地球の死が見える少女

闇之一夜

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 テレビがぱちん、と消えた。停電だ。
 窓から外を見ると、空は夜中だというのに、どんよりした紅色に染まっている。
 不意に何かを感じ、数珠を固く握る。
 この気配。
 霊には違いないが、今まで感じたこともない重苦しさと、粘った想念の渦が、周りから波のように押し寄せてくる。上から下から、あらゆる方角から、それは私を包むように迫ってくる。津波の押し寄せる海のど真ん中に飛び込んだようだ。
 いや、津波も全方位からは来まい。

 またスマホが鳴った。
 出ると師匠だった。
「小百合君、感じたか。今、私も気づいた。霊の山だよ。どうして今まで気づかなかったのか」
 白井ののから電話があったことを伝えた。
「彼女の言ったとおりです。我々の目にはいっさい見えなかった大量の霊が、地球全体に詰まっていたんです。いまや終わりのときが近づいたので、私たちにも見えるようになったのでしょう」

「小百合君、落ち着いて、出来ることをしよう」
 師匠の声は震えてはいるが、上ずったりはせず、肝がすわっているように思えた。
「協会だけでなく、世界中の霊能者に連絡が行った。彼らも、霊の層の存在を感知しているそうだ。この星の霊能者全員で、この膨大な霊を浄化するのだ」
「しかし、それでどうなるのです? 私たちが成仏させたと思っていた方々も、実はこの世に縛り付けられていたのでしょう?
 いったい、極楽というものは、本当にあるのですか?」

「分からん」
 師匠は、はっきりと言った。
「それを、これから証明するのだ。あの世が本当にあるか、ないか。我々の命を賭けて、な。小百合君、やってくれるな?」
「分かりました」
 意を決した。
「全力を尽くします」
「最後まであきらめるなよ」

 むろん、全世界の何千何万もの霊能者が束になって祈祷しても、四十億年分の途方もない量の霊を浄霊するのは、ほとんど不可能だろう。数にしたら、兆はおろか、京をはるかに越えているかもしれない。

 むろん霊が等身大のままなら、とうに大気圏外を越えて、今ごろ地球は数倍以上の直径を持つ惑星に膨れ上がっているはずだ。白井ののの話だと、霊の山の高さは地上五千メートルくらいだというから、個々の霊はかなり小さく凝縮されているのだろう。
 しかし、死後、他の霊の束に押されてつぶれかかるとは、いったいどんな気持ちだろう。極楽浄土へ行くことを断念し、悪霊になってさ迷うことを覚悟のうえで命を絶ったというのに、いざ死んでみれば、他のおびただしい数の霊に挟まれて、身動きすらできないとは。いかほどの絶望だろうか。

 それを想像するだけで身がすくむ思いをしたが、恐れている暇などない。確かに、やっても無駄だろう。しばらく持ちこたえるくらいしか出来ないだろう。
 それでもやるしかない。
 出来ることをせよ。
 それが橘師匠の教えだった。



 霊たちの叫びは、いまやはっきり聞こえた。それは人間の怒号だった。苦痛と悲しみに満ちていた。はるか太古から存在し、一度たりともこの世を去らなかった霊たちの顔が、私にもおぼろげに見えてきた。私が担当して浄霊し、成仏させたと勘違いした方々も、中にはいよう。申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
(本当にすみません)
(いま一度、祈らせてください……)
 手をあわせ数珠をこすり、周りの全てに向かって必死に己の霊力を放出する。

 無数の目鼻と思しき形が目の前に星のように立ち並んで見えたとき、空が血のように真っ赤になっているのに気づいた。そして次の瞬間、足元が一気に下がった。大地は無く、私ははるか暗黒の谷間へ落ちていった。周りをおびただしい霊の顔が過ぎ、激しい苦悶、嗚咽、慟こくに満ちた目が、ビルから落ちる人の見る無数の窓のように、くるくると私を見つめる。

 そのうち落ちる速度が遅まり、ほとんど浮いたようになった。周りは真っ暗で誰もおらず、私は本気で死んだと思った。
 が。
「そんなことはない」
 しわがれた声がした。

 振り向けば、白いひげをたくわえた老人の顔があった。頭だけで、下の体はひょろっとした人魂の尻尾だ。完全に霊である。
 だが、どこかで見たような。
「それはそうだ」
 聞こえたように、彼はしわくちゃの頬を動かして言った。
「わしは、おぬしの四十代前に死んだ、おぬしの先祖だ」
「私の先祖?!」
 がく然とした。

「や、やはり、極楽へは行っておられなかったのですね……」
「うむ」
 私のご先祖の霊は、おごそかだが、秋空のように澄み切った、静かな声で話し始めた。
「地獄極楽、あの世なるものがあるのか、ないのか、未だに知るものは誰もおらん。死しても、この現世にとどまるのみ。おぬしらが、わしらの墓標に手をあわせてくれるのを見ると、いささか心苦しく思う。
 じゃがな、気に病むでない」
 はるか遠いひいひいお爺さまは、そう言って目を細めた。
「この現世で、ずっとおぬしら孫たちの近くにいられることは、わしらの何よりの喜びなのじゃ。小百合よ、どんなことがあっても絶望するでない。わしを含む四十人もの守護霊が、いつもおぬしのことを見守っているのだ」
 頬が熱くなり、涙がとめどなくあふれた。
 思えば、この霊が見える特異体質を幼少の頃から気味悪がられ、物陰で一人泣いていたときも、ご先祖さまたちが、ちゃんとそばで見ていてくだすったのだ。


 だが、知りたいことは山ほどある。
 私は泣きながら、子供に帰ったように、ひいお爺さんの優しさにすがった。
「で、でも、救ったと思った人たちが、みんな、実はなんにも、救えてなくて――」
「ああ、おぬしが浄霊した者たちのことか。
 確かに、悪霊となって人々に害をなしていた者が、ぬしのような僧侶の祈祷を受け、これで天へ召されるはず、と期待したことは、いくらもある。最初はみな絶望し、ぬしらを恨みさえするが。
 しかし、な。

 己が去ったおかげで、災いが消えて喜び、ついには己の墓に手をあわせる人々の幸福を見るうち、その者からは自然に恨みが消え、ついには幸せすら感じるようになるのだよ」
「ほ、本当ですか?」
「うむ。ぬしらのやってきたこと、なに一つ無駄ではない。極楽へは行かずとも、わしらは幸せじゃった。
 ところが、じゃ……」
 ひいお爺さまの顔に暗い陰がさした。

「わしが死んだ頃は、まだ人や動物や植物の霊がそこら中におっても、空を飛びまわるくらいは出来た。じゃが、人や動物らの魂の数は次第に増え、二十世紀とやらに入ると、互いに身動きも出来んほどひしめいてきた。そして、とうとう、今のようにあらゆる霊が積み重なり、地球をつぶすほどになってしもうたのじゃ」
「そ、それを止める方法は?」
「残念じゃが、誰にも分からん。
 ぬしも知っておろうが、わしらを感じ取ってくれた者は、この四十億年で、たった一人しかおらなんだ」
(白井のの……!)

 やはり、あの娘のことを、霊たちの方も知っていたのだ。そして、霊たちの本当の居場所を知る能力を備えた者は、人類史上、あの娘ただ一人だけだったのだ。

「そう、あの娘じゃ。
 じゃがの、やはりあの娘にも、この事態をどうこうすることはできんかった。

 ただ、生きているものの中で、たとえたった一人でも、見て、感じてくれる誰かがいたことは、わしらには大きな慰めになったのじゃよ。あの娘のほうこそ、次第に圧迫されて苦しむわしらの姿を、なにも出来ずただ眺めるのは、本当に辛かったと思う。

 じゃが、それも、もう終わる。全てが消えてなくなるのだからの。
 すまんな、可愛いひい孫にそんな顔をさせて。

 ただな、
 わしらには希望がある。押し潰されて圧迫される苦痛から解放され、今度こそ、誰も見たことのない本物のあの世に行けるのではないか、という希望じゃ。ぬしたち、まだ生きていけるはずの者までが道連れになるのは、本当に本意でないし、悲しい。それだけが、わしらの大きな心残りなのじゃ。
 すまん小百合、守護霊のくせに、なんの力にもなれんで……」


 話が終わる前に、私はもう祈祷を始めていた。再び霊たちの怒号が響きだし、ひいお爺さまの霊が闇に落ちていき、私も暗い深淵に飲まれていったからだ。
 もう涙は乾いていた。
 絶望のどん底なのに、不思議と、全身に力がみなぎっていた。
(そうだ、やれ。もう迷うな)
(お前のやるべきことを、やれ)
(最後まで……!)

 ふと、どこからか、霊の叫びに混じり、くぐもった声が聞こえてきた。呪文だ。地から鳴り響く霊たちの絶叫を、それは切り裂き、掻い潜るようにして、私の耳に入ってきた。それは日本語のみならず、あらゆる言語が幾重にも層をなす重厚な調べだった。そして、その中に確かに、橘師匠の低く力強い声を聞いた。
(世界中の同志たちが、今、心を一つにして戦っている……!)

 私の心は炎のように猛り狂った。いまや私は何千、何万という仲間たちと共に、数珠をこすり合わせて激しく祈祷した。むろん、私の霊力だけでは周りの分厚い霊の壁はびくともしないが、構わない。それでも目の前の何人かは、苦痛にゆがむ目がわずかに緩んだように見える。

 だがそのとき、全身がすさまじい恐怖に襲われて凍りついた。目の前にそびえる分厚い壁が、はっきり見えてきた。それはどんな台風や竜巻よりも巨大な、宇宙の最期のような恐るべき腐敗物のうねりだった。白井ののが見たという、今までに地球で死んだすべての生物の霊体の塊という、人間の想像を絶する無限の怪物とは、まさにこれか。こんなものをもろに見たら、誰でも気が狂う。だが目を閉じれない。

 霊の怒涛が私に倒れてくる。飲み込まれる。気が遠くなる。
 ジ・エンド。
 地球はいま、潰れて終わる。




 驚いた。
 霊の倒壊がスローになっている。
 どこからか祈りが聞こえる。
 ひいひいお爺さまの声がする。

「みなのもの、いまこそ我々意識を持つ人間の霊が、この星を救うべく祈るのだ。生まれ、生きて、死んでいったあらゆる人間たちの力で、迫り来る動植物たちの霊を押しとどめようではないか。
 霊力により、我々を救おうと尽力してくれた無数の人々。そして、我々を唯一感じてくれたもの、我々に情けをかけ、慈悲深い心をかけてくれた、この宇宙でただ一人の人間、白井ののを、今こそ助けるのだ。全身全霊をこめ、この無慈悲なる圧力へ立ち向かおうではないか!」

 地球の底から、すさまじい念の嵐が沸き起こり、ぐるぐるとこの惑星を回り席巻するのを感じた。倒壊する霊の壁が完全にストップし、やがてゆっくりと音もなく空へと押し戻されていくのが見えた。
 私が気を失う寸前まで、この星に生まれ生き、死んだすべての人間のおびただしい霊の祈りが、この耳にいつまでも聞こえ続けた。




 
 目がひらく。手足が動き、身を起こす。
 周りには懐かしい地面があったが、どこも荒れ狂う海のように波打ち、ところどころ大きく隆起している。あるいは長々と裂け、真っ黒な深淵が口をあけている。

 目を上げると、寺の軒がある。
 ここは――庭だ。うちの庭だ。
 地はこれほどまでに荒れ果てているのに、寺はそのまま何事もなく残っているように見えた。
 いったいこれは、どうしたのだろう。
 とりあえず、ここがあの世でないことは確かのようだが。



 不意に門の向こうに、黒い車が激しい音を立てて停まり、誰かが飛び出してきた。それを見て、あまりの安堵に腰が抜け、また気が遠くなりかけた。
 袈裟に身を包む年配の僧侶。
 世界一、尊敬するお方だ。

「小百合君! 小百合君! 大丈夫だ!」
 橘師匠は、今までに見たこともないほどに興奮し、凱旋の叫びをあげて走ってきた。
「助かったぞ! 地球は、元のままだ!」
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