Cry Baby

犬丸まお

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溥と朝日 3

 この腕に抱いた朝陽が忘れられない。
 広げた手のひらをじっと見つめ、指先に触れた温もりを呼び起こす。望まれるままに、抱いてしまった。
 骨張った薄い体は不健康そうな雰囲気を漂わせているけれど、それが却ってセクシャルに映り密かに感心したものだ。
 不思議と男を抱いている違和感はなかった。やわらかさも甘さもないその体に、俺は確かに感じていたし、腕のなかで恍惚の表情を浮かべる朝陽は一層美しかった。普段では決して見る事の無い、朝陽の仕草や表情。そして、乱れる呼気や俺が動く度に上がる声。それらに不思議な程、気分の高揚と充足感を覚えた。
 今まで遠慮ばかりしていた朝陽が漸く見せた甘えるような態度に、何か大事なものを手に入れたような気分さえも味わっていた。
 床の上での行為に、背中が痛いと訴えた朝陽を連れて寝室に移ってからも尚、お互いを求め合った。
 そして、そのまま朝陽を腕に収めたまま眠りに就いた。此処暫く味わった事のないような、満ち足りた穏やかな眠り。
 俺は当然、目覚めた時に朝陽がすぐ側に寄り添っているのだとばかり思っていた。ところが。翌朝目覚めると俺はベッドに一人だった。朝陽が居たはずのそこはすっかりと冷め切って、随分と前に朝陽が居なくなっていた事を告げていた。
 時計を見ると、漸く夜が開け始めたばかりの時間。朝陽の姿を求めてリビングに行ってみるもやはり姿はなく、昨夜の情事の跡さえもまるで感じられなかった。
 朝陽はもうこの部屋の何処にもおらず、まるで昨夜のすべてが夢だったかのような錯覚を覚えた。住み慣れた自分の部屋だというのに、独りでこの部屋に居るという事に一抹の寂しさを感じる。
 俺が寝ている間に独り帰って行った朝陽を思う。いったいどんな想いで此処を後にしたのか。
 望むものは与えたつもりだった。眠りに落ちる前に見た朝陽は照れた様に笑っていた。それで良かったはずじゃなかったのか。
 一体なぜ、こんな遑の告げ方をしたのか。
 何処か気が抜けたように立ち尽くしていると、テーブルの上で光る何かが目についた。近づいて見ると、それは朝陽が持っていたはずのこの部屋の鍵。なんの言葉も無く、ただそれだけが其処に置かれている。これが朝陽の残したメッセージだと気が付くのにそう時間は掛からなかった。
 もう此処にはこない。つまりこれ以上俺とは会わないと言うことだ。
 朝陽の全てを受け止める覚悟はある。だから、朝日を抱いた。それは決して同情や義理じゃない。オレは情にほだされて男を抱くほど粋狂な人間じゃない。戸惑いもあったが、朝日を愛おしいと思った。それを愛情と呼ぶのならそうだ。自分に正直に朝陽の想いに応え、その想いが伝わったと思ったのは俺だけで、朝陽には何も伝わっていなかった。それとも俺が何か誤解を招くような事をしてしまったのか。
 ぼんやりと視線を時計に向けると、出勤時間までにはまだ十分な時間があった。
 今更、もう一度ベッドに戻っても眠る事は出来そうにない。昨晩、朝陽を抱きながら眠る前に覚えた満ち足りた気分など、もう微塵もなかった。あるのは訳の解らない喪失感と、苛立にも似た疑問。
 こんな気分のまま、再び眠るのは無理だ。どこか空虚な胸の内をどうする事も出来そうにない。取り敢えず、湯を沸かしコーヒーを煎れる。
 俺が間違いさえしなければ、目が覚めてもまだ朝陽は此処に居て、こうして2人で珈琲を飲んでいた。次の約束を交わし、当然、この鍵も朝陽が持っていた。
 俺の都合など関係なく、居たい時は好きなだけ居ればいい。それを、俺は朝日にだけ許すのだ。
 だというのに。
 カーテンを開いて、窓の外に目をやると鈍色の重たい雲が広がっていた。
 この薄暗い街を、朝陽は独りで歩いて帰って行ったのだ。そう思えばなおの事。後悔にも似た思いが湧きあがった。

 「……はっきり言ってやるべきだったか……」

 いまさらあれこれ考えても仕方がない。朝陽のいる場所はわかっている。あいつには、あの今にも崩れそうなアパートしか戻る場所はない。きっと今は、俺も朝陽も考える時間が必要なのだ。
 俺には一体何が出来て、朝陽には一体何が必要なのか。
 ぼんやりと窓の外を眺めながらカップを口に運ぶ。いつもと同じ珈琲が、何故か自棄に苦く感じた。





 次に会う約束のないまま数日。
 約束がなければ、連絡の取りようの無い朝陽と会う事はこうも難しい。
 週に一度、朝陽と会っていたあの時間が、俺には思いのほか重要な時間になっていたらしい。朝陽との約束がある日はどんなに仕事が入っていてもスケジュールを空けていた。
 まさにそれは、万難を排して、といっても過言ではない程に。思い通りに行かない苛立を感じながらも、しかしそれをやり過ごす術が無かった。
 生憎オフィスは禁煙。気を紛らわす為の煙草も、一々喫煙所に足を運ばなければならない。そう幾度も席を離れるわけにも行かず、知らず舌打ちを繰り返していた。そんな俺に、苦笑いを浮かべながら書類を置いて行った部下の態度で、漸く苛立を隠せていない自分に気がついた。参ったなと、思いながらも再び舌打ちをしてしまった。
 最早癖になっているらしい。深く溜め息をつき、席を立つと窓の外に視線を向けた。晴れてはいるけれど、霞がかかってぼんやりとしたはっきりとしない天気だ。其の天気はまるで、俺自身の心の内の様だ。どうすればいいのか解らず、こうやってただぼんやりとしているだけ。
 本当は答えは疾うに出ている。
 アパートに行って朝陽に会えばいいだけだ。だというのに、俺は躊躇している。その理由はいくつかある。
 筆頭に上がるのは煌の事だが、それはきっと単なる逃げの口実だ。本当の事を言ってしまえば、朝陽の考えている事が解らない、だから動けない。らしくもなく、相手の出方を伺っている俺。何か切っ掛けさえあればすぐにでも行動にうつせるのは自分でも解っている。だけどその切っ掛けがつかめない。
 オフィスの窓から、朝陽がいるであろう辺りを視線で辿る。
 周囲に比べると不思議なくらいぽっかりと、古い建物が立ち並んでいるその一角。今頃、朝陽はあの狭いアパートで眠っているのか、それとも仕事に出ているのか。

 「……なにをやっているんだ俺は……」

 何をやっても集中できず、心配していたはずの煌の事ですらまるで思考の外だ。まさか、こんな事で自分がこれほど腑抜けになるとは思いもよらなかった。呆れた事態におもわず浮かぶ苦笑。
 こうしていても仕方が無いと、纏まりを見せない思考にいい加減キリを付けて、窓から離れるとディスクに戻る。仕事中だと言うのに余計なことばかりを考え続けていた所為で、やるべき事が滞っていた。
 相変わらずやる気はないが。まずは目の前の仕事を片付ける。やらなければならないことを一つ一つ片付けて行く。そうすれば、最後に残るのは煌と朝陽の事だ。
 




 昼間捗らなかった仕事を黙々と消化して行く。
 給料泥棒に成るのは不本意で、自らの責任を果たさなければ成らないのは当然の事。結局、サービス残業で片付ける羽目に成った。

 「すいません、お先に失礼します」

 「……ああ、お疲れ、」

 やけに静かだと思いオフィスを見回すと、もう人は残っていなかった。
 これで漸く誰憚る事無く息抜きが出来ると、煙草を取り出した時だ。ディスクの上で書類に埋まっていた携帯が着信を告げた。音を頼りに探り出した携帯のサブディスプレイが表示した名前は遥祐。

 「……めずらしいな……」

 いつもなら、一樹を介して連絡を寄越す事が多い遥祐から、直接電話が来るのは珍しい。遥祐が連絡を寄越すとすれば煌絡みの事に違いないが、煌が見つかった事は既に告げてある。
 しばし、表示された名前を眺めてから電話に出た。

 『あ、溥? 今、話して大丈夫?』

 「ああ、」

 いつもと変わらない落ち着いた声色。声の調子からすると、特に緊急の用事でもないようだ。

 『実はさ、折り入って相談というか、頼み事があるんだけど。いいか?』

 「……頼み? 別に構わないが」
 
 一体何を依頼するつもりなのかはわからないが、今まで散々世話になった遥祐の頼みとあらば、無下には断れない。大抵の事には応えてやるつもりで返答する。

 『煌、見つかったんでしょ?』

 「……ああ。まだ帰ってきてはないが」

 『うん。だいたいの事情は一樹から聞いてる。だから、今すぐってワケじゃないんだけどさ。近々もう一店舗オープンする予定なんだけど。その店の店長候補として煌に来てもらいたいんだよね。煌なら経験もあるし、経営のこともある程度学んでるでしょ? 即戦力として、煌なら安心して店を任せられるからさ』

 「それは……煌には勿体ない話だな」

 『そう? まぁ、考えておいてって伝えてくれる?』

 「ああ……本当に、何から何まで、世話になる」

 『僕も商売人だからね。不利益なことはやらないよ』

 「そうか、」

 『それじゃぁね、いい返事を期待してる』

 電話を切って、改めて煙草を銜える。
 遥祐の依頼は、煌にとってこの上なく良い話でしかない。これからやり直すにしても、再び自らの夢を叶えるにしてもこれだけお膳立てされていれば、社会復帰も容易だろう。
 騙されてはしまったが、煌は運に見放されているわけではない。朝日に助けられたように、遥祐が手を差し伸べてくれたように、煌は不思議な縁に守られている。
 その事を煌に伝えてやりたい。しかし。
 煙とともに吐き出す溜息。
 俺は一体何を躊躇しているのか。
 
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