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一、大作家の雄二

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 気がつくと天使さまはいなくなり、俺ひとりで長い回廊のような通路を歩いていた。床から天井まで、ぐるっとレンガを詰めて作ったような、それも黄色くひなびていてるので、やはりギリシャかローマの遺跡みたいだった。ひとりで放り出されたような感じだが、不安みたいのはなにもなかった。そうだ、ラフレスさんが言ったように、もう心配ごとはなにもないのだ。俺はもう自由なのだ。これからは、まるでちがう人生を一から送るのだ。

 それにしても、神とか天使とか、もしかしたらここは天国で、やっぱり俺は死後の世界にいる魂というか、幽霊なんじゃなかろうか……とかいう疑問は、このときはまったくなかった。気分は高揚していた。


 回廊は長かった。徐々に下りになり、どこかへ降りていくのは明らかだった。誰にも会わなかった。
 しばらくして、やっと「これからどうすんだろう」という懸念がわいた。といって心配まで行かなかった。周りに窓もなく、明かりもないようなのに、前後どこまでも普通に明るい。まるで周りの様子が見える程度に、電灯なんかでほどよく照らされている石造りの通路みたいだ。いったい今が昼なのか、夜なのか分からない。

 ふと右の壁に、ぽっかりと数センチ四方の穴があいている部分があった。のぞくと、向こうはぬけるような青空に、ちぢれた白い雲がたなびいている。
 昼間なのは分かったが、空しか見えないので、ここはよほど高いのだ。ということは、今いる建物はとてつもなくでかくて高く、きっと地面から天へ向けて高層ビルのようにそびえ、すそが山脈のように広がっているにちがいない。まるで修学旅行で欧州のどこぞの遺跡に行って、城か塔に入って迷子になった生徒の心境だった。
 しかし、あいかわらず不安はなかった。「気がかり」程度だった。
 ここはどこで、これからどうなるんだろう。



「君、あっちから来たの?」
 不意にうしろから聞かれてふり向くと、そこにはおかっぱ頭で、とんでもなく可愛い顔の少年がいた。彼もラフレスさんと同じ白い布を巻いた服を着け、肩に白く薄いマントみたいのをはおって腰の下まで垂らしていたが、左側の壁に扉があって、それをたった今あけて出てきた、というていだった。ひらいた扉のノブに右手をかけ、こっちをのぞくように、首を右にややかたむけている。
 見たことあるような、ないような。知ってるが思い出せないような、不思議な顔だった。あごのあたりで切りそろえた髪のあいだに、美少女にしか見えない端正な丸顔がのぞいている。目が子供のようにくりくりして、口は一文字で真顔だったが、嫌な感じとか、悪意みたいのは、みじんもない。ただ、純粋で前向きな好奇心とか、わくわくみたいのしか発していない。
 かなり好感が持てたが、疑念はぬぐえなかった。
(どこかで会ってるぞ、絶対……)
(誰だっけ……?)

 あっちでは、顔を覚えられても、こっちが相手を忘れることが多々あった。不幸の塊のほうが、放つまがまがしいオーラや、ゆがむ顔のインパクトがケタちがいだから。そして今、彼――待てよ、彼女の可能性も……いや、やっぱ彼か――は、俺に「あっちから来たのか」と聞いた。


「あっちって……」
「東京。武蔵野」
 口ごもる俺にあっさりそう言ったのに驚く間もなく、彼はいきなり声をあげた。
「そうか、君、一年六組の平山くんだね! やぐら一高にいたでしょ、たしか! なつかしいなぁ」
「な、なんで俺の名前を――あっ」

 いきなり思い出したのは、夜のとばりみたいに暗い教室の前でこっちを向いた、みじめでくすんだボロぞうきんみたいな顔だった。
「五組の有栖川雄二(ありすがわ ゆうじ)だよ」
 笑って自分を指すその顔には、たしかにあのときに廊下で見た、あの悲惨な男の面かげがあった。
 が、面かげしかなかった。風呂ですべてのアカを落とし、つるんつるんにみがきあげてさっぱりしたかのように、彼の顔は光沢するガラスのごとく生き生きと輝き、思わず目を見はるほどに美しかった。とても、あんなひどいいじめを受けてむせび泣いていた、学校の負け組の代表だったとは思えない。
 もちろん、暗くいじけて生きていた自分もやられていたので、俺たちは隣同士の教室にそれぞれあてがわれた、クラスのうっぷん晴らし用のおもちゃだった。有栖川も、やられている俺を見かけたことがあったかもしれない。教室前の廊下で蹴りを食らったり、馬乗りにされたり、ってのは何度もあったからだ。


「た、たしかに俺は、六組の平山和人だが……」
 やっと答えたが、まだビビっていた。嫌な過去を思い出す相手に会ったからではない。そんなのはもう、気にしない。
 問題は、いま見ているこの有栖川って奴が、俺が二年にあがった頃には学校にいなかった、という事実だった。
 転校したんじゃない。
 死んだのである。


「ええと、君はたしか、一年の終わりに――」
 俺が言いかけると、彼は眉を寄せて寂しげになった。
「そう、冬の寒い時期にね」
 そして感慨深く廊下の先を見つめる。口元には微笑が浮かんでいる。寂しいが、それは決してマイナスの感じではなかった。完全に終わった過去を懐かしく回顧する人の、穏やかな笑いだった。

「昼休みに、女子トイレにひそんで脅かせ、って言われてね」
 彼はこっちを見るでもなく、淡々と言った。
「それで個室に入ってたら、何人か入ってきて、怖くて脅すなんてとても出来なくて、逃げようとしたんだけど、ダベってぜんぜん出ていかなくて。やっといなくなったんで出たら、廊下から田辺(注意・女教師)の声が聞こえてきて、てっきりここへ来ると思い込んじゃってね。
 窓から出て逃げようとしたんだけど、そこ、三階だったんだ。足を踏み外して、コンクリの歩道にたたきつけられて、即死だったよ。
 あとで、いじめで自殺したって言われたそうだけど、ちがうから。事故だよ。あいつらのせいではあるんだけど」

「じゃあ、そのあと、ここへ転生したのか?」
「そうなんだよー」
 いきなり、にこにこうれしそうに言うので、面食らった。
「僕の担当のラフレスさんが言ったとおりに、今じゃ信じられないほど――」
「ええっ、あの人、あんたの担当もしてるのか?!」
 驚くと、有栖川はくりくりした目を向けて言った。なんかリスみたいだ。
「うん、ここの天使さんは、何人かかけ持ちで転生組の人を担当するらしいんだ。平山くんもラフレスさんなんだ。いいよ、あの人は。たよりになるし、やさしいし」

 かけ持ちなんて、何軒か店舗を受け持って管理する営業社員みたいだな、と思った。あるいは何人かの子供を任されて世話する先生とか、もっと言うと、子供の多い母親のようでもある。
 天使も大変だ、とは思ったが、同時に妙にがっかりしたのも事実だ。
 俺ひとりのラフレスさんじゃなかったんだな。
 まあ、そんなもんか。


「僕ね、小さいころから作家になるのが夢だったんだ」
 有栖川は、それこそ夢見るように言った。
「でも、あっちじゃ、こんなに弱いんじゃ、どうせ大人になる前に死んで終わりだ、とあきらめていた。で、じっさいそうなったんだけど……。
 このヤパナジカルに生まれ変わってからは、なにをしてもとんとん拍子でうまくいって。最初っから売れたわけじゃないんだけど、着実に成功していってさ。今じゃ、ベストセラー作家なんだよ」
「そ、そうなのか?!」
「こっち来て」


 部屋に招かれると、そこは周囲の壁にぐるりと本の詰まった蔵書庫だった。その先に彼の部屋があったが、壁に高そうな絵がかかり、その下にアンティックをみがいて光らせたような豪華な家具が立ち並び、宮殿に住む王侯貴族の部屋みたいだった。

 燃えるような赤いじゅうたんの上でたまげている俺に、有栖川は一冊の本を見せた。小さい文庫なんかとちがい、分厚い装丁で、ひとかかえの宝玉みたいなものだった。「今、いちばん売れてる本だよ」というそれは、題名が「異世界に転生して作家になっちゃいました」という長ったらしいもので、下に「有栖川雄二」と著者名があった。


「す、すげえな」
「ここまで来るのに三年はかかったけど、あっという間だったよ」
 俺から本を取ってガラステーブルに置くと、まぶしいほどに輝く瞳で俺を見つめた。
 なにかいたたまれない気がしてきた。ここへ来て初めて、あの世界で常に感じていた不安な気持ちが、よみがえりそうになった。
 それを知ったように、彼は言った。
「君には、夢がある?」

「あ、あるさ。でも……」
 俺はテーブルの本を見て、ぽつりと言った。
「俺も、こんなふうに夢をかなえられるのかな……」
「もちろんだよ!」
 俺の肩に手を置き、はげますように言った。彼は小柄に見えるが、俺より少し背が低い程度だ。俺をやや見上げるようにして、続ける。
「君も、ここへ転生したからには、昔のことなんかまるで関係なく、自由に、やりたいことをやれるんだ。きっと僕と同じように夢がかなうよ。この僕自身が、あんなにみじめでつらかった日々がぱあーっと消えて、こんなにも生まれ変わってるんだから」
「ラフレスさんは、能力は変わらないって言ってたけど」
「ここで生きてくうちに変わるんだよ。そして、それはあそこみたいなつらさなんかなにもない、楽しさしかない人生さ。まあ多少、失敗とかはあるけど、そんなの深刻な障害にはならない程度だから」

「ラフレスさんは、『ここにも嫌なことはあるが、大丈夫』だと言ってたけど、それって要するに、あっちで普通の人が送るような普通の人生を、俺たちみたいな負け組でも、この世界で送れる、ってことなのか?」
「ぶっちゃけ言うと、そうだろうね。ここには君や僕の才能を伸ばすことを妨害するような障壁がないから。迷惑かけて怒られる、とかは普通にあるよ。普通に悪い奴もいるし。それでも、やりたいことをやって自分を伸ばすことは、じゅうぶん可能だ。個人差があって伸びない場合もあるけど、結果的にその人が幸せになれれば、それでいいわけさ。
 かくじつに言えるのは――」
 と、今度は俺の両肩に手をかけてじっと目を見つめ、こう言いきった。
「ここは、前に生きていた世界よりは、何倍もマシなところだ、ってことだよ」
 いたたまれなさは消えた。それどころか、わくわくしてきた。
 そうか、もう俺を止める奴はいないんだ。
 ここなら、なんだって出来るんだ。

「わかった、有栖川」
 俺が微笑して言うと、彼は安心したように手を離した。
「雄二でいいよ。僕も君を和人って呼ぶから」
「じゃあ雄二。俺もお前のように、ここで夢をかなえてみせる。やってやるぜ。もう過去なんてクソ食らえだ!」
 ガッツポーズすると、雄二はにこにこ喜んでいた。

 そうだ、向こうじゃ、お袋が死にかけて大騒ぎだろうが、知ったことか。ヤクザになんとかしてもらえ。俺はもう、あんたらのものじゃないんだ。
 なんせ俺はもう、死んだんだからな。
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