚れを洗い流してホテルを出る。ふらふらと歩きながら、頭の中は早く帰って横になることでいっぱいだ。ペラッペラの薄い布団だって、今のオレにとっては唯一安らげる場所。
重い躯を引きずって家路を辿っていたけれど、ついに耐えきれなくなって道端で蹲った。膝に全く力が入らなくなって震えが来る。
オレの体、なんかまずい事になってるのかな……?
まるで他人事のように、自分の躯を思った。ある種の現実逃避かもしれない。
すれ違う人がオレに奇異の目を向けてるけど、見て見ぬ振りで通り過ぎて行く。誰だって面倒には巻き込まれたくない。当然と言えば当然の事だろう。どう見たって、今のオレは怪しく見える。
せめて人目のつかないところに移動したほうがいいだろう。
「おい? 大丈夫か? 気分でも悪いのか?」
うずくまるオレに掛けられた声。随分奇特な奴が居るなと思ったけれど、その声には覚えがあった。
「……溥さん?」
顔を上げれば、そこに立っていたのはやっぱり煌の兄貴だった。
そういえば、前に会った時もこの特別な仕事の日だった。そんな事を考えながら、なんとか笑顔を作って顔を上げた。
「ええ……ちょっと……」
下手に詮索されるのは都合が悪い。このまま放っておいてくれやしないかな。
無理に作った笑顔を顔に貼付けたまま答えに窮していると、溥さんは少し考えるような顔をした。まってろと言い残して通りに出てゆくと、手を挙げてタクシーを止めた。一体何をしているのかと其の後ろ姿をぼんやりと眺めていれば、止めたタクシーのドライバーに何かを話しかけてまたオレの処に戻ってきた。
「立てるか?」
「あ、いや、あの」
タクシーは困る。オレにそんな贅沢をする余裕はない。
「とりあえず、俺のうちにこい。」
「え?」
「このままうちまで運んでやってもいいんだが。うっかり煌と鉢合わせしても気まずい」
「いえ、そんな面倒掛けられないです。オレ、大丈夫なんで、ほっといてくれて結構ですから……」
「何処をどう見ても大丈夫そうには見えない。酷い顔色だ」
溥さんは深刻そうな顔つきでオレを見ていた。
確かに正直大丈夫じゃないし、オレ自身も煌にこんな姿をみられて余計な心配なんかされたくない。色々考えて諦めたオレは、これ以上何も言わず溥さんに従う事にした。手を貸してもらい二人でタクシーに乗り込む。
やがて着いた溥さんのマンションは、オレの住んでるボロアパートなんかとは比べ様もなかった。
ただ口をぽかんと開けて見上げる。ぴっかぴかに豪華な、まるでホテルみたいなエントランス。24時間常駐の管理人。一体家賃はひと月いくらなんだろう。
こんな立派な処に、こんなオレがいたらなんだか場違いというか、おかしな様子のオレを連れた溥さんを見た他の住人が怪しがるんじゃないか?
「……あの、オレやっぱり……」
「こいよ」
溥さんはエントランスを前に脚を止めたオレの背を気遣うように押した。促されるまま、オレは溥さんの部屋に向かう。居心地の悪い気分を味わいながら、それでも黙って彼に従った。チラリと盗み見た溥さんは、難しい顔をしてただ前を見ているだけ。今イチ掴めない人だ。煌ならもっと判りやすい。単純に考えている事がみんな顔に出る。見た目だけじゃなくて、中身まで陰と陽な兄弟らしい。
案内された溥さんの部屋も、広くて小綺麗に片付いていた。こんなところに一人で住んでるのか。
狭い部屋に慣れきったオレじゃ、こんなに広い部屋で何処に居たらいいのか判らなくなるに違いない。
何から何までオレには縁遠い物ばかりで落ち着かない気分。
「そこのソファで横になってろ」
少しばかり乱暴な口調。これが普段の溥さんなんだろう。煌のお兄さんなら当然オレよりも年上だ。
言われた通りソファに座ると、引力に逆らえずそのまま躯を横たえた。改めて自覚するずっしりと鈍く重い下半身。思った以上にダメージを受けてる。
目を閉じると意識がすっと落ちて行く感覚に襲われた。
これは当分この体で稼ぐ事はできなそうだ。今日の予定では、後一人客を取るはずだった。今日だけじゃなくて、今後の予定も随分狂ってしまった。何処かでこの分の帳尻を合わせなきゃならない。
うつらうつらしながらそんな事を考えていると、何か軽い物が躯を覆う感触があった。
薄ら目を開けると、スーツを脱ぎながら部屋から出てゆく溥さんの姿が見えた。頬に当たる柔らかい感触に、毛布を掛けてくれたのだと知れた。柔らかく触れる感触にとても気持ちが落ち着く。
暖かくて柔らかい……
いつの間にか眠ってしまったのか。
目の前では、溥さんがローテーブルにノートPCを置いて座っていた。仕事でもしてるんだろうか?
暫くその様子をぼんやりと眺める。
そのうちに、オレの視線に気がついたのか、溥さんが顔を上げた。
「……目が覚めたか? どうだ、気分は?」
「はい、だいぶいい……かと」
下半身の鈍いだるさは残っているけれど、さっきよりは気分が良くなってる。
オレはどれくらい眠っていたんだろう? 躯の様子を伺いながらゆっくりと上半身を起こす。
「オレ、どれくらい眠ってました?」
「一時間くらいか? 大して寝てない……それより、腹減ってないか? 喰えそうなら、それ食っとけよ」
溥さんが顎をしゃくる。其の先を追うと、丁度オレの前にはコンビニの袋。中を覗くと、サンドウィッチと缶コーヒーが入っている。
「……いいんですか?」
「ああ、」
なんとなく腹は減っているような気がする。此処まで来て今更あれこれ遠慮するのも面倒で、ありがたく頂く事にした。
溥さんは相変わらずPCの液晶を見つめている。なんだか難しそうな仕事してるんだな。オレとは偉い違い。そんな姿を眺めながら、サンドウィッチを口にする。そういや、煌はちゃんと食べたかな?
「……普段ちゃんと食ってるのか?」
液晶から目を離す事無く、溥さんがそういった。なんとも絶妙なタイミング。
「え? まぁ、それなりに。スーパーのバイトもしてるから、消費期限切れ間近の弁当とか安く買えるし……あ、もちろん煌の分もありますよ。特に煌は肉体労働専門だから、ちゃんと食わせないと躯持たないし。その辺、心配しないでください」
「煌の心配はしていない。朝日のほうだ。痩せ過ぎだろう」
今、初めて名前を呼ばれた。さらっと自然に呼ばれたのでうっかり聞き流しそうになったけれど、煌のお兄さんから名前を呼ばれのは少しくすぐったい。
「あぁー。でも多分、これって体質だと……オレ、昔から痩せてたから」
「……そうか? とりあえず、そこでよければ、朝まで寝て行けばいい」
「え? いや、これ以上は悪いです。コレ頂いたら帰ります」
「そんな顔色して、つまらない事を気にするな。無理をしても良い事はないぞ」
其の言葉に、思わず心が揺らぐ。何しろここは温かいし、ソファとはいえボロ布団なんか比べ物にならないほど寝心地が良い。元気な時ならともかく、今は躯がボロボロで気持ちも萎えてる。
あんまりこの心地よさに甘えてしまうと、現実に立ち返ったとき憂鬱になるんだろうな。
そう思いながらも、結局オレは溥さんに甘えてしまった。こんな風に誰かに心配されるってなんだか心地がいい。少しぐらい人の優しさに甘えても、いいよね。
だってオレは本当に疲れてるんだ。
あの夜をきっかけに、オレは度々溥さんと会うようになった。
名目上は煌の近況報告。
でも実際は、溥さんと会って煌の話は殆どしない。最初に「煌は相変わらずで、元気です」と、そう告げて終わる。溥さんもそれ以上の事は聞かない。
だから、こうしてわざわざ時間を作ってまで会う必要は無いんだけれど。
小さなコーヒースタンドの、外を眺めるカウンター席に二人並んで座る。
「相変わらず働き詰めだな。躯壊すなよ」
「大丈夫。オレってこう見えても結構鍛えられてるから。それより、そう言う溥さんこそ毎日残業してるんじゃないの?」
「俺は仕事してない方が疲れるからいいんだ」
「それワーカホリックっていうやつじゃない?」
いつの間にか、溥さんとは気安く話せるようになっていた。交わされる他愛無ない会話。
オレは溥さんと話している時間が結構気に入っている。どういう訳か、不思議と気持ちが緩む。溥さんが兄貴っていう性質をもってるからなんだろうか。
だけど、煌の事を思うとこうして溥さんと会っている事が少し後ろめたい。
溥さんは煌の兄貴。当然オレの兄貴じゃないし、友人なんて関係でもない。それなのに、煌の知らない処で、こうやって会って親しく会話なんてしちゃってさ。だけど煌だって、本当に溥さんに会いたければさっさと戻ってるはずだ。だから、オレがそんな事、気にする必要……ないよね……
大体これは、煌の近況報告。
だなんて、取って付けたような大義名分を改めて自分に言い聞かせる。
「……あの、」
「うん?」
「諄いようだけど。溥さんの事、本当に煌に伝えなくてもいいの?」
「ああ、こんなに近くに居るのに戻ってこないんだ。煌は俺には会いたくないという事だろう。朝陽の処に居る事は判ってるんだし、別にわざわざ言う必要はない」
自嘲気味な表情を浮かべて、溥さんはそう言った。其の言葉の半分は本心。だけど半分は違う事を思っているんだろうな。
「だけど、煌だってほんとに溥さんに会いたくなければ、もっと遠くに隠れると思う」
「……さあ、どうだろうな……」
溥さんはそれっきり黙ってしまった。どうやら、些かおせっかいが過ぎたらしい。オレもどう話を続けてゆけば良いのか判らなくなって、黙っていた。沈黙をやり過ごすように、目の前を行き過ぎる人をただぼんやりと眺める。
オレは二人にどうなって欲しいと思ってるんだろう。早く、煌を溥さんの処に戻してやりたいのか。それとも、溥さんが良いと言っているんだから、このままでいいとおもっているのか。
いずれにせよ、いくらオレが気を揉んだ処でこの問題に積極的に関われはしないけど。
黙っているうちに、仕事の時間が来たのでオレは席を立った。
「じゃぁオレ、そろそろ行きます。また来週、」
「あぁ、またな」
溥さんが軽く手を挙げ、オレもそれに応えて店を出た。
なんだかオレには二人がとても不器用に思えて仕方なかった。きっと、凄く仲がいい兄弟なんだろう。それ故に、お互い何処か遠慮してしまっているんだ。第三者だから、余計にそう見えるのかもしれないけど。
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